menu

家族の肖像(3)

 東高校で過ごした日々も、中学時代と大差なかった。
 どこへ行っても場に馴染めず、心を許せる相手もいない。協調性のなさはこの時期最も研ぎ澄まされていて、集団行動は苦手以外の何物でもなかった。
 しばらくはただ孤独の時間だけが続いた。目つきも悪く舌鋒も鋭い俺に、積極的に関わろうとする人間がいるはずもない。それでもこちらを哀れみ、クラスに取り込もうと声をかけてくるお節介焼きは数人いたが、まるで高みから見下ろすようなその手の同情が最も腹立たしく癇に障った。いつからか孤独が身体に馴染み、俺は一人でいることを自ら望むようになっていた。

 ただ、話し相手を欲していないわけでもなかった。
 高校時代の滞在先である実家は常に居心地が悪かった。父は高校受験に失敗した息子から興味を失くしていたようだったし、若い新妻と彼女が産んだ子を心底から可愛がっている光景を度々目にしていた。新しい母は俺を危険な存在と見ているようで、家の廊下ですれ違うと、抱いた赤ん坊を庇うように背を向けては眼光鋭く睨まれた。その上幾度となく俺を追い出すよう父に進言しているのも聞こえてきた。むしろ早いところそうしてくれ、と何度思ったかわからない。元から存在感のなかった祖父は俺が高二の時、ひっそりとこの世を去った。あの家には新しい三人家族と、そこに立ち入ることのできない俺が遺された。
 俺のせいでぎすぎすした空気が生じるあの家では、話し相手を探すのも無理な算段だった。
 唯一のまともな話し相手だった澄江さんとは、ごくたまにだけ電話で話していた。家の電話は新しい母が目を光らせていたので使いにくかった。手紙では父の目に留まる可能性があった。だから学校の帰りに適当な公衆電話を探しては電話をかけるようにしていた。澄江さんは元気そうだったが、家の話題を避ける俺からある程度の背景を読み取っていたのだろう。たまに電話口で泣き出してしまうのが困りものだった。
 だから俺は、話し相手をずっと求めていた。
 読んだ本について、あるいは創作について話しあえる相手がいい。しかしお互いの事情には深入りせず、こちらがどんな家庭で育っていようと気にも留めないような、そんな都合のいい相手を求めていた。
 それで俺は一年の頃から文芸部に入部していたが、これはある意味で失敗だった。東高校の文芸部は活動熱心で、創作にも力を入れているようだったが、同時に集団行動にも熱心だった。何かと言うと皆で外出したがり、野外読書会と称したピクニックを企画したり、新入部員の歓迎会はカラオケで催したりととかく部室の外へ連れ出そうとしてきた。無論、俺がそういった煩わしい集まりにのこのこ出かけていくはずもなく、誘いを断り続けているうちに部内でも早々に孤立してしまった。
 しかし部員から協調性のなさを皮肉られようと、遠巻きにされて陰口を叩かれようと、俺は退部する気はなかった。なぜなら文芸部の部室をとても気に入っていたからだ。
 その部室は元々は司書室だったそうだが、数年前にもう少し大きな司書室が増設された為、空き部屋となっていたそうだ。部室は図書室の隣、校舎の隅の方にあるからか、いつ訪れても心地よい静寂に満ちていた。壁を隔てた向こう側からほんのりと古い本の匂いがしていた。おかげで俺は部室にだけは足繁く通い詰め、そのせいで他の部員たちからはより一層疎まれていた。

 そんな生活がだらだらと続いて三年目を迎えた折、俺は彼女と出会った。

 柄沢雛子について、初めのうちは何の印象もなかった。
 文芸部に新入部員が入った事実は知っていたが、眼鏡をかけた女子生徒だということくらいしか覚えていなかった。その名前を覚えたのは秋口に入ってからで、それまで俺と彼女の間には挨拶と部内連絡以外の会話はほとんどなかったように思う。正直、そういう記憶すら曖昧だった。
 当時の柄沢雛子は部内で唯一の一年生ということもあり、常におどおどしていて気弱そうだった。俺に話しかける時はより一層怯えて、声が震えていることもままあった。それならそれで他の連中のように無視でも何でもすればいいのに、柄沢雛子は部室には熱心に通い、その度に俺に挨拶をしてきた。
「こんにちは、先輩」
「こんにちは」
 俺も機械的に挨拶を返すようにしていた。それ以外は、俺たちの間に会話が生まれる機会はほぼなかった。
 他の部員どもは俺が部室にいるとあれこれ理由をつけては部活動を早めに切り上げて帰るので、部室で彼女と二人きりになることも多かった。だが俺は彼女と口を利く必要性を感じていなかった。向こうだって恐らくそうだろうと思い、その一年生の存在を気に留めずにいた。
 そうして没交渉の部活動を続けるうち、眼鏡の女子生徒の顔を覚えるようになっていた。
 それは単に同じ時間を共有する機会があったせいでもあるし、日々交わされる挨拶だけの会話が逆に印象に残っていたせいでもあるだろう。あるいは二人きりで部室にいる時、彼女がたまにこちらへ、まるでしげしげと観察するような視線を送ってくるのに気づいていたせいかもしれない。何か言いたいことがあればはっきり言えばいいものを、黙って見てくるばかりで何も言わない。しかしこちらから咎めるのも妙に気が引けた。俺が自意識過剰なだけではないかと思う節もあり、なるべく意識しないよう努めていたが正直、鬱陶しかった。
 ともかくも俺は、銀フレームの無機質な眼鏡をかけた一年生の顔を覚えた。眼鏡の上にある、流線型の形のいい眉。レンズ越しに覗く黒目がちな瞳と、それを縁取る長い睫毛。テンプルを支える耳は小さく、その下で結わえた二つ結びの髪には控えめな艶があり、髪色は全く妥協のない黒一色だった。部屋にこもって本ばかり読んでいるせいか全体的に色白で、唇の色も淡く、時々血の気のないようにさえ見えた。
 柄沢雛子が一般的に見て美人かどうかはどうでもいいし、当時、俺はそういう観点で彼女を検めていたつもりはない。彼女が俺にとって好みの異性であるのかという実に愚かでくだらない問いにも、この先何があろうと答えるつもりはない。現在、俺の周囲にはこの点について口を割らせようとする性質の悪い輩が暗躍しているが――そのうちの一人が他でもない柄沢雛子本人なのだが、言えば言ったでわあわあと騒ぐに決まっているから答えない方がいい。
 そして柄沢雛子が美人かどうかはさておくとしても、彼女の容姿は多くの人間が思い描くような『文学少女』に等しいと言えるだろう。内気そうで、年長の相手に対しては常におどおどと接し、一人でいる時はひたすら読書に耽っている。彼女は――本人の名誉を尊重し、あえて控えめに言うが――決して痩せている方ではないので、文学少女にありがちな病弱そうな印象だけは皆無だったが、それでも彼女の趣味が読書だと聞けば全ての人間が大いに納得し、彼女についてステレオタイプな文学少女の想像を膨らませることだろう。
 だが、彼女の本質はそれらの想像からはかけ離れたところにあったのだ。
 柄沢雛子は確かに文学少女然とした、一見おとなしそうな女だ。しかしながら現実には気弱そうだの内気そうだのといった言葉が聞いて呆れるような性格をしている。俺も創作をする上で女という未知の存在について空想をめぐらせることがあるが、柄沢雛子はこちらの想像を絶するほど厄介で、扱いにくく、全くもって手のかかる類の女だった。
 思えばその片鱗は当時から垣間見えていたというのに、俺もまたステレオタイプの文学少女に囚われて、それを見落としていたのかもしれない。

 あれは秋に入って、しばらく経った頃だっただろうか。
 例によって俺と柄沢雛子は二人だけで部室にいた。この時期、俺は彼女の顔こそ覚えていたが名前はまだ覚えておらず、また俺たちの間には会話が生じるような関係性も存在していなかった。
 しかし顔を覚えていたついでに、俺は彼女が好んで読む本の種類を覚えるようになっていた。恐らく一番好きなのは海外文学だろう。同じ本を繰り返し読み耽っているのを見かけていたからだ。特に熱心に読んでいるのはブロンテ姉妹にルーシー・モード・モンゴメリ、それからジーン・ウェブスター。個人的には一度読めば満足できるようなラインナップだが、彼女はこれらの作家をこよなく愛し、未だに愛読書として名を挙げている。
 それ以外にも現代日本文学、こちらもやはり女流作家のものをメインに読んでいるようだ。エンタメと呼ばれる類の軽い本もかなり読んでいるようだが、ミステリは古典の方が好きらしい。アガサ・クリスティのような、古きよき時代のヨーロッパを舞台にした探偵小説を手にしていることが多かった。それでいて児童文学も海外、国内を問わずに読むらしく、読書の幅はかなり広い方だと思われる。
 そして柄沢雛子は読書家でありながら、同時になかなかの速読家でもあるようだった。文芸部員が部活動の時間のうちに図書室へ出入りすることは珍しくもない。だが彼女は他の誰よりも出入りが頻繁だった。俺がそのことに気づいてしばらく見守っていると、一週間と同じ本を読んでいないことが判明した。飽きたから途中で投げ出したというわけではないようだが、ではそれほどに速く本が読めるのか。
 俺はその時、彼女にわずかだが興味を持った。

 部室に二人だけでいた秋のある日、俺はついに本人へと尋ねた。
「――その本、今読んでいるのは」
 ずっと静寂が続いていたせいか、評判の悪い先輩に声をかけられたせいか。どちらにしても俺が声を発した瞬間、彼女はびくりと肩を震わせた。
「先日借りていた本とは違うな。あの本はもう読んだのか」
 俺は問いを続けた。
 ここには俺たち二人しかいないのだから、誰に向けての質問かは瞭然としているはずだ。おまけに先程反応していたのだから、こちらの声が聞こえていないはずもない。しかし柄沢雛子はしばらく黙っていた。読んでいた本からおずおずと顔を上げたものの、俺の目を見ることはなかった。
 返事がないので、俺は少しむっとしながら更に問いかけた。
「聞こえないのか?」
 たちまち彼女は慌てたようだ。しきりに瞬きをしながら背筋を伸ばし、ようやく唇を動かした。
「いえ……先日の本は、読み終わりました」
 望んだ答えが得られた瞬間、思わず驚きの声が出た。俺は驚きつつもやはりそうかと納得し、彼女の読書家としての側面に一層の興味を抱いた。
 ちょうど俺は、彼女が先日図書室で借りたという作品を覚えていた。新進気鋭の現代作家という触れ込みで近頃よく名を聞く作家のものだった。自分でもその作家の作品はいくつか読了していたから、その点についても触れてみた。
「あの本は俺も読んだ。最近の流行にはさほど明るくないが、あの作家の作品だけは追っている。人間の業を正当化せず、美化もせずに掘り下げて描く作風が好みだ」
 すると彼女はその時、予想外の反応を見せた。色の薄い唇がなぜか綻び、白い頬がふっと緩んで心なしか笑んだような表情を浮かべたのだ。その上で彼女はおどおどしながら言った。
「そう、なんですか。あ、あの、嬉しいです」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。彼女の言葉が俺には随分と脈絡のないものに聞こえたからだ。
「嬉しい? 何がだ」
 反射的に聞き返すと、彼女はまた瞬きを繰り返す。戸惑った様子の中にも真剣に考えているそぶりは窺えたが、答えが出るまでには少し時間がかかった。
「あ、ええと……好きな本が同じ人に出会えると、嬉しく思うんです。そうじゃなくても部活以外で本の話をする機会はあまり、ありませんから」
 答えが出るまで待たされたせいだろうか。それを聞いた時、俺は妙な感覚を抱いた。嬉しいような、懐かしいような、無性に気が急くような、悪い気分ではないのになぜか心許なくなるような――。
 今ならその時の感覚が、同好の士に対する共感であるのだと理解できる。だが当時の俺は生身の人間に対して共感を抱く機会が少なく、自分自身の心境さえすぐには把握できなかった。それどころかその感覚に決まりの悪ささえ覚え、つい顔を顰めたくなった。
「確かにあの作家は好みだが、件の本が面白かったとは言っていない」
 俺は即座にそう答えた。
 もっとも、それも嘘ではない。彼女が先日借りていた件の本は家族の肖像を主題にした作品だったが、読み終えてから酷く落胆したのを覚えている。
「らしくもなく、小さくまとまり過ぎた作品だと思う。題材に家族愛を持ってきたのはわからなくもないが、その家族の描き方がかっちりと隙がなく、いささか押しつけがましい。まるでああいう家族のありようしか知らないと言わんばかりで、読者の解釈まで型に填めようとしているようなのが解せなかった」
 本の話となると、言葉は淀みなく、いくらでも吐き出せた。
「あの作家ならもっと多様な家族像を描けるはずだ。読者に想像の余地を残しておくような、風通しのいい作品を仕上げられるはずなのに、あの本だけはなぜ焼き固めるような書き方をしたのか、そこがわからん」
 俺はますます勢いづいてそこまで語ったが、ふと気づくと彼女は呆気に取られているようだった。こちらの批評に気を悪くしたそぶりこそなかったものの、俺の話をくまなく拾えていたかどうかは怪しい顔つきだった。
 そうなると俺はいよいよ決まりが悪くなった。特に親しくもない下級生相手に一人でべらべら喋り立てるなど柄にもないことだ。しかし向こうもこの作家が好きだというくらいだから、件の作品についても意見の一つや二つ、あるだろう。今度はそれを聞いてやろうと思った。あくまでも純粋に、彼女に――彼女の読書家としての側面にのみ、興味があったからだ。
「お前はどう思う」
 と尋ねてから、俺は彼女の名を覚えていないことに気づいた。それで一旦、彼女のセーラー服の胸元、ネームプレートに目をやって名前を確かめる。
「……柄沢」
 名前を呼ばれると彼女は、ようやく真っ直ぐに俺を見た。
 二人しかいない部室には赤い西日が差し込んでいて、椅子に座った彼女を同じように赤々と染め上げていた。銀フレームの眼鏡は日を浴びて鋭い光を放っていたが、対照的に彼女の黒い瞳は一層深く、黒く映え、静かな眼差しをこちらへと向けていた。
 訳もなく、別人のようだと思った。
 気弱そうな、内気そうな文学少女が、このひと時、鳴りを潜めたようだった。
 やがて柄沢雛子は真剣な面持ちのまま、慎重に口を開いた。
「それは作者にとって、あの家族像こそが読者に訴えかけたいテーマだったからではないでしょうか」
 その答えには少々失望した。そんなことは一度読めばわかる。月並みな感想を聞きたかったわけではない。俺は彼女を突き放したくなり、即座に反論した。
「だとしたら、つまらんことこの上ないテーマだ。大体、作者が読者にそんなものを押し付けてどうする。読者は多種多様な人生を歩んであの本に辿り着くというのに、作者が凝り固まった家族像を提示してみせたところで、全て共感できる者はそう多くないだろう。人生は千差万別だが、家族のありようもまた然りだ」
 まるで小さな頃、口喧嘩を吹っかけられて応戦した時のようなやり方だった。彼女を論破してやろう、という大人気ない欲求もなくはなかった。
 しかし、意外なことに、彼女はその程度では怯まなかった。
 いや、正確には多少怯んだようだ。身を竦めたのがわかったが、その直後、覚悟を決めたように更なる反論を展開してきた。
「でも、人が一生のうちで経験できる家族のありようは、本当にごく少ないですから」
「――何?」
 言い返されるにしてももっと弱々しいものを予想していた俺は、彼女の迷いのない物言いにかえって戸惑う羽目となった。
「多分、家族愛だからです。読者の印象を固定するような書き方をしたのは、家族が題材だったからだと思うんです」
 彼女の言葉もそこからは淀みなかった。
「例えば友情だとか、あるいは恋愛だとか、そういう人間関係は人生のうちで、しようと思えば何度でも経験できるもののはずです。でも家族との関係だけはそうではなくて、大抵生まれた時から決まりきっていて、大人になって家庭を持つまでは一つきりしか知らないという人がほとんどのはずです」
 俺を真っ直ぐに見据えたまま、淡々と、ためらわずに続けた。
「小説には、作家の人生が現れるものだと思います。作家の人となりがどうしても、少なからず滲んでしまうものです。だからあの本において、作家の『一つきり』の家族像が強く現れているんじゃないかと思うんです」
 こんなによく喋る奴だとは思っていなかった。
 こんなに物怖じしない人間だとも、思っていなかった。
「他の作品よりも小さくまとまっているように見えるのは、一つきりの家族をあえて書き表したかったから。そこに作家なりの家族への愛を込めたのではと、私はそう捉えました」
 そこで言葉を区切ると、柄沢雛子は唇を結んだ。話しすぎたと後悔しているわけではなく、どうやらこちらの反応を待っているらしい。思いのほか生意気なところがある、と俺は思った。
 だが彼女のそういう態度を不快に感じたわけではない。それどころかますます興味を持ったと言っていい。
 また彼女の言葉にもいくつか、思うところがあった。俺はああいう家庭に生まれた身だから『一つきりの家族像』もまたあのような、歪みきったものでしかないが、他の人間にはそれぞれ、また違った家族の肖像が胸に刻み込まれているのだろう。そんな矮小な主題を作品として書き表し、まとめることに意味があるのかはさておくとしても――だが言ってしまえばどんな作家も、多少の差異こそあれど結局は、その物語を書きたいから書くのだ。読者が求めたがるような意味だの主題だのは二の次だ。俺たちがそれを読んでどんな理屈を捏ね繰り回そうと、作家がその作品を書く時に抱いた思い、衝動、欲求は、全て作家自身のものだ。読者のものにはなり得ない。
 同じように、俺たち読者もまた、その本を読んだ時には好きなことを思い、衝き動かされていいはずだった。抱いた感想が他人に左右される必要はない。むしろ、ここで違うことを思うからこそ読書は面白い。
 俺ではない、別の視点からの感想を聞くのもまた、非常に面白い。
「……なるほど」
 心の奥底で、いくつもの感情が動いた。
 嬉しさ、懐かしさ、気が急くような思いと若干の心許なさ。
 だが最も強い思いは、期待だったような気がする。
「全て納得したとは言わないが」
 俺はそう前置きしてから、彼女に告げた。
「面白い意見だ、と思う」
 すると柄沢雛子はなぜか表情を明るくして、
「あ……ありがとうございます」
 感謝の言葉を口にした。
 誉めたつもりではあったが、礼を言われるようなことでもない。俺は彼女の今の態度には少しばかり煩わしさを覚えつつ、更に続けた。
「他の本についても意見を聞いてみたい。何か読んだら教えろ」
「え? 私の、ですか?」
「そうだ。考え方の違う人間の意見を聞くのも面白い」
 答えながら、なぜか笑いが込み上げてきた。
 ようやく、求めていたものを見つけたような気がしていた。
「お前は読むのも速いようだしな。一冊をどのくらいで読み終える?」
「……暇さえあれば、三日以内には」
 簡潔に答えた彼女に、俺もやはり短い言葉をかけた。
「そうか。期待している」
 その後は会話を打ち切り、俺たちは帰り際の挨拶まで再びいつものような沈黙を続けた。
 柄沢雛子は沈黙の間に、あの文学少女然とした雰囲気を取り戻していたようで、それ以上余計な話を持ちかけてくることもなかった。俺はその態度をますます気に入り、やっと都合のいい話し相手が見つかったと内心ほくそ笑んでいた。

 この時の俺は全く観察力に欠ける人間だったと言わざるを得ない。
 冷静になって考えてみれば、そこまでの一連の会話を振り返ってみれば、容易にわかったはずだった。
 柄沢雛子がただの、話し相手で留まるはずがないと、なぜこの時気づけなかったのだろう。
top