Tiny garden

夜をくぐる(2)

 夕方、まだ日が沈みきる前に彼女の家を訪ねた。
 インターフォンを鳴らすと、返事をするより先に玄関のドアが開く。
「先輩、いらっしゃいませ! お待ちしてました」
 顔を覗かせた雛子は大きな瞳をきらきら輝かせており、とてもではないが両親の不在を寂しがっているようには見えなかった。
 しかしその寂しさを俺の来訪がいくらかでも紛らわせたというなら、それこそ本望というものだ。何より俺自身がいささか浮ついた、まさに何か期待でも抱いているかのような心持ちになっているのだから、決して彼女のことは言えまい。
「ああ、待たせたか?」
 電話を貰ったのは昼過ぎだったが、支度で手間取り、夕方になってしまった。念の為に訪ねると、彼女はかぶりを振った。
「急なお願いでしたし、来てもらえただけで十分です」
 彼女は紺色のワンピースの上にくすんだ緑のカーディガンを羽織っていた。残暑が厳しく外の気温はまだ高いが、そういう装いを見ると季節が秋に移り変わったことが如実にわかる。十八歳の彼女もあと一ヶ月で見納めだった。
 大学に入ってからというもの、彼女はぐっと大人びたように見えていた。だからこそ今日の誘いには戸惑ったわけだが――。
「来てもらえて本当に助かりました。どうぞ上がってください」
 雛子はこちらに手を伸ばし、俺の手を握った。小さな手は程よく冷たく、触れられると心地よかった。そしてそれほど力を込めずに俺の手を引いたかと思うと、素早く玄関の中に引き入れた。
 背後でドアが閉まると彼女はすぐさま施錠をして、それからまだ靴を履いたままの俺に抱きついてきた。
 まるで縋るようにしがみつかれ、俺は面食らい、彼女の身体を受け止めながら声をかける。
「どうした、雛子」
 見下ろす視界で彼女が面を上げる。ほのかな照れ笑いを浮かべている。
「いえ……先輩が来てくれて、すごく嬉しいなって思ったんです」
 殊勝な言葉にこちらが戸惑った。彼女もやはり、浮かれているのだろうか。
「お前のたっての頼みだからな」
 嘘ではないが、それにしても芸のないことを言ったと思う。
 それをどう思ったか、雛子はくすっと声を立てて笑った。
「先輩は本当に頼りになる彼氏です」
「何を言う、この程度のことで持ち上げるな」
「嘘でも冗談でもないですよ。さあ、今度こそ上がってください」
 言いたいことだけ言ってしまうと、彼女は俺から離れた。履いていたサンダルを脱いで上がり框に乗せた足は裸足で、丸く浮き上がったくるぶしときゅっと締まった足首の白さが目についた。
 その後を追って靴を脱ぎながら、俺はよくわからない緊張感から思わず深呼吸をした。

 別に疑っていたわけではないが、彼女の家には本当に彼女しかいなかった。
「まだご飯には早いですよね。よかったら、私の部屋へ行きませんか?」
 雛子はそう言うと廊下の先にある階段を指差す。
 過去の二度の訪問では、俺は訪ねていくなり一階の居間へと通された。彼女の部屋が二階にあることは聞いていたが、どういった部屋で暮らしているのかは見たこともなかったし、彼女から説明を受けてもよくわからなかった。実を言えば女の部屋に入ったことがないのだ――仏壇のある澄江さんの部屋を除いては、一度として。
 おかげで彼女の後について階段を上がる間、俺はどんな顔をしていればいいのかわからず、ひたすら唇を引き結んでいた。
 こんな時にちらりと、大槻のことが脳裏をかすめた。あいつは女の部屋にも行き慣れているのだろうから、こういう場合でも案外平然としているのだろう。色仕掛けに引っかかったというあの晩も、女の家に入るまでは割と平静を保ち、下心など露とも匂わせずにいたのかもしれない。
 階段を上がりきった先には二部屋あった。この辺りは澄江さんの家と同じだ。雛子はそのうち一部屋のドアを開け、俺に先に入るよう促してきた。
「どうぞ、先輩。散らかってますけど」
 その言葉とは裏腹に、雛子の部屋は思いのほかきれいに整頓されていた。フローリングの床には物が落ちていることもなく、差し込む夕日につややかに輝いている。
 入ってすぐに目についたのは戸口から見て右手側、壁際に寄せて置かれている本棚だ。俺の部屋のものよりも大きく、高さは俺の背丈ほど、横幅も一メートル近くあった。棚の各段には彼女の愛読書が文庫本、単行本、絵本とそれぞれ分類されて収められており、文庫本は更に出版社ごとにまとめて、作家名で五十音順に並べてある。その並びは街中の書店と見紛うほどの壮観さで、雛子がこと文庫本にこだわる理由が垣間見えたようだった。
「お前から本を借りたことはあったが、本棚を見せてもらうのは初めてだな」
 俺は先程までの緊張も忘れ、彼女自慢の本棚に見入った。雛子は俺の隣に並び、少し誇らしげにしている。
「先輩のお好みに合う本もあるといいんですけど」
 雛子が揃えている本はやはり彼女好みの作品ばかりだった。海外の児童文学を中心に欧米の文学作品が並び、ミステリは古典がメイン、現代文学も児童向けかそうでなければエンタメ系が多く、その他に童話や絵本が並んでいる。そうかと思うと最下段にはファッション系の雑誌と思しきものが数冊入っており、女らしさも密かに窺えた。
 本棚より奥、戸口の真向かいの位置には机と椅子が配置されている。机は天板を折り畳んで閉じることのできるライティングデスクで、明るい白木材に合わせてか籐編みの椅子が添えられている。今は天板を閉じ、中は見えないようになっていた。雛子はその椅子を引くと、本棚の前に置き、俺に勧めてきた。
「よかったら座ってください、先輩」
「気持ちはありがたいが、一つしかないんだろう? なら俺は床でいい」
 答えて俺は部屋を見回す。個人の居室に椅子を二脚を置いておく理由があるはずもなく、椅子はそれ一つきりだった。
 他に目につくものは机の並びにある大きな窓と、その真下、壁に寄せて置かれたシングルベッド。そして部屋の一番奥にあるかがみつきのワードローブくらいのものだった。ベッドも同じく白木の素材でできており、ベッドカバーは予想がついたがきれいな水色だった。見れば、まだ引かれていない窓のカーテンも同じ水色だ。
「私はこっちに座りますから」
 雛子は椅子を置くと、自分はそのベッドの上に腰を下ろした。水色のベッドカバーが柔らかい水のように彼女の体重を受け止め、沈み込む。スプリングの軋む音がやけに響いた。
「机に向かわない時はここに座って読むこともあるんです。いえ、たまに寝転んでも読みますけど、とにかく本を読むには最適の場所で……」
 話しながら次第に早口になっていく彼女は、まだ突っ立っている俺を見上げている。初めは微笑んでいたその顔が、今は失策に慌てふためき狼狽しているように映った。
 俺はと言えば、雛子がベッドに座ったことに同じく動揺していた。
 何を意識しているのかと言われればそれまでだが、自分のテリトリーではない場所というだけで自然と緊張してくるものだ。ここが俺の部屋であれば気にせずその隣にでも腰を下ろすところだが、彼女の部屋の物は何もかもがきれいで手を触れがたい。その水色のベッドに座るのも、先に座っている彼女に手を伸ばすのも何となくためらわれた。
 そういえば、一つ気になっていることがある。
 今夜、俺はこの家に泊まる予定だが、一体どこで就寝すればいいのだろう。
「……あの」
 二人きりしかいない家の中、どこか暑苦しい沈黙を押し破るように雛子が言った。
 尚も立ち尽くす俺を気遣わしげに見て、少し赤い顔で続けた。
「べ、別にいいですよ、こっちに座っても。先輩のよりも狭いですけど」
「ああ」
 俺は素直に頷き、しかし誘われたのにむげにもできないと彼女の隣に腰を下ろした。水色のカバーをかけたベッドがより沈み込み、静かな家の中で一段と大きな音を立てて軋む。音を立ててしまったことが何やら気まずかった。
 隣に座ると雛子は俯き、恥ずかしそうに続けた。
「あの、本当に狭いので……ごめんなさい」
 彼女は詫びたが、シングルサイズとは言え二人で並んで座る分には窮屈でもない。肘が擦れ合わない程度に距離を置くこともできた。
「それほどでもない、気にするな」
 俺が首を横に振ると、雛子は溜息と共に言った。
「で、でも、二人で寝るにはちょっと狭いかななんて思うんですけど」
「……それはまあ、そうだな」
「でももしよかったら、一緒に寝て欲しいなって……」
 そこまで言うと、彼女は頬を赤らめながらもこちらの反応を窺うように視線を上げた。
 色白の彼女は頬に血が通うと、首筋までほんのりと色づくのがよくわかる。きめ細やかでなめらかな皮膚は当たり前だが継ぎ目などなく、頬を辿って首筋、そこから更に下、服に隠れて見えないところまで続いている。一瞬だけ視線を這わせた俺は、彼女が俺の目の動きを注視しているのに気づき、すぐにその顔へ向き直った。
 下心や淡い期待がないと言えば嘘になる――と言うより嘘でしかなくなる。だが一方で純粋な興味もあった。
 彼女の寝顔を見ながら眠りに就き、二人で夜をくぐるのは、一体どんな気分がするものだろう。
 思えばこれも初めてのことだった。
「お前と一緒に寝たら、さぞかしいい夢が見られそうだな」
 俺はそういうふうに答えた。
 歯の浮くような台詞だと思ったが、少なくとも嘘ではなかった。
 たちまち雛子が表情をほころばせる。
「いいんですか、先輩」
「俺は構わん。ただ、夜中に窮屈で寝られないとなっても俺を突き落とすなよ」
「そんなことしません。先輩が壁際でいいですよ」
「なら、俺がお前を追い出さないよう気を配らないとな」
 どちらにせよ安眠できる夜にはなりそうもない。俺が笑うと、雛子は急に弾かれたように立ち上がった。
「じゃあ私、そろそろご飯を作ってきます」
「もう? さっきはまだ早いと言っていただろう」
 俺は思わず腕時計を見た。時刻は午後五時を回ったところだ。夕飯の支度をするのに早すぎるということはないが、俺がここへ来てからまだ三十分も経っていない。
 しかし雛子はどこか落ち着きなく視線を泳がせ、小声で答えた。
「ほら、私、作り慣れてないですから。ちょっと早めに作り始めようと思って」
「そうか、わかった。何か手伝うことはあるか?」
「ないです。先輩はもう少しゆっくりしててください、好きな本読んでいいですから」
 手伝いを申し出た俺に両手を突き出してみせると、雛子はあたふたと踵を返し、部屋を出て行った。
 階段を下りていく軽快な足音を聞きながら、逃げられたような気がする、と内心思った。

 俺はその後しばらくの間、彼女の部屋に留まった。
 だが主不在の部屋というのはどうにも落ち着かぬものだ。本棚の本を数冊手に取ってはみたものの、じっくり読書に没頭できるような環境ではなかった。彼女が好きな水色のカバーがかけられたベッドには、先程まで二人で並んで座っていた痕跡がまだ残っている。ライティングデスクの上には真鍮のフォトスタンドと並んでガラスの小瓶が置かれており、瓶の中に見覚えのある透明なガラス玉がいくつか収められていた。部屋の中はほんのりとした甘い香りに満ちていて、ここで彼女が日々を送っているのだとその香りだけでわかるようだった。
 雛子がこの部屋でどんなふうに日常を送っているのか、それは想像力をもってしてもなかなか見えてこないものだった。俺の部屋ではいつも行儀よく座って本を読む雛子が、自室ではベッドに寝転がって読書をすることもあるというのだからますますイメージできない。俺が時折、自室で彼女のことを想うように、彼女もまたこの部屋で俺について考えることがあるのだろうか。
 そういう想像を巡らせるのに忙しく、読書どころではなかった。
 やがて俺は健全な読書を諦め、本を本棚へ戻した。ちょうど階下からカレーを煮込んでいると思しきいい匂いが漂ってきたので、覗きに行ってみることにした。
 確か台所は居間の奥にあったはずだ。階段を下りた俺が居間のドアを開けると、奥の方からはぐつぐつと鍋の煮える音が聞こえてきた。そのまま足を進めると、ガス台の前に立つ雛子が気配に気づいて振り返る。俺を見て可愛らしくはにかんだ。
「あ、先輩。お腹空きましたか?」
 何でもない問いかけと笑顔だったが、なぜか胸に響いた。
「……いや、様子を見に来ただけだ」
 俺は一呼吸置いてから答え、そして台所の中へと立ち入った。
 雛子は以前アルバイト先でも使用していたデニムのエプロンを身につけ、ゆっくりと鍋を掻き回していた。カレーは既にほぼできあがっているようで、ややもったりとしたカレーの中にじゃがいもやにんじんが浮いているのが見える。
「中辛にしたんですけど、大丈夫ですよね?」
 彼女がそう言って、流しの横に置かれた空の箱を指差す。開封されたその箱はカレールーが入っていたものだった。よくスーパーで見かけるパッケージだった。
「ああ。甘いカレーはさすがにな」
「そうですよね。やっぱりカレーはちょっと辛くないと」
 俺が答えると彼女は笑い、それからキッチンラックに置かれた炊飯器を振り返って確かめる。まだ炊飯のランプが点る炊飯器からはもうもうと蒸気が噴き出していた。
「ご飯もそろそろ炊ける頃だと思うんですけど。ご飯、何時にしましょうか」
「お前の都合に合わせる。俺はいつでもいい」
「じゃあ炊けたら食べちゃいましょうか」
「そうだな」
 彼女の言葉に俺は頷いた。
 そしてどうも手持ち無沙汰だったので、先程尋ねたことをもう一度尋ねてみる。
「何か手伝うことはないか? 黙って待っているのも落ち着かない」
「黙って待っててもいいんですよ、先輩はお客様なんですから」
「そうは言ってもな……言ってくれれば何でも手を貸す」
 俺がしつこく申し出たからだろう。雛子は少し考えてから、台所に立つ両開きの冷蔵庫を指差した。
「じゃあ、野菜室にあるレタスを洗って、ちぎってもらえませんか。サラダも作ろうと思ってたんです」
「わかった」
 手を洗った俺は、雛子の指示通りに冷蔵庫の野菜室を開ける。よその家の冷蔵庫を覗くのは初めてだったが、二泊三日という旅行だからか、あるいは雛子という留守番がいるからか、野菜室は空っぽではなくにんじんや玉ねぎやキャベツなどがそれなりに収められていた。そのうち、薄いポリ袋に包まれたレタスを取り出して、まず芯を抜く。それから流しに立って流水で洗いながら、葉を一枚一枚剥がしていく。
 レタスを洗う俺の隣では、雛子が包丁を使ってトマトをくし切りにしている。手早いというほどではないが手つきは危なげなく、安心して見ていられた。
 それで俺は、ふと去年の旅行中の出来事を思い出す。
 あの時は頑なに彼女に包丁を持たせることを拒んだが、今ならそんなことを言えばかえって失礼になりそうだ。
「包丁の使い方がいいな。練習したのか」
 俺が誉めると、雛子は一度手を止め、俺に向かって瞠目した。それからどこか拗ねたように苦笑する。
「先輩、私はもう大学生ですよ」
「なら、包丁くらい使えて当たり前ということか」
「そうです。これからもっと上手くなって、いっぱいごちそうしますからね」
「楽しみにしていよう」
 得意げな彼女の物言いがおかしく、俺は笑いながら水を止めた。
 レタスの葉をざるに上げた時、トマトを切り終えた雛子がこちらを向いて、じっと俺を見る。その後であえて目を逸らし、伏し目がちにしながら呟いた。
「去年、澄江さんにも言われましたけど……こうして二人で台所に立ってると、ここが私達の家みたいですね」
 俺が見下ろす中、彼女がもじもじと恥じらいながらも語を継いだ。
「何て言うか、新婚さんみたいだなって……」
 駄目押しのようにそこまで言っておきながら、雛子は自分で恥ずかしさに耐え切れないというように俯いた。
 そのくせ俺が黙って見守っていると、少し不服そうに言ってくる。
「何か言ってください、先輩」
 自分で好き放題言っておいて、こちらに不意打ちで返答を求められても困る。それも堂々と言えばいいものを、妙に恥ずかしがっているものだからこちらまで照れてくる。
 俺は嘆息し、俯く彼女のつむじを見下ろして答えた。
「夢を見たくなるな、お前といると」
 夜に見る夢だけではなく、今までは手が届かなかった未来さえ掴めるような気がする。
 これまで目の当たりにしてきた『結婚生活』は夢も希望もないものばかりだったから尚更だ。
「しかし俺達が結婚したら、一体どちらが毎日の食事を作るんだろうな」
 我ながら気の早い想像だと思ったが、彼女に釣られて甘いことを言いたくなった。
 すると雛子はにわかに表情を引き締める。
「それはあの……もっともっと練習しますから!」
「たまには俺も作りたい。交代制でいいと思うがな」
「そうですね、私の作る時だけ見劣りするということがないようにしたいです」
 決意を湛えた雛子の面立ちに、俺はやはり笑いたくなる。
 おかしいというのではなく、何だか無性に幸せだった。
 いつから俺は、気の早い未来を想像して笑えるようになったのだろう。
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