Tiny garden

好きこそ物の上手なれ

 アルバイトを始めてから一週間ほどで、雛子はすっかり仕事に慣れたようだった。
 初日こそ暑さに参っていた様子だったが、体調を崩すほどではなかったようで勤勉に働き続けている。取り立てて仕事が速いというほどではないのだが、覚えはよく何より真面目だ。俺や大槻が傍について仕事を教える必要もすっかりなくなってしまった。
「雛子ちゃん、仕事覚えんの速いね!」
 大槻がそれを誉めると、雛子ははにかみながら言った。
「きっと好きなものだからだと思います。本のことは、他の物より楽しく覚えられるんです」
「そんなもん? でも雛子ちゃんの覚えもいいと思うよ」
「ありがとうございます。このお店で働いてみたかったので、嬉しいです」
 雛子がほっとしているのを、俺は腑に落ちる思いで眺めていた。
 好きこそ物の上手なれという言葉があるように、彼女にとってこの古書店でのアルバイトは趣味と実益を兼ねた楽しいものになっているようだ。彼女にとっての天職は書店員か、そうでなければ菓子屋の店員だろう。
 彼女が楽しく働けているのは俺にとっても喜ばしいことだが、つきっきりで仕事を教える必要がなくなってしまうのはいささか残念だ。もっとも真面目に働く彼女に対してそんな本音は告げられまい。
 お互いに目的を持ってアルバイトを始めたのだ。まずは真面目に勤労の夏を乗り切るべきだろう。

 その雛子は本日、一番手として休憩に入り、三人分の弁当を購入すべく炎天下の街へと出かけていった。
 温い風が吹く古書店には俺と大槻が残り、時折汗を拭いながら古書の整理を行っている。
「はあ……今日もあっつい……」
 大槻がぼやく声が立ち並ぶ本棚の反対側から聞こえた。その気の抜けた声と言ったら、水分が全て蒸発しきってしまったかのようだ。
「今年の夏は特に暑いな。火炙りの刑みたいだ」
 俺が本を並べ替えながら応じると、大槻は深く嘆息する。
「こういう日こそ海に繰り出すべきなのに。何だって俺ら、バイトなんかしてんだろうね」
「何を今更。充実した夏休みを過ごす為のバイトじゃないのか」
「そうだけどさあ。バイト代入ったって遊ぶ為だけに使えるわけでもないし」
 あまりの暑さに空元気を出す気力もないのか、大槻はやたらと愚痴っぽい。
「どうせ合宿とその他あれこれで飛んじゃうからなあ……海くらい、一回は行っときたいんだけどな」
「行けばいいだろう。海なんて近くにあるんだし、何もしなければ金もかかるまい」
 海水浴場なら地元にある。バスで終点まで乗っていった先だから、この辺りからなら三十分もかからない。自転車で行けばバス代すら浮かせることができるような距離だ。
 俺が口を挟んだからか、奴は呆れたような声を上げた。
「何言ってんの、海に行ったら焼きそばなりかき氷なり食べるだろ! テンション上がった勢いでバナナボートとかシャチとか買ったりもするだろ! 海の家をスルーしてただ泳ぐだけなんて海水浴の楽しみ半減だよ!」
「……そうなのか。知らなかった」
 大槻の言うことだから鵜呑みにするのもよくないが、参考までに覚えておこう。何せ俺は海水浴に出かけたことがないから、海の家というのがどういった施設か、ニュースの類でしか知らないのだ。
 そういうニュアンスは口に出さなくても、顔が見えなくても伝わったらしい。本棚の向こう側で大槻が驚いてみせた。
「鳴海くん、出身こっちなんだろ? 海水浴したことないの?」
「前に言わなかったか。俺は泳ぐのが得意じゃない」
 厳密にはそれだけの理由ではないのだが、海水浴とはこれまで縁がなかった。澄江さんの暮らすあの港町はどこも波が高く、遊泳禁止の海岸ばかりが続いていた。こちらの海はまだ穏やかで、天気さえよければ泳ぎやすいと聞いている。もちろんそれも泳げる奴に限った話だろうが。
「得意じゃない、ってのがどのくらいのレベルかにもよるけど、海の方が浮きやすいって言うじゃん」
 大槻はどこか面白がるようなトーンで話を続けた。
「一回行ってみれば? 案外、プールなんかで泳ぐよりも楽勝かもしれないよ」
「そうだな。機会があれば」
「あと海行けば、雛子ちゃんの水着姿が見られるよ! 絶対可愛いだろうなあ雛子ちゃんなら! どーんとビキニもいいけど清楚なワンピースもいいよね! ほら、俄然行きたくなっただろ?」
「うるさい」
 俺は一言で大槻を黙らせた。お前じゃあるまいし、と言ってやりたいところだったが、実際に海に行く予定を立てている以上はあまり偉そうなことも言えない。水着だけが目的だというわけでは決して、断じてないのだが。
 雛子は海水浴に備えて水着を新調するつもりのようだ。バイト代が入ったら買い物に付き合って欲しいと言われていて、俺が付き添う意味はあるのかと疑問はあったが、一応ついていってやることにした。俺は俺で、せっかく受験勉強から解放された雛子をどこかへ連れていってやりたいという思いもあり、バイト代が入ったらいくつか出かけていく予定を立てていた。その予定のうちの一つが海水浴だった。
 去年までは考えられなかったようなことを、今年の俺たちはするつもりでいる。
「都合が悪くなると口数減るんだからなあ。ま、いいけど」
 何かを見抜いてでもいるのか、大槻はにやにやしているのが容易に察しのつく声で言った。
 それから思い出したように溜息をつき、
「俺も海には行きたいけど、今年は何かと買うもんあるしな……」
 ぼやいた後でまた俺に向かって尋ねてくる。
「ところでさ。鳴海くん、リクスー買った?」
「は?」
 聞き慣れない単語に思わず手が止まる。りくすう。一体何のことだ。
 陸数、陸吸う、陸枢――思いつく限りの変換を試してみたが該当する単語は思い浮かばず、聞き返そうとする前に大槻が言った。
「リクルートスーツのことだよ」
 説明されてようやく、先程の謎の単語が略称だとわかった。俺は脱力して仕事を再開する。
「ああ……。なぜ略すんだ、わかりづらい」
「えっ、俺の周りじゃ皆こう呼んでるけどなあ。君は例外だけど」
 俺からすれば初耳だったが、略称の是非をこの場で、しかもこんな気温の高い中で論じ合っても時間と体力の無駄だ。さっさと話を戻すことにする。
「まだ買ってない。お前は?」
「俺もこれから。ちょっと涼しくなってからにしようと思ってさ」
 大槻がまた息をつく。ただし今度は笑いと驚きを含んだ溜息だった。
「いよいよ俺たちも就活の時期だよ。鳴海くん、実感湧いてる?」
「一応はな。早目に片づけて、学業に専念したいものだ」
「偉いなあ、俺なんかもう日を追うごとに実感から遠ざかってんのに」
 そうは言っても意外と堅実な大槻が就職活動に備え始めていることは俺も知っていたから、恐らくそれは謙遜というやつだろう。あるいは奴らしくもなく、遂に目に見えて表れた関門の入り口に緊張を覚えているところなのかもしれない。
 俺たちの大学生活も、問題なく進めばあと二年を切っている。
 アルバイトだ海水浴だと気楽なことを言っていられるのも今のうちだ。直に夏休みもないような生活がやってくることだろう。
 だがそれでも、俺は雛子がいてくれたら、それだけでよかった。
「雛子ちゃんって、進路何にすんのかな」
 ふと、大槻も彼女の名前を口にした。
 息が詰まりそうなほど暑い日だからか、そして冷房もろくにない店内にいるせいか、今日の大槻の話はいささかとりとめがない。
「何の話だ」
「雛子ちゃんの進路。何かバイトしてる姿見てるとさ、本屋さんって天職なんじゃないのって思って。そう言や、何目指してんのか聞いたことなかったなってさ。何かあるのかな、夢とか」
 俺と同じことを大槻も思っていたというのは何やら複雑な気分だ。
 夢というより希望として、雛子が司書資格を取ろうとしていることは知っている。履修登録の際に講習についての相談も受けたからだ。
 もっとも実際に司書を目指すかはわからないらしい。普段は多くの人々に開かれた図書館の門も、就職先となると途端に狭き門となる。それは大学一年の雛子にすら知られていることで、それ以外となるとまだ絞り込める段階ではないようだった。
「まだはっきりとは決めていないようだ」
「そうなんだ。まあ、一年生だもんね。決めてない子もいるよね」
 俺の答えに大槻は一旦納得してみせたものの、
「あ、それとも雛子ちゃんだったら普通に『お嫁さん』とか言うかな? そういう話はしてんの、君ら」
 続けた言葉は完全にからかいだった。
 しかし俺は否定することもできない。彼女から、糟糠の妻を目指すと言われていたことがあったからだ。
 あの時、雛子はちゃんと意味をわかった上で言っていたのだろうか。今更真意を問い質す気にはなれないが、何にせよ大槻の言うこともそう的外れではなかった。
 俺が沈黙し、大槻がその沈黙の意味を問い質そうと何か言いかけたところで、
「ただ今戻りました! お弁当、買ってきましたよ」
 古書店の入り口に影が差し、ビニール袋を提げた雛子が店へと戻ってきた。
 彼女は暑そうにしながら店内に入ってきたが、本棚を挟んで微妙な雰囲気で向き合う俺と大槻を見て、不思議に思ったのだろう。すぐさま怪訝そうに尋ねてきた。
「どうかしたんですか?」
「実はさ、今ちょうど雛子ちゃんの話をしてて――」
「余計なことを言うな、大槻」
 すかさず説明を始める大槻を黙らせようとしたが、奴は構わずに続ける。
「俺ら今年はもう就活始める時期なんだけどさ。雛子ちゃんは将来何になんのかなあって」
「私ですか?」
 雛子はちらりと俺を見た。
 お前も変な答え方はするなよ、と視線で釘を刺しておく。
 それが上手く伝わったのか、雛子は控えめに微笑みながら答えた。
「できれば本に関わる仕事がいいと思ってるんです。でも具体的にはまだ決めかねてて」
「へえ。本って言うと、出版社とか?」
「そうですね、それも素敵ですけど、図書館勤務も憧れます」
「いいねえ。出版社で編集さんってのも、あるいは図書館司書さんも、どっちもすごく似合いそう」
 雛子の答えを聞いた大槻は、妙に楽しそうにしている。似合うと言えば確かに、どちらも似合うだろうという気はする。
「ってか俺、雛子ちゃんはスーツとか制服着るお仕事が似合いそうな気がするんだよな。OLさんとか銀行員とか、デパートの店員さんとか、CAとか」
 大槻が勝手なことをまくし立てると、雛子は苦笑しながら改めて俺を見る。似合うかどうか聞きたがっているのかもしれない。正直、よくわからない。
 似合うと言うなら、古書店のアルバイトの為に購入してきたエプロンは、彼女にとてもよく合っている。夏の暑さに耐えかねてか久々に束ねている髪と言い、銀フレームの眼鏡と言い、どこからどう見ても本好きとわかるような書店員だ。
「あとほら、くノ一とか!」
 更に大槻が挙げたのは随分と突飛な職業だった。いや、職業と言っていいのかどうか。
「くノ一って、制服あるんですか?」
 雛子は雛子で気にするところを間違っている。まともに相手をするのがおかしい。
「あるじゃん、黒装束って言うの? 絶対雛子ちゃんには似合うと思う! やっぱ戦う女、くノ一って男のロマンじゃん。だよね鳴海くん?」
「全く共感できないから同意を求めないでくれ」
 大槻の言葉を俺はばっさりと切り捨て、雛子もおかしそうに語を継いだ。
「と言うか、どこへ行けば就職できるんですか、くノ一に」
「そりゃあ伊賀か甲賀かによるんじゃない?」
 付き合いきれない。
 俺は雛子に早く休憩に入るよう促すと、大槻に対してはこう告げた。
「お前、黒装束のくノ一が歴史上実在したと、本気で思っているのか?」
「いたらいいよね。男のロマンだもん」
 大槻は心から、しみじみと応じた。
 どうやら奴は暑さでどこかがやられたらしい。全く、そんな危険な職業に就かせてたまるか。

 雛子が休憩を終えた後、次に俺が休憩に入った。
 船津さんの家の居間で弁当を食べていると、暖簾一枚を隔てた店内から声が聞こえてきた。
「あ……いらっしゃいませ!」
 雛子の声だ。どうやら来客があったらしい。
 この店が驚くほど客の来ない店であることは言うまでもないが、来店者が少ないということは、それだけ接客の機会も少ないということだ。これまで俺と大槻はおおよその仕事を彼女に教えてきたが、接客の部分だけはロールプレイングでしか教えられなかった。練習をさせようにも客が来ないのだから仕方がない。
 それでもやるべきことはそう多くない。せいぜい問い合わせがあった場合及び取り置きの対応、あとはレジ打ちができればどうにでもなる。こんな店に百貨店並みの接客対応を求める奴もいまい。相手に失礼さえなければいいと彼女には言っておいてある。
 だがそうは言っても彼女がきちんと対応できるのかどうか、多少気にはなった。店内には大槻もいるはずだからそこまで心配は要らないはずだが、俺は一旦箸を置き、暖簾をめくって店内を窺う。
 雛子が応対しているのは中年の、女の客だった。何か探し物があるらしく、店内を回るより先に雛子に話しかけている。雛子はそれを真面目な顔で聞いてから、本棚に視線を巡らせた。
「そういった本でしたら、確か、こちらの棚にございます」
 本棚は彼女にも馴染み深いNDCに則って並んでいるし、自分で整理をした棚もあるはずだ。目当ての棚を見分けるのは恐らく容易だろう。雛子は客を伴ってその本棚の前まで向かい、案内を終えると軽く頭を下げてその場を離れた。
 意外と上手くやれるものだ。彼女が持ち場へ戻ったところで、俺も暖簾の傍を離れて食事を再開したが、密かに感心していた。
 彼女の社交的かつ真面目な性格は接客という場面でも如何なく効果を発揮していたようだ。恐らく初めての接客だったはずだが、思ったよりも落ち着き払っていた。こちらが気を揉む心配もなかったのかもしれない。
 だが気になるものはどうしても気になる。件の客が本を選び終え、レジへと向かい、雛子がその応対を始める声が聞こえてくる。
「お会計ですか? すぐ伺います」
 その声を聞くや否や、俺はまた弁当を食べる手を止めて、暖簾の傍へとにじり寄った。また軽くめくって様子を見ていると、レジ前に立った客が財布を取り出すのがわかった。そこからカウンターを挟んで真向かい、こちらには背を向けている雛子が軽く頭を下げて本を受け取ったところも。
「では、お会計をいたします」
 彼女はカウンターに置かれた古いタイプのレジスターと向き合う。まだレシートが感熱紙ではない、そろそろ骨董品の域に足を踏み入れそうなレジスターだ。雛子は本に貼られた値札を見ながら、一点一点、慎重に価格を入力していく。まだレジは扱い慣れていないのか、全てのキーを人差し指で押している。その慣れないそぶりに俺の方が緊張してくる。
「合計で、千三百六十円になります」
 小計を読み上げると客が財布をごそごそと探り出し、その間に雛子は本を紙袋へとしまう。さすがに本の扱いは手慣れたもので、あの小さく白い手はカバーを折ったり破いたりすることもなく本を紙袋へと誘っていく。
 客が革製の古びたカルトンに代金を置くと、雛子は精算を済ませるべくレジを開け、じりじりと音を立てて吐き出されるレシートを丁寧に破り、釣銭と一緒に手渡した。それからお辞儀と共に朗らかな声で言った。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ!」
 その時の表情は残念ながら見えなかった。
 だが恐らくはいい笑顔だったのだろう。客がにっこり微笑み、会釈を返したから、俺はそう確信していた。
 それから雛子はレジに代金をしまい、引き出しをしっかりと閉じてから、店を出て行く客を目で見送った。
 俺はそこまでを見届けてからまた食事に戻ろうとしたが、
「――つくづく心配性な彼氏ですなあ」
 こっそり覗いていたのを店内にいた大槻に見つかった。思わず舌打ちした。
「心配するのは当然だろう。こんな店、接客の機会もまずなかったんだから」
 俺はそう反論したが大槻はげらげら笑うばかりで、しかも奴がうるさかったせいでカウンター内にいた雛子にまで気づかれてしまった。
「先輩。もしかして、ずっと見てたんですか?」
 振り向くなりそう言われたので、俺は誤魔化すのを諦めた。
 今度はきちんと暖簾を上げ、きょとんとする彼女に向かって告げた。
「手間取ることがあれば助け舟を、と思って見ていたまでだ。その必要はなかったようだがな」
「自分でも、まあまあ上手くできた方かなって思います」
 雛子がはにかむ。それから上目遣いにこちらを見てきたので、恐らく何かコメントを求めているのだろう。
 俺としても今回の接客はなかなかよくできていたと思うし、慣れないところは慎重に、丁寧に進めているのもよかった。俺たちの側に今まで満足に教えられる機会がなかったことを思うと、ほぼ満点の出来と言ってもいいかもしれない。
 そこで、俺は言った。
「よくできていた。対応も丁寧だし、ミスもなかったように思う。何より好感の持てる接客だった」
 多少贔屓目は入っているかもしれないが、このくらいは誉めておいてもいいだろう。俺が思っていたよりはずっと上手くやれていたのだから。
「お前には接客が向いているかもしれないな」
 俺がそう言い添えると、雛子は全身の動きを止め、眼鏡の奥の瞳だけを瞬かせた。
 直後、こわごわと聞き返してくる。
「ほ、本当ですか?」
「なぜ疑う。こんなことで嘘は言わない」
「だって、先輩に誉めてもらえるなんて……! あ、あの、誉めてくれないって思ってたわけじゃないですけど、誉めてもらえたらいいなあとは思ってたから……」
 言った傍から雛子はみるみる赤くなり、そのくせ唇は笑むのを堪えきれないというように綻んでいた。それから目を輝かせ俺に向かって叫ぶような勢いで言った。
「ありがとうございます、先輩! 私、これからもすごくすごく頑張りますから!」
「あ……ああ」
「じゃあ私、表の本棚整理してきますっ!」
 雛子は目に見えて張り切っているようで、レジを離れると店の外へと駆け出していった。その際、すっかり上気した頬と耳朶がちらりと見えた。
 取り残された俺は呆然とするより他なく、あんな些細な誉め言葉に感激するほど喜ぶ彼女に圧倒されていた。
 何をそんなにはしゃいでいるのか。
 そしてはしゃぐ彼女を見て、なぜ俺は胸の奥が痛いような、締めつけられるような衝動を覚えているのか。
「やっぱ、他でもない彼氏からの誉め言葉は特別なんだよ」
 大槻が近寄ってきて、わかったふうなことを言う。
 思わずそちらに目をやると、冷やかすような笑みが返ってきた。
「だって考えてもみなよ。俺がいっくら誉めても雛子ちゃん、あんなには喜ばなかったよ」
 それについては思い当たる節もある。俺は大槻の言葉を否定せず、妙にこそばゆい思いでいた。
 好きこそ物の上手なれとはよく言ったものだが――そのことわざの意味を、今は別の角度から実感している。
 好きこそ、か。こんなにもわかりやすいと、逆にこちらが照れてしまう。
 俺が誉めてやったら彼女は、それこそ何にでもなれるのかもしれない。
 しかし、少々喜びすぎではないのか。俺は俺で彼女を喜ばせる為に、これから存分に誉めてやろうという気になっている。だがその度にあんなに真っ赤になって喜ぶようでは、いつか暑さで倒れてしまいはしないだろうか。そのことだけが不安だ。
「一緒にバイトをするのもいいものだな」
 こうして意外な一面が見られたり、よりいとおしい気持ちになったりするからだ。
 彼女が消えた戸口を見つめて思わず呟いた俺を、大槻がにやにや笑いで混ぜ返す。
「おっと、惚気ですか。可愛い彼女と楽しくバイトなんて、つくづく羨ましいっすよ」
「そうだな。お前には悪いと思ってる」
 俺は、しかし心からしみじみと言わずにはいられない。
「だがやはり、雛子は可愛いな」
 とりあえず今度から、今まで以上に誉めてやろうと思っている。
 俺の言葉を聞いた大槻は、笑みを消して微妙な顔をした。
「……鳴海くん、もしかして暑さでやられちゃった?」
「かもしれない。あいつを見ていたら、なぜか胸が痛むんだ」
「うわ、これやべえ! 重症じゃん!」
「痛いようでいてきゅっと締めつけられるような、それが心地いいような……」
「いや克明に説明しなくていいから! こっちが恥ずかしいから!」
 今年の夏は暑い。
 俺もやられたのかもしれない。主に心臓を、確実に射抜かれた自覚はある。
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