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形に残るもの(2)

 俺が閉じた本の表紙を、大槻は怪訝そうに眺めた。
「何読んでんの? 『“機関銃要塞”の少年たち』?」
 タイトルを読み上げる声に俺は黙って頷く。
「面白い?」
「まだ途中までしか読んでない」
「面白くなりそう?」
「恐らく」
 この本は元々、雛子が薦めてくれたものだった。海外児童文学を好んで読む彼女は当初、その系統としてこの本にも手を伸ばしたそうだ。しかし戦争を主題に置いた作品は彼女には少々辛いものだったらしく、先輩なら好みに合うかもしれません、という言葉を添えて書名を教えてくれた。
 俺もウェストールの名前は知っていたが、読むのは初めてだった。主人公の視点から重厚かつ生々しい戦時下の描写が綴られた物語は、確かに彼女の好みではなさそうだと感じた。俺の方は興味深く読み進めていたものの、調子のよくない時に読むべきではなかったとも思う。作中で少年たちは『戦争コレクション』として不発弾や飛行機、兵器の残骸を収集しているのだが、少年の一人が墜落した爆撃機から持ち出した、血痕の残る若い女性の写真を披露した場面では、文字越しに臭ってくるような死の描写にこちらまで気分が悪くなってしまった。
 もう少し落ち着いたら続きを読もう。
「鳴海くん、そういうのも読むんだね。子供向けっぽいの」
 大槻はさしたる興味もなさそうに言った。子供向けと評したのも、タイトルに少年とあるからそう判断しただけだろう。

 せっかく得た友人だというのに、大槻はさほど読書好きではなかった。
 俺が何を読んでいるのかはよく聞きたがるが、聞いたところで自分も読みたいとは言わないし、もちろん既に読んでいたと言い出すこともない。講義や単位取得に関わらない本はできるだけ読みたくない、というのが大槻の持論だそうだ。
 俺からすれば読書を楽しめない人生など大損もいいところだと思うのだが、奴には奴で寝食を忘れるほど熱中している趣味がある。音楽だ。大学では吹奏楽団に所属し、今年度からは自分の座高を飛び越えるような長さのファゴットを奏でている。また奴はオーディオにも大変な興味があるようで、何度か奴の部屋に招かれた際には、狭い部屋の半分近くを占拠する謎の機器コレクションを見せられた。挙句、毎回のようにアンプがどうの、ウーファーがどうのという俺には全く関わりのない話を長々とされている。
『鳴海くん、俺はね。いい品を買い揃える為なら食費を削ってもいいとさえ思ってるんだよ。自己犠牲の精神なくしては、至高の音楽には辿り着けないんだ』
 そんな世迷言を目を輝かせて語る大槻を見ていると、俺の趣味は奴ほどには金がかからなくてよかったと心底思えた。本の蒐集は機械を買うよりはずっと安上がりだ。同じくらい場所は取るかもしれないが。

「けど何か、重そうな話っぽいね。表紙とか見てもさ」
 大槻は本の表紙から視線を外すと、ベンチに座ったまま大きく伸びをした。
 五月晴れの今日は随分と暖かく、中庭を通り抜けていく風は新緑の匂いをたっぷりと含んでいる。新聞の天気予報では全国的に晴れということだったが、できればその好天が来週まで続いて欲しいものだ。
「俺はすかっとする漫画が読みたいなあ。友情、努力、勝利! みたいなの」
「あいにくだが、漫画はよく知らない」
 大槻の言葉に俺が軽く首を竦めると、奴は急に訝しそうな顔をした。どういうわけか俺をしげしげと見ている。何事かとこちらから尋ねる前に、向こうが尋ねてきた。
「ってか、どうかした? 今日あんまり元気なくない?」
 顔に出ているのだろうか。
 言い当てられたことに焦りはなかったが、どう答えるべきかは少し悩んだ。
「少しな。具合が悪いというほどではないんだが」
「え、どしたの。五月病?」
「そういうものでもないと思う」
 この憂鬱に季節は関係ない。言ってしまえば生まれてからずっと背負い込んできたようなものだった。
 俺の曖昧な返答を、大槻はどうやら誤解したらしい。次の瞬間、訳知り顔になって言われた。
「あ、わかった。雛子ちゃんと喧嘩でもした?」
「……どうしてそうなる」
 奴の口から雛子の名前が出てくると、話があらぬ方向へ転がるから鬱陶しい。そもそもその推測は外れだ。
「だって鳴海くんがガチへこみするのって、雛子ちゃんが関わることくらいのものじゃん。だから何かあったのかなあって心配してあげてんだよ俺は」
 言葉とは裏腹に、大槻は好奇心ではち切れんばかりの顔をしている。
 大槻と雛子が顔を合わせたのはまだ二度ほどだが、俺にさえ遠慮なく話しかけてくるほど人懐っこい大槻は、雛子ともあっという間に打ち解けてしまったらしい。先月は俺を差し置いて喫茶店へ入るという暴挙に出た上、俺には言えない類の話をいくつかしたそうだ。二人の間に一体どのような話題が持ち上がったのか問い詰めたい反面、聞かないでいる方が精神衛生上よろしいような気もしている。何にせよ、大槻のそういう無遠慮さが時々非常に腹立たしい。
「喧嘩なんてしてない」
 俺はむっとしながら答えた。先日も電話をして、彼女から本を薦められたばかりだった。つい先程まで読んでいたあの本だ。そんな彼女との間に諍いなどあるはずもない。
「本当に? ムキになるとこ、かえって怪しいなあ」
 疑いの眼差しを向けてくる大槻に、俺はその根拠を示す。
「大体、喧嘩をするも何もここ二週間ほど、ずっと会っていないからな」
「マジで? じゃあやっぱ喧嘩してんの?」
「違う。雛子が修学旅行を控えているから、体調管理に努めさせていただけだ」
 東高校の三年生は、毎年五月に修学旅行へ行く。ちょうどその日程が来週に迫っていた。
 雛子はその旅行を随分と楽しみにしているようだったが、それでいて暇を見つけては俺の部屋へ来たがったり、どこかへ出かけようと誘いをかけてくるので、修学旅行前に風邪でも引いたらどうすると説教したばかりだった。本人もその可能性は頭にあったようで、不承不承ながらも俺の意見を受け入れていた。
「へえ、東って三年で修学旅行なんだ」
 目を丸くする大槻は俺や雛子とは違い、高校時代は向陽の生徒だった。俺が受験にわざと失敗したあの高校だ。大槻は高校入試をぎりぎりのラインでくぐり抜けたものの、いざ入った高校では授業についていけず散々な思いをしたらしい。その失敗談をコンパでの持ちネタにしていると悪びれることなく語っていた。
「お前のところは違うのか?」
「俺んとこは二年の秋に行ったよ。東は行き先どこだった?」
「北海道だ」
「いいなあ! 食べ物美味そうじゃん。俺は京都とか広島とかあちこち行ったよ」
 大槻はそこで苦笑いを浮かべる。
「そういうのも楽しかったんだけどさ。一日として同じ街にいなかったから、移動移動で疲れちゃうんだよね。行きはめっちゃハイテンションだったのに、帰りの飛行機とか記憶ないもん、俺」
 そうは言いつつも思い出を語る奴の口調は楽しそうだった。大槻もまた、俺とは違う真っ当な学校生活を送ってきたのだろう。
「北海道もそんなものだ。バスに乗っている時間が一番長かった」
「そうなの? 地図で見ると結構ちっちゃいのに」
「ああ。だるかった」
 俺にとっては修学旅行そのものが苦行でしかなく、気の合わないクラスメイトたちと何晩も過ごさなければいけないのが辛かった。部屋割りで俺と組まされた連中は葬式のように沈んでばかりだったし、自由行動では一人で本屋を巡るだけの、修学旅行の本質からはかけ離れた旅だった。
 しかし、雛子なら旅行を楽しめることだろう。同じクラスには友人も大勢いるようだし、彼女が所属するC組は女子同士の仲がとてもいいらしい。きっと向こうでもいい思い出を作り、土産話もたくさん持ち帰ってくることだろう。多少ならそういう話を聞いてやらなくもない、と思っている。昔は違う考えを抱いていたが、今では、彼女がどこにいても幸せで、笑顔であって欲しいと願うようになっていた。
「そっかそっか。雛子ちゃん、修学旅行なのか」
 大槻はようやく納得したようだ。小刻みに頷いてから、今度は冷やかすような笑みを浮かべる。
「ってことは君、彼女としばらく会ってないから寂しがってるんだね?」
「そんなわけがあるか」
 その程度で顔に出るほど気分が沈むものか。俺がせせら笑うと、大槻が途端に眉を顰める。
「言い切っちゃうんすか……鳴海くんってそういうとこ冷たくない?」
「冷たい? 何がだ」
「いや普通はさ、彼女と二週間以上も会えなかったら寂しいと思って当然だろ」
 奴の口調は心なしか非難がましい。
「俺だったら付き合ってる子は大切にするね。もう、週末だけじゃなくて平日とかでも時間見つけて会いに行っちゃうね」
 会いに行くことが『大切にする』ことだという解釈からして誤りであるように俺は思う。俺がそんなに顔を見せに行ったところで、雛子は喜ぶものだろうか。
 俺も、約束をしていない日にふと、彼女に会いたくなることはある。例えばこうして、大槻との会話の間に彼女の名前が挙がって、彼女の顔を思い浮かべてしまった時などだ。だがそういう感覚も十分に自制が利くものだった。それに本を読んだり創作に打ち込んだりしていれば、自然と気が逸れて、寂しさもそのうち雲散する。
 彼女にも自分の時間が欲しいだろうし、何より今年度の彼女は受験生だ。人恋しさはこちらがやり過ごしていればいい話だと、俺はなるべく雛子に声をかけないようにしていた。
「そういう付き合いで雛子ちゃん、文句言ったりしない?」
「それほどでもないな。わがままはたまに言うが」
「どっちがわがままなんだか……いやいいですけど」
 大槻はわざとらしい溜息をつくと、またベンチの上で伸びをした。ただし今度は少し投げやりに、両手両足を投げ出すような伸び上がり方だった。
「俺に雛子ちゃんみたいな可愛くて性格もいい彼女がいたらな……。はっきり言って、鳴海くんより大切にしてあげられる自信があるんだけどなあ」
 俺としては大槻の発言に異論もあったが、ここで食いつくとまたムキになっていると言われそうなので黙っておくことにする。
 とは言え、俺から見ても大槻のような人間に交際相手がいないことは不思議だった。奴は俺とは比べものにならないほど社交的で、大学でも楽団でも顔が広いようだ。奴が肌身離さず持ち歩いている携帯電話には検索に手間取るほど大人数の連絡先が詰め込まれているという。そして性格の面でも、多少お喋りすぎるところはあるが朗らかで、悪い奴でもない。容貌が人より劣っているというわけでもない。なのになぜ、大槻にはそれらしい相手が現れないのか。
 そんなことは俺が疑問に思うまでもなく、当人が最も頭を悩ませ、直面している難問であるらしい。
「鳴海くん。君がこの先、可愛くて彼氏のいない女の子と新たに知り合う機会があったら、その時は是非とも俺を紹介してくれよ。できればそんなに背の高くない子がいいな!」
 時々、大槻は俺にまで頼み込んでくる。
 はっきり言うが俺の交友関係など大槻とは比べ物にならないほど狭い。猫の額よりも狭いかもしれない。奴以外の知り合いと言えば雛子と、あとは大学で所属している文芸サークルくらいだが、後者の方は女性がほとんどおらず、大槻の期待には応えられそうになかった。そもそも俺に頼むのが間違っている。
「機会があるなら要望に応えたいところだが、そんな機会はなさそうだ」
 俺が正直に告げると、それでも大槻は諦めていない様子で食い下がってきた。
「ないとは限らないだろ。例えば君が道端に倒れ込む妙齢のお嬢さんを見つけたとしたらだね、すかさず助け起こしながら俺を紹介してくれればいい話だよ!」
 そんな都合のいい出会いは、本の世界にもなかなかないだろう。

 やがて午後の講義の時間が迫ってきた為、俺たちはベンチから立ち上がる。
 頭上には相変わらずよく晴れた空が広がっていた。緑の匂いがする風を受けながら歩くと、先程まで感じていた気分の悪さが掻き消えてしまったように思えた。俺が息を深く吸い込むと、大槻がこちらを見上げながら軽く笑む。
「何だ?」
「いや、別に? やっぱ雛子ちゃんの名前出すと、元気になるよなあって」
「うるさい。そんなことがあってたまるか」
「お、図星指されてご立腹ですか。つくづくめんどくさいな君は」
 俺に言わせれば、そうやって突っついてくる大槻の方がよほど面倒くさい男だ。
 とは言え、気分がよくなったのは奴とのくだらなく中身のない会話が功を奏したからでもあるだろう。その辺りは多少、感謝していなくもない。
 思うに、大槻のいいところは無神経かつ無遠慮そうでいて、こちらが触れて欲しくない最終ラインだけはきちんと弁えているところだと思う。奴とはこれまでに多数のくだらなく中身のない会話を交わしてきたが、お互いに家庭の話にだけは触れたことがなかった。
 できれば雛子についての事柄も、俺が触れて欲しくない話題の一つだと察してくれればいいのだが――どうも大槻はこの話題を切り札だと思っている節があり、言い合いになったら雛子の名前を出せばいい、と安直な考えを持っているようだった。やはり面倒な男だと思う。
「あ、そうだ。鳴海くん今日は暇?」
 中庭を抜けながら、大槻が不意に尋ねてきた。
「特に用事はない」
「そっか。じゃあ買い物行かない?」
 俺の答えを聞いた大槻は朗らかな笑みを浮かべ、
「郊外にできたばっかりのショッピングモール知ってる? すっげえ広いとこなんだけど、あそこに楽器屋も入ってんだよ。ちょっと見に行きたくてさ」
 と続けた。
 街の外れに建った複合商業施設のことなら、名前だけは知っていた。駅前でもチラシを配っていたし、新聞にも広告が載っていたからだ。オープンした直後は折り込み広告がうんざりするほど入ってきて、古紙回収の日が待ち遠しくなるほどだった。聞けば各種店舗の他、ワンフロアをまるまる使った映画館も併設されているそうだが、春先に開いたばかりとあって人出が酷いらしい。
「それに、本屋も大きいのが入ってるらしいよ。全国チェーンのやつ」
 大槻は尚もいきいきと語る。
「鳴海くんは好きだろ? そういう本屋。俺もこないだ行ってきたんだけどさ、本屋っつうかあれもう図書館だね。まあ品数がすげえのなんのって。本棚も天井近くまであるからさ、見て歩いてたら首が疲れたよ」
 確かに品揃えのいい書店は好きだ。目当ての本を書店で探して見つからなかった時の落胆は筆舌に尽くしがたい。大きな店ほど品揃えがいいのも事実で、実際、チラシに載っていたその全国チェーンの書店の名を目にした時は内心喜んだものだった。
 だが実際に行くとなると億劫だ。俺は人混みも、騒がしい場所も嫌いだった。そんなところへのこのこ出かけていってもくたびれるだけだろうし、人混みが好きな奴の気が知れないとさえ思う。
「やめておく。調子のよくない時に人混みを歩きたくない」
 だから大槻の誘いは断った。
 向こうもこちらの答えは想定していたのか、だろうね、と苦笑気味に呟かれた。
「気晴らしになればって思ったんだけど、かえって疲れるだけか」
「悪いな。気遣いには感謝してる」
「いいっていいって。今度またどっか付き合ってよ」
 大槻はさして気にしていないそぶりで言う。それからまたしても訳知り顔になり、
「まあ、彼女とのデートにも向いてる店だと思うからさ。近いうちに下見くらいはした方がいいんじゃない? 可愛い服屋もいっぱい入ってるらしいし、あとは美味いアイス屋があるとか聞いたよ」
 などと、聞いてもいないことをべらべら言い出した。
 雛子がああいう店を好むかどうかはよく知らない。だが彼女は買い物自体はかなり好きなようだ。二人で駅前辺りを歩く際にも、いくつかのウィンドウ前で立ち止まっては服やバッグに見とれるということがよくあった。
 そして彼女は買い物以上に甘い物が好きだ。洋菓子だろうと和菓子だろうと分け隔てなく好きだ。俺の目の前で、見ているこちらが胸焼けを起こすほど際限なくお菓子を食べては、後になってからダイエットが必要だのなんだのと騒ぐ。矛盾の塊のようなその一連の行動を、俺は実に愚かだと思っている。俺は後で騒ぐくらいなら食べなければいいし、食べたからには体型なんぞ気にしなければいいと言っているのだが、彼女に言わせるとそういう問題ではないらしい。度しがたい。
 ともあれそういう嗜好を持つ雛子なら、件の店にも行ってみたいと言い出すかもしれないが。
「下見なんぞ行ったら精根尽き果てて、もう二度と行きたくないと思うかもしれない」
「何言ってんの。彼女と行くならどこだって楽しいもんでしょ」
 俺が述べた現実的意見は、大槻によって一笑に付された。
 異論はなくもなかったが、やはり黙っておくことにする。
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