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読書家の休日(2)

 雛子の言葉通り、海の水はややぬるめだった。
 波打ち際からざぶざぶと二、三歩踏み入れば、すぐにふくらはぎ辺りまでがぬるい海水に浸かる。雛子は俺の手を引きながら更に数歩先を行き、膝まで浸かる辺りでようやく立ち止まった。
 そして振り向くなり俺の手を離したかと思うと、身を屈めて両手で水を掬い、俺の方へと浴びせかけてきた。
「えいっ」
 彼女の掛け声は照れてでもいるのか控えめで、掬われた海水の量も少なめだった。避けるまでもないと棒立ちでそれを受け止めた俺の脚に、少しだけかかった。
 どう反応していいのかわからずにいると、雛子が表情を綻ばせる。
「ご、ごめんなさい。こういうの、海に来た時のお約束かなって……」
「子供みたいなことをするんだな」
 呆れたわけではないが、彼女らしからぬ行動だと思った。普段なら俺に向かって水をかけるなど考えられないことだ。だからと言って嫌な気がしたわけではなく、むしろその行動の突飛さをおかしく思う。
「でも、海には遊びに来たんですよ」
 雛子はそう言い張って、再び身を屈めた。また両手で水を掬おうとする。
「先輩もたまには童心に返ってみてはどうですか?」
 そして俺に対し、今度は先程よりも力を込めて水しぶきを放った。今回も避けるまでもなかったが、放物線を描いて宙を飛ぶ水滴が太陽の光を浴び、いやに眩しく映った。
 童心に返れと言われても、俺にはこんなふうに誰かと水を浴びせ合ってはしゃいだ覚えはない。風呂にも早くから一人で入ってきたし、水遊びをしたこともなかった。
 だが幸いなことに、現在では俺に遊び方を教えてくれるいい手本がいるのだ。卑屈になる必要はなかった。
「わかった。お前の真似をすればいいんだな?」
 俺は答えた直後、彼女に倣って両手で海水を掬った。雛子の小さな手よりも遥かに多い水を掬える俺の手から、彼女めがけて思いきり水を撒いてみる。眼鏡が濡れては困るだろうから顔にはかからないよう、剥き出しの腹の辺りを狙った。
「えっ、先輩? ――きゃっ」
 こちらの行動が予想外だったと見え、雛子は両手を前に出して防御をするのが精一杯だった。そして俺が放った水飛沫がざばりと彼女の肩を打つと、雛子はやけに嬉しそうに顔を緩めながらも口ではこう言った。
「何するんですか、先輩!」
「お前の真似をしただけだ」
 我ながら憎々しい回答だと思ったが、あえて敵役を演じるべくそう答えた。
 すると雛子はますます嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
「先輩がそう来るなら、私だって容赦しませんよ!」
「やってみろ。返り討ちにしてやる」
 俺はふてぶてしく応じ、彼女が水を掬うより素早く、海水を力いっぱい撥ね上げてやった。もちろん今回も顔にはかからないようにしたが、両手を海面につけていた雛子は反応が遅れ、真新しい水着をまとった身体が一瞬にして海水に濡れた。
「わあっ! 先輩酷いです!」
「断じて酷くない。先に仕掛けたのはお前じゃないか」
 反論しながらも水をかけ続けたからか、雛子は早々と抵抗を諦めたようだ。身を翻すや否や大慌てで逃げ始めた。
「わ、わかりました! 私の負けでいいですから、降参です!」
 甲高い声で喚きながら、海の深い方へと彼女は駆けていく。彼女の脚が海中を進む度に光の粒のような水飛沫が宙を舞い、結い上げた長い髪が揺れた。
 駆け足とは言っても水中の話だ、追いかけて捕まえるのはたやすかった。だが本気で追いかければ彼女はもっと慌てて逃げていくだろうし、決して歩きやすいとは言えない海の中で無闇に走らせるのは危険だ。だから俺もほどほどのスピードで追いかける。
 それでも、逃げ惑う彼女を追うのはなかなか楽しいものだった。捕まえたらどうしてやろうか、あれこれと考えを巡らせたくなる。
「少し降参が早すぎるんじゃないか、雛子」
 離れていく白い背中を煽ろうと、俺が声を上げ呼びかけた時だ。
 こちらを振り返ろうとした雛子が転んだ。
「きゃあっ」
 悲鳴を上げながら前のめりに海へと突っ込んだ。
 幸いこの辺りはまだ深くもなく、転んだところで両手を海底につけば顔も濡れないような浅さだった。だが一際大きな水飛沫が上がったし、何より俺がひやりとした。
「大丈夫か!」
 急いで駆け寄ると、雛子は四つんばいの姿勢で顔だけ上げ、情けない笑みを浮かべる。
「こ、転んじゃいました……」
「急に声をかけて悪かった。怪我はないか?」
「全然ないです。と言うか、浮かれていた私の不注意ですから」
「それも否定はしないが、ともかく早く立て」
 俺は彼女の肩を支えるようにして立ち上がらせた。
 雛子は眼鏡のブリッジを指でつまみ、一旦顔から少し離すと、レンズの表面に付着した水滴を振り落とす。そうしなければ視界が不自由になるのだそうだ。
「よかった、あんまり濡れてないです」
 ほっとした様子で呟いてから、眼鏡をかけ直した雛子が続ける。
「海に来たんですから、そろそろ普通に泳ぎましょうか」
「その方がよさそうだな」
 俺も素直に頷いた。

 それから俺達は、水深のもう少し深い辺りへと進み、彼女の言うように普通に泳ぎ始めた。
 俺は泳ぎがあまり得意な方ではないが、雛子は自分の肩が浸かるくらいの深さでもすいすいと泳いでみせた。
「何でしたら私が手を引きましょうか、先輩」
「そこまで酷くはない」
 雛子は俺があまりにも泳げないようなら、手を引いてバタ足の練習をさせるところから始めようと考えていたらしい。なかなか見くびられたものだ。
 もっとも実際のところは東高校の二十五メートルプールを片道泳ぎ切るのが精一杯だ。雛子の想像よりましとは言え、決して威張れるような実力でもなかった。
 見栄を張るくらいなら多少恥を掻いてでも、彼女と楽しく泳いだ方がいい。
「じゃあ、手を繋いで泳ぎます?」
 彼女から差し伸べられた手を、俺は黙って握った。
 ぬるい海水の中で、彼女の手はほんのりと温かく感じられた。強い日差しの下で浸かる海水も肌に心地よかったが、彼女の体温の快さには敵わなかった。
「よく晴れてくれてよかったですね」
 俺としっかり手を繋ぎ、海面に浮かぶ雛子がこちらを向いて微笑む。波間にたゆたう彼女の笑顔は、濡れた髪の艶やかさとも相まって少し色っぽく見えた。
「そうだな。初めての海水浴が雨天中止じゃ浮かばれん」
 答えながらも、俺は時々海底に足をついていた。雛子のように常に浮かんでいることはできなかった。それでも彼女は俺を笑わなかったし、俺が自分なりに海水浴を楽しんでいることを察してくれたようだ。
「初めての海水浴、楽しんでもらえたこともよかったです」
 緩く水面をキックしながら彼女がそう言ったので、俺も流れに逆らわず海中を進みながら答えた。
「ああ。俺もどうにかまともに童心に返れそうだ」
 その言葉は別段皮肉でも何でもないつもりだったが、彼女はふと笑みを消し、長い睫毛を伏せた。
 そして繋ぎ合った手を強く引き、俺を手繰り寄せるようにして距離を詰めると、真正面から急に抱きつかれた。
「うわっ、な、どうした?」
 足でも攣ったかとその顔を覗き込もうとしたものの、雛子は俺の胸に頬を押しつけるようにしてしがみついてくる。背中に腕を回して力を込められると、柔らかく温かい身体が密着してきて息が詰まった。
「私が先輩に、いい思い出だけをあげたいって思ったんです」
 吐息と共に口にした後、雛子はゆっくりと顔を上げた。いくつか水滴が飛んだ眼鏡のレンズを通して、向けられた眼差しに射抜かれた。
 いい思い出なら既にいくらでも、彼女と二人で積み重ねてきた。雛子が俺に向けてきたのはそれらの記憶を礎にした、長い年月を経て育まれた深い感情を浮かべた目だった。
「次に童心に返る時は、今日のことを思い出してもらえたらって……」
 控えめながらも切々と訴える雛子と、俺はしばらくの間見つめ合っていた。
 だが、俺達の傍を幾人かが波掻き分けて泳いでいくを視界の隅で捉えた時、自分達の現在の状況が公共の場にはいささかふさわしくないもののように思えて慌てた。
「雛子、そろそろ離れた方がいい」
 俺は早口気味に告げて、彼女の身体をやんわりと自分から離した。
 ここでは誰もが水着を身に着けているが、だからと言って半裸であることに変わりはなく、そういう人間が人目につくところで抱き合うというのは感心されない状況だろう。
「お前にしがみつかれていると邪心が芽生えて、童心に返りづらくなる」
 小声で言い添えると、顔を上げた雛子は目を大きく見開いた。そして心得たように頬を紅潮させ、俺から目を逸らした。

 すんでのところで童心を失わずに済んだ俺は、その後も彼女と二人で遊泳を楽しんだ。
 その後、正午のサイレンが鳴ったところで海から上がり、休憩も兼ねて昼食を取ることにした。
 一旦更衣室へ財布を取りに戻ってから、二人で海の家を訪ねた。ここの海水浴場には三軒の海の家が建っていたがどこももれなく混み合っており、座敷に上がって食事をするのは困難そうだった。その為、食事をテイクアウトして浜辺で食べることに決めた。
 こういう店で食べ物を購入するのは初めてだったが、掘っ立て小屋の外観とは裏腹に品数豊富で、しかもどれも美味そうに見えた。俺はシーフードカレーを、雛子は焼きそばを選んだ。その他にラムネも二本買った。彼女曰く、海では焼きそばを食べ、ラムネを飲むのがまたお約束みたいなものだということだった。
「たまに砂が入っちゃうこともあるんですけど、それも含めて醍醐味なんです」
 ビニールシートを敷いた砂浜まで戻り、並んで座った後で雛子が言った。正座をした膝の上にタオルを敷き、そこに焼きそばのプラスチック容器を載せている。
「砂が入ったら食感が悪くなるんじゃないのか」
 俺は気になって尋ねたが、彼女はあまり気にしていないそぶりだ。
「そうなんですよね。海以外の場所だったら、ちょっと嫌かもしれません」
「雰囲気次第というわけか」
「そういうことです」
 頷いた雛子は俺に焼きそばを分けてくれた。ありがたくいただいたが、幸いなことに砂は入っておらず、格別な美味さだった。
 お返しとしてカレーを分けてやると、雛子は実に美味しそうな顔つきでそれを食べた。
「でも、鳴海先輩にカレーってよく考えたら意外な組み合わせですね」
「かもしれないな。滅多に食べない」
「自分で作ったりはしないんですか?」
「作ったことはない。そもそもカレーと言えば給食で食べるものだったからな」
 大槻はよくカレーを作るらしく、鍋いっぱいに拵えては冷凍保存しておくと言っていた。だが俺はカレーを作る気になったことはないし、あれは自分で作る物だという意識もなかった。ごくまれに食べたくなった時は学食を利用する。
「カレーだったら私、作れますよ」
 途端に雛子が目を輝かせた。上目遣いに俺を見て、
「よかったら今度作りましょうか? 友達にカレー作るの得意な子がいて、美味しい作り方を教わったことがあるんです」
「構わないが、なぜそんなに嬉しそうなんだ」
 うきうきと申し出てきたことを怪訝に思い、俺は聞き返した。
 すると彼女は得意そうに胸を反らす。
「先輩が作れない料理を私が作れるなんて、他にはなさそうですから」
「そんなことはない。俺が作ったことのない献立はまだまだたくさんある」
 そもそも洋食の分野は俺の苦手とするところだ。やはり給食でしか味わえないものばかりであり、その中でも気に入った物を自分で調べて作るようになった。特に興味を引かれなかった献立はあえて作ることもなく、今日でも外食で食べる機会があるかどうかという程度だ。
「だから、お前がカレーを作ってくれるというならありがたいな」
 少々回りくどくなったが、要は申し出を歓迎していた。その旨を告げると雛子はいよいよ張り切り始めた。
「わかりました。では是非、今度作らせてください」
「ああ、頼む。涼しくなってからでいい」
「はい。じゃあ今のうちにちょっと練習もしておきます」
 屈託なく笑う彼女を見ていると、それだけで心が満たされていくのがわかる。
 足りぬ物、得られぬ物の多い人生だった。だが今になってそれを埋め合わせて余りあるような幸福に恵まれた。潮風の匂い、波の音を、かつてとは違う状況、違う思いで聞いている。
 子供の頃は潮風も波の音も、鬱屈ばかりの日々と、唯一楽しい読書の時間と共にあるものだった。当時読んだ何十冊にも上る本、それらについての記憶に染みつくように残っていた。
 だが雛子が言ったように、これからはこの時間を海の思い出として振り返るようになるのかもしれない。
 読書をしない、久方ぶりの休日だった。
「先輩、ラムネも冷たいうちにどうぞ」
 海の家で購入してきたラムネの瓶を、雛子が手渡してくる。
 既にうっすらと水の粒をまとった瓶の中では、小さな泡がいくつも立ち昇っては弾けていた。硬いガラス瓶を爪で弾くと、きん、と冷たい音がする。
「開け方、覚えてます?」
 どこか試すような口ぶりで雛子が言った。
 俺は当然だと顎を引く。
「去年、お前に教わったからな」
 ラムネの瓶の口にはガラス玉が詰まっていて、飲む際には付属のプラスチックキャップで押し込むようにして開ける。するとガラス玉がラムネの中へ落ち、口が開いて飲めるようになるという仕組みだった。開封の際には中身が溢れ出てくる場合もあるので細心の注意が必要である。
 そういった仕組みややり方も、俺は全て彼女から教わった。去年、彼女が俺の為にラムネを買ってくれたことがあって――そういえばあの時、言っていたな。中身のガラス玉を集めるのが好きなのだと。
 ちょうど雛子がいち早くラムネを開封し、透き通ったガラス玉が泡立ちながら炭酸の中へ落ちていった。落ちたガラス玉を指差して尋ねてみる。
「今回もそれを持って帰るのか」
「もちろんです。こんなにきれいなんですから」
 雛子はまるで美しい宝石に見とれるような目を瓶の中へと向けている。宙に浮く水滴をそのまま固めたようなガラス玉は確かに美しくもあるが、ここまで強く彼女の心を捉える理由はよくわからない。少なくとも俺は集めようという気にはならない。
「知ってますか、先輩。ビー玉を覗くと世界が逆さに見えるんですよ」
「理屈はわかる。凸レンズと同じ仕組みなんだろう」
「そうです。だから私、子供の頃はビー玉が不思議の国の入り口なんじゃないかって思ってました」
 遠い記憶を懐かしむように語る彼女を、俺は黙って見つめていた。恐らく先程、彼女が瓶の中のガラス玉を見つめていた時と同じ表情をしていたことだろう。濡れていた肌は日差しの下ですっかり乾いており、それでもしっとりと柔らかそうだった。長い髪はまだ重く湿っており、漆黒の墨を含んだ筆のように垂れ下がっている。彼女がこちらを振り向くと、その髪が丸みを帯びた肩口に乗る。ガラス玉のようになめらかで、傷一つない肌だった。
「……飲まないんですか?」
 こちらを向いた雛子が、俺と瓶を見比べるようにして言った。
「飲む。お前の土産作りに協力しないとな」
 俺は答えて、去年教わった通りにラムネを開封した。キャップを瓶の口に当て、上から力を込めて押し込むと、弾けるような音がしてガラス球が落ちた。しかし同時に中から泡が噴き出てきて、瓶の口から溢れて俺の手や砂浜を濡らした。
「しまった、去年と同じ過ちを」
 俺が思わず呻くと、雛子がくすくす笑い出す。
「持ってくる途中で振っちゃったのかもしれませんね」
「細心の注意を払って運んできたつもりだったんだが……」
「泡、啜っちゃったらどうですか? あとこれで拭いてください」
 雛子は笑いながらも俺にタオルを差し出してきて、俺はラムネの口にわだかまる泡を啜ってから、タオルで瓶や手を拭いた。その間も雛子はよほどおかしかったのか無邪気に笑い転げていて、失敗した後だというのに俺まで笑いたくなる。
 童心に返るのも、海で泳ぐのも、ラムネの開け方でさえも、俺より彼女の方がはるかに上手い。
 人生におけるいい手本を得たと、しみじみ思う。

 夕方近くまで海と海水浴を楽しんだ後、帰途に着いた。
 帰りのバスはそれほど混んでおらず、俺達は後方の席に並んで座ることができた。
「いっぱい泳いだから、さすがに疲れましたね」
 座席の背もたれに身体を沈めるようにして雛子が呟く。言葉通り、心なしか眠そうに見えた。
 俺も程よい疲労感を覚えていた。バスに揺られている現在も波の感覚が身体に残っている。目に見える範囲内でも少し日に焼けたようだ。明日以降にでも大槻に会ったら、柄にもない日焼けをからかわれるだろうか。
「眠いなら寝てもいい。起こしてやる」
 そう声をかけると、雛子はいくらか迷うようなそぶりをしつつも、結局は俺の肩に寄りかかり、見るからに重そうな瞼を閉じた。
「すみません、先輩……」
 まどろみながらも一言詫び、その後は数分もしないうちに寝息を立て始める。
 俺は彼女の肩に腕を回し、傾ぐ身体を支えていた。彼女の髪は夏の日差しの匂いがした。焼けた肌で触れた彼女の体温が心地よかった。
 今でこそ起きていられるが、俺も部屋へ戻ればすぐに寝ついてしまうかもしれない。そのくらい、気分よくくたびれていた。海に持っていこうとして諦めた本を、帰ってからでも読もうと思っていたのだが――明日でもいいか。
 本を読まない休日も、たまにはいいものだ。
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