Tiny garden

団欒

 毎年正月にしていた実家への帰省をやめることにした。
 理由はいくつもあるが、一番は正月くらい気分よく過ごしたかったからだ。

 実家には父がいる。
 父は俺を育ててくれた人だ。
 母が出ていった後も俺を息子として扱い、手に余るとわかると澄江さんの元へ放り出した。そして中学三年の時に気まぐれに呼び戻したかと思えば、後妻と腹違いの妹とのぎこちない家族生活を余儀なくされた。その後妻とも別れた今、独り暮らしをする父はやはり気まぐれに連絡を寄越しては父親ぶる。
 父にとっての俺は、血を分けた自らの分身、という扱いにも思える。懐いているわけでもない俺の為に学費を払い、仕送りもくれるが、一方で何でも言うことを聞かせられると思っているふしがある。妹の為に、もしもの時は相続を放棄しろと命じられたこともあった。後妻と妹が消えた今、その話がどうなっているのかは父だけが知っている。
 俺がもう実家に寄りつかないと告げた後も、父はその経緯を忘れたように連絡を寄越し、こう言った。
『正月くらい顔を見せろ。親子だろう』
 何でも父は三度目の結婚をしたらしく、俺に新しい母を紹介したいそうだ。
 三度目というのも俺が知る限りでだが、ともかく俺は、それを拒んだ。

 そういった正視に堪えない現実を、雛子に包み隠さず話す気にはなれない。
 だから正月は帰らないという話だけをしたのだが、それでも彼女は俺が背負う不穏さを察したらしい。
「でしたら、私と一緒に過ごしませんか」
 気遣うように、そう誘いをかけてきた。
 その気持ちはもちろん嬉しかったが、俺とは違い、彼女はまともな家庭に育っている。
「年越しは家族と過ごすんじゃないのか」
 聞き返すと、雛子は思案するように目を伏せながら答えた。
「年が明けたらすぐ、先輩の部屋へ伺うことはできます」
「そんな夜遅くにか?」
「大晦日の夜は終日電車が動いてるんです。厳密には元日の朝、かもしれませんけど――年明けの挨拶が済んだらすぐに家を出て電車に乗れば、一緒に初日の出だって見れますよ」
 随分なハードスケジュールに思えたが、言い出すと聞かないのが柄沢雛子という女だ。
 そもそも俺の側に強く拒む理由がないこともあり、最終的には彼女の誘いを受けた。
「しかし何かと忙しない年の瀬だ、くれぐれも無理はするなよ」
「わかってます」
「疲れていると思ったら取りやめろ。電車で眠るのは危険すぎる」
「大丈夫ですよ」
 雛子は俺の心配をことごとく笑うと、小声で言い添える。
「先輩と会えると思ったら、眠くなるはずがありません」
 その言葉と共に浮かべた控えめな微笑には、高校時代の面影が残っていた。
 思えば俺の人生の変革は、常に彼女の微笑と共にあった。

 少し浮つく気持ちで迎えた大晦日の夜、日付が変わった直後に連絡があった。
『電車に乗りました。今から向かいます』
 雛子からの連絡を受け、俺もコートを着込んで部屋を出る。
 年が明けたばかりの戸外は冷え込んでいて、凍りつくような大気の中を小さな雪がちらついていた。

 昔から、年越しと言えば静かな時間を過ごしてきた。
 家族で食卓を囲んだ記憶はない。澄江さんと一緒に暮らしていた頃は一緒に年越しそばを食べたが、年老いた澄江さんは寝つくのが早く、俺は長い夜を一人きりで過ごした。
 実家に戻されてからは、年越しは苦痛でしかなかった。父と後妻と妹が作る家族団欒に俺に居場所はなく、部屋に閉じこもってやり過ごすしかなかった。漏れ聞こえる楽しそうな笑い声が年明けまで続くから、布団を被ってさっさと寝てしまうこともあった。
 独り暮らしを始めてからも、いい思い出は特にない。
 雛子が来るのを待ち、準備をする時間を過ごした今年が、今までで一番いい年越しになった。

 駅までの道程は思っていたより明るかった。
 通り抜けた住宅街にはそこかしこに灯りが点り、家族団欒のひとときを想像させる。俺は本でしか知らないが、一般的な家庭では年越しを家族で過ごすのだろうし、子供たちもこの日くらいは夜更かしを許されるのだろう。何か特別なテレビ番組が放送されるという話も大槻から聞いたことがある。
 それらもかつては、俺にとって遠い世界の話だった。

 駅には日中と変わらぬくらいの人がいた。
 コンコースも改札口もごった返していて、客層も実に様々だ。スキー板を持った冬装備の一団、スーツ姿の酔った社会人たち、旅行でもするのか荷物を抱えた家族連れもいる。その傍らでは夜遅くにもかかわらずきびきびと働く駅員がいて、頭の下がる思いだった。
 思えば大晦日の電車が、こんな時間まで動いていることも知らなかった。
 俺が知る年越しはいつだって静かで、孤独で、寂しいものだった。
 だが俺がそういう時間を過ごしていた頃、世界のどこかでは尚も忙しく働く人、電車に揺られてどこかへ向かう人、楽しい時間を過ごす人がそれぞれいたのだろう。俺の知らない年越し、あるいは正月の過ごし方もあるのだと、今更のように思い知らされた。
 今、目の前にあるのは、初めて見る年明けの景色だ。

 やがて柄沢雛子が現れて、急ぎ足で改札を抜けてくる。
 大きな紙袋を提げた彼女は、マフラーを巻き、コートをしっかり着込んでいた。銀フレームの眼鏡越しに視線を一度巡らせた後、人で溢れる改札口から見事に俺を見つけてみせた。途端にその口元がほころび、控えめな微笑が浮かぶ。
 俺も笑い返せたらよかったのだが、その瞬間無性に照れてしまって、むしろ居心地の悪い思いで彼女を出迎えた。
「随分と混み合ってたみたいだな。疲れてないか?」
 問いかけると、雛子は頷いた。
「毎朝のラッシュに比べれば全然です」
 それから前髪を指で直し、小さく頭を下げてくる。
「あけましておめでとうございます、先輩」
 そういえば、もう年が明けていた。
 俺も同じように応じる。
「あけましておめでとう、雛子」
「今年もよろしくお願いしますね」
「ああ、こちらこそ。新年早々、会えてよかった」
 そんな言葉を添えるあたり、俺は相当浮かれているのかもしれない。
 雛子も嬉しそうにくすくす笑った。そして提げていた紙袋を抱え直してみせる。
「そうだ、これなんですけど、母が持っていきなさいって」
 袋の中身は重箱のようだ。正月に重箱となれば、中身は恐らくそういうものだろう。
「お煮しめとお節です。先輩はお節って作りました?」
「作ったが、ほんの少しだ。余らないように食べればいい」
 俺は雛子から紙袋を受け取る。意外と、ずっしりと重かった。
 それを片手で提げ、もう片方の手で雛子の手を引き、混み合う駅舎の外へ出る。

 部屋へ向かう道は、来た時と同様に冷え切っていた。
 だが来た時ほど寒さは感じなかった。
「部屋を暖めてきた。寒い思いもあと少しだ」
「お気遣いありがとうございます、先輩」
 そう言って雛子が笑う。
 さして大声でも、賑々しくしているわけでもないのに、夜道が更に明るく感じる。
 家々の灯りはまだ点いていた。これから何時頃まで団欒のひとときが続くのだろう。今日は特別な日だと、住宅街を眺めつつ改めて思う。
「そういえば、雑煮と汁粉も作った」
「えっ、両方ですか?」
「ああ。俺は毎年雑煮だが、お前は甘い物の方がいいだろうと」
「嬉しいです。お汁粉、喜んでいただきます」
「だが味に自信がない。俺は甘いのはよくわからんからな」
「では僭越ながら、私が味見をします」
 雛子はずっと笑っている。
 何がおかしいのか、単純に楽しいのか。何にせよ、悪い気はしない。
 きっと部屋に着いたらその眼鏡を曇らせて、恥ずかしそうに外しながらまた笑うのだろう。
 その様子を見たら俺も、妙に幸せな気持ちになって、一緒に笑ってしまうに違いない。

 道の先にすっかり見慣れたアパートが見えてくる。
「着きましたね、先輩」
 途端に雛子がほっとしたように笑った。
 その唇から立ち上った白い息が雪をすり抜け、夜空に消えていくのを見た時――。

 遠くない未来で、俺は家族を得るのだろう。
 一月一日の夜明け前、なぜか強く確信していた。
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