Tiny garden

恋の病は伝染します

 緊急事態です。
 鳴海くんが、にこにこしております。

「何だあれ……」
 俺は思わず声に出して呟く。
 木々も色づく十月下旬の大学構内、鳴海くんは遊歩道沿いに設置されたベンチに腰かけて本を読んでいた。
 鳴海くんはいつも大抵この辺にいて一人で本を読んでいるから、単に通りかかった時でも顔を合わせることがある。今もキャンパス移動の最中に見かけて、その顔を見てびっくりしてるところだ。
 俺にとってこの十月は楽団だゼミ申し込みだと死ぬほど忙しくて、鳴海くんとはあんまり顔を合わせていなかった。その間に鳴海くんは夏休みにやっていた古本屋のバイトを再開したらしく、落ち着いたら俺も行くからって前々から連絡だけは取り合ってた。次の日曜は俺もバイトに出る予定で、その話は鳴海くんにもつい最近メールで送ってて、その辺のやり取りに特別変わったところはなかったはずだ。
 そんな俺が久々に見かけた鳴海くんがあれだ。
 ベンチに座って本を開いて、何やら大変にこにこしている。
 にやにや、ではない。いや人によってはそう見えんのかもしれないけど、俺の目にはそれよりも更に穏やかな笑みに見えた。まるでこの世の全てが幸せに満ちているかのような、生きとし生けるもの全てに微笑みかけているかのような――自分で言ってて大概気色悪いと思うけど事実なんだからしょうがない。
 鳴海くんの笑顔自体はそこまでレアでもない。俺の前でもたまに笑う。大抵呆れたような笑みか、苦笑いかってとこだけど。雛子ちゃんが目の前にいればもうちょい柔らかく笑いかけることもある。それですら見かけた俺がぎょっとして、おいおい別人だろこいつ彼女の前じゃめろめろなんだなって思ってたくらいなのに。
 今日の笑顔は幸せそのものだ。これまで雛子ちゃんにだけ時々向けていたささやかな贈り物的な笑みとはまた違う、隙だらけの全開の笑顔だ。手にした本を読んでいるのかいないのか、目を細めて緩やかに笑みながらベンチの上に腰かけている。
 カレーに例えたら普段は五辛のところを一辛にしたかのような――いやもうこれは辛くない子供向けのカレーだ。リンゴと蜂蜜とヨーグルト入れすぎちゃって辛味なんてひとかけらも残ってないカレーのように甘い。
「何があったんだ……」
 もう一度呟いて、俺は傍の木陰に隠れた。
 いつもなら普通に声かけるとこだけど今日はかけづらい。あんな笑顔初めて見たし、ってか何かあったんだろって思うし。
 そしてその何かはほぼ百パーセント、雛子ちゃん絡みだと思われる。
 これはもう五百円賭けたって惜しくないくらい確実だ。きっと誰とも賭けになんないだろうけど。

 そもそもちょっと前までの鳴海くんは、雛子ちゃんとの関係について随分深刻に悩んでいた。
 その悩みっていうのもまあ、そんなことじめじめ悩んでんなら本人にずばっと聞いてこいよって程度の悩みだったけど、鳴海くんはあの通り真面目だし、潔癖だし、そして雛子ちゃんのことをとてもとても大切に思っていたから結局一人で抱え込んでどうにもならないところまで来てたわけだ。
 俺は友人としてその相談に乗ってあげた。多少無理に口を割らせたりもした。そして改めて話を聞いてみてもやっぱり、雛子ちゃんに直接聞いた方が早いんじゃねえのとしか思えなかった。雛子ちゃんは第三者たる俺の目から見ても明らかに鳴海くんにべた惚れだし、少なくとも鳴海くんの真面目な悩みを聞いて軽蔑したりドン引きしたりするような子ではないはずだ。鳴海くんには何でそこがわかんないんだろうなあと呆れつつ、でも俺が言い聞かせたところで理解できるようなもんでもないよなと程々にアドバイスだけしておいた。
 あれから、一ヶ月とちょっとくらいか。
 きっと何かあったんだろうな。事態が進展するような何かが。
 でもって、鳴海くんをたった一人きりでもにこにこ笑顔にさせてしまうような何かが、あったに違いない。

 とりあえず、あれだ。
 木陰からこっそり見守ってたって埒が明かない。さも今しがた通りかかりましたよみたいにあのベンチの前まで行って、ごく自然に鳴海くんに声をかけてみよう。その反応次第で今後の出方を考えるってことで――よし。
 意を決して、俺は木陰から一歩踏み出し遊歩道へ戻ろうとした。
 だけどそこへ別のグループが通りかかろうとしたから、とりあえず道を譲った。女の子ばかり五人ほどのその集団はなかなか可愛い子揃いで、アッシュブラウンの巻き髪から黒のストレートロング、眼鏡をかけたサイドテールに活発そうなショートボブといい感じに個性もばらけてる。この子たちが合コンに来てたら今日は当たりだと心の中で叫ぶレベルだ。彼女たちは女の子らしい話題で盛り上がりながら遊歩道をぞろぞろ歩いていく。俺はあの中ならショートボブの子がいいな脚きれいだし、でもあっちの巻き髪の子もよかったな可愛くて、などと興味本位で見送っていると、女の子の集団はいつの間にやら鳴海くんが座るベンチの前まで差しかかっていた。
 その時、鳴海くんは反射的に顔を上げた。
 手にした本はそのままに、目の前を通り過ぎていく女の子たちを見る。吸い寄せられるように彼女たちを見て、だけどすぐに違うとわかって落胆したような顔をして、再び手元に視線を戻す。
 鳴海くんも時々こうして、俺みたいに他の女の子を眺めたりする。と言っても俺ほどじっくりは見てないし、ほんの一瞬目を向ける程度だけど。それでも俺はそういうそぶりを見る度、鳴海くんもちら見する程度には男なんだなと安心するって言うか、仲間意識と言うか、雛子ちゃんには黙っててあげるよと内心にまにましていたわけだ。
 でも、今、はっとした。
 鳴海くんが見ていたのは髪をサイドテールに結んだ女の子だった。
 もっと言えば、眼鏡の子だった。
 それで俺はこれまでの過去を振り返り、鳴海くんがわざわざ目を留めるほどの女の子ってどんな子たちだっただろうと考える。それほど注意払って見てたわけじゃないから確証は持てないけど、そういえば眼鏡っ子だったこともあったような……?
 この辺りは要検証ってところですかね。
 ともかく今の鳴海くんが眼鏡の女の子を探し求めていることは確実で、それはさっきまでみたいに幸せそうに微笑みながら本を読んでいる時もそうで、しかも探し求めてるその子がここにはいないって頭では理解しているはずなのについ見てしまうという時点で、その内心はお察しくださいってところだ。
 女の子の集団がぞろぞろと遠ざかっていき、鳴海くんは再び本へ視線を戻す。口元には思い出したようにとろける笑みが浮かんで、見ているだけの俺が居た堪れなくなる。
 そんな、目に見えて幸せオーラを振り撒かんでも。

 だからまあ、鳴海くんのにっこにこの理由が雛子ちゃんにあるのはもう百二十パーセント間違いなさそうだ。
 別にそれはいいんだけど。マグマのように煮えたぎる羨ましさはあるけど――ぶっちゃけ俺も雛子ちゃんみたいな彼女欲しいって思う、もう笑顔が可愛いとかよくはにかむとこも可愛いとか胸がどうこうというのはさて置いて、あんな気立てのいい子に先輩、先輩って慕われて一途に思われてみたいです。俺の楽団の後輩なんて俺を始終怒ってばっかだからね。大体俺のせいだけど。
 閑話休題、鳴海くんが幸せいっぱいなのは別にいい。と言うか俺だって友人としてそれを祝ってやろうじゃないかって気持ちくらいはある。
 だけどさ、先月辺りは俺も、悩み苦しむ鳴海くんにいろいろアドバイスとかしたわけだし。
 相談に乗ってあげたり、飲みに誘ってあげたりもしたわけだし。
 そこで事が上手く運んだっていうなら、報告の一つや二つあってもいいんじゃないですかね。
 鳴海くんは本当、そういうとこがドライって言うか、そもそも友達にその手の話するって頭がないからなあ。そりゃ俺も鳴海くんにいい笑顔でやりきった報告されても絶対リアクションに困るけどさ、別に逐一詳細を語れとは言わないから一言報告くらいあってもいいんじゃないでしょうか。
 そういうの言いたがらないのも、そもそも恋愛に関してちょっと潔癖すぎたのも、きっと理由あってのことなんだろうけど。
 だからこそ俺は、羨ましさ妬ましさに身を焦がしつつも、鳴海くんには幸せであって欲しいと思う。

「――大槻くん」
「うひゃっ」
 背後からいきなり声がして、つい変な声が出た。
 びくびくしながら振り向けば、俺の真後ろにはなぜか仙人が立っていた。
 仙人と言っても髭はないし杖も持ってない。着流しみたいなのも着てないし、少なくとも俺たちの前では空は飛ばない。でも確実に神通力はあるだろうと思われる、つるっとした禿頭の教授だ。たった今も瞬間移動で現われたのか、ぱりっとした三つ揃い姿で俺に笑いかけている。西洋哲学の先生だけど、風貌はどう見ても東洋系、漢方薬とか扱ってそうだ。
「せ、先生。どしたんですか、急に現われて」
 俺が尋ねると仙人は悪戯っ子のように目を細めた。
「驚かせてしまったかね」
「そりゃまあ……。ちょっと今、鳴海くんの様子を探ってたとこなんで」
 俺は視線でベンチに座る鳴海くんを指し示す。
 それで仙人は悠然とそちらを眺め、しばらくしてからほんのちょっと嬉しそうな顔をした。
「おや。随分幸せそうな顔してるね、鳴海くんは」
「ですよね。もう激甘カレーって感じっすよね」
「もはやカレーではないねえ」
「ないっすね。きっと彼女と何かいいことあったんですよ」
 にやにやしながら俺が言うと、仙人は目を丸くする。
「彼女? 鳴海くんのかい?」
「いるんですよ、鳴海くんに。それはもう超可愛い彼女が」
「……そうか。それはよかった」
 深く納得した様子で仙人が頷く。ここだけ時間の流れが違うみたいな、ゆっくりした頷き方だった。
 俺たちの視線に、そして会話に気づくそぶりもなく、鳴海くんは今もベンチに座って本を開きながら微笑んでいる。
「しかし、幸せそうだねえ」
 仙人は溜息混じりに呟くと、その後で照れたように瞬きをしてみせた。
「あんな顔見てると、私も自分の若い頃を思い出すよ」
 仙人の若い頃って何時代だろう。安土桃山くらい? いやそれは冗談にしても若い頃とか想像つかねー。本当にあったんかな。
 俺が内心戦慄する横で、仙人は思いついたように言った。
「今日は久々に、妻に花でも買って帰ろうかな」
 鳴海くんの幸せオーラが仙人にも伝染した模様です。影響力すごいな。
 ってか、そう言や仙人が結婚してんのは知ってたけど、奥さんがどんな人かは知らないな。そう思って俺は尋ねた。
「先生の奥様ってどんな方なんですか? やっぱ天女だったりします?」
 途端、仙人はきょとんとして、
「それは斬新な切り口だね。初めて聞かれたよ」
 と言ってから、にっこり笑った。
「別の質問ならよくされたがね。哲学を扱っていると、やはり先人に倣って悪妻を持つのか、などとね」
 そりゃまた随分スケールのでかい先人だ。俺はつられて笑いながら聞き返す。
「え、実際どっちなんすか。先生の奥様って」
 すると仙人はじっと俺を見て、口元に秘密めいた笑みを浮かべる。
「どちらもはずれだよ」
 どうやら惚気られたっぽいと気づいたのは、数秒後、仙人が俺から視線を外した瞬間のことだった。
「それでは失礼するよ、大槻くん。鳴海くんにもよろしくな」
「あ、はい……お疲れ様っす」
 立ち去る仙人の後ろ姿を拝むのも忘れるくらい、俺はしばらく呆然としていた。
 鳴海くんにあてられて、仙人には惚気られて、何か今日の俺って地味に厄日じゃね?
 そんな寄って集って独り身の寂しい俺をいじめなくてもいいと思うんですけど。

 一人取り残された俺はまた鳴海くんに目をやり、いつになく幸せそうな笑顔がやっぱり羨ましくて仕方がなくなる。
 そして、思い出す。
 仙人も言ってたけど、俺も同じようにちょっと昔のことを思い出す。と言っても俺の『昔』なんてせいぜい二、三年前だ。好きな子がいて、部活でちょっと話せただけで嬉しさににやついたり、でも連絡先が聞けなくて一人でじたばたしてたりしたあの頃のこと。
 今は女の子と話をするのも普通にできるし、連絡先だって会ったその日のうちに聞ける。でもそれが恋愛に結びついてるかと言ったらそうでもなくて、むしろあの頃より恋愛そのものから遠ざかってるようにさえ思える。
 そんな状況で鳴海くんを羨ましがるのも微妙かもしれないけど――。

 そうこうしているうち、次の講義までもうほとんど時間がないことに気づいた。
 うっかり忘れてたけど、そうだ俺、移動中なんだった!
 慌てて遊歩道へと飛び出し、鳴海くんのいるベンチの前まで駆けていく。ついでに一言、声もかける。
「鳴海くん! すっげえご機嫌だけど何かあったの?」
 本から顔を上げた鳴海くんが、たちまち笑みを押し隠すように顔を顰めた。
「急に何だ、大槻」
 急にも何もさっきからそこにいましたって。
 まあその辺はまた後日。追々じっくり尋問にかけるとして。
「俺、今ちょっと急いでるからさ。今度根掘り葉掘り聞かせてよ」
「やぶからぼうに何の話だ。特に話すことはない」
「そう言うなって俺がしっかり聞いたげるから! じゃあ次の日曜、バイトの時にでも!」
「だから何の話だ大槻!」
 鳴海くんが声を荒げた時にはもう、俺は再び走り出していた。急げばどうにか間に合う距離だ。このままダッシュで駆け込もう。
 でもって、いつかは鳴海くんたちに惚気返してやる。
 今のところは当てもないけど、でもものすごい恋愛したい気分になってる時点で、ある意味機運ってやつじゃないですかね。
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