Tiny garden

少年少女の成長期(2)

 八月に入ったからだろう。売り場に並ぶ水着にもことごとく割引セールの札がついていた。
 だからと言って品揃えが悪いということはなく、私は渋る先輩を引っ張ってあれこれと水着を見て歩いた。

 今年こそ、というよりも鳴海先輩が一緒だからこそ、ビキニに挑戦するつもりでいた。
 聞いた話によると、水着というのは肌を隠しすぎるとかえってスタイルが悪く見えるものなのだそうだ。私はこれまでビキニなんて着たことはないけど、ミニスカートつきの物ならそれほど抵抗もないし、ちょうど好みのデザインを見つけた。
「こういうのがいいかな、と思うんですけど……」
 私がたっぷりとしたフリルのついた水色のビキニを指差す。トップスは胸を覆う部分がシフォンのフリルで縁取られており、付属のミニスカートもとても可愛いティアード風だ。そしてやはり、水色なのがいい。
 ところがそれを見た先輩は、どうにも気まずそうにかぶりを振った。
「そんなのを外で来て歩く気か?」
「だって海に行くんですよ、先輩」
 外と言えば外だろうけど、今の時期は海辺へ行けばこんな格好をした人々がたくさん歩いているはずだ。私達もその中に交ざるだけだから、そこまで恥ずかしくはないだろう。
「今まではこういうの、着たことがなかったんです。挑戦するなら今かと」
 これまでは海やプールに行く場合、お腹を出さなくても済むタンキニを着ていた。ところがこのタンキニという水着、露出を避けたいけれどワンピースはそろそろ卒業という微妙な年頃の女の子に支持されているからか、とても被りやすいという欠点がある。過去、友人と四人で海へ出かけた際は私を含めた全員がタンキニを着ていて、色や柄こそ違えどほとんど同じ型の水着を身につけた私達はまるで四つ子になったような気分だった。浜辺を歩く人も同型の水着が多い為、何度か友人と間違えて全く知らない人に声をかけそうになったこともあった。鳴海先輩が私と間違えて他の女性に声をかけてしまうような事態は絶対に避けたい。
 何よりも、記念すべき鳴海先輩との海デートなのだから。
 先輩が私から目を離せなくなるような水着がいい。そう思うのは、至極当たり前のことだ。
「あまりおかしな格好をすると、妙なのにつきまとわれる恐れがある」
 眉を顰めた先輩が言う。
 もっともそれは本気で心配しているというより、私にビキニを着せない為の口実に聞こえた。
「そうならないように、先輩がすぐ傍で目を光らせていてください」
 私は先輩を牽制すると、お目当ての水着をハンガーごと手に取ってみた。近くでつぶさに眺めると淡い色合いのフリルは一層可愛らしく、ミニスカートも程よい丈で、さりげなく確認したお値段も予算の範囲内だった。
 それから黙っている先輩をちらりと見てみる。先輩も目の端で私を見ており、何か注意をしたがっているような顔つきだった。どうも、ビキニを着るのは危険であるという論調で私を制したいようだ。
「まさか海に行って、私が危ない目に遭うまで放っておくなんてこと言わないですよね?」
「当たり前だ」
 私の問いに即答した先輩は、それでも困ったそぶりで視線を床に落とした。
「傍を離れないと決めているからこそ、違う水着がいいと言っている」
 そしてしばらく私の理解を待つように黙り込んだ後、観念したのか顔を上げ、私と目を合わせて言った。
「俺が目のやり場に困るという可能性は考慮してくれないのか」
 当然、私も即座に答える。
「むしろ困らせたいんです」
 この時期、海辺に水着の人々が溢れ返っているのは周知の通りだ。
 鳴海先輩の目が他の美しい女性に向けられるようなことのないよう、私は最大限可愛い水着姿を披露しなくてはならない――先輩が余所見をするような人ではないとよく知っているけど、念の為だ。それに先輩なら、海にだって本を持ってきて読書を始めかねないという懸念もある。と言うよりそちらの方があり得る。その日ばかりは本よりも私を見ていたいと思ってくれたら、なんて柄にもないことを考えていた。
 すると先輩は嘆息し、私に対してどこか責めるような目つきをした。
「見れば見たで恥ずかしいだの何だのと文句を言うくせに。なぜ水着だけは例外なんだ、理解できん」
「……だってそれは、水着ですから。水着は恥ずかしくないんです、多分」
 私は言い返したものの、魂胆を見抜かれたようで内心うろたえてもいた。鳴海先輩は私が慣れない誘惑を企てていると察知しており、普段の私にはあり得ない豪胆さだと思ったからこそそんな疑問を口にしたのだろう。
 見抜かれて恥ずかしかったのと、多少むきになったのもあり、私は例のビキニを手に宣言した。
「とりあえず、試着してきます」
 先輩は諦めたのか、あるいは私の胸中を酌んでくれたのか、肩を竦めて答えた。
「わかった。その方が問題点も指摘しやすいはずだ」
 端から駄目出しする気でいるようだ。これは手強いかもしれない。
 私が試着室へ向かって歩き出すと、先輩も少し遅れてついてきた。その姿を確かめようと振り向いた時、店内にみゆきちゃんと山口くんの姿も見つけた。
 二人は服を見ているようだ。女の子の服ばかり置いている店だけど、山口くんが見立ててあげているのだろう。彼が一生懸命服を探していて、その隣でみゆきちゃんが彼をじっと見守っているのが印象的だった。
 ここにC組の皆が揃っていたら、さぞかし冷やかされていたはずだ――私は楽しい気持ちで微笑んだ。

 試着室の一つに入り、靴を揃えてからカーテンを引く。
 その直前、鳴海先輩が試着室の真正面の壁に立ったのが見えたので、一声かけておく。
「少し待っていてください」
「ああ」
 先輩の短い返事を聞いてから、改めてカーテンをきっちりと引いた。
 水着の試着は手間がかかる。下着の上から身に着けるといってもそれ以外は全て脱いでしまわなければいけない。脱いだ服を逐一備えつけのハンガーにかけていると、隣の試着室に誰かが入ろうとしているのが物音でわかった。
「じゃあ着てみるね。待っててね、山口くん」
 みゆきちゃんの声だ。
 次いで、
「あ、佐藤さん。鞄持ってるよ」
 山口くんの声もして、みゆきちゃんは試着室に入る前に鞄を預けたようだ。
「ありがとう」
 彼女がお礼を言った後、隣でもカーテンを閉める音が聞こえた。
 試着室から聞こえる衣擦れと、店内に流れる有線放送の他は、しばらく静かだった。それはそうだろう、試着室の外にいるのは鳴海先輩と山口くんだ。鳴海先輩は初対面の相手に用もなく話しかけるような人ではないし、山口くんもC組の男子達と同様に先輩をよくは思っていないはずだ。
 もしかしたら気まずい空気かもしれない。急いで試着を終えてしまおうと私が鏡の前で水着を検めている時だった。
「――先輩も、着替え待ちですか?」
 山口くんが、そう言った。
 先輩と呼ぶからには、まず間違いなく鳴海先輩に話しかけたのだろう。私は意外さに戸惑い、思わず耳を澄ませた。
「ああ」
 鳴海先輩が、やはり短く応じる。愛想はないけれど棘もない、落ち着いた返答だった。
 すると山口くんが少しだけ笑うのが聞こえ、ぐっと声を落として続ける。
「女の子の着替えって長いですよね。結構待たされそう」
 多分、私やみゆきちゃんに聞こえないようにと小声で言ったのだろう。でも聞き耳を立てている私にはしっかり聞こえてしまった。慌てて着替えを続行する。
 試着室の外では二人の会話がまだ継続されていた。
「俺は慣れてる。慣れた方が早い」
 鳴海先輩が簡潔に答えると、山口くんはいささか拍子抜けしたようだ。
「あ……そうなんですか」
「ああ」
 そこで話は途切れ、再び沈黙がやってきた。
 二人の間で会話が弾むということはなさそうだから、その沈黙は想定内だった。ただ山口くんが先輩に話しかけたこと、それだけは未だに驚いている。確かに彼はクラスメイトともよくお喋りをする社交的な人だったけど、その対象に鳴海先輩が含まれるとは思わなかった。
 彼に限らず、C組のクラスメイト達はほとんどが鳴海先輩を怖がっていた。山口くんではない、C組の口の悪い男子に『柄沢はなんであんな先輩と付き合ってんの?』などと聞かれたこともある。その程度で揺らぐ想いではなかったものの、先輩の良さが人に伝わらないもどかしさを噛み締めたことが幾度となくあった。親しい友人相手ならともかく、クラスメイト程度の間柄では先輩について啓蒙するのも無意味に思えて、私は何も言えなかった。
 でもそういうもどかしさも、結局は学校という小さな世界の中にいたからこそ、なのかもしれない。ふと思った。
 考えているうちに着替えが終わり、私は閉じたカーテンの上部から顔だけを出した。先輩だけならともかく、山口くんもいる前でカーテンを開ける勇気はなかった。
「先輩、着終わったので見てもらえますか?」
 距離を置いて並び立つ山口くんの方を見ていた先輩が、こちらを向いて頷いた。
「わかった」
 それから試着室へと近づいてきたので、私はカーテンから身を離し、一歩下がって先輩がやってくるのを待つ。
 今度は先輩がカーテンの隙間から首を突っ込んで中を覗く。
 最初は私の顔を見た。そして一度視線を下げてから慌てて上へ戻す。目を見開いた後でわざわざ顔を顰めたのは照れ隠しだろうか。真っ直ぐに私を見つめて、真摯な助言のように言った。
「この水着はどうなんだ。さすがにやめた方がいい」
 本当に駄目出しを食らうとは思わなかった。
 個人的にはかなり気に入っている。たっぷりしたフリルはやっぱり可愛いし、ミニスカートのお蔭で脚を気にしなくて済む。ガーリーな雰囲気のお蔭で、ビキニでも際どく見えないのもいい。全く恥ずかしくないとは言わないけど、このくらいならいいかな、と思っていたのに。
「どうしてですか? 先輩の好みじゃないですか?」
 私が聞き返すと先輩はぎょっとしていた。
「いや、好みかどうかという話ではない。これを着て人前を歩くのか?」
「人前って、海では皆こうですよ。恥ずかしがるほどのことじゃないです」
「いいからこれはやめろ。俺も何だか目のやり場に困る」
 そう言いつつも、鳴海先輩は言葉の合間にちらちらと私を見ている。目が勝手に動くのを意識して引き戻してでもいるように、水着を見ては私の顔を見直し、時々は私の肩越しに遠くを見るような目をして、忙しなく視線を動かしている。見たいとは思ってくれているのだろうか。そうだと、嬉しい。
「別に見てもいいですよ、先輩なら」
 先輩の目があまりにも忙しそうなので、私は一応言っておく。
 たちまち言葉に詰まって、
「何を……、そういう問題じゃないと言っているんだ」
 叱る口調で先輩が応じた。
「私もどうせなら、先輩に気に入ってもらえるような水着にしたいんです」
 試着して、鳴海先輩が好みではないようなら違う物にしようと思っていた。今のところ、かなり反応はいいようだけど。
 ところがご本人は困り果てた様子で答えた。
「気に入ったとは言ってない」
「じゃあ気に入りませんか?」
「そうとも言ってない。いいから着替えろ、いつまでそうやって肌を晒している気だ」
 今度は本当に私を叱ると、先輩はあたふたとカーテンを閉めようとする。
 しかし私は肝心な言葉を聞いていない。慌ててそれを制止した。
「あの、待ってください先輩。せめて似合ってるかどうかだけでも……」
 私がせがんだせいか、鳴海先輩は一度唇を結んでから、囁き声で言った。
「似合っているから心配しているんだ。わからないのか」
「本当ですか?」
 その言葉に嬉しさよりもまず安堵が込み上げてくる。先輩にそう言ってもらえないことには買う物も決まらないからだ。
 思わず胸を撫で下ろした私は、少しだけ余裕ができたのでからかってみることにする。
「でも、前しか見てないのに似合ってるってわかりますか? ぐるっと回ってみせましょうか」
 私がそう言うと先輩は目を瞠ってから、なぜかきまり悪そうに言った。
「いや。わざと黙っていたわけではないが、後ろ姿も見えている」
「え?」
「そこの鏡に映っているからな」
 先輩が指差した方へ振り返ると、試着室内の大きな鏡の中、同じように水着姿の私が恐る恐るこちらを顧みていた。
「……よく見てますね、先輩」
 私がはにかみつつ感心したからだろうか。
 鳴海先輩は一層きまり悪そうに、
「全くだ。俺はいつからこんなに目敏い人間になったんだろうな」
 と言ってから、とても丁寧にカーテンを閉めてくれた。

 結局、私はその水着を購入した。
 みゆきちゃんも試着した服を買うことにしたようだ。ほぼ同時にレジに並んで、お店を出たのも一緒だった。もちろんお店を出てすぐに別れることになったけど、私は手を振って告げた。
「じゃあまたね、二人とも。今度C組の皆で集まりたいね」
 するとみゆきちゃんも私に手を振り返してくれた。
「うん! 皆で同窓会やろうね!」
「同窓会ってこんな早くにやっていいのかな」
 みゆきちゃんの言葉に山口くんは吹き出しつつ、彼も軽く手を挙げる。
「じゃあね、柄沢さん。……あと、鳴海先輩も」
 名前を呼ばれて振り向いた先輩に、山口くんが、次いでみゆきちゃんも頭を下げる。先輩も同じように頭を下げ、それから私と先輩はお店の前を離れて歩き出す。買ったばかりの水着が入った紙袋を、少し楽しい気持ちで揺すりながら。
「雛子」
 今度は先輩が私の名前を呼んだ。
 こちらを見る目が何か言いたげだったので、私は察して紙袋を先輩に差し出す。先輩がそれを黙って受け取り、片手に提げたので、私は空いた方の先輩の手を取って軽く握ってみた。先輩は何も言わず、真夏の駅前通りを並んで歩いてくれた。
「山口くんと、話をしてたんですか?」
 歩きながら私は、試着室にいた時のことについて尋ねてみた。
 先輩は何でもないように頷く。
「ああ。大した話はしてないが」
「そうなんですか」
 私もあくまで自然に相槌を打っておいたけど、内心では嬉しかった。
 C組の子と鳴海先輩が普通に話をするなんて、昔なら考えられなかったことだ。みゆきちゃんも山口くんも、二人とも先輩と話をしてくれた。私はそのことが何だか、後になってからじわじわと噛み締めるみたいに嬉しくなってきた。
 もしかしたらそれだけあの二人が、いち早く成長し、大人になったということかもしれない。
 大人になるということは、誰かから得た不確かな噂よりも目に見えている事実を信頼して、人と接することでもあるのかもしれない。
 私も負けていられない。見た目だけ成長するのではなく、中身だって大人にならなくては。
 それに鳴海先輩も、昔とはすっかり変わってしまった。かつての先輩なら、あんなふうに話しかけられたところで相手にしなかったはずだ。
 隣を歩く先輩を感慨深く見つめていると、先輩が思い出したように口を開いた。
「澄江さんに、例の写真のことを聞いてみた」
「例の……あの、先輩の子供の頃の写真ですか?」
「そうだ。澄江さんの手元にはアルバムが残っているそうだ」
 その話をしたのはたった数日前だというのに、もう聞いてくれたのだろうか。迅速さに私は驚き、そんな私に鳴海先輩は淡々と言葉を継ぐ。
「お前が見たがっているなら送ると言っていた。どうする?」
「あ……ぜ、是非お願いします!」
 私は反射的に答えてから、今更のように先輩の顔色を窺いたくなる。
「でも、いいんですか? 先輩は昔の写真を私に見られるの、嫌じゃないですか?」
「あの頃にいい思い出はないからな」
 限りなく正直に答えた先輩が、それでも私に対しては表情を解いてみせた。微笑まではいかない、だけど気を許してくれているのがわかる穏やかな顔つきだった。
「だが、俺の子供の頃の写真を見たがる人間なんて、お前くらいのものだ」
 それはどうだろう。きっと大槻さんに聞いたら百パーセント見たいと言うだろうし、有島くんも間違いなく見たがるだろう。船津さんも見たいと言いそうな気がする。気がつけば鳴海先輩の周りにはたくさんの人がいて、そしてその人達に好かれている。それこそが鳴海先輩の成長を裏づける何よりの証左だ。
 ただ、実際に誰かに見せるつもりは、私にはないけど――鳴海先輩だって私だからこそ見せる気になったのだ。その立ち位置は誰にも譲れない。渡したくない。
「ありがとうございます、嬉しいです。楽しみにしていますね!」
 私がお礼を言うと、先輩は私の顔を目に焼きつけるみたいにじっくりと見た。
 そして不意に口元を緩めて、こう言った。
「このくらい、お前の喜ぶ顔を見られるなら安いものだ」
 私は先輩を見上げたまま、どぎまぎするあまり言葉を失ってしまった。

 本当に、鳴海先輩は、一体どこまで成長していくんだろう。
 私も早く成長しないと、しまいには追いつけなくなりそうだ。
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