Tiny garden

美しい装丁(2)

 休憩に入る順番は鳴海先輩が最初で、その次が大槻さん、一番最後が私と決まった。
 先輩も大槻さんも私が一番でいいと言ってくれていたのだけど、バイト始めたてほやほやの新人が真っ先に休憩に入るというのも気が引けた。午前中は在庫の帳簿つけに時間を取られてしまっていたから、先輩が休憩に入っている間に他の仕事を片づけておきたいとも思っていた。
 正午を過ぎると気温はぐんと上がって、蝉の大合唱も始まった。風通しのいい店内も肝心の風がやんでしまえば通るものもなく、じりじりと突き刺さる日差しが空気を熱して、古書店の中にまで押し寄せてくる。
 私は本の入ったケースを運びながら、空いた本棚に本を並べながら、時々タオルで汗を拭わなければならなかった。エプロンの下でブラウスが肌に張りつき、結んだ髪も首にまとわりつくのが少し鬱陶しい。
 そんな暑い最中、鳴海先輩は三人分のお弁当を買う為に店の外へ出かけていた。あまりに日差しが強いので心配だったけど、戻ってきた先輩はやはり汗だくで珍しくふうふう言っていた。
「今日は駄目だ。外に長居すると干乾びそうだ」
「お疲れ。今、気温どんくらい?」
 大槻さんが労いながら尋ねると、先輩はうんざりと答えた。
「駅の電光掲示板では三十六度を超えていた」
 三十六度という気温は、この辺りなら一年に一度あるかないかというほどの高い数字だ。どうりで息が詰まるほど暑いと思った。私も憂鬱な気分で息をつく。汗がこめかみから頬を伝って顎まで落ちたから、慌ててタオルで拭っておく。
「うわあ……やばいよ。俺たち三人、ここでからっからの干物になっちゃうかも」
 絶望に暮れた表情で大槻さんが呻いた。
「その可能性も考えて、飲み物も余分に買ってきた」
 先輩はあながち冗談でもない口調で言い、お弁当の他に提げていたコンビニの袋を掲げてみせる。袋の口から大きなスポーツドリンクのボトルが覗いていた。
「休憩前でも小まめに水分を取った方がいい」
 その言葉の後、先輩が私を振り返る。こちらを見たかと思うとすっと眉を顰められた。
「お前もだ、雛子。随分顔が赤い」
「すみません。今日は本当に暑くて……」
 私もすっかり汗を掻いていたから、先輩にじっと見られると何となく恥ずかしい。
 だけど先輩は訝しそうに私を見ている。
「謝ることじゃない。今日みたいな日は気をつけた方がいい」
 それから先輩は私と大槻さんの為にスポーツドリンクを注いでくれた。飲み物と一緒に紙コップまで買ってくる用意周到ぶりに頭が下がる。冷たいスポーツドリンクは暑い日には素晴らしく美味しく感じられて、まるで身体中に染み込んでいくようだった。
 水分を取って一息つくと、暑さでぼうっとしていた頭もすっきりしてきた。鳴海先輩はそんな私をどこか注意深く見守っていたけど、私は私で大切なことに気づいて慌てて言った。
「そ、そうだ先輩。今って休憩中ですよね?」
「ああ」
「ご飯食べなくていいんですか。あの、大事な休憩中にお手数をおかけしちゃって……」
 事もなげに先輩が頷くから、私はあたふたと語を継ぐ。本当なら今は先輩がご飯を食べて一息つく貴重な時間のはずなのに、私は何をのんびりと飲み物まで注いで貰って、一息ついてしまっているんだろう。
「別にいい。今日はおにぎりしか買ってこなかったから、十分もあれば食べられる」
 先輩はやはりどうということもない口調で答えると、私と大槻さんの飲み終えた紙コップを回収して、休憩の為に店の奥へと向かっていった。
 私は慌ててその背中に声をかける。
「ありがとうございました、先輩! できる限り休んでください!」
 すると鳴海先輩は振り向いて、ほんの少しだけ、でも誰にでもわかるくらいはっきりと微笑んだ。
「ありがとう」
 店とその奥の住居は縦長の暖簾一枚で隔てられていて、先輩がそれをくぐるのを、私は一人照れながら見送った。
 もしかしなくても、心配してくれていたんだろうな、と思う。
 鳴海先輩は優しい人だ。最近では『本当は』なんて枕詞をつける必要もなくなった。昔よりもずっとその優しさがわかりやすくなったし、人に優しくすることに躊躇もしなくなったように思う。
 そして、昔よりもずっと笑うようになった。
 以前の先輩も全く笑わない人ではなかったけど、嬉しさに笑うことは稀だった。時々、私の言葉に表情を和らげることはあったけど――それを私は先輩の『笑顔』だと読み取り、受け止めてきたけれど、他の人が見たらそうは思わないだろうということはわかっていた。
 だけどさっきの笑顔はちゃんとした、十人中十人が笑顔だと認定してくれるであろうとびきりの笑みだった。それも私に対して、感謝の気持ちを込めたお礼をくれる笑みだ。私は今更のように胸がどきどきして、せっかくクールダウンしたはずの体温が上昇してくるのを感じた。
 鳴海先輩が私の為に笑いかけてくれるようになったんだ。
 なんて今更すぎる実感だけど、去年の今頃の私が聞いたら結構驚いたに違いない、偉大な変化だった。
「……雛子ちゃん、大丈夫?」
「あっ! だ、大丈夫です!」
 いきなり目の前で手を振られ、私はとっさに答えた。
 振り返るよりも早く、私より少しだけ背の高い大槻さんが顔を覗き込んできた。
「バイト中でも相変わらずラブラブですねえ」
 にやにやしながら意味深長に言われて、一層体温が上がる。三十六度ではきかない熱さにめまいを覚えながら反論した。
「い、今のは普通の会話ですよ! 別に変なこととか言ってないですし!」
「そうかなあ。目からラブラブ光線が出てたよ」
 大槻さんがやけに自信ありげに言うので、逆に私は自信がなくなってきた。客観的に見たら今の些細なやり取りも、そういうもの、だったのかもしれない。
 でもこれは聞いておかねばと思って、すかさず小声で聞き返しておく。
「それって私の目からってことですか? それとも、先輩の?」
「両方の」
 きっぱりと容赦なく、大槻さんは答えた。
 それならまあいいかなと思ってしまうのは、私が先輩の変化を嬉しいと感じているからに他ならない。

 昔の鳴海先輩は、本に例えるならとてもシンプルな装丁をしていたのだと思う。
 記憶の中にある姿勢のいい立ち姿と、その身にまとう人を寄せつけない雰囲気と、頑なさが窺える顔つきから想像してみる――表紙は重厚な黒褐色の革でできていて、目を凝らせば個性的とも言える細かな畝が見える。だけど表面に触れてみると驚くほどなめらかで、しっとりと馴染むような感触がある革表紙。手に取るとずっしりと重たいのは厚みがあるからだ。背表紙には金色の文字で題名が印字されているけれど、その題名は酷く簡潔で素っ気なく、タイトルだけでは物語の中身がわからないようにできている。表紙にも裏表紙にも内容を示す情報は一切なく、革の表紙は味が出始めていてとてもいい風合いなのに、誰もが手に取ることをためらってしまう。鳴海先輩はきっと、そういう本だったのだ。
 私は先輩のその素っ気なく冷たい、だけどとても美しい姿にも心惹かれていた。私にとっては触れてみたい、手に取って中をぱらぱらと覗いてみたいと思う存在だった。その頑なで潔いシンプルな表紙の向こうにどんな文章が潜んでいるのか、私からすれば気になって仕方がなかった。
 そして私は多くの人に、先輩を知ってもらいたいと思っていた。装丁こそシンプルで素っ気なくはあるけれど、中に潜む物語の美しさ、切実さには胸を打たれるだろうし、表紙からではわからないような温かみだって読み取れるはずだ。多くの人に先輩という本を手に取ってもらえたら――私は先輩の卒業後にもまとわりついてきた悪評を疎ましく思っていたから、尚のことそう願っていた。
 でも今の先輩はより熟成された、とても美しい装丁をしている。
 革表紙はより味が出てきて渋い色合いになり、紙とインクが時を経て甘い匂いを漂わせ始める。購入したての本のようなまっさらな美しさはないものの、通り過ぎていった歳月が本をより美しく、人の目を引くものに変えていったように思える。きっと今なら鳴海先輩という本を手に取ってみたい、読んでみたいと思う人も昔より多くいることだろう。
 もちろんその本の中には、私しか開けないページもある。そういうものは私以外の人が知る必要はないし、私は先輩が読ませてくれたことを嬉しくも、誇りにも思って生きていくつもりでいる。

 鳴海先輩は時間通りに休憩を終え、入れ替わりで大槻さんが休憩に入った。
 私はいくつかの本棚にできていた隙間に本を収める作業に追われていた。それ自体は単純な肉体労働で、気温の高い中では大変ではあったものの、難しいことではなかった。
 ただ、本棚の最上段が厄介な敵だった。二メートル超の本棚の一番上の段は私にとって指先がぎりぎり触れる程度の高さだ。背伸びをすればどうにか本を押し込むことはできそうだけど、きれいに並んでいるか確かめるのにはいちいち後ろに下がらなくてはならない。でも『古本の船津』は他所の古書店と同様に、そう広くない中にたくさんの本棚を詰め込んでいるから、後ろに下がろうとするとすぐ別の棚に背中がぶつかってしまう。
「先輩。このお店、脚立ってありますか?」
 私は休憩から戻ったばかりの先輩に尋ねた。
 先輩は少し考え込み、
「そういえば店内で見かけたことはないな。届かないのか?」
「はい。ぎりぎりなんです」
 私が本棚の前で背伸びをして、うんと手も伸ばしてみせると、先輩はおかしそうに破顔した。
「意外と小さいんだな。もう少しあるかと思っていた」
 それからレジカウンターの方に目をやって、
「脚立ではないが、椅子ならある。船津さんが戻ってきたら聞いておくから、今日のところは椅子を使えばいい」
「そうします」
 私はその助言に頷き、カウンター裏に回り込んで椅子を取ってきた。椅子は背もたれのないクッション張りの丸椅子で、私はそれを目的の本棚の前まで抱えていって、靴を脱いで上がった。椅子の高さは五十センチあるかないかというくらいで、最上段に本を収めたには十分な高さだ。私は足元に本を詰めたケースを置き、椅子の上でしゃがんで本を抱えては立ち上がり、空いている棚に収めていった。
 だけど三十六度を超えた気温の最中に立ったりしゃがんだりを繰り返していると、だんだん頭がぼうっとしてくる。それでなくても熱い空気は天井近くに溜まるように漂っていて、立ち上がる度に頭全体をむわっと包み込んでくる。
 しまいには汗が噴き出てきて、本をしまおうとする私の手の甲にぽたりと落ちた。汗が出るのは仕方がないけど、売り物を汚してしまうのはまずい。私は一旦本を置き、椅子の上に立ったままでタオルを取り出そうとエプロンのポケットに手を突っ込んだ。
 その直後、立ちくらみが起こったかと思うと、目の前の本棚が斜めに傾いた。
「わっ……」
 傾いたのは本棚ではなく自分だ、とすぐに気づいた。悲鳴らしい悲鳴も上げられないまま私は手を振り回し、それでも抗いようもなく身体が重力に引き寄せられていく。靴下を履いた足の裏が椅子の座面から離れ、こうなるともう次に何が起きるかは予測はついてしまう。大した高さでもないのにぞっとするような悪寒と空っぽの胃が浮遊する不快な感覚が一瞬にして過ぎった。
 落ちる、ぶつかる――そう思った瞬間、私は先輩に抱き留められていた。
 怖さから目をつむっていたのに、床より硬くないその感触でわかってしまった。抱き締められた腕の力強さと、衣服越しの匂いと、やがて頭上から振ってきた深い溜息。それら全てが先輩の存在を、私を受け止めてくれたことを示している。
「危なかったな」
 先輩の言葉に私は、恐る恐る目を開いた。
 気がつけば私は先輩の膝の上で抱きかかえられていて、先輩も床の上に座り込んでいた。クッション張りの丸椅子は倒れて転がっていったのか、少し離れた本棚の前にあった。本が散らばっていないのは幸いだった。タオルを取り出す為に一旦置いたのが不幸中の幸いだったのかもしれない。
 いや、そんなことを考えている場合じゃない。私は目の前にある先輩の顰めた顔に向かって、慌てて言った。
「す、すみません、先輩。痛くなかったですか?」
 すると先輩は私を強く抱き締めたまま、生真面目に応じた。
「俺は平気だ。お前は? 怪我はないか?」
「ないです……」
 鳴海先輩の受け止め方は完璧だった。私は痛み一つ覚えることなく抱きとめられ、先輩の膝に着地することができた。今は無性にほっとしている。
 だけど先輩はどうだろう。床に座っているということは尻餅をついたことだろうし、それは免れたとしても私は決して軽くないので、きっと大きな負荷がかかったことだろう。
「さっきからふらついているみたいだったからな。見ていて、気になっていた」
 先輩は私の頬を、まるで無事を確かめるように撫でてきた。こちらを見つめる目には外からの強い日差しが差し込んで、見たことのない色をしている。入れたての紅茶に似た明るい色だった。
「立ちくらみでも起こしたんだろう。初日だからと言って無理をしたな」
 向けられた微かな笑みは愕然とするほど優しい。
 もっと叱られるかと思っていた。気をつけろと言われてしまうのではないかと思って、それで――。
「もうすぐ大槻の休憩も終わるから、少し休んでいるといい」
「いえ、大丈夫です」
 大急ぎで私はかぶりを振る。
 驚いたり安堵したりで、夏の暑さも立ちくらみも一気に吹き飛んでしまった。とりあえず先輩の膝から下りようとしたけど、先輩は私をまだきつく抱き締めている。明るい色の瞳で私をじっと見つめていたから、無事であることを確かめたがっているのかもしれない。
 私はもちろん無事で怪我どころか痛いところすらない。どちらかと言うと別のことが気になって仕方がない。
「重くないですか?」
 そう尋ねたら、先輩は真剣な顔で答えた。
「重くない」
 でもそれは先輩なりの気遣いと言うか、リップサービスだったのかもしれない。そんなはずはなかった。だって私は以前と比べても、それほど軽くなっていない。
「本当に?」
 私が繰り返して問うと、鳴海先輩は適切な答えを探そうとでもしたのか、再びじっと私を見た。それから言った。
「本当だ。慣れた」
 おかげで私は狼狽すればいいのか、やはり重かったのかと落胆すればいいのか、あるいはとりあえず膝から下りるべきなのか迷う。
 なのに先輩は私をぎゅっと抱き締めた。夏らしいTシャツの袖から伸びた先輩の腕は皮膚の表面が私よりも冷たく、肌に触れると心地よかった。
 心配をかけてしまったことには胸が痛んだ。先輩は、私が暑さに参りかけていることさえ把握しているほど、私のことを見てくれていたのに。
「ありがとうございます、先輩」
 私は先輩の目を見て告げた。
 先輩は尖り気味の顎を深く引いた。
「ああ。受け止められてよかった」
 それでも一向に私を離そうとしないから、私はおずおずと続けた。
「あ、あの、そろそろ……私、汗も掻いてますから」
「それも慣れてる。気にするな」
「先輩!」
 私は思わず声を上げ、先輩がようやく、ふっと表情を解く。
 すると今度は店の奥から声がした。
「あのすみませんが、俺も一応、何があったんかなって心配してるんで、落ち着いたら説明とかしてもらえませんかね……お二人さんの気が済んでからでいいんで」
 私と先輩は同時に振り向き、店の奥にかかった暖簾を手でかき分けてこちらを窺う大槻さんの姿を見つけた。
 まだ先輩の膝の上にいた私はその時非常に気まずかったけど、大槻さんはにやにやしながら携帯電話を構え始める。
「て言うか、記念に写真撮っていい?」
「駄目だ」
 先輩はぴしゃりと一蹴すると、それでも心なしか名残惜しげに私を膝から下ろした。

 その後、私は大槻さんと交替で休憩に入った。
「ちゃんと休めよ。水分も忘れず取るように」
「そうそう。初日なんだから、無理せず体調最優先でね」
 鳴海先輩と大槻さんに助言を貰い、私は恐縮しながら店の奥へと向かう。無理して迷惑をかけるようでは意味がないから、休憩時間はちゃんと休んでおかなくては。
「……そうだ。雛子、言い忘れてた」
 ふと先輩が私を呼び止め、私は振り返って尋ねる。
「何ですか、先輩」
「冷凍庫にアイスが入ってる。お前の好きそうなのを選んで買ってきた。休憩中に食べるといい」
 先輩のその言葉に私はとても驚いたけど、大槻さんはもっと驚いていた。
「え、何そのサービス! ってか雛子ちゃんだけ? 俺には?」
「雛子だけだ。暑そうにしていたからな」
「何ですと……! 差別だ、これは差別だ!」
「差別じゃない。俺の分もないから公平だ」
 先輩はさらりと言ってのけると、悔しそうな大槻さんをよそに私に向かって微笑んだ。
「初日だけのサービスだ。先輩として、後輩には優しくしないとな」
 やっぱり鳴海先輩は変わったのだと思う。
 私は頭の中で、前に想像した革表紙の本を思い浮かべてみる。歳月を経て時と共に一層味わいを増す革表紙の装丁を、私はとても美しいと思う。その本の一ページ一ページを大切にしていきたい。恐らく漏らさず書き込まれるであろう今日の出来事も、反省と感謝と深い愛情をもって覚えておこう。そしていつの日か二人でそのページを繰り、今日の出来事を思い出すのだ。
「鳴海くん、雛子ちゃんにはめちゃくちゃ優しいね」
 大槻さんが溜息をつき、先輩はむしろ訝しげに聞き返す。
「おかしいか?」
「いや、おかしくはないけど……去年の君に今の君を見せてやりたいなと思うよ。別人じゃん」
「否定はしない」
 そう言って先輩は、年相応の照れ笑いを浮かべた。
「でも今は、この方が気分がいいとわかった。不思議なものだな」

 休憩に入った私はお弁当を食べ、それから優しい先輩がご馳走してくれたアイスクリームを食べた。
 何度思ったかわからないけど――本当に、こんな先輩と一緒にいられて幸せだ。
▲top