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形に残るもの(4)

『“機関銃要塞”の少年たち』は、戦時下における少年たちの日常と青春を描いた作品だ。
 といっても戦争という非日常の中の日常は、俺たちが過ごすような日々とはかけ離れている。俺が本を集めたり、大槻がオーディオ機器を集めたりするのと同じような感覚で、作中の少年たちは戦争をコレクションする。彼らが蒐集するのは不発弾、戦闘機の残骸、兵士の遺品など、直接的に、あるいは間接的に戦争と誰かの死を経てきたものだ。戦時下では死は遠いものではなく、彼らの傍に、目の前にいつもある。彼らのコレクションは形に残る死の蒐集であるとも言えるだろう。
 読み終えた後で少し考えた。平和な日常に生きる俺たちは、死について考える機会があまりない。皆無ではないがそれよりも考えるべきことがたくさんあり、普段はさして気にも留めない。だが死は誰の元にも訪れる。
 あのろくでもない俺の父親も、いつかは死ぬのだ。必ず。その時に父は財産を全て新しい母と妹に遺し、俺には何も遺さない。俺の手元に残るのは形のない記憶と、戸籍と、遺伝情報だけだ。どうせならそれらも全て、その時には持っていってくれればいいのに。
 戦時下の少年たちに自分自身の過去を重ねて、俺はそんなことを思っていた。
 形に残らない遺産など一番性質が悪い。そのくらいなら何も要らない。だが残念ながら、そういったものはどうにも放棄できない仕組みのようだ。
 俺は生涯、あの男の記憶、形のない遺産に苦しめられていくことになるのだろう。諦め半分の気持ちが胸のうちにはあった。

 個人的な感傷はさておき、俺は雛子が紹介してくれた本をすっかり気に入っていた。
 そしてウェストールの他の著作も読んでみたくなり、書店を尋ねようと思いついた。
 仕送り生活で大して余裕があるわけもなく、試しに読んでみるだけなら図書館を利用する手もあるのだが、せっかくだから例の大型書店を覗いてみたかったのだ。
 別に、大槻がああいうことを言ったからということでもない。ないのだが――よくよく考えてみればそれも多少なくはない。雛子は現在受験生だから、買い物に付き合うとしてももう少し先の話になるだろう。だからその前に下見をしておくべきだと思っていた。あんまり人出が多すぎて空気が悪いようでは彼女も連れては行けないし、ただ広いだけで散々歩かされるような店にも誘うわけにはいかない。
 しかしあくまでも下見はついでで、主目的は書店の方だ。

 雛子から帰宅の連絡があった翌日、ちょうど空き時間があったので、俺は件のショッピングモールへと足を伸ばした。
 先日いろいろ言われたばかりだったから、あえて大槻は誘わなかった。馬鹿正直に打ち明けたら、何を言われるかわかったものではない。
 平日の昼下がりを選んだせいか、ショッピングモールの人出は思ったほど酷くはなかった。だだっ広い通路を行き交う人はほとんどが年配客ばかりで、店内も騒がしさは感じなかった。ただ衣料品を扱うテナントが並んでいる一帯は、香水か何かの甘ったるい匂いが非常にきつく、前を歩くだけでも目眩を覚えるほどだった。彼女の好きそうな服を取り扱っているかどうか、調べる余裕もなかった。
 やむなく俺は主目的である書店を探そうと、エスカレーター脇にある案内パネルに近づいた。そこには各フロアの店内見取り図が掲示されており、眺めてみると書店は三階にあるとわかった。すぐに近くのエスカレーターに乗り、三階を目指した。
 ようやく三階へと辿り着いた俺は、書店を目指そうと辺りを見回す。
 と、視界の隅で何かがこちらの意識を捉えた。
 反射的に振り向けば、三階フロアの半分を占めている雑貨店から二人連れの男女が現れた。エスカレーター前からの距離はかなりあり、よく知らない相手であれば顔の判別はつきがたい。だが俺は、女の方には非常に見覚えがあった。あの銀フレームの眼鏡は遠くからでもわかるほどよく目を引いたし、彼女が着ている水色のカーディガンも知っている。彼女は水色がとても好きで、服や小物にもそれを選ぶことが多かった。
 雛子、と呼び止める声が喉まで出かかったが、すぐに引っ込んだ。
 隣にいる男には、まるで覚えがなかった。
 いや、どこかで見たような気はする。だが高校で、ではないだろう。それにあの男は雛子より、俺よりもいくつか年上に見えた。中肉中背といった青年だが顔立ちはよく見えない。ただ眼鏡をかけていることだけはわかった。こちらは黒縁の、四角い眼鏡のようだった。
 あれは誰だ。
 そして修学旅行の後、養生しているはずの雛子が、こんなところにいるのはなぜだ。
 思わず足を止めた俺の視界を、二人は連れ立ち横切っていく。男の方は雑貨店の前面に並んだミニチュア模型のコーナーに興味があるらしく、何度か足を止めては、雛子に服の袖を引っ張られていた。二人の会話は聞こえない。だが彼女が遠慮なく男の袖を掴んでいること、男の方も振りほどくことなく、笑いながら彼女に従っているところを見るに――。
 一体、誰なんだ。
 胸の奥に暗く湿った霧のような淀みが立ち込めた。一瞬、彼女を疑いたくなった。だがすぐに振り払う。俺は雛子のことをよく知っている。もう一年以上にもなる付き合いのうち、彼女が俺を裏切ったことなど一度もない。それどころか彼女は俺に、こちらが面食らうほどのひたむきさを見せてくれている。そんな相手を疑う必要などないはずだ。
 しかし雛子は確かにひたむきだが、大変に迂闊なところもあるし、勘の鈍い女でもある。本人にそのつもりはなくとも、相手の甘言に乗せられてそういうことになる可能性は十分にある。それに彼女はクラスメイトと仲がいいらしく、男子生徒とも気軽に話すようだ。以前会ったあの頭の悪そうな男子たちとも実に気さくに会話を交わしていて、ちょうど今と同じような気分になったのを覚えている。そういう彼女の迂闊さ、鈍さ、フランクさが隙を生み出し、あの男に連れ出される羽目になったと考えても不思議はない。
 もちろん、その場合非は彼女にもある。それなら俺には彼女を問い詰め、叱る権利もあるだろう。そもそも彼女と俺は交際関係にあるのだから、隣にいるその男は誰だと尋ねてやる権利だってあるはずだ。
 意を決したのと二人を追い始めたのは、どちらの方が早かったか。
 ともかくも俺は、親しげに寄り添って歩く二人を後方から追い駆けた。不安がないといえば嘘になる。それでも修学旅行先から電話をくれるような、彼女の心を信じたかった。
『男は皆、そう言うんだ』
 ろくでなしの父の言葉が胸裏を過ぎり、俺は奥歯を噛み締める。
 あいつの言うことが正しいはずはない。

 書店の入り口で、雛子と例の男は一旦別れたようだ。
 これは俺が雛子と書店を訪れる時もそうで、目的のものが違う場合、こうして別行動を取って互いに本を物色するのが決まりだった。同じやり方を他の男にもされると一層腹立たしく、俺は、次に来た時は別行動など取るものかと密かに思った。
 雛子はいつものように、文庫本の新刊コーナーへと足を向けた。問い詰めるなら今だと、俺は早足で彼女に近づく。背の高い本棚で囲われた一角で彼女が立ち止まり、そこへ俺も滑り込んだ時、彼女には俺の足元から伸びる影が落ちた。水色の、春らしい色合いのカーディガンが陰った。
「雛子」
 いつも通りに呼びかけたつもりだったが、声は低く、怒りを孕んで響いた。
 彼女の肩がびくっと震えた。すぐに振り向き、それからこちらを見上げてくる。銀フレームの眼鏡の奥で、彼女の黒目がちな瞳が大きく瞠られた。
「え……」
 驚きと戸惑いの声が、赤い唇から漏れた。
 俺の中で疑念が一層募る。見つかるとは思わなかった、という反応にも見えたからだ。
 だが、まずは尋ねるのが先だ。
「偶然だな。ここで何をしている?」
 こちらの問いに彼女はいよいよ慌てた。瞬きを繰り返しながら、早口気味に弁解を始める。
「これも、養生のつもりでした。つまり、身体が復調してきたので、次は心の栄養を取ろうと思って」
 何のことかと思ったが、少し考えてから理解した。
 どうやら彼女は養生期間の外出を咎められていると思ったらしい。
 無論それを咎めたい気持ちもあったが、主目的はそれではない。それに今日の雛子は血色もよく、疲れも窺えず健康そのものという顔つきをしていたから、その辺りの心配は最低限でもよさそうだと思えた。
「そういう意味で聞いたんじゃない」
 俺が告げると、雛子はなぜか困惑したようだ。
「じゃあ、どういう意味で聞いたんですか?」
 そう問い返され、今度はこちらが困った。
 どういう意味も何も、ここへ誰と来たのか、あの男は誰でお前とどのような関係なのかを尋ねたかったまでだ。その疑問はまだ解消されていないし、俺は是が非でも答えを得るつもりでいる。
 だが、それにしては雛子の態度が不思議だった。彼女は最初こそ慌てていたが、現在ではむしろ落ち着き払って、じっと俺を見上げている。何かを推し量り、その後じっくりと考えるようにしている。
 さて、どう尋ねたものか。俺が戸惑っていると、雛子の方が会話を繋いだ。
「確かに、偶然ですね」
 少しだけ微笑みながら、
「先輩とここで会えるなんて思ってもみませんでした。偶然でも嬉しいです」
 と言うから、俺はますます混乱してくる。
「嬉しいか」
「はい。会えるってわかってたら、お土産を持ってきてたんですけど」
 彼女の態度は何もかもがいつも通りだ。俺が頻繁に持て余しそうになる、あのひたむきな心が覗いている。そうやって柔らかく笑いかけられると考えがまとまらなくなる。
 もしかして俺は、思い違いをしているのだろうか。
 だがそうだとすると、あの男は誰だ。
「先輩は、ここへはよく来るんですか?」
 雛子は俺の内心も知らぬ様子で、明るく水を向けてきた。
「今日初めて来た。品揃えがいいと聞いたから覗いてみようと」
 俺が答えると少し残念そうに眉尻を下げる。
「そうなんですか。だったら、二人でくればよかったですね」
 全くその通りだ。
 ではなぜ、お前はあの見知らぬ男とここへ来たのか。
 俺の混乱は今や最高潮に達していた。いっそ本人に尋ねた方がいいだろう。そうでもしないとこの謎は解明できそうにない。
「雛子、単刀直入に聞くが」
 こちらの前置きに、雛子は怪訝そうな顔をする。
「何でしょうか」
「お前は、ここへ誰と来た?」
 答えを待つ間、沈黙が重く圧し掛かってきた。
 書店とはそもそも静かなもので、聞こえるのは微かな話し声と足音、それにボリュームを絞ったBGMがあるかないかという程度だ。店内放送がはっきりと聞き取れ、時には雑貨店の呼び込みの声がこちらまで届くほどの心地よい静けさがここにはある。
 しかし普段なら心地よい静けさも、今は重苦しいだけだった。
 雛子は不思議そうに俺を見つめた後、造作もなく口を開いた。
「兄です」
「兄? ……お前のか?」
 思わず復唱し、そして聞き返してしまった。
「はい。話したことありますよね、私の旅行カバンを持っていってしまったうちの兄です。今頃になって帰省してて、それで今日はここまで乗せてきてもらったんです」
 淀みのない口調で彼女が話すと、俺の胸の内に立ち込めていた霧のような淀みまで一瞬にして洗い流されていくようだった。
 お兄さん、なのか。
 あの人が。
「そうか」
 一呼吸おいてもう一度、
「……何だ、そうか」
 俺は得心して、安堵の言葉を繰り返す。
 そうだったのか。何だ。何事かと思った。彼女を疑う気持ちも少しはあったが、思っていた通りに雛子は、そういう女ではなかった。俺の見る目に間違いはない。
 言い表しようもなくほっとする俺を、雛子は見逃さなかったようだ。
「もしかして私が、他の男の子と買い物に来たとでも思ったんですか?」
 言い当てられたことにぎょっとした。彼女は普段なら迂闊で勘の鈍い人間なのだが、時たまこんな鋭さを発揮することもあるから恐ろしい。それも大抵、俺にとって都合の悪い局面でばかりだった。
「こういう時だけ聡いのは、実に忌々しいな」
 小手先の誤魔化しは通じないと見て、俺はそうぼやいた。
 途端に雛子は妙に嬉しそうな顔をして、こちらを宥めにかかろうとする。
「ないですから、そういうこと。私には他に仲のいい男の子もいませんし」
「お前を信用していないわけじゃない。だがな……いざお前が、見知らぬ男と二人、仲睦まじく歩いているのを見たらさすがに驚く。見かけた直後は何事かと思ったぞ」
 そして俺が恥を忍んで説明を始めれば、見るからに笑いを堪えた顔で身体を震わせ始める始末だ。何て奴だ。
「笑うな。こうなったら開き直って言うが、そもそも俺にはお前が他の男と一緒にいた場合、相手が誰かと遠慮なく問い質せる正当な権利があるはずだ」
 極めて正論であるはずの主張をする俺に、雛子はとうとう笑い出す。水色のカーディガンを着た肩を揺すり、眼鏡の奥の瞳を楽しそうに細めながら。
「そ、そうですね……。是非いつでも問い質してください」
「だから笑うなと言っている」
「無理です、先輩」
「俺はあくまで正当な権利を行使したまでだ。なのになぜ、恥をかかされたような気分にならなきゃいけない」
 言いながらも俺は、自らの過ちに気づいていた。
 雛子がそういう女ではないとわかっていたのに、くだらない誤解をしてしまった。その時点で俺は恥をかいたようなものだ。兄妹で買い物を楽しむ姿が仲睦まじいのは当然だろうし、そういう可能性に自力で辿り着けなかった俺は、彼女のことが言えないほど迂闊で勘が鈍いということになるのかもしれない。
 居た堪れない。
「もういい。俺は帰る」
 逃げ出したい気分になって、俺は踵を返す。
 だがすかさず雛子が俺の腕を掴み、
「ま、待ってください先輩。もう笑いませんから」
 まだ震える声で引き止めにかかった。
「笑いながら言うな。俺は今日で一生分の恥をかいたぞ」
「そんな大げさな。先輩が帰ってしまうと、私、寂しいです」
 その言葉には迂闊にも、少し動じてしまった。
 よくも簡単に言ってくれるものだ。寂しいなどと、人間関係に恵まれているお前が、俺に向かって言うのか。
 俺はお前がいなくなったら、どうなってしまうかわからない。
「何を言う。お前は他の男と来たくせに」
 腹が立ったので、仕返しのつもりで反論しておく。
「ですから、相手はうちの兄ですよ」
 雛子は苦笑しながら言ってきたが、そんなことはもう何回も聞いた。いちいち言われるまでもない。
「今のはわざと言った。ただの意趣返しだ」
「もう、先輩……」
 そういうやり取りを続けているうち、こちらの頭もいくらか冷えてきた。
 俺の恥ずかしくも情けない勘違いはひとまず置いておくとして、彼女はお兄さんとここへ来ている。俺とこうして話をしているところを、今度はお兄さんに見られる可能性も考えなくてはならない。
「それに、お前は俺の話を家族にしていないんじゃなかったのか。俺といるところを見られたら、お前が弁解に困るだろう」
 冷静になって尋ねると、雛子はやはり答えに窮していた。
 彼女は家族に、交際相手がいると話したことはないらしい。それは俺も似たようなものだったから責める気はないが、彼女は話していないことに罪悪感も持っているらしい。何度か、『まだ話してなくてすみません』と謝られた記憶もある。どうやら、そういう話が親子間で出るのも普通の家庭ではよくある出来事なのだろう。
 雛子がそれを黙っているのは照れるからということらしいのだが、彼女にも思うところはあるようだ。しばらくしてから、力なく言われた。
「よければ……今日、ご紹介しましょうか」
 恐らく、罪悪感から言ったのだろうと思った。
 俺にはそういう気持ちはよくわからない。雛子が言いたくないのなら言わなければいい。しかるべき時まで黙っていても、必要な時に話せばそれで十分ではないのか。
「無理をするな。そんなのは先の話でいい」
 今度は俺が彼女を宥める番だった。
 そして、彼女の兄が現れないうちに立ち去ろうとしたのだが、
「――あ、ヒナ。もう買う本選んだか?」
 聞き覚えのない声が、俺たちのいる通路に向かってかけられた。
 振り向くと先程の、黒縁眼鏡をかけた青年がこちらを覗き込んでいる。彼はすぐに俺にも気づいたらしく、俺が雛子と話していたことも察したようで、不思議そうに瞬きをした。その時の表情が妹にそっくりだった。
「えっと、お友達? じゃないか……もしかして、高校の先生?」
 雛子のお兄さんは、俺をそんなふうに評した。
 顔つきのせいか身長のせいか、これまで年下に見られたことはない。だが今の勘違いは少し愉快だと思った。俺たちを知らない人には、たった二歳の差がそう見えるのだろうか。
 どう答えようかと、傍らにいる雛子を見やる。雛子はなぜか責任を背負い込んだように背筋を伸ばし、いち早く口を開いた。
「あ、あの……高校の先輩、と言うかOBなんだけど、鳴海先輩。今は大学生で……」
 するとお兄さんは驚いたようだ。
「大学生? じゃあ、年下か」
 眼鏡の奥で目が見開かれる。表情は本当によく似ている。
 雛子も眼鏡越しに俺を見る。こちらの視線はうろうろと落ち着きがない。俺は彼女を安心させようと、ここは無難に挨拶をしておく。
「鳴海と申します。初めまして」
「あ、どうも……。雛子の兄です」
 お兄さんはなぜかぼんやりと答えていた。
「何か、妹がお世話になってるみたいで」
「いえ、こちらこそ。在学中は妹さんにも大変お世話になりました」
 それから俺は雛子に視線を戻し、挨拶を告げようとして少し考えてから、
「……それじゃあな、柄沢」
 懐かしい呼び方で彼女を呼んだ。
 雛子は答えずに俺を見てきたが、俺はこれ以上は何も言うべきではないと、黙ってその場を立ち去った。らしくもなく小芝居まで打ったのだから、これで誤魔化せているといいのだが。

 それにしても、どっと疲れた。
 こうなるともう目当ての書店を巡る気にもなれず、当然他のテナントを覗くような気概も持てず、俺はすごすごとショッピングモールを後にした。
 慣れないことはするものではない、というのが本日の教訓だろうか。
 もしくは――俺はもっと、彼女を信じるべきなのかもしれない。

 騒がしい場所を歩き、疑念に囚われ一人煩悶し、そして一生分の恥をかいた日、俺は自己嫌悪と後悔と気恥ずかしさからほとんど寝つけぬ夜を過ごした。
 そして寝不足で迎えた翌日、雛子が北海道で投函したというはがきが届いた。
 漁船やクルーザーが岸壁から繋がれ、波間に並ぶ港の風景が写されたポストカードだった。メッセージを記す欄は住所欄の下に少しあるだけで、そのせいか長い文章も書き慣れているはずの彼女も、簡潔に一文だけ記してきたようだ。
 ――いつか私も、先輩の隣で波の音を聞きながら本を読んでみたいです。
 俺はしばらくの間、そのはがきに記された一文だけを食い入るように見つめていた。郵便受けに入っていた他の郵便物には無視を決め込み、玄関に立ち尽くしたまましばらく、そうしていた。
 自己嫌悪も後悔も気恥ずかしさも全て、彼女の言葉に取り払われてしまった。
 後に残ったものが何かは説明するまでもない。
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