Tiny garden

七月の残照(2)

 嫉妬心が全く無意味なものであるとは思っていない。
 例えば芸術の分野においては嫉妬を昇華させることにより生まれた素晴らしい作品も数多くある。自分より優れた者を羨む心は誰の中にもあり、その感情を原動力として更に優れたものを生み出すこともできる。創作に限らず、誰かを超えてやりたいという意思があらゆる文明、技術の発展を支えてきたのも事実だ。嫉妬と羨望はある意味、自らもこうありたいと願う前向きな意思でもあるからだ。
 だが恋愛における嫉妬には一体何の意味があるのだろう。まして成就した恋において嫉妬がよい方向に作用することなどあるのだろうか。
 俺は雛子を手に入れて、彼女の恋人という立ち位置を得た。彼女の両親にも紹介してもらい、更には彼女の貴重な休日をほぼ独占できている。雛子は出会ってからずっと一途な想いを俺に向けてくれているし、俺だけしか知らない顔も見せてくれるようになった。身も心も手に入れて、社会的にも関係を認められて、それでも尚満足できないのはなぜなのか。
 どこまで行き着けば、俺はこの関係に満足し、嫉妬心を消し去ることができるのだろう。
 極論を言えば、彼女の周囲にいる男共を全て排除して、彼女を誰の目にも触れないように閉じ込めてしまうまではどうにもならないものなのかもしれない。
 しかしそのやり方は現実的ではないし、文明的でもない。彼女の人権を侵害している。
 一人の人間として彼女を尊重した上で、嫉妬心とも上手く付き合っていく。これが一番理想に近いやり方だ。
 もちろん言うは易し行うは難し、そんなことができるならいちいち煩悶したりはしない。
 だから俺は思うのだ。
 恋愛における嫉妬には何の意味があるのだろう。
 これが何かよいものを生み出すことがあるのなら諦めもつくが、ないのなら、俺はどうやってこの感情と付き合えばいいのか。

 全ての講義を終えて、大学を出たのは午後五時過ぎだった。
 雛子は友人と約束があると言っていたし、大槻は楽団のミーティングで帰りが遅くなるらしい。ごく狭い人間関係しか築いていない俺は、こうして一人で帰ることもさして珍しくない。一人でいるのが辛いという気持ちも普段は湧かない。
 だが普段は忘れていられる感情すら、彼女の存在が呆気なく呼び起こしてしまう。
「――先輩!」
 夕飯の買い物の為に近所のスーパーへ立ち寄ろうとした時だった。彼女の声が背後から、俺を呼んだ。
 立ち止まって振り向けば、まだ明るい空の下、雛子が数人の連れと共に歩いてくる。ちょっと待ってて、と連れに告げた後、彼女は一足早く俺のところまで駆けてくる。その顔には曇り一つない笑みが浮かんでいて、なぜか胸が締めつけられた。
「先輩、今帰りですか?」
「ああ。買い物をしていこうと思っていたところだ」
 俺は頷いた。
 すると雛子は視線で振り返り、道の後方に距離を置いて立ち止まる四、五人の連れたちを見やる。皆、興味深そうにこちらを見ており、そして俺が目を向けると行儀よく頭を下げてきた。昼間に電話をした相手は女だと言っていたが、言葉通り女ばかり五人ほどの構成だった。
「私たちもこれからご飯なんです。その後友達の家で勉強する予定で」
「そうか」
 俺も雛子の友人たちに頭を下げる。それから彼女に告げた。
「何時に帰るのか知らないが、気をつけて帰れよ」
「はい、そうします。帰ったらメールしますから」
 雛子は微笑んで言い残すと、また駆け足で友人たちの元へ戻っていった。待ち受けていた友人たちに突かれたりにやにや笑いを向けられたりしながら、彼女も朗らかに笑んで集団の中に交ざっていく。そして彼女たちはスーパー前の通りを、店の前で立ち止まっている俺を追い越して歩き始める。
 俺も目的を果たそうとスーパーに足を向ける。自動ドアが開いて強すぎる冷房の風と有線放送の音楽が溢れ出てきた瞬間、急に名残惜しくなって彼女へ視線を戻した。
 雛子たちはもう数メートルほど先を歩いていた。友人たちと他愛ない話をしているのだろう、楽しそうに笑っている。その顔自体は見慣れていて、特別なものではなかったが、その笑顔が傍にないことには痛みを覚えた。
 込み上げてくる強い感情に息ができなくなり、気がつけば声を上げていた。
「雛子!」
 彼女が振り返る。隣を歩く友人たちも足を止める。一様に浮かぶ怪訝そうな顔も、彼女のものだけは容易に見分けがつく。眼鏡の奥で驚きに瞠られる瞳と、薄く開いた唇がこの距離からでもわかる。
 一方、俺は呼び止めてから今更のように後悔していた。正直に言えば呼び止めてしまった自分自身に驚いていた。それで思わず立ち尽くしていれば、雛子だけがこちらへ戻ってくる。
「どうかしましたか、先輩」
 息を弾ませそう聞く彼女に、俺はとっさに言葉も出ない。
「いや……」
 頭の中でそれらしい口実を手繰り寄せようとする俺は、食堂で彼女を誘おうとしていたあの男と大差ない。こうして会話を引き延ばして、彼女と少しでも長くいられるようにしている。
 ただあの男と違うのは、俺が本来なら嫉妬どころか心から満足して、幸せであることを喜ぶべき立ち位置にいるという点だ。
「どうか、したんですか?」
 言葉に詰まる俺を見て、雛子が瞬きをする。
 彼女の後ろでは友人たちがやはり不思議そうにこちらを見守っていた。皆、彼女を待っているのだからあまり長くは引き止められないだろう。むしろ引き止めるべきではなかった。
「特に用はない」
 俺は正直に言い、途端におかしそうな顔をする彼女にだけ聞こえるよう、続けた。
「少し、呼び止めてみたくなっただけだ。悪かったな」
「……そんなことないです」
 雛子は強くかぶりを振り、やはり声を落として応じる。
「先輩。今日も皆に先輩の話、してきてもいいですか?」
「俺の話をか? そういうのは……」
 勉強会でするような話でもない。俺は難色を示そうとしたが、雛子はそれを押し切るように言った。
「私はいつでも先輩のことを考えてるんです。だから先輩のいないところでも、惚気話をしたくなります」
 大学生になっていくらか大人びたようでも、こういう時に浮かぶ控えめな微笑は変わらない。むしろ昔からこの表情をする時だけ、彼女がとても近く思えた。
 微笑む淡い色の唇に目をやって、離れがたい思いをぶつける先も見つからず、俺は仕方なく答えた。
「程々にしろよ」
「はい。じゃあ、行ってきます」
 大きく頷いた雛子が踵を返す。また友人たちの輪の中へ戻っていく。友人たちは好奇心旺盛そうな顔つきで彼女を囲み、質問攻めにし始めたようだが、会話内容までは聞こえてこなかった。
 俺は改めてスーパーに入り、買い物かごを手に取りながら溜息をつく。
 結局、俺の嫉妬は誰が相手だろうと関係ないのだろう。
 彼女は俺以外の誰かと共にいて、楽しそうにしている。そのことが気に入らなくて、満足できなくて、みっともなくも嫉妬心を滾らせるのだろう。そうでなければ彼女を呼び止めてしまった理由にも説明がつかない。
 俺は彼女を信じていると言ったはずだ。その言葉に嘘はない。
 ならば、いつまでも嘘に変わることのないよう、俺は彼女を信じ続けるべきだ。
 そういう正論も頭では理解しているのに、重苦しい感情はすっかり胸に根づいてこうして俺につきまとう。
 そんなものを抱えて歩いたって何のメリットもないとわかっているのに。

 買い物をして部屋へ戻り、それから一人分の夕飯を作って食べた。
 今日のはあまり美味くなかった。原因はわかっている。
 だが解決する有効な手立てが見つからない。かといってこのまま放置しておいてもいいのかどうか。これからの人生をずっと満足しないまま、嫉妬し続けたまま生きていくのは虚しいことだ。
 一時と比べて、今の俺は幸せではないのか。雛子の存在は俺から孤独を取り払い、冷え込んだ心を温めてくれた。言葉の足りない俺の話にも熱心に耳を傾けてくれた。どす黒く澱んだ過去とは比べようもない幸せを得て、これ以上何を欲しがるつもりでいるのか。
 嫉妬心は底知れず、欲望には果てがない。それを上手く昇華できたなら素晴らしいものを作り上げられそうだが、あいにくと俺にはそのやり方すらわからない。
 そんなことを考えながら蒸し暑い夜を過ごしていると、午後七時過ぎ、部屋のチャイムが鳴った。
 夜の訪問者は珍しい。インターフォンのない部屋では不用心にドアを開けることもできず、俺は玄関にたってドア越しに応じる。
「――どちら様?」
「わ……私です、先輩」
 遠慮がちにそう言ったのは、聞き間違いようもない雛子の声だった。
 俺は眉を顰めながら鍵を開ける。ドアを開くとやはり彼女が、夕方会った時と同じ格好で立っていた。俺の反応を窺うように、上目遣いではにかみながらこちらを見ている。
「どうした。何かあったのか」
 表情からして深刻な理由で訪ねてきたのではないようだが、それでもこんな時間に訪問されてはぎょっとする。
「いえ、あの……」
 雛子は尚もはにかみながら、言いにくそうに打ち明けてきた。
「何だか急に、先輩の顔が見たくなって」
「どういう意味だ」
「どういうって、他の意味なんてないですよ!」
 彼女は笑ったが、俺は困惑するばかりだ。そんな理由の為だけにここへ――いや、それよりも彼女は友人たちと約束をしていたのではなかったか。
「お前、約束はどうした。もう帰りなのか?」
 俺が問うと、雛子はまた笑い声を立てる。
「ええと……途中で抜けてきたんです。皆に先輩の話してたら、先輩に会いたくなって、それで――」
 玄関の蛍光灯の明かりを浴びて、彼女の顔は月のように白く見えた。
「友達にもそそのかされちゃいました。そんなに会いたいなら、会いに行っとくべきだよって」
 彼女たちが一体どんな会話を交わしているのか、気にかかる。勉強会ではなかったのか。前期試験も近いというのに、大丈夫なのだろうか。
 だが来てもらったのに追い返すというのも酷だろうし、どういう経緯であれ会いたいと思ってもらえたことを批判する気にはなれない。時間も時間だから上がっていってもらうわけにはいかないが、代わりに三和土に揃えておいた靴を履いた。
「仕方ない。送っていってやる」
「あ……先輩、その前に」
 彼女が、開けたドアを押さえる俺の腕にそっと触れた。それから俺と目を合わせて、言った。
「ちょっとだけ、中に入れてもらってもいいですか」
「もう七時を過ぎてる。門限はいいのか?」
「まだ大丈夫ですよ。それに、すぐ済みますから」
「本当だろうな。後で駄々を捏ねたりするなよ」
 俺がドアを一際大きく開けると、彼女はすぐさま玄関の中へ入ってきた。
 そして支えていた俺の腕がドアから離れ、音を立てて閉じた瞬間、雛子は靴を履いた俺に身体を密着させるように歩み寄り、首に腕を巻きつけてきた。
 顔が近い、と思った直後、彼女の唇が俺の口に触れた。
 一秒間もないような、瞬きより短いキスだった。
 だからといって何とも思わないかと言えばそうではなく、むしろ俺は面食らって、首にしがみついている彼女を見下ろす。
 雛子も自分でやっておいて、今更恥ずかしいというように目を逸らした。
「あ、あの、ごめんなさい……」
「なぜ謝る」
「何か、柄でもないことしたかなって……びっくりしませんでした?」
「した。当然だろう」
「嫌じゃなかったですか?」
「当たり前だ」
 キスそのものよりも、彼女の方から顔を近づけてきた。そのことにどぎまぎしていた。
 こうして見下ろす顔もとても近くにあり、蛍光灯の光の下で白い肌は一層白く、黒い瞳には小さく光を浮かべているのがよく見えた。おまけに夏服の彼女に抱きつかれて、体温や身体の柔らかさが手に取るように伝わってくる。俺は門限について、自ら言い出したことを早くも悔やんでいた。
 一気に、帰したくなくなった。
「今日は、先輩を寂しがらせたような気がしたから……」
 雛子は不意打ちの理由をそう語った。
 それは少々見当外れの読みにも思えた。
「俺は寂しいとは一言も言ってない」
「そうですけど。何て言うか、当て推量です。女の勘です」
「大体、謝るくらいならするな。いちいち謝らなくてもいい」
「じゃあ、次からはそうします」
 彼女は真面目に頷いている。
 次があるのか、と俺はゆっくり息を吐き出す。
「しかし、柄でもないというのは確かにそうだな。お前がこういうことをしてくるとは驚きだ」
 そう告げると雛子は笑みを消し、どこか不服そうに瞬きをしながら言った。
「でも、先輩。これで二度目なんですよ、私」
「は? 覚えがないぞ、いつの話だ」
 一度目の記憶が俺にはない。聞き返すと彼女はためらいがちに口を開く。
「先輩が寝てる間です」
 俺は彼女に寝顔を見せたことがあっただろうか。
 少し考えて、そういえばあったと思い当たる。体調を崩して寝ていたことが一度、それからもっと前に、寝不足だった為彼女の膝を借りて眠ったことも一度だけ――。
 思い出した。
 あの時、彼女の膝を借りた時。うとうとする浅い眠りの最中に唇に何か柔らかいものが触れて、俺は思わず飛び起きた。だがその時は寝惚けて、夢でも見ていたのかと思ったのだが。
「なあ。それ、かなり昔の話じゃないか」
 思わず低い声が出て、雛子が少し身を引く。
「お、怒ってますか? 先輩」
「怒ってない。ただ大事なことだから詳らかにしておきたいだけだ」
「あの、でも、先輩はそういうの気にしないですよね?」
「そういうの、とは?」
「ですからあの……何て言うか、ファーストキス的なことを……」
「気にはしないが腹は立つ。俺はあの時、とんでもない夢を見たものだと思ったんだぞ」
 願望が夢に現われるのもよくある話だが、それにしても直截的すぎはしないかと内心慌てていた。夢の内容まで彼女に打ち明けなくてよかったと、寝起きの頭でもほっとしていたというのに。
「夢じゃないですし、多分、とんでもなくもないです」
 雛子は悪びれる様子もなく言った。そのくせ上目遣いで俺の腹を探ろうとしている。
「とんでもないだろう、あの当時の俺たちには。なぜあんなことをした」
「なぜって……」
 そして俺の問いには照れながら、こう答えた。
「こういうことって、したいからするんです。違いますか?」
 違わないが、彼女にもしたい時があるのかと思うと――それもずっと前からなのだと思うと、キスごときで毎回するか、しないかをまごまごと逡巡していた頃の自分が無様で、滑稽でならない。
 もっとも今だって、キスごときですっかりやり込められてしまっているのだが。
「なら俺も、したいからする」
「え? ……わ、あっ」
 彼女の肩を鷲掴みにして、玄関のドアに押しつける。
 少しは困らせてやろうと思ったのに、唇を重ねる直前、雛子は幸せそうに微笑んで目を閉じた。
 もしかすると今夜も、したいから、訪ねてきたのかもしれない。

 結局その夜は、彼女を駅まで送り届けた。
 七月の夜は残照のせいか不思議なくらい明るい。そこに丸く満ちた白い月が浮かぶと、夜空は一面明々と照らされて、俺たちに時間を忘れさせようとするかのようだった。
 駅までの道には相変わらず人気がなかったが、夏の虫の声が静かに鳴り響いている。
「今夜は月がきれいですね、先輩」
 歩きながらふと、雛子が言った。
 その横顔をちらりと見れば、悪戯でも仕掛けてきたような面持ちでいる。俺は溜息をつく。
「『わたし死んでもいいわ』、とでも返せばいいのか?」
「あ……いえ、そういうことなんですけど。一度言ってみたかったんです」
 自分から言い出しておいて、彼女は妙に恥ずかしそうに俯いた。大胆なのかそうでもないのかまるでわからない。
「でもこうして歩いていると、どうしてそう訳したのか、わかる気がしませんか」
 彼女はそう言って、視線を残照の空へ戻す。
「月がきれいで、残照もきれいで、梅雨が明けたから雨の心配もなくて、虫の声がする静かな道を、二人で手を繋いで歩いてる……そうしたらもう、他に何も要らないって思うんです」
 そうして繋いだ手に、そっと力を込めてきた。
 俺も空を見上げ、月と残照に目を眇めながら考える。
 雛子はこの時間に満足しているのだろう。今夜の月も残照も、駅までの道も限りがあるということを既に受け入れているのかもしれない。
 気の持ちようの違いなのかもしれない。俺は今もこの後のことを考えている。直に訪れる別れは一時のもので、彼女とは明日もまた会える。月と残照が美しい空も、虫の声が響く夜道も、この夏の間に何度かめぐりあえるものかもしれない。しかし今夜見ているこの空と、全く同じ空が現われることは二度とない。その儚さを美しいと思うか、切ないと思うかの違いなのだろう。
 俺が寂しがっていると言った雛子に言葉も、見当外れではなかったようだ。俺の底知れぬ嫉妬心も結局はそれに行き着くのだろう。このあえかな一時も、幸福も、終わりが来ることばかりを気にしていては、何も楽しめはしないのだ。
「俺は、お前を信じていると言ったが」
 答える代わりに俺は口を開き、
「本当は、明日もまた会えるということさえ信じていなかったのかもしれない」
 と続けると、雛子は怪訝そうに小首を傾げた。
「どうしてですか」
「慣れていないせいかもな」
 思い当たる節を述べてみる。
 雛子が、俺の手を一層強く握った。
「なら、大丈夫ですよ。今すぐは無理でもそのうち、絶対慣れます」
「そうだな。俺もそう思う」
 幸せな時間は無限にあるものではない。夜の後には朝が来て、今日が終われば明日になる。
 けれど、明日を信じて待つ心があれば、儚い幸福のひとときを楽しむこともできるのだろう。
 胸に巣食う嫉妬心とも、いつかは上手い付き合い方ができるようになるかもしれない。
 それまでしばらくは、友人の多い彼女を見かける度にこんな日を過ごすことになるのだろうが――それも雛子となら、こうして乗り越えていくことができる。
「明日もまた会えるな、雛子」
「はい。明日が楽しみですね、先輩」
 俺の言葉に彼女は、いつものように、控えめに微笑んでみせた。
 しかしすぐに浮かない顔になり、ぼやくように言った。
「でも試験が刻一刻と近づいてくるのは……ちょっと憂鬱です」
「今から備えておけば憂鬱なことは何もない。気の持ちようだ」
「……そういう台詞も、一度言ってみたいです」
 七月の明るい夜空の下、彼女が屈託なく笑う。
 俺はその眩しさに目を眇めた。子供ではなくなりつつある彼女のあどけない表情は、今となってはやはり儚く、貴重なものだ。
 夜を迎えた空をなお染める、まるで残照のような笑顔だった。
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