Tiny garden

思い出を未来へ(2)

 その日の夕飯は鳴海先輩と私で作った。
 献立もやはり二年前と同じだ。筑前煮ときゅうりの酢の物、それに茄子の味噌汁。全て澄江さんの好物で、材料は冷蔵庫に揃ってあった。
 前回と同様、午後四時に間に合うように、まだ日も高いうちから作り始めた。前と違うのは私の料理に対する姿勢、そして実力だ。高校時代と比べたらはるかに腕を上げた私は、先輩からきゅうりの輪切りを仰せつかった。先輩が私に包丁を持たせてもいいと思ってくれた、これは二年前と比べたら大きな進歩だろう。
「包丁を持つ姿が様になってきたな」
 私の隣で合わせ酢を作る先輩が、そんなふうに誉めてくれた。
「ありがとうございます。でも実力の方も上がりましたよ」
 と言って、私は切ったばかりのきゅうりを摘み上げる。
「ほら、こんなに薄くできました」
「よくできたな、上手くなったじゃないか」
 先輩がこちらを向いて目を細めた。
 いつもの険しさがどこかへ消え失せてしまったような笑い方と、素直すぎる誉め言葉。それを望んでいたのは事実なのに、いざその通りにしてもらうとどぎまぎしてしまう私のわがままさは健在だった。
 鳴海先輩は確かに優しくなった、でもその優しさは時々心臓に悪い。
「次の機会にはいっそ、お前に一品任せるというのもいいかもしれないな」
 そう呟く先輩は、何だかとても楽しそうだった。
 料理そのものが好きだというのもあるのだろうけど、そこに私がいることを受け入れてくれているのが嬉しい。私も、もっと頑張ろうという気になる。
「是非お願いします。私も煮物とか作れるようになりますから」
「それは楽しみだ。真っ先に食べさせてくれ」
「はい!」
 これは頑張らなくてはならない。以前、先輩には私のお手製カレーを披露したことがあったけど、煮物はそれよりも難しいだろう。でも上手に作って、先輩に美味しいと言ってもらいたい。もちろん澄江さんにもだ。
 澄江さんは私達を時々台所まで覗きに来ていた。以前のように冷やかしの言葉はかけられなかったけど、くすくす笑うのが聞こえていたから二年前と同じように思っていたのかもしれない。
 今は、私も思っている。
 結婚して、先輩と一緒に台所に立ったら、きっとこんな感じではないだろうか。

 美味しい夕飯を食べ終えた後、澄江さんは午後六時前に床に就いた。
 そして私は、二階へ上がった鳴海先輩の後を追う。先輩の姿は書室にあり、壁一面を覆う本棚から早速一冊抜き出して、ぱらぱらとめくり始めているところだった。
 足音を殺して近づいたつもりだったのに、戸口をくぐったところで先輩は振り返る。そして笑う。
「随分と静かに上がってきたな」
「先輩の読書のお邪魔をしないように、と思いまして」
「お前がいるのに本を読んでいるのもな」
 鳴海先輩は本を閉じ、それを棚へ戻した。
 二年前の先輩が今の言葉を聞いたら、一体どんな反応をしただろう。
「また散歩にでも行くか?」
 目を瞬かせている私に、鳴海先輩はそう持ちかけてきた。
 もっともすぐに苦笑して、
「知っての通り、見るべきものもほとんどないがな。海沿いの道を行って戻ってくるだけだ」
 と言ったから、先輩自身は散歩をしたいわけではないのだろう。
 ここの蔵書を先輩は、まだ読破していないと以前言っていた。帰る度に少しずつ読むことにしているそうだから、今回もそうしてもらって構わなかった。
「先輩はどうぞ本を読んでいてください」
 私が勧めると、鳴海先輩は訝しそうにする。
「しかし、それではお前が退屈だろう」
「私はこれを読んでいますから」
 そこで後ろ手に隠していた赤い表紙のアルバムを見せると、困惑したように肩を竦められた。
「さっき見たんじゃなかったのか」
「さっきは、あまりじっくり見られなかったので」
 実のところ、見られなかったというよりはそういう気分になれなかったという方が正しい。先輩の子供時代の写真が見たいと言い出したのはほんの軽い気持ちで、純粋に先輩のことをもっと知りたいと思ったからだった。もちろん鳴海先輩がどんな幼少期を、そして少年期を送ってきたかも知らなかったわけではない。だけど目の当たりにするまで、私は全く楽観的でいた。いざ目にしたら胸が詰まって、せっかくの写真をじっくり見ることすらできなかった。
 夕飯を食べて時間を置いて、今ならもう少し冷静に眺められるのではと思った。
「それだって見るべきものはないはずだ」
 鳴海先輩は素っ気なく、自らの写真が収められたアルバムを評した。
「いえ、可愛かったですよ。子供の頃の先輩も」
「どこが。これほど愛想もなく、好感の持てん子供も珍しい」
「そういうところが可愛いんです」
 私は言い切ると、先輩を見つめて続ける。
「いつの先輩と出会っていても、私は先輩のことを好きになっていたと思います」
 てっきり笑い飛ばされるかと思ったのに、鳴海先輩は笑わなかった。
 短い間瞬きをやめ、私を見つめ返してきた。いつもの眼光の鋭さも一時影を潜め、どこか熱っぽく感じる目を向けてくる。知らず知らずのうちに動悸が速くなっていた。
 私が声も出せずにいれば、やがて口元が微かにほころぶ。
「そこまで言われては嫌だとも言えんな。好きにしろ」
「あ……は、はい」
 お許しを貰った私は、気圧されたように頷くのが精一杯だった。
 空調のない小さな書室は熱がこもったように蒸し暑く、窓から吹いてくる夕風になぜだか安堵した。

 鳴海先輩と私は、書室の床に隣り合って座っている。
 先輩は古い蔵書を、私は古いアルバムを、それぞれじっくり眺めている。先輩が器用そうな指でページを繰る度、衣擦れのような微かな音が室内に響いた。その他には波の音が、潮風に乗ってかろうじて聞こえてくるだけだった。
 改めて見返したアルバムには切なさもあったものの、鳴海先輩の成長の記録には素直に温かい気持ちを覚えた。小学一年生の頃の先輩は今と同じように痩せていたけど、頬は子供らしくぷくぷくとしていた。この部屋で本を読みふける姿は今の先輩の面影があり、それでいて足を伸ばした座り方が可愛いと思う。中学の制服は見たことのない緑のブレザーで、スラックスは灰色だった。すらりと背の高い鳴海先輩はそれを難なく着こなしている――東高校の学生服はあまり似合っていなかった先輩だけど、ブレザーはよく似合っていた。そういえば鳴海先輩はスーツ姿もとても素敵だった。
 私は写真を眺めつつ、鳴海先輩への想いを再確認するに至った。やはり私はいつの先輩と出会っても、運命のように先輩を好きになっていただろう。そして寂しい思いをしていたかつての少年に、何か温かな言葉をかけられたかもしれない。その時、鳴海先輩がどんな反応をするかは想像がつくような、つかないような――。
 そんなことを考えながらも自然と笑みが浮かんでしまうのは、今が幸せだからだろう。
 先輩は私の傍にいる。こうして里帰りにも連れてくるほど私を信頼し、大切にしてくれている。そして私を、私が先輩を想うのと同じくらい深く想ってくれている。この写真の中の少年には明るく幸いな未来があると知っているからこそ、私も今、穏やかな気分でアルバムをめくることができた。
 そして余白を残したアルバムの、写真がある最後のページまで行き着いた時だ。
 先程まで隣から聞こえていた、本のページを繰る音が止んでいることに気づいた。
「……先輩、どうかしたんですか」
 気がつくと鳴海先輩は本を読む手を止め、黙って私を注視していた。尋ねながらそちらを向けば、先輩はうろたえることなく答える。
「さっきから見ていたのに、気づかなかったのか」
「すみません、夢中になってて」
 隣り合って座ったまま顔だけ向き合えば、至近距離で視線が絡まる。熱さを感じるその眼差しに私は息を呑んだ。
「そんなに夢中になるようなものか」
 鳴海先輩の口調は呆れているようでもあったし、純粋に怪訝そうでもあった。
 だけど私はその問いに応えられない。顔の近さに動揺している。
「物珍しいのはわかるが、大した写真があるわけでもなし」
 先輩の手が私の頬に触れる。ひやりと冷たい。
 本のページを繰る器用そうな指が頬をなぞり、ゆっくり下りて唇に触れる。息が詰まる。先輩はそこから私の顎、そして首筋に指先を滑らせ、更に下りて鎖骨を撫でた。ぞくっとした。
 私の身体が震えたのがわかったのだろう。先輩は少しだけ微笑んだ。
「お前は、可愛いな」
 唐突に何を言うのだろう。
 鳴海先輩は二年前と比べても変わった。以前は言わないような言葉を私に対して口にするようになった。それは私にとって嬉しく、ずっと待ち望んでいたような言葉ばかりだったけど、ちょうど今みたいに何の脈絡もなく告げられるのでその点だけは困る。
「俺は、さっきお前が言ったことを考えていた」
 私の鎖骨に指を置いたまま、鳴海先輩は言った。
「いつの俺と出会っても、お前は俺を好きになると、そう言ったな」
「……はい」
 私は頷いた。そうすると先輩の指の感触が一層くすぐったく思えた。
「俺も同じように思ったことがある。俺の人生にもっと昔からお前がいたら、俺は……」
 先輩はそこで言葉を止め、おかしなことを言ったというように眉を顰めた。
「想像したところで意味のない話だがな。現実にならないのであれば、俺の記憶が書き換えられることもない」
 それは事実だ。
 だけど同時に、叶えようのない夢であっても想像を巡らせたくなるのも、人の性というものだ。
 私も思う。もっと前に先輩と出会えていたなら、このアルバムの余白はもっと埋められていたのではないだろうか。あるいは一冊のアルバムでは足りず、二冊、三冊と思い出を紡いでいくこともできたのではないだろうか。
「だが俺は、最近、違うようにも思っている」
 鳴海先輩の指先が私から離れた。
 と思いきや頭の後ろに手を置かれ、そのままそっと抱き寄せられた。私が先輩の胸に額をつけると、先輩は満足げに深い息をつく。
「迷ったことも悔んだことも、辛いこともあった人生だが、それを経てきた今の俺だからこそ、こうしてお前を抱き締めていられるのではないかと……そう思う」
 確かに、これは未来だ。
 寂しい思いをしてきた写真の中の少年が掴みとった、幸せな未来だ。
 先輩には私がいる。もう二度と、あの最後の写真のような顔はさせない。現に私が撮った記念写真で、鳴海先輩はちゃんと笑っていた。
「先輩、澄江さんと私が話したこと、聞いてましたよね」
 腕の中から私は、先輩の胸に囁いた。
「どれについてだ」
 鳴海先輩は正直に聞き返してくる。
「先輩の写真をプリントして、澄江さんに送るといったことです」
「ああ」
「名案だって思いませんか? このアルバムの続きを、私達でまた埋めていくんです」
「そうだな」
 先輩が私の頭を撫でた。大きな手で、照れたような笑い声を零しながら。
「どうせならお前の写真もたくさん載せたい」
「でも、先輩のアルバムですよ」
「同じことだ。今の俺の人生において、お前はなくてはならないものだからな」
 また、動悸が速くなる。
 嬉しいのに、困る。先輩のその言葉が私をいつもうろたえさせる。
「そしていつか、一緒にアルバムを見よう。俺は思い出を未来へ持っていきたい。お前のいる未来へ」
 うろたえながらも、私は先輩を好きだと改めて思う。
 その優しさも、言葉の使い方も、繊細さも、心のうちに広がる広大な想像の世界も――その中にはきっと、何年先も先輩と共にある未来の私もいるのだろう。聞かなくても、そんな気がした。
「俺も、お前を幸せにする」
 鳴海先輩はそこで、きまり悪そうに苦笑した。
「お前に先を越されたから言うわけではないからな」
 わかってます、そう言おうとした私の唇は、強引に上を向かせた先輩によって遮られた。
 長いキスの間、私が思い出していたのはやはり二年前のことだった。
「……思い出しますね、先輩」
 息を切らして告げた私を、鳴海先輩は軽く、愛情込めて睨んできた。
「それは思い出さなくていい」
「まだ何も言ってません」
「言わなくてもわかる。俺も思い出していたからな」
「私は駄目なのに、先輩はいいんですか?」
 あの夜の出来事は私にとっても大切な、思い出深いきっかけだったのに。
「俺は忘れられそうにないから、お前が忘れてくれ」
「無理です」
 先輩に乞われて、私は素直に答えた。
 それで先輩はどうすればいいのかを、その想像力豊かな心で考えたようだ。しばらくしてからひらめいたような顔をして、また私を抱き締めた。
「なら、もっといい思い出で上書きすればいいのか?」
 頭上から囁かれた言葉に、私はこれまでになくうろたえた。
 二年前の鳴海先輩が聞いたら、むしろ先輩の方が動揺するのではないだろうか。こんな台詞を口にするのは誰だと真っ赤になって怒り出しそうだ。
 しかしそれは二年前から見て未来の鳴海先輩である。
 一方、私は二年前の夜も今夜も同じだ。先輩によって心を奪われ、なす術もなかった。

 翌朝、澄江さんの家をお暇する前に、私は三人での写真撮影を提案してみた。
「まあ、本当に? それならお化粧直してこないと……」
 そう言うなり澄江さんは自室に飛び込み、支度を始めたようだ。
 それを見送った鳴海先輩が、私にそっと耳打ちする。
「あの人はお前と会う度に若返っていくな」
「いいことだと思います」
 私は笑いながら応じた。
 やがて戻ってきた澄江さんは、お化粧を直しただけではなく服まで着替えていた。涼しげな麻のワンピースが、痩身の澄江さんによく似合っていた。
「自撮りなので、ちょっと窮屈な写真になりますけど」
 そう前置きしてから、私は鳴海先輩、澄江さんと家の前に並んだ。うんと腕を伸ばして携帯電話を構え、画面の中に三人の顔が収まるように調整する。三人で並ぶと澄江さんはひときわ小さく、先輩は逆に背が高いので合わせづらかった。
「先輩、少し屈んでください」
「こうか?」
 私の要請に先輩は従い、その結果、私達の顔が真横に並んだ。頬がくっつきそうな距離だった。
 そこでシャッターを切ったからだろうか。撮れた画像は、澄江さんだけがカメラを見ていて、私と先輩はカメラを見ずにお互いを見ているというものだった。
「撮り直したい」
 鳴海先輩は真っ先に言った。
 だけど澄江さんは頑として主張した。
「私はこれがいいわ。雛子さん、お写真よろしくね」
「はい」
 私は先輩の顔色を窺いつつも、快く頷いた。
 正直に言うと私も、これはちょっと恥ずかしいけどいい写真だと思っていたからだ。

 旅行を終えて帰宅した後、私はあの日撮った写真と、他にもいくつかの画像をプリントして澄江さんのおうちへ送った。
 澄江さんもそれらを、あのアルバムに挟んでおいてくれるそうだ。
 だから先輩との約束は、いつかきっと叶うだろう。
 思い出を未来へ持っていき、幸せの中で振り返る日がきっと来る。
▲top