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形に残るもの(1)

 五月も半ばを過ぎたある夕方、俺は父親に呼び出されて、仕方なく実家を訪ねた。
 現在借りているアパートと同じ市内にある実家へ、足を運ぶのは四ヶ月ぶりだった。

 祖父が他界してからリフォームを施した実家には、かつての日本家屋の面影はもうない。
 外壁に煉瓦タイルを貼りつけた左右対称の二階家はジョージアン様式で、古い家屋が立ち並ぶ住宅街では一際目を引く存在だった。煉瓦に映える窓枠や玄関ポーチに張り出した庇、それを支える柱はどれも染み一つなく真っ白で確かに美しい。だが俺からすれば、まるで遠い異国へ迷い込んでしまったような不安を抱かせる外観でもあった。実際、居場所のなさでは異国と大差ない。
 門を潜ると小さな庭があり、今はゼラニウムやポピーがくっきりとした色合いの花を咲かせていた。何気なくそちらに目をやれば、庭にいた小さな子供も訪ねてきた俺に気づいたようだ。怯えたように立ち止まり、象の形を模したじょうろを取り落とした。中の水が跳ね、飛び散る音が響いた。
「こんにちは」
 俺が声をかけると妹は強張った顔つきで俯いた。夕暮れ時の強い西日が、彼女の顔にも色濃い影を落としていた。
 妹はよそゆきと見紛うような立派な幼稚園の制服を着て、ようやく伸びてきた髪を細い三つ編みにしている。確か今年で四歳か五歳、だったような気がする。名前も知っていたが、今のところ呼んでやる機会はなかった。
 彼女は新しい母に、俺とは口を利かないよう躾けられていた。それを知っていてわざと挨拶をする俺も俺だが、彼女は結局じょうろに構うことなく、黙って玄関に飛び込んだ。
 ドアが開き、締まる音が聞こえた後、少しだけ時間を置いてから俺も玄関へ向かった。

 家に戻った妹の態度から俺の来訪を知ったのだろう。玄関には既に父と、妹をきつく抱きかかえた新しい母の姿があった。
 父とは形式通りの挨拶をかわし、新しい母にも一応挨拶をした。母は返事の代わりに俺を用心深く睨み続けていた。父は俺に上がるように言い、家の東側にある応接室へと通してくれた。
 イギリス風の家具の収集は新しい母の趣味らしい。天井からぶら下がる古びたシャンデリアも、白い大理石の暖炉も、繊細な刺繍がされた布貼りのソファーも、全て父が再婚してから購入したものだ。こちらも仕送りで暮らしている身だから口を挟む権利などないが、ここにいると目が眩みそうになる。
 父は俺に一人掛けのソファーを勧めた。そして自分はテーブルを挟んだ向かい側、三人掛けソファーに腰を下ろす。いつもなら背もたれに寄りかかり、長い足を組むようにして座るのに、今日はごく浅く座っていた。おかげで長身の父は足を持て余しており、座り心地がいいようには見えなかった。
「何か飲むか」
 父が尋ねた。
「いえ、お気遣いなく」
 即座に俺は断った。どんなありふれた飲み物でも自分の部屋で飲む方がよほど美味しいに決まっている。それに、ここに長居もしたくない。
 お盆や年末年始でもないのに父が俺を呼び出すのだから、何か重大な用件があるのだろう。さっさとそれを済ませて欲しかった。
「そうか」
 断られて不快だというそぶりもなく、むしろ関心もなさそうに父は言った。
 こうして向き合うと父の面立ちがじっくりと観察できる。俺は父親似だと澄江さんがよく言っていた。眼光の鋭い目や薄い唇、尖り気味の顎などは確かによく似ていて、この男から受け継いだものなのだと自覚せざるを得ない。
 お互いに沈黙していた時間はそう長くなかった。不気味な静けさを割って、父がまた口を開いた。
「今日は、用があってお前を呼んだ」
「ええ」
 俺が相槌を打つと、父はちらりと俺を眺めた。父の目に顔立ちの似た息子はどんなふうに映るのか、推し量るのは難しい。
「お前には大学の学費の他、仕送りもしているが、今のところ不足はないか?」
 更に父はそう尋ねてきた。
「はい。十分すぎるほどいただいております」
「お前の卒業までは仕送りも続けるつもりだ。それは安心していい」
「ありがとうございます。お父さんのおかげで勉学に励むことができます」
 お互いに感情の篭らない、淡々としたやり取りが続いた。
 もっとも、俺も父親に感謝していないわけではない。父の金で大学に通っていることは紛れもない事実だし、現状では生命線であるのも間違いなかった。父がどういう気まぐれで決して安くない金を俺に注ぎ込んでいるのかはわからないが、ありがたいことだと思っている。
「それはよかった」
 父は息をつきながら言った。もうじき五十になろうとしている父は、ここ数年でめっきり皺が増えたようだ。俺が落ち窪んだ目元に視線を向けると、父は逃れるように目を伏せた。
「卒業後の進路については考えているのか」
「ええ、一応」
「そうか、では……」
 こちらを見ないまま父はまた溜息を落とし、
「用というのはそれだ。お前の卒業後について、話しておきたいことがある」
 と続ける。
 俺は思わず身構え、布貼りのソファーが微かに軋んだ。会社を経営している父は俺をそこへ組み込む気はないようで、俺に自由な進学を許していた。俺としても父と共に仕事ができるとは思っていなかったし、したいとも思わない。だが気まぐれな父の気が変わり、そういう話を持ち出そうというのであれば、どうにかして固辞しなければならないだろう。
 父は俺の緊張に気づいていないようだ。言いにくそうに話を継ぐ。
「お前にはもう十分に金もかけたし、お前が大学を卒業すれば、こちらの親としての務めも満了したということになるだろう。お前も卒業後は好きに生きるがいい。何をしようと、どこへ移り住もうと、私たちに迷惑さえかけなければ構わない」
 予想は外れて、喜ばしい言葉をかけられた。
 どうやら父は俺という荷物を早く放り出したいらしい。それは俺にとっても都合のいい話で、その言葉はこれからの未来に光明をもたらした。俺もいくらか明るい気分になり、父に礼を告げようとした。
 だが、それよりも早く父は言った。
「その代わり、一つ頼みがある」
「頼み、ですか」
 おうむ返しに問い返すと父はいよいよ気まずげになりながらも、尖った顎を引いた。
「現状、お前は私の息子だ。つまり私の財産を相続する権利がある」
 それを聞いた時、なぜか背筋がひやりとした。すぐに引くような悪寒だったが、それでも不快さを覚えた。
「だが私の遺産は、今の妻と幼い娘の為に残してやりたい。また、私が思いがけず早く世を去った時、お前が妻たちと争いあうのはあまりに忍びない。お前は利口な子だからわかるだろう」
 父が言うような利口さを持ち合わせているかはさておき、さすがにわかった。
 父の頼みが、俺を呼び出した用件というのが何を指すのか。
「その時にはお前に、相続の放棄をしてもらいたい」
 そう告げてくる父の表情は硬く、俺の反論を覚悟しているように見えた。
 しかし、俺は逆に安堵していた。緊張を解きながら身を起こすと、一人掛けのソファーがまた軋んだ。その音は二人きりの応接室に響き、沈黙をより一層際立たせた。
 一瞬だけ、応接室の閉じたドアの向こうで人の気配を感じたような気がしたが――気にしないように努め、俺は答えた。
「構いません」
 父が目を瞠る。
 どこかから堪えたような吐息が零れたのが聞こえた。
「どうぞお父さんの望むようになさってください。俺はそれに従います」
 恐らく父は、そして新しい母は俺の存在を恐れているのだろう。新しい母からすれば俺は初めはいなかったのにいつからか湧いて出て、家に居着くようになった不気味な存在だったに違いない。そんな人間に財産の一部まで持っていかれては堪ったものではないだろうし、早めに釘を刺しておきたかった、そんなところだろうか。
 だが父らにとっての俺が邪魔な荷物であるのと同じように、俺もまたこの家から解放されたいと願っていた。大学の卒業までの学費が保証され、なおかつ卒業後の自由な行動が許されるのであれば、この上なく好都合だ。
「……そうか」
 父もほっと肩を落とした。
 俺からの反論を予想していただけあり、頼みをすんなりと受諾されるとも思っていなかったのだろう。だが皺の多い顔からはまだ警戒の色が引かず、先程まで伏せられていた目は開き直ったように、じっとこちらを見ていた。
「お前はやはり利口な子だ。私には似なかったようだな」
「自分の立場は弁えているつもりです」
「可愛げのないところもそうだ。できれば全てにおいて、私似ではないことを祈るよ」
 父はそう言うと、薄い唇に笑みらしきものを浮かべた。安堵のあまり緩んだのか、こちらに気を許しているようにさえ映る笑い方だった。
 先のやり取りで少しばかり明るい気分になっていた俺は、父のそういう笑い方に注意が向かなかった。用が済んだならあとはもう退出するだけだと思い、暇を告げる隙を今か今かと見計らっているところだった。
「お前に、懇意にしている女性がいると聞いた」
 だから父の、その言葉を聞いた時――、
「いや、女性と呼ぶのはまだ早いか。眼鏡をかけた、可愛らしいお嬢さんだ」
 心臓が止まったようにさえ思えた。
 鏡もなしに自分の顔を確かめることはできないが、今の俺は恐らく表情を凍りつかせていることだろう。それを眺め、父は呆れたように眉を顰めた。
「どうした。隠していたわけじゃないんだろう、私が知っていては困るのか?」
「……いえ。ただ、まさかご存知だとは」
 柄沢雛子について、父に話したことはなかった。
 そもそも高校時代から、父が俺の交友関係を気にするそぶりは皆無だった。友達がいないことについて言及される機会もなく、恐らく当時は本当に知らなかったのだろうと思う。雛子の存在も、これまで父が知っているような態度を見せたことはなかったし、恐らく興味もないだろうと高を括っていた。
 だが現在の父は、雛子の顔まで知っているということになる。まさか接触したわけではないだろうが、たちまち嫌悪感が込み上げてきた。父のような人間と彼女を近づけたくはない。
「隠さなければ人目につくし、噂が好きな人間は山といる。そういうことだ」
 父はそう言い切ると、やはり関心もなさそうに続けた。
「無論、お前がどんな女と付き合おうと口を挟むつもりはない。お前ももう二十歳だし、利口な子だから自分の責任の取り方くらいは知っているだろう」
 興味もないようなことをなぜ知っているのか。今度は俺が警戒する番だった。
「だが結婚するとなれば話は別だ」
 言い聞かせる口調で父が語る。
「もしもそのお嬢さんと将来について考えているなら、今のうちに話しておいてくれ。相続に関する話は後々揉めるからな。お前が放棄する考えを持っていることを、お前の妻となる人間にもよく言い含めておいて欲しい」
 肩の荷が下りた気でいるのだろうか。さっきとは打って変わって、余裕すら窺える顔つきをしていた。
「そのせいで件のお嬢さんに逃げられたら、そういう女だと思っておけばいい。金目当ての女にろくなものはいない。見極める為にも早めに手を打っておけ」
 父が自嘲するでもなくそう言い切ったので、俺は呆れるやら腹立たしいやらで非常に気分が悪かった。すぐに席を立ち、それでもなるべく穏便に告げた。
「ご心配なく。俺は女性を見る目には自信があるんです」
「男は皆、そう言うんだ」
 自分一人は例外であるかのように、父は肩を竦めた。

 勢いで言い切ってしまったものの、実際のところ、俺の見る目は父のそれよりよほどましだと思っている。
 柄沢雛子は俺の財産のあるなしなど気にしないだろう。そもそも男と付き合う際にそんなことを念頭に置くような人間にも見えない。彼女は別の方面においては時にわがままで厄介なほど面倒な人間だが、そういった強欲さや品のなさとは無縁だった。また俺に対しては常に誠実で、裏切りらしい裏切りを働いたことはない。
 だから俺は、そういう点ではあまり心配していない。仮に――いささか気の早い話だが将来的に結婚をするとしてだ。そうなれば俺にとって考えつく相手は彼女を措いて他にはない。恐らくは彼女にとっても同じだろう。その際に必要な情報として洗いざらい打ち明けても、雛子なら軽く微笑んで流してくれるような気がする。買いかぶりすぎだろうか。
 ただ、気がかりもあった。雛子のことではなく、俺の方の問題だ。
 俺と彼女が共にいるようになってもう一年以上の月日が経っていたが、俺はまだ彼女に家族の話を打ち明けたことがなかった。雛子を信頼していないわけではない。あのろくでもない父親の話をするのは惨めで恥ずかしかったし、未成年に聞かせていい話でもないだろう。父の後妻については他人にどう話していいのかわからない。実の母とはもう五年近く顔を合わせていなかった。澄江さんのことは、恥じ入るような話ではないと俺は思っているが、他人がどう受け取るかは幼少時代にいやというほど思い知らされている。雛子は気立ては悪くないものの、ごく真っ当な家庭に生まれ育った人間だ。彼女が俺の育ちを知った時どんな反応をするのか、想像するのは難しかった。
 更にこの先、彼女とより深く関わることになれば、彼女の周囲の人間にも俺の話が伝わっていくだろう。彼女の家族は、真っ当ではない家庭に育った俺をどう思うだろう。将来を考える上でそれは避けられない話に思える。
 父も、俺の身辺を嗅ぎ回るくらいなら自らの身持ちに気を配って欲しいものだ。
 とは言え現在の父は、妹にとってはよき父であり、新しい母にとってはよき夫であるのだろう。あの家は目が眩むほど満ち足りていて、幸せそうだった。

 実家を訪ねてから数日間、俺はぼんやりとそんなことを考え続けていた。
 今から考えるべき事柄ではないのだろう。だが、今となっては取り返しのつかない事柄でもある。この先俺がどれほど立派な人間になろうと、社会的に成功を収めようと、あの父親と血縁関係がある事実はどうしても消しようがない。戸籍と遺伝情報にきっちりと書き込まれている。そういうものを、どうやって乗り越えていけばいいのだろう。
 大学の中庭のベンチに座り、空き時間を利用して本を読んでいる間も、気がつくとページを繰る手は止まって思案の海に揺られる有様だった。
 いつかは彼女に話さなくてはならない。
 だが、言える気がしない。
 手にしていた本に並んだ活字の羅列から単語を拾うのが難しくなり、思わず溜息をついた時だ。
「いたいた! ――おっはよう、鳴海くん!」
 遠くで響いた聞き覚えのある声が、あっという間に傍まで近づいてきた。
 と同時にベンチには人影が落ち、顔を上げると日差しを背負った大槻の、底抜けに明るい笑顔が見えた。
「もうさ、いい加減ケータイ持とうよ。俺、今日もすっげえ捜したんですけど!」
「何か用だったのか、大槻」
 俺が聞き返すと、奴はそれがおかしいというように鼻を鳴らした。
「君、いっつもそれ聞くよね。用もないのに捜してたらおかしいみたいな」
「用があるなら聞いてやろうと思って尋ねたまでだ」
「何もなくても捜すでしょ、友達なんだから」
 言い切った大槻は、そのまま断りもなく俺の隣に座った。
 大学に入るまで友人らしい友人がいなかった俺には、奴の話す常識がよくわからない。用もないのに友達を捜し歩くのが普通だというなら、そういう感覚もやはり、わからない。
 ただ、大槻のことは嫌いではなかった。一人でいても賑々しいその性格といい、昼時に大学へやってきて『おはよう』と口走るルーズさといい、あるいはふわふわと逆立つ茶色い髪に代表される外見の派手さといい、俺とは似ても似つかない男だと思う。だが話してみると不思議と気が合った。
 かつて俺が欲しいと思っていた友人像ともやはりかけ離れていたが、雛子との付き合いを見てもわかる通り、人間関係とはそんなものなのかもしれない。
 特に今はいろいろ考えすぎて、気分が悪くなっていたところだ。
 少しは気を紛らす必要もあるだろうと、俺は読みかけの本に栞を挟んだ。
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