Tiny garden

思い出を未来へ(1)

 優しく吹き込む潮風が、白いレースのカーテンを揺らしている。
 二年ぶりにお邪魔した澄江さんのおうちはどこか懐かしい匂いがした。海の香りとお線香の匂いが混ざりあい、心安らぐ空気で満ちている。

「まあ、二年? そんなになるかしら……」
 冷たい麦茶のグラスを私達へ差し出しながら、澄江さんは目を丸くした。
 その後でじっと、優しく私を見つめて言う。
「でも、言われてみれば雛子さんは随分変わったわね。すっかり大人っぽくなって」
「そう見えているなら嬉しいです。私も再来月には二十歳ですから」
 私が応じると、澄江さんはもう一度驚いて口元に手を当てる。
「そうなの? 前にお会いした時は……そういえば高校生だったわね」
 そのお言葉通り、前回の訪問は私が高校三年の夏のことだった。
 鳴海先輩はろくな説明もないままに私を小旅行へ誘った。親戚の家に泊めていただくという話は聞いていたけど、その相手が先輩にとってのおばあさんであることは教えてくれなかった。澄江さんに対しても同様で、『高校時代の後輩』であることは説明していたものの、それが私のような女子高生だとは一切言っていなかった。もっとも後者に関してはわざと言わなかったのか、それとも澄江さんには言えなかったのか不明なところもある。その辺りの気持ちがわからない私ではないから、今更先輩を責めたりはできない。
 それに何より二年前のあの夏は、私達にとってかけがえのない思い出、そして一歩を踏み出す為のきっかけになった。
「寛治さん、今回はちゃんと雛子さんの親御さんにご挨拶をしてきたんでしょうね」
 澄江さんも二年前のことを思い出したのか、麦茶を飲んでいた先輩に水を向けた。
 鳴海先輩もそう問われることを心得ていたと見え、すぐさま顎を引いてみせた。
「もちろんです」
 私を旅行に連れ出すに当たり、鳴海先輩はわざわざ私の家を訪ねて両親と話をしてくれた。
 うちの両親もまだ未成年の娘の外泊旅行にはいい顔をしなかったけど、先輩のおばあさんに会いに行くこと、おばあさんが高齢であることを訴えたらあっさりと許可が出た。もちろん二度目の訪問であることは黙っていた。
「そう、ならいいわ。こういうことは筋を通しておかないとね」
 満足げな澄江さんが麦茶のグラスを両手で包む。たくさんの皺がある、痩せ細った手だった。
 二年の月日を隔てたからか、澄江さんは以前よりも小さくなったように見える。単に痩せただけとは思えない身体の小ささが、私の胸に何とも言えない寂寥感を過ぎらせた。
 そういえば、澄江さんは今おいくつなのだろう。
 いくら同性と言えど、女性に年齢を尋ねるのは無礼なことだ。かと言って鳴海先輩にも聞きづらい。今の先輩なら尋ねさえすれば答えてくれる気もするのだけど――。
「本当はね、雛子さんが来るというからもっと支度をしておきたかったんだけど」
 麦茶を一口飲んでから、澄江さんは溜息をつく。
「実は最近、膝の調子がよくなくて……階段を上がるのも億劫なの」
 それからテーブルに手をつき、立ち上がろうとした。
 だけど腰を上げた瞬間、痛みを堪えるように息を詰めるのが聞こえ、私は慌てて口を開いた。
「あの、無理はなさらない方が」
「俺がやっておきますよ」
 ほぼ同時に鳴海先輩も言って、それから機敏に立ち上がる。
「それなら私も――」
 後に続こうとした私に、先輩は小さくかぶりを振った。
「二部屋しかないんだから、俺一人で十分だ」
 でも、と私が反論しようとすれば、それを押し留めるように先輩は笑う。
「駅から歩いてくたびれただろう、お前は少し休んでいろ」
 とろけるような優しい笑顔だった。
「はい……」
 それで意識が全て持っていかれた私を置いて、鳴海先輩は単身階段を上がっていく。背の高い後ろ姿はすぐに消え、私は心許なさを覚えながらも床に座り直した。
「寛治さん、すっかり丸くなったわね」
 澄江さんの呟きは先輩には聞こえなかったはずだけど、まるで返事をするように二階からは掃除機の音が聞こえてきた。
「以前はあんなふうに優しく笑うことなんてなかったもの」
 くすくすと少女のように笑う澄江さんに、なぜか私が照れてしまう。
「そうですね、先輩はすごく優しくなりました」
 と言ってから、おばあさんに対してそれは失礼な物言いではないかと気づき、慌てて訂正した。
「あ、以前は優しくなかったというわけでは決して……その、優しさを隠さなくなった、と言いましょうか」
「大丈夫よ、わかるから」
 澄江さんに気分を害した様子はなかった。私は胸を撫で下ろす。
「寛治さんがそうなったのは、きっと雛子さんのお蔭よ」
「そんなことないです」
 次の言葉には首を横に振った。
 もちろん、そうであればいいと思う。私が先輩にいい影響を及ぼし、結果的にいい変化をもたらす存在であれたらと常に願ってはいる。
 だけど鳴海先輩と比べれば、私は当然ながら幼く未熟だ。むしろ私の方が先輩から影響を受け、成長してきた部分が大きいと思う。理想を言えば先輩と共に成長していく、変わっていく私でありたかった。
 だから先輩が変わったのは、もっと広い、周囲の環境によるものだと思っている。
「最近の鳴海先輩は、大学にたくさん親しい人がいるんです」
 私が打ち明けると、澄江さんは驚きながら笑んだ。
「まあ、そうなの? あの子に雛子さんの他にも仲のいい人がいるなんて」
「大学の教授にも気に入られていますし、後輩にも慕われてますし、アルバイト先やサークルでも重用されてて……」
 きっと先輩なら、こんな話も澄江さんに入っていないのだろう。いい機会だとばかりに私は全て喋ってしまうことにした。
「それに、親友のように仲のいい人もいるんですよ」
「へえ……。大学生活は楽しめているのね、よかったわ」
 澄江さんは胸に手を当て、感極まったように目を伏せた。
 遠く離れて暮らしてはいるけれど、この人は確かに先輩のことを深く想い、慈しんでいるのだと思う。
「それで、あの子の一番のお友達は一体どんな人なのかしら」
 尋ねられたので、私は正直に答えた。
「すごく人懐っこくて明るい人です。先輩と同い年で、私から見るとやっぱり二つ年上なんですけど、先輩だけじゃなく私にまでフランクに接してくれて」
 しかし改めて考えると、大槻さんと鳴海先輩に共通点を見いだすのは難しい。年齢と性別以外はまるで対極にあるお二人だというのに、ああも親しくなれたのはなぜなのだろう。私だって友人達とは何もかも似ているというわけではないけど、先輩と大槻さんの交友ぶりを見ていると、水魚の交わりという言葉を連想してしまう。
「何だか想像がつかないわね。寛治さんの、男の子のお友達って……一度お会いしてみたいけど、向こうにお住まいなら無理かしらね」
 澄江さんは困ったように微笑んだ。
 それならと、私は携帯電話を取り出した。
 最近撮影した画像データの中には鳴海先輩と大槻さんが一緒に写ったものもある。それをお見せしたら、澄江さんは喜ぶのではないかと思ったのだ。
「この写真の、先輩の隣にいる小柄な方が、お友達の大槻さんです」

 写真の中には鳴海先輩と大槻さんが並んで写っている。
 先輩は照れているのを必死に隠すような苦笑いで、大槻さんは弾けんばかりの笑顔で、アイドルみたいなポーズまで取ってくれた。本当は先輩にもやってもらいたかったのだけど、それは嫌だと断固拒否された後だった。
 場所は『古本の船津』、結局今年もアルバイトに駆り出されてしまったお二人がエプロンを着けている姿を写真に撮らせてもらった。来年にはもう、お二人とも大学生ではなくなっているから――船津さんは『ちゃんと副業OKの就職先にしたか?』などと冗談を飛ばしていたけど、さすがに本気ではないだろう。多分。
 つまりは大学最後の夏休みにおける、記念写真のつもりだった。
 私は、お二人の最後のアルバイト姿を、思い出として形に残しておきたかったのだ。

「あら、素敵な笑顔の方ね」
 澄江さんは大槻さんをそんなふうに評した。
「ここは、本屋さん?」
「はい、古本屋なんです。先輩や大槻さんや私がよくアルバイトをしているお店で」
「ここがそうなの。寛治さんがどんなふうにお客さんと接するのか、見てみたかったわ」
 一昨年の夏、私も澄江さんと同じように思った。鳴海先輩を以前から知る人はきっと同じ気持ちになるだろう。
 でも、これからは違うのかもしれない。これから先輩と出会う人は、優しさを隠さなくなった先輩を見てかつての冷やかさや苛烈さを想像することもないのかもしれない。それでいいと私は思う。
 これから出会う全ての人が、鳴海先輩のことを素敵な魅力に溢れた人だと思ってくれたらいい。
「写真はいいわね、こうしてその場にいなくても見せてもらうことができるんだから」
 澄江さんはすっかり喜んでくれた。
「そうだ。写真と言えばね」
 それから何か思い出した様子でまたテーブルに手をつき、立ち上がろうとする。その動作はやはりたやすくはなく辛そうだった。私は手を貸すことを申し出たけど、澄江さんは笑ってかぶりを振った。
「立ち上がれさえすれば平気なのよ、階段は辛いけどね」
 言葉通り、居間を出ていく足取りはしっかりしていた。
 澄江さんはそのまま隣の和室へと入っていき、振り返る私を手招きした。私が和室にお邪魔すると、押し入れの下にある引き戸を開け、そこから大きな、古めかしいアルバムを取り出す。
 まるで古い洋書のような、魔法の世界に存在する古文書のような、赤い革表紙のアルバムだった。表紙は箔押しで美しく縁どられていたけど、いくつかの箇所で掠れてもいた。
「これは、寛治さんのアルバムなの」
 私を傍に座らせて、澄江さんは機嫌よく続ける。
「前に寛治さんが、あなたが見たがっていると言っていたの。だから来てもらうことがあったら見せないとって思って。寛治さんは恥ずかしがるでしょうけどね」
 最後の言葉はいたずらっぽく言い添えられた。
 気がつけば、階上の掃除機の音は止んでいた。先輩はまだお掃除の最中だろうか。断りもなくアルバムを見せてもらって、気を悪くしないだろうか。
「大丈夫よ。本当に見せたくなかったら、そもそもそんな話題出さないでしょう?」
 確かにそうだ、と私は思う。
 そして先輩が澄江さんに話を通してくれたことを幸せに思いながら、古いアルバムの分厚い表紙をめくってみた。

 端が黄ばんだアルバムの一ページ目には、ランドセルを背負った少年の写真があった。
 背景はここ、澄江さんが暮らす家の前だ。日差しが強いのか、漆喰の外壁は目が痛くなりそうなほど真っ白だった。その家の前に、小学校低学年と思しき鳴海先輩が立っている。黄色い帽子を被り、ランドセルの肩ベルトに手を添えこちらを見ている。
「これはね、寛治さんが一年生の頃よ」
 澄江さんが説明を添える。
「入学式の後にこっちに引っ越してきたから、入学したての写真がなくってね。一枚撮っておこうと思ったの」
 どうやら鳴海先輩は、小学一年生の頃から澄江さんと暮らしていたらしい。
 親元を離れた寂しさからだろうか、写真の少年の表情は硬い。眩しそうに目を細めながらも口元は堅く引き結ばれている。まだあどけない顔立ちながらも、その表情は確かに鳴海先輩だと思う。薄い唇や尖った顎、それに姿勢のよさも今と同じだった。
 私は何の言葉も口にできないまま、アルバムの二ページ目をめくる。
 次のページにはスナップ写真が四枚並んでいた。どれも場所はこの家の二階にある書斎だ。鳴海先輩は床に足を伸ばして座り、壁に寄りかかって本を読んでいる。およそ子供が理解できそうにない分厚い文学書を開き、真剣な表情で読み耽っているようだ。どこか険しいその表情は今の先輩によく似ていた。ただしこちらは子供がしかつめらしくしているような、背伸びをする愛らしさも感じ取れた。
「寛治さんはね、小さな頃から本が好きだったのよ」
 私に語る澄江さんの口調は、懐かしげだった。
「本を読み出したら静かになるからすぐにわかったわ。私がカメラを構えてもちっとも気づかないんですもの」
 どうやらこのスナップは、先輩の不意を突いて撮影されたものらしい。道理でポーズを決めるということもなければ、本から顔を上げてみせるということもないはずだ。この時の鳴海先輩は少年らしいサスペンダーつきの半ズボン姿で、それが聡明そうな表情によく似合っていた。
 その後も私は澄江さんの解説を聞きながら、アルバムを一ページ一ページ丹念に追っていった。
 鳴海先輩の写真はどれもが先輩一人で写っているものばかりで、そこにご家族やお友達の姿はなかった。学校行事や家以外の場所での写真もほとんどなかった。小学校の卒業式と中学校の入学式だけはあったけど、どちらもにこりともせず写っているのが胸に痛かった。鳴海先輩はこの頃からとても背が高かったようで、中学の制服を着た姿には今の面影がより顕著に宿っていた。繊細そうで感受性豊かな、それでいて生真面目そうな少年の顔だ。
「中学の卒業式はね、こっちの学校じゃないから、写真がないの」
 澄江さんがふと、息をつきながらそう語った。
 写真の貼られたページも、アルバムに半分近い余白を残してここで終わっている。最後の写真はこの家を出る時だろうか、入学式と同じ制服を着て、だけど学校の鞄以外に大きなドラムバッグも肩にかけた先輩が写っている。カメラに向かう表情は今までと同じように笑いの色などなく、どこか悲愴ですらあった。まだわずかにあどけなさが残る面差しが、何かを訴えかけるようにこちらを見つめていた。
 先輩はどんな思いでこの家を、澄江さんの元を去ったのだろう。
 見ているだけで胸が痛くなるような写真だった。
「さっき見せてもらった写真、雛子さんが撮ったんでしょう?」
 黙ってアルバムを閉じた私に、澄江さんは気遣うように語を継ぐ。
「あの寛治さんはちゃんと笑っていたわね。今はとっても幸せなんだって、一目見ただけでわかったわ」
 細い手を私の手に重ね、かすれる声で言った。
「あの子のいい写真を撮ってくれて、ありがとう」
 澄江さんの手は夏だというのに冷たかった。だけどその冷たさこそが、感傷に陥りそうになる私を奮い立たせた。
 今の鳴海先輩が幸せだということは、誰よりも私が一番よく知っているはずだ。
 私にはそれを、知りたがっている人達にきちんと伝える義務がある。
「もしよかったら写真、プリントしましょうか」
 だから私は申し出た。
 澄江さんがきょとんとしたので、一から説明する。
「ケータイで撮った写真も、カメラで撮ったものと同じように現像ができるんです。先輩の写真ならまだ他にもありますし、何だったら後でここにお送りします」
 この家の住所は知っている。向こうへ戻ってからプリントして、澄江さんに送ればいい。
「アルバムのページも残っているみたいですし、新しいものも是非貼ってください。先輩もきっといいアイディアだと言うはずです」
 私の言葉に、澄江さんはしばらく黙っていた。
 その瞳が微かに潤んで、やがて口元には微笑みが戻る。
「やっぱり、雛子さんなんだと思うわ。寛治さんを変えてくれたのは」
「いえ、そんな……」
 そんなことはない、買い被りすぎだと私は思うくらいだけど。
「だって昔の寛治さんなら、写真を撮らせること自体苦手だったはずだもの」
 澄江さんは何かを思い出したように笑い声を立てる。
「でも雛子さんにはたくさん撮ってもらっているんでしょう? それは相手が雛子さんだからよ」
 それは、確かに。
 大槻さんや有島くんが写真を撮りたいと言っても、鳴海先輩はいい返事はしない。もともと写真自体が苦手なのだと思う。それでも私が撮りたいと言えば、最近は快く撮らせてくれるようになった――いつも『交換条件だ』とは言うものの。
 私なら先輩の写真を大切にすると知っているからかもしれない。好きな人の写真が欲しい私の気持ちを酌んでくれているからかもしれない。あるいは私が写真を撮れば、同じように私の写真を撮れると思ってのことかもしれない。
 どれであっても私にとっては嬉しいことだ。
「確かに先輩は、昔と比べても写真を撮らせてくれるようになりました」
 私が認めると、澄江さんは嬉しそうな顔をした。
「そう。寛治さんがそういう人に出会えて、本当によかったわ」
 それから改めて私の手を握る。
「雛子さん、あの子のことよろしくね。寛治さんにはあなたしかいないわ」
 思いがけない強い言葉に、私は一瞬うろたえた。
 だけどここで返事に詰まるようではいけないと、すぐに応じた。
「お、お任せください。私、必ず鳴海先輩を幸せにします!」
「まあ……」
 澄江さんの目に涙が盛り上がったかと思うと、泣き笑いの表情になる。
「雛子さんがそう言ってくれるお嬢さんでよかったわ。だけど……」
 目を潤ませながらも明るい声で、こう言った。
「もしかしたら寛治さんは、下りてきづらくなっちゃったかもしれないわね」
 そういえば、掃除機の音が聞こえなくなってから大分経つ。
 今の会話が聞こえていた可能性もあるだろう。聞かれてまずいというわけではないけど――純粋に恥ずかしいだけだけど、私がそうなのだから先輩は尚更だろう。
 澄江さんの言葉を合図にしたように、鳴海先輩が階段を下りてくる音が聞こえてきた。
 直に階下へ現れた顔は少し気まずげで、私と澄江さんをしばらく見比べ、どちらにどんな声をかけようか逡巡しているようだった。
 だけど結局、私に向かって告げてきた。
「『幸せにする』というのは、本来なら俺が言うべき台詞ではないのか」
 まさかそこに異議が来るとは思わなかった。
 それに以前の先輩なら、こういう時は聞こえないふりをしていてくれたのに。
「わ、私も言いたかったんです!」
 自棄になって言い返すと、鳴海先輩は一層恥ずかしそうに眉を顰め、澄江さんがおかしそうに笑い出す。
「まあまあ、お互いに言い合っていればいいじゃない。恋人同士はそういう気持ちが大事でしょう」
 もっともな意見だと私は思ったけど、それを口にするのはさすがに照れた。
 鳴海先輩も何か言いたそうにしつつ、この場では何も言わなかった。
▲top