Tiny garden

七月の残照(1)

 七月に入ると、学食の利用者数が目に見えて落ち込む。
 それは暑さのせいでもあるだろうし、眼前に迫り来る前期試験に備えるが如く、コピー機が混み合う為でもある。
 そして新入生たちが大学生活に慣れ、学食以外の昼食の選択肢を自ら探し当てるようになるからでもあるのだろう。
 新入生の入学から三ヶ月が過ぎ、学内の空気はすっかり落ち着きを取り戻していた。熱狂渦巻く新歓シーズンも梅雨の始まりと共に熱が引き、梅雨が明ければ各々が夏休みを意識し始める。もっとも、夏休みの前には試験という関門も存在する。それをどう乗り越えるか、あるいは――個人的には考えがたい結果だが――乗り越えられないかで夏休みのありようもまた変わるのだろう。
 雛子も大学生活に馴染んだようで、近頃ではもう何年も前からここに通っていたような顔をすることがある。しかしそんな彼女であっても初めての前期試験は気が重いものらしい。試験に備えて勉強はしているようだが、それでも時々不安を口にしていた。
 とは言え、それは誰しもに共通する不安だろう。彼女の大学生活に影を落とすものではないようだった。
 影はむしろ、俺の心にこそ落ち始めていた。

 暇のある昼休みは彼女と食事をする約束をしている。
 だがその日は『少し遅れます、ごめんなさい』とメールがあった。仕方なく俺は魚の煮つけ定食を一人で食べ始め、雛子はそこから十五分遅れて学食へ現われた。
 彼女は、見知らぬ男と一緒だった。
 恐らく同期生と思しきその男と、雛子は何か会話を交わしながら食堂内を歩き出す。あらかじめ俺の席は伝えてあったから探し回る必要はなく、彼女は真っ直ぐこちらへ歩いてくる。だが顔は隣を歩く男の方を向いており、そこに浮かぶ表情は少し厳しい。
 男の方はずっと雛子の顔を見ている。覗き込むような距離から見つめているのが腹立たしい。男は特別派手な外見こそしていなかったが、何となく軽薄そうに見えるのはその目線のせいかもしれない。
 箸を止めてじっと見守っていれば、近づいてくるにつれ、彼女と男との会話が聞こえてきた。
「……だから。この間メールで説明した通りだよ」
「わからないんだよあれじゃ。柄沢の説明が悪いって言うんじゃないけど」
「じゃあ後で詳しく書いて送り直すから。私、ご飯食べるからもういい?」
「悪いな、助かる。今度お礼させてくれると嬉しいんだけど」
 男がそう言って彼女に手を合わせたタイミングで、彼女は俺の席まで辿り着いた。一瞬だけ俺の方をちらりと見てから、結局ここまでついてきた男に作ったような苦笑いを向けた。
「ううん、そういうのはいいよ」
 雛子はきっぱりと言い切りながら、俺の隣の椅子を引く。
 ついてきた男が俺に気づき、迷いながらぎこちなく頭を下げてくる。俺はぎりぎり睨みにならないほどの視線を送るに留めた。
 途端に男は気まずげなそぶりを見せ、すかさず雛子に機嫌を取るような笑みを向けた。
「いや、柄沢には結構世話になってるし。今度飯でも奢らせて」
 一瞬だけ、雛子が眉を顰めた。
 その後すぐに力なく笑んで、
「いいってば。このくらいでお礼なんて大げさだよ」
「けど……」
「それに私、男の子と二人では出歩きたくないの。付き合ってる人がいるからね」
 雛子の目がちらりと俺を見る。
 そこまで言われてようやく、男は諦めたように肩を落とした。
「わかった。じゃあメール待ってるからな」
「うん」
 雛子は溜息交じりに答え、去っていく男を見送らずに椅子に腰を下ろす。
 それから俺の方を見て、済まなそうに眉尻を下げた。
「すみません、先輩。遅くなっちゃって」
「気にしなくてもいい」
 俺はそう応じたが、むしろ俺の方が気にしていた。今の会話は何事かと問い質したい衝動に駆られている。
「今の人、同じ授業取ってるんですけど、試験範囲がわからないって言うんです」
 こちらが尋ねるよりも先に、雛子が零すように言った。
「だから二回もメールで教えてあげたのに、それでもよくわからないって……だったら私じゃなくて先生に聞きに行けばいいのに。そう思いませんか?」
 全く同感だと俺は深く頷いておく。
 もちろん、あの男の狙いが試験範囲を聞き出すことだけにあるとは思っていない。よくある類の口実だ。話やメールでのやり取りを引き延ばすべく、わざと共通の話題を引っ張ってみせたりするような――俺も雛子に対してそういう手口を使ったことがある。電話をしていてもう少し話したいとか、帰り際に少しだけ引き止めたいという時、他愛ない質問を振って彼女に答えさせることで一緒にいる時間を引き延ばすというようなやり方だ。だから悔しいことにあの男の手口もまたわかってしまう。
 現に奴は雛子を食事に誘おうとしていた。真面目な彼女がきっぱり断ってくれてほっとしたが、これで片がついたとは思っていない。機会があればまた男は雛子を誘おうとするような気がする。問題はそこだ。
「あ、私、ご飯買ってきます」
 一旦席に着いた雛子が、思い出したようにまた立ち上がる。そして俺が煮つけ定食を粗方食べ終えているのを見て、気遣わしげに尋ねてきた。
「先輩は、もう戻っちゃいます? もし時間あるなら……」
「大丈夫だ。食べ終わったらコーヒーでも飲む」
 俺が答えると、彼女はほっとしたように微笑んだ。
「よかった。じゃあ、すぐ買ってきます」
 それから椅子を引っ込めて、長い髪を靡かせて歩いていこうとする。夏場の彼女は大抵半袖のブラウスにスカート、あるいはワンピースという服装をしていて、今日もギンガムチェックのワンピースを着ていた。最近はスカート丈が短すぎるのではないかと思うことがよくある。今日も歩く度、白い膝裏が裾から覗くのが気になって仕方がない。
「知らない奴についていくなよ」
 思わず声をかけると、雛子は足を止めて振り向き、怪訝そうにしながらも笑った。
「先輩。私、子供じゃないですよ」
「わかってる」
 わかっていても言わずにはいられない。
 だが、何と言葉をかけるのが最適なのか、俺は時々わからなくなる。

 はっきり言ってしまえば、雛子の周りに他の男が存在していること自体が気に入らない。
 大学でも必要最小限の人間関係しか築いていない俺とは違い、彼女は高校時代と同様に社交的だ。入学してすぐに友人を作り、たまに食事に出かけたり、一緒に勉強をしたりと交友を深めているらしい。どうやら異性の友人もいるようで、何人かと並んで歩いている姿を構内で見かけたこともある。先程の男もそのうちの一人なのだろう。
 異性であっても友人だと彼女が思っているならそれはいい。気分的にはよくないが、そこは俺が口を挟むべきことではないはずだし、余計なことを言って彼女の大学生活が辛いものになるようではいけない。彼女には憂いのない大学生活を送って欲しかった。
 問題は雛子が友人だと思っていても、相手がそう思っていない場合だろう。
 ちょうど先程の男のように、あからさまに誘いをかけてくるような奴もいるようだ。ああいう男は――と言うより、男というものは得てしてしつこいものだ。少なくとも俺の周りでしつこくない男など見たことがない、俺を含めて。
 あの男がもう一度彼女を誘った時、彼女は改めてきっぱり断ってくれるだろうか。
 彼女を疑うつもりはなく、その真面目さも一途さも知った上で信じている。雛子なら疑わしい男からの誘いは断ってくれるだろうと思っているのだが、それでも時々狂おしいほどの嫉妬を覚える。
 そして嫉妬をすればするほど、自分が惨めかつ矮小な人間に思えて、自己嫌悪に苛まれるのだ。
 いっそ、彼女の周囲から他の男が消えてしまえばいいのに。
 短絡的な考えが胸裏に浮かび、ますます惨めになる。

 しばらくして、雛子は食事を乗せたトレーを手に戻ってきた。
 だが肩に携帯電話を挟み、誰かと話をしているところだった。俺と目が合うとまたも済まなそうにしつつ、通話を続けた。
「……うん、今日なら大丈夫。何時集合だった?」
 どうやら誰かと会う約束をしているらしい。俺は彼女の為に椅子を引いてやり、雛子は頭を下げながらそこに腰を下ろし、無事にトレーをテーブルに置いた。
 携帯電話を持ち直して、長い髪を払うように少し首を傾げ、話を続ける。
「わかった。じゃあその時持って行くね。また後で――」
 やり取りが一段落したのか、雛子は一旦電話を切ろうとした。
 だがそこで相手が何か言い出したらしく、
「え? 何?」
 瞬きをしながら聞き返す。
 直後、雛子が表情を綻ばせるのを見た。
 親しい相手に見せるような、実に柔和な顔つきだった。
「しょうがないなあ。案内してあげるから、一緒に行こ。どこで待ち合わせる?」
 俺はその顔に真横から見入り、その砕けた物言いに苛立ちを覚える。電話の相手は誰だろう。女か、それとも男か。彼女のことを信じているはずなのに、信じているつもりだったのに、みっともなく勘繰りたがる自らの心が疎ましい。
 彼女は通話の相手といくつか言葉を交わし合った後、また後でと言って電話を切った。それから俺に向き直り、やはり申し訳なさそうに言った。
「すみません。急に電話がかかってきちゃって」
「いや……」
 謝る必要はないと口を開いたものの、後の言葉が続かない。気にしなくてもいいと今こそ言うべきだろうに。
 さすがの雛子も俺の曖昧な返答に違和感を覚えたようだ。箸を手に取ったものの、買ってきたエビフライ定食をしばらく見下ろしてから、思い切ったように顔を上げた。それでも口調はおずおずと尋ねてきた。
「あの、さっきのこと、気にしてますか?」
 さっきのこととはどれだ。どちらだ。心当たりがありすぎてかえってわからず、俺は黙って彼女を見つめ返す。
 すると雛子は言葉を選びながら続けた。
「何て言うか……あの人にはいつも言ってるんです。お付き合いしてる人がいるって」
 どうやら彼女は、俺が先程の男を気にして機嫌を損ねていると思っているようだ。
「でもあの人は結構、女の子皆にあんな調子みたいで。あまり言うとかえって自意識過剰かなって気もして……難しいですよね」
 雛子は生真面目な口ぶりで続ける。彼女なりに、ああいう手合いを退ける方法には試行錯誤しているところらしい。俺は彼女の倫理観は全面的に信頼しているし、それが揺らぐことはないだろうと思っている。
 だが心配し始めるときりがない。あの男が雛子の倫理観を逆手に取って、例えば真面目な相談があると嘘をついて彼女を誘い出すようなことがないとは言えない。悪辣な連中とはどこにでもいるもので、そういう連中は得てして真面目で純粋な人間では思いもつかないような手口を用いてくるものだ。雛子は以前から勘の鈍いところがあるし、俺ほどは人を疑ってかかる性格でもないから、そのうち誰かに騙されてしまうのではないかと不安でならない。
 あの男だけではない。たった今電話していた相手は先程の男よりも親しみを持った間柄のようだった。もしそいつまで男だったら、その男までもが彼女に好意を持っていたら――。
「先輩」
 彼女の声が俺を呼び、重く垂れ込めていた疑念を一時追い払う。
 はっとしてそちらを向くと、雛子は箸を持ったまま不安そうにしていた。眼鏡のレンズの奥で、俺を注視する瞳が戸惑いに揺れている。
 嫉妬のあまり彼女を不安がらせるとは愚の骨頂だ。俺は息をつきながら口を開く。
「お前に友人が多いことはわかっている」
 わかっているからこそ、弁えなければならないのは俺の方だと思っている。
 彼女を信頼していて、そして彼女の人間関係を縛りたくないと考えている以上は、嫉妬心など持つべきではない。どうしても消しようがないならせめておくびにも出さずにいるべきだ。
 しかし現実には隠し切れてもいないようで、勘が鈍いはずの雛子は俺の嫉妬には思いのほか敏感だ。あっさりと見抜いては気を遣うようなことを言うから、その度に俺も自らの器の小ささを思い知る羽目になる。
「さっきのように、俺がいることをちゃんと話してくれているのであれば、それでいい」
 俺がそう言うと、雛子もやっと微笑んだ。
 控えめな、思慮深さを窺わせるいつもの彼女らしい微笑だった。
「もちろん言ってます。私、友達の前ではすごく惚気てるんですよ」
「そういうのはいい。あまり余計なことまで喋るな」
「でも先輩のことを話すとどうしても惚気になっちゃうんです。兄にもよく言われます」
 はにかみながら語る雛子を見ていると正直満更でもないのだが、同時に少しばかり心配になる。
 彼女は大学生になってからというもの、見た目は急激に大人びた。日常的に化粧をするようになり、長い髪を下ろし、制服を着なくなった。彼女の私服は高校時代からやや落ち着いた雰囲気のものばかりで、それを毎日着ていれば大人っぽく見えるのも当然だろう。彼女に近づく人間が多いのも、非常に腹立たしいが納得はできる。
 だが中身の方はそう急に変わるものでもない。子供だと言い切ればまた彼女が怒るだろうが、十八歳は少女の範疇だ。彼女の少女らしい真面目さはあくどい人間に通用する代物でもないだろう。
「だから、心配しないでくださいね。誰に誘われたって私、先輩以外の人にはついていったりしませんから」
 念を押すように彼女が言ったので、俺は信じたい一心で頷いた。
「ああ。信じている」
 それからしばらくはお互いに無言だった。俺は煮つけ定食の残りを片づけ、彼女は本腰を入れエビフライ定食に取りかかる。
 当然だが俺の方が先に食べ終わり、食器を返しに席を立ち、コーヒーを買って戻ってきた後、俺はずっと気になっていたことを口にした。
「ところで、詮索するようだが、さっきの電話は――」
「心配しなくても、女の子ですよ」
 まるで聞かれることを読んでいたように、間髪入れず雛子が答えた。
 俺が思わず絶句すると、彼女は軽く吹き出した。
「いつも私の惚気話を聞いてくれてる子なんです。今日はその子たちと集まって、勉強会しようって話になってて。安心しましたか?」
 してやられたという思いの一方で、言われた通りにほっとしている自分がいた。
 わかっている。彼女を疑う必要はない。心配する必要も、本当はないのかもしれない。
 消えてしまえばいいのは、俺の胸に巣食う嫉妬心の方だろう。
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