Tiny garden

夜をくぐる(1)

 以前、大槻が俺にこんな話をしていた。
「知り合いの女の子に『今日、うちに親いないの』って言われてさ」
 暑い夏をやり過ごす為に俺の部屋で飲んだ、その時に聞いた。
 まだ酔っ払ってもいない大槻は、あくまでも昔の話だと念入りに前置きした上で語り始めた。
「『だからうちに来ない?』って目うるうるさせながら誘われたんだよね」
 オチを言う前から苦笑している辺り、顛末はおおよそ察しがついた。だが俺は黙って聞いてやることにした。
「そう言われたら普通、期待するじゃん? 何かいいことあるかなってさ」
 淡い期待に胸を膨らませてのこのことついていき、その女の自宅に足を踏み入れた大槻を待っていたのは、一夜の恋でも甘美な一時でもなく、なぜか動かなくなったパソコンだったという。
「何それって思った俺に、その子が言った台詞が『何にもしてないのに動かなくなっちゃって……』だよ」
 自分の体験談だというのに、そこで大槻はげらげらと声を上げて笑った。
「要はパソコン直してくれる男手が欲しかったんだって。酷い話だよね」
「酷いも何も、女の方は端からそのつもりで声をかけたんじゃないのか」
 俺が口を挟むと大槻は手をひらひらと振った。
「違うね。俺を家に連れてくる前まではパソコンのパの字も出なかったんだから」
「なら、お前は色仕掛けで引っ張られて、そのまま無料で修理をさせられたということか」
「そういうこと。結局夜中までかかってようやく直ったんだけどさあ」
 思い出すと腹が立ったのか、あとの言葉は実に憎々しげに続いた。
「直ったら『よかったあ、ありがとね大槻!』なんて笑顔で言われて、かといってお礼の言葉以外の何の報酬もなく、そのまま電車も止まった夜の街へと追い出されたわけですよ。酷くない?」
「それは酷いな」
 大槻の失敗談には自業自得のケースも多いのだが、これは同意を示してもいいと思えた。
 無論、女に声をかけられた程度で期待して家まで出向く奴は阿呆だと言わざるを得ないし、いくらなんでも過度に期待をしすぎだろう。鼻の下を伸ばして二つ返事でついていく顔が目に浮かぶようで実に哀れだ。だが無料で働かせておいて、終電後の街へ大槻を追放した女の所業も許されるものではない。そもそも最初から『パソコンが壊れたので直して欲しい』と頼めばいいのにそうしなかったのは、正直に言えば大槻が食いつかないと思ったからなのだろう。詐欺のような話だ。
「せめてタクシー代でも出してくれれば、ちょっとがっかりする程度で済んだんだけどなあ」
 そう言って力なく笑った後、大槻は俺の顔を見て言った。
「まあ、鳴海くんは雛子ちゃん一筋だし、俺みたいに騙される機会なんてないだろうけど」
「当たり前だ」
 このご時勢に、恋仲でもない女に声をかけられてのこのこついていく方が間違っている。
 俺の場合、雛子以外に誘いをかけてくるような女が存在するとは思えないが、万が一いたとしても俺はその誘いをきっぱりと断ることができる。なぜならその点については身内にとてもいい反面教師がいるからだ。ああはなるまいと思える父親を持って、全く幸せなことだ。
「でも男なら誰でも一度は遭遇する話だからね。君も他人事だとは思わない方がいいよ」
 大槻の警告を、俺は鼻で笑った。完全に他人事だと思っていた。
「俺はないな。あるはずがない」
「わかんないよ、君を利用しようと声をかけてくる命知らずな女の子がいるかもしれない」
「いても当然拒絶する。いちいち真意まで確かめる必要もあるまい」
「是非そうして欲しいね、雛子ちゃんの為にも」
 もっともらしい口調で、言わずもがなのことを言う。
 まさかそんな念押しをする為にこんな与太話を打ち明けてきたのだろうか。訝しく思い、俺は逆に尋ねた。
「しかし、なぜそんな話を俺にした。俺にはまず縁のない話だとわかっているだろう」
「いや、思い出したら何かむかむかしてきたからさ」
 大槻は言葉の割に、妙に愉快そうに答えた。
「どうせなら酒のつまみにでもしてやろうと思って。面白かっただろ?」
「面白いだと? むしろ腹立たしい話だった」
 友人の失敗談を酒のつまみにするような感性は持ち合わせていない。だが大槻はこういった失敗談や自虐的な打ち明け話を好んでいるようで、俺と酒を飲む時もよくそういった話をした。奴が話したがっていることをいちいち制止するのも野暮かと、言いたいことは言わせてやるようにしていた。
 俺の率直な感想に、大槻はきょとんとしてから破顔した。
「そっかあ。じゃ、君の書いてる小説のネタにでもしてよ」
「俺はそういう話は書かない」
 少なくとも、女に誘われて深く考えもせずについていくような軽薄な男を書く気にはならない。そもそも色恋沙汰は創作の題材として未だ興味の範疇外だ。こちらはなかなか、他人事だと割り切ることができないからだ。
 一応断ったのだが、大槻は妙にはしゃいで食い下がってきた。
「今の君なら恋愛小説の名手になれそうだけどな。何なら俺、モデルになってもいいよ!」
 俺の書いたものを読んだこともないくせによく言う。
 当然のことながら大槻をモデルにするどころかネタにすることもないまま、奴の体験談は俺の記憶に埋もれたまま月日が流れた。

 そして九月の連休初日、昼過ぎに電話をかけてきた雛子は挨拶の後で切り出した。
『先輩、実は今日、両親が家にいないんです』
 それを聞いて真っ先に大槻の与太話を思い出すのも癪なことだが、しかし胸を過ぎる既視感はどうしようもない。
 どこかで聞いたことのある話だと、まず思った。
「……そうか」
 お蔭で何とも言えない相槌しか打てなかった。
 雛子が俺を騙す、あるいは色仕掛けで利用するなどという可能性があるはずもない。彼女は頼みたいことがあればその旨を俺にはっきりと告げてくる。時に可愛くも強情なわがままを言うことすらある。俺達の間に大槻が食らったような詐欺めいた手管は不要のはずだった。
 だから彼女がそう言い出したのには何か別の意図があるのだろう。
『実は、両親がうちの兄の……ほら、以前兄が連れてきた彼女さん、栞さんのご実家に挨拶に伺うことになって、今日から三日間留守にするんです』
 果たしてその意図とは何か。とっさに思い浮かばないのは少しばかり混乱しているせいかもしれない。かつて大槻を惑わせたその台詞を、俺もまた同じように聞くことになるとは想像だにしなかった。
 話を聞く間にあれこれと思案を巡らせていると、やがて電話口の雛子が怪訝そうな声を発した。
『あの、先輩? 今、話していても大丈夫ですか?』
 彼女を戸惑わせるほど長く黙考に耽っていたようだ。俺は慌てて返事をした。
「ああ、悪い。聞いていたから続けてくれ」
『はい。それでですね、よかったら今日、うちに来て欲しいんです』
 既視感がより一層募る。
 大槻の言ったことも一部は正しかったのかもしれない。男なら誰でも一度は遭遇する話、他人事だとは思うな、と。
 しかしこの場合はどういった話になるのだろう。
「俺が? 何か用でもあるのか?」
 聞き返すと、なぜか雛子は一瞬言葉に詰まったようだ。
 直後、微かに笑いを滲ませた声で応じた。
『も……もしよかったらなんですけど、一晩でいいので、泊まりに来てくれませんか?』
「はあ?」
 今度は俺が面食らった。
『ですからその、うちに泊まって欲しいんです。私の他には誰もいないんです』
 念を押すように彼女が繰り返す。
 彼女の家を訪ねたことは過去に二度あった。だがどちらも食事をごちそうになっただけでお暇した。それは学生という身分、そしてまだ恋人同士に過ぎない雛子との関係を考えれば至極当然のことだと思う。
 だから彼女が誘いをかけてきた事実には戸惑いを覚えた。お互いにまだ学生同士、まして雛子自信は未成年だというのに、家に恋人を招いて泊まらせるというのはいささか出すぎた行動ではないだろうか。
 何よりも引っかかるのは、彼女の両親の不在という点だ。
「その件について、お前のご両親は何と仰っているんだ」
 俺は最も気がかりな点を尋ねた。
「お前のご両親が留守番を俺に頼むとは思えんが、何か考えがあってのことなのか?」
 すると雛子は細く息をつき、意を決したように言った。
『ええと……両親には秘密なんです。多分、言えばいい顔はされないかなと……』
 やはりそうか。俺は得心した。
 事実がご両親に知れれば、いい顔をされないどころの話ではない。いくら一度挨拶をしているとは言え、俺達はまだ婚約も済ませていない身だ。ご両親の不在を狙ったかのように家へ入り込むのは感心されざることだろう。
『駄目、ですか?』
 雛子がおずおずと確かめてきたので、俺は正直な心情を打ち明ける。
「そうだな。いいことだとは思えん」
『両親には決してばれないようにしますから』
「ばれなければいいという問題でもないだろう。ご両親の気持ちになって考えればわかることだ」
 自分達のあずかり知らぬ間に赤の他人が家に上がり込む。これをいい気分で受け入れられる人間の方が稀だ。
 秘密にすると言っている以上、雛子もまたその行動が正しくないことをちゃんと理解しているのだろう。
『そうですけど……』
 雛子は一気に萎んでしまった声で言った。こちらを窺う、上目遣いの表情が浮かんでくるようだった。
『だって、一人で留守番なんて寂しいじゃないですか』
「お前は何を言ってるんだ、十八にもなって」
 あと一ヶ月もすれば十九になる女が、独りぼっちの留守番が寂しいなどと幼いことを言う。俺は笑ったが、彼女は笑わなかった。
『それは、先輩はずっと一人暮らしですから、夜に一人でいるのも慣れっこでしょうけど』
 慣れるも何も、あの家を出て一人暮らしを始めた時は実に清々したものだった。実家への愛着などなきに等しく、むしろ一刻も早く出ていきたいと思って暮らしてきたのだから仕方がない。
 だがそう考えると、雛子が寂しさを訴えるのもわからなくはない。彼女は両親に、そしてお兄さんにずっと慈しまれて育ってきた。あの暖かな光の点る家にはいつも一家の団欒が存在していたはずだ。一人きりで過ごすには広すぎる、空っぽになった家の中で迎える音のない夜は、孤独に慣れていない彼女にとってたまらなく寂しいものなのかもしれない。
『私は、夜の間も一人なんてそうないですから』
 雛子はぼそぼそと続けた。
『明るいうちはいいですけど、暗くなったらちょっと心細くなるかなって……』
 縋るような口調だった。
『だから最初の夜だけでも、先輩に傍にいてもらえたらって……思ったんです』
 いつになく気弱な物言いをされて、俺の心もさすがに揺れる。
 俺が推し測る彼女の寂しさも結局は想像の産物だ。まともな家族がいなかった俺にとって、彼女が抱く心情そのものを理解することは難しい。だから雛子がどれほど心細い思いでいるのか、これから迎える夜にどれほど恐れを抱いているのか、わからないのがもどかしかった。
 もうすぐ十九とは言ったが、それでもまだ十代だ。真っ当な家庭に育った十代の人間は、家族の留守に不安を抱くものなのかもしれない。孤独に慣れていないのなら尚のことだ。
 何より雛子が、俺の知らないところで心細さに震えているのかと思うと胸がざわついた。俺が手を差し伸べることで彼女が安らかな夜を過ごせるのなら、一晩くらいは付き合ってやるべきだ。そう思った。
「わかった」
 しばらく思案に暮れた後、俺は口を開いた。
「お前がそこまで言うなら、今夜は付き合おう」
『本当ですか!』
 彼女が急に張りのある声を上げたので、思わず携帯電話を耳から離す。
「あ……ああ。一人では不安なんだろう?」
『はい! でも先輩が来てくれるなら嬉しいですし、きっと大丈夫です!』
 これが先程まで寂しさを訴えていた人間の声だろうか。随分とはしゃいでいるように聞こえる。
「お前、本当に心細かったのか?」
 思わず確かめる俺に、雛子は気を悪くすることもなく答えた。
『そうですよ。先輩が来てくれなかったらどうしようって思っていました』
「……そうか、わかった」
 恐らく安堵のあまり気が緩んだ結果が、今のはしゃぎようなのだろう。そういうふうに思って自らを納得させた。
「ところで、何か持っていくものはあるか?」
 一晩を彼女の家で過ごすとなれば、夕飯も向こうで食べることになるのだろうし、寝間着だっているはずだ。
 俺の問いに、雛子は考えながら答える。
『ええと……本はうちにもいっぱいありますし、着替えとパジャマくらいですかね』
「そんなものでいいのか? 夕飯はどうする?」
『あ、それは私が作ります。カレーをごちそうしますって前に言いましたよね』
「お前が作るのか、楽しみにしておこう」
 以前、海水浴に出かけた際にそういう話をしていた。いくらか自信がある様子だったので、恐らく任せても平気だろう。
『あとは……そうだ、歯ブラシと髭剃りはうちにないので持ってきてください』
 雛子が更に続けた。
 歯ブラシはともかく、彼女から髭剃りという品名が挙がったのは意外だった。お兄さんがいるからだろうか。
「俺は毎日は剃らないな。髭剃りも必要ないだろう」
 そう応じると雛子はいたく驚いたようだった。
『先輩は、お髭伸びないんですか?』
「全く伸びないとは言わんが、今のところはそれほどでもない」
『うちの父と兄は毎日剃っていたので、大人の男の人は皆そうなのかと思ってました』
「皆ではないな。去年、旅行をした時だって剃っていなかっただろう」
 彼女の素直な反応が面白く、俺は少し笑った。
 だがよくよく考えてみれば、去年の旅行の際にはお互いまんじりともせず朝を迎えていたはずだ。あの時の雛子に俺が髭を剃っていたかどうか、気にする余裕があったとは思えなかった。
 そうか、あの時以来か。二人で夜を過ごすのは。
 今更のような実感が湧き起こり、途端に妙な気持ちになってくる。よくわからない期待が自然と高まり、胸が躍った。まるで今夜、彼女の家へ、楽しいことでもしに行くような気分だ。
 しかし、俺はあくまで一人で留守番ができないという雛子の付き添いとして彼女の元へ行くのだ。浮かれるのはおかしい。慌てて気を引き締めた。
『じゃあ、歯ブラシだけはお忘れなく。あとパジャマも、私のは着られないでしょうし』
 雛子も楽しそうにくすくす笑い、それでは家で待ってます、と言い残して電話を切った。

 その後、俺は自室で荷物をまとめた。
 去年の旅行と比べれば持っていくものはそう多くない。着替えは必要最低限で済んだし、寝間着代わりにTシャツとジャージを持った。歯ブラシも忘れずに鞄に入れた。携帯電話の充電器については一瞬迷ったが、彼女といる時は電源を切っておけばいいのだし、持っていかないことにした。
 そういった準備の間にも妙に気が逸るのを自覚して、一人密かに面映さと格闘していた。
 俺は何を浮かれているのか。今回のは楽しみにしていいようなことではないはずだ。
 頭ではそう思っても浮つく気分はいかんともしがたく、俺はかつての大槻に、ほんのわずかだが共感と同情を抱いた。
 だからと言って別に、色仕掛けに食いついてしまったというわけではないのだが。
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