Tiny garden

賑やかな食卓(3)

 お寿司を食べ終えた後、お茶を入れることにした。
 うちの家族は隙あらばお酒を飲もうとしそうだから、いっそ他のものでお腹いっぱいにしてしまえばお酒の入る余地もないだろうと私は目論んだ。ちょうど鳴海先輩が買ってきてくれた洋菓子の詰め合わせがあったから、お茶を飲むにもちょうどいい。
 だけどお湯を沸かし始めてから、うちにはコーヒーの買い置きがなかったことを思い出した。父も母もそして私も紅茶党だから、紅茶以外はあまり置いていない。
「ねえお母さん、コーヒーってないよね?」
 台所で戸棚を覗きながら私は尋ねた。戸棚の中に見当たらなかった時点でもう駄目もとみたいな気分だったけど、本当に駄目だったようだ。母がさも当然という顔で答える。
「ない。だってあんた、飲まないでしょ?」
「先輩はコーヒーの方が好きなんだって。買っておけばよかったな……」
 食後にお茶を飲むかもしれない、なんて少し考えればわかりそうなものなのに、どうして用意しておかなかったんだろう。私は悔やんだ。
 もっとも、鳴海先輩も紅茶を全く飲まないというわけではないし、むしろ私に付き合って何度か飲んでくれたこともある。今日のところは私が入れた美味しい紅茶に付き合ってもらうことにして、次に先輩が訪ねてくる時には忘れずコーヒーを買っておこう。
 先輩がいる居間からは、時々笑い声が聞こえてくる。向こうでは兄と父と先輩とが歓談しているらしく、主に兄が一人で喋って笑い、時々鳴海先輩が何事か答える声が聞こえてきた。何を話しているのかはわからないけど、住み慣れた家の台所に立って、居間にいる先輩の低い声を聞くというのがどことなく新鮮だった。
 これからはこうして先輩の声を聞く機会も増えていくのかもしれない。
「だったら今度からは買っておくようにしないとね」
 どうやら母も、私と同じように考えているみたいだった。さらりとそう言ってくれて、小さなことではあるんだけど、嬉しくなる。
 それから母は流し台の方へ歩み寄って、洗い終えた食器類を拭いている栞さんに声をかけた。
「手伝ってくれてありがとう。程々でいいからね」
「はい。もうちょっとで終わります」
 栞さんもさすがに打ち解け始めているようで、母に向けた微笑からは大分硬さが取れている。それでも、仕方のないことだけど気負っているところもあったようで、食器洗いを買って出た時は私と母が揃って止めた。せっかく来ていただいた兄の未来のお嫁さんにそんなことはさせられない。でも栞さんがどうしても、お世話になっているのに何もしないのは申し訳ないと主張したから、ちょっとだけ手伝ってもらうことにした。
 お湯が沸くまでまだかかりそうだったから、私は栞さんが拭いた食器類を棚にしまうのを手伝った。母は一足先に居間へ戻り、ここには二人きりだった。
「あ……あの」
 布巾で食器の水分を拭き取りながら、栞さんが不意に声を発した。
 私が手を止めてそちらに目をやれば、向こうも私を見て、申し訳なさそうに切り出した。
「今日は、ごめんなさい。妹さんたちまで巻き込んじゃって」
「え? ……い、いえいえそんな、謝らないでください」
 まさか謝られるとは思っていなくて、一瞬間の抜けた声を上げてしまった。慌ててかぶりを振る。
「こちらこそすみません。うちの兄はとにかく昔から思いつきで行動する人ですから、せっかく来ていただいたのに騒がしくなっちゃって」
「いいえ、文くん――文紀さんは私を見かねて、こうしてくれたんです」
 栞さんが兄の名前を言い直したので、別に直さなくてもいいのに、と内心思う。
「私、人見知りだから、こういうので緊張するってわかってて、それで……」
 そこまで話すのにも緊張していたのだろう。栞さんは苦しげに息継ぎをした。
「妹さんたちのおかげで、少し気分が楽になりました。ありがとうございます」
 ぴょこんとお辞儀をする姿は、本当に可愛らしい人だ。
 私はもう一度首を横に振る。
「いえ、私の方こそありがとうございました。栞さんたちがいてくれたから、思ったより気楽な席になって、よかったです」
 鳴海先輩が父に頭を下げた時は驚いたけど、もしあの場に兄たちがいなかったら、先輩は更に畏まった挨拶をするつもりだったのかもしれない。
 それが悪いことだというわけではないけれど、私も先輩には緊張して欲しくなかったし、気負って欲しくもなかった。初めのうちは気楽に、賑やかに過ごすくらいでいいと思う。畏まった挨拶はもう少し先に――それが必要になった時でいい。当面はこうして時々家に来てもらって、一緒に晩ご飯を食べたりするくらいで。先輩はそういうものにさえずっと縁のない人だったというから、まずは楽しんで欲しいと思っていた。
 栞さんは私の言葉に安堵したのか、強張っていた表情を解いてみせた。その後でおずおずと口を開く。
「も、もしよかったら、ヒナちゃんって呼んでいいですか?」
「はい。気軽に呼んでください」
 私が頷くと栞さんは微笑み、
「よかった。文紀さんからは、よくヒナちゃんのお話を聞いていたんです。だから変な話ですけど、今日は初めてお会いしたという気がしなくて」
 と言った。
 思わず、私は心の中で身構える。これは大事なことだ。兄が私についてどんな話を栞さんにしているのか、確かめておかなくてはならない。
 食器を片づけながら尋ねてみた。
「うちの兄は、私のことをどんなふうに言ってますか?」
 栞さんもそれを聞かれると予想していたみたいだ。くすっと笑うのが聞こえた。
「可愛い妹だって言ってます。いつもヒナちゃんの話ばかりしてるんですよ」
「え……何か変なこととか言ってないですか?」
「いいえ。妹がこんなこと言ったんだとか、こんな本を紹介してくれたんだとか。楽しそうに話してくれましたよ」
 にこやかに栞さんは続ける。
「あと、ヒナちゃんに彼氏ができて、すごく寂しいとか」
 彼女さん相手に何を言っているのだろう。私は兄に対して密かに呆れていた。
 自分にだって栞さんがいるというのに――私は別に、兄に彼女がいようと寂しいという気持ちはないものの。
「私たちの仕事ってなかなかまとまった休み取れないじゃないですか。だからあんまり帰れなくて、ヒナちゃんの彼氏がどんな人かわからないのが辛いって、去年はよく言ってました。次会ったらいっぱい話をしてやる、とかも」
 栞さんが語る兄の心配ぶりに、私は思わず肩を竦める。
「そんなに心配しなくてもいいのに……」
「心配、したいんだと思います。大切な妹さんですから」
 強調する栞さんは本気でそう思っていたようだけど、それはそれで当事者としては面映いものだ。
 何となく沈黙が落ちかけたところでやかんのお湯が沸き、私はガスの火を止める。そのタイミングで栞さんが意を決したように息をつく。
「ヒナちゃんは……寂しく、ないですか? ただでさえ滅多に会えないお兄さんなのに、もし私と一緒に暮らすようになったら……」
 ためらいがちに問いかけられて、私は戸惑った。
 しつこいようだけど私には兄に対して寂しいという感覚はさほどない。就職をして家を出て行った直後は多少そんなふうに思いもしたけど、今回のはむしろ喜ばしい話だと思っている。
 でも栞さんからすれば、たった二人の兄妹、それも兄の方は実家を出て遠方で一人暮らしとあっては、いろいろ気を遣いたくなってしまうのかもしれない。
「私はむしろ嬉しいです。あの兄がこんなに素敵な彼女さんを連れてきてくれたんですから」
 気遣い無用とばかりに努めて明るく答えると、栞さんは照れたように俯いた。
「あ、ありがとうございます」
「兄のこと、よろしくお願いします。思いつきで行動するとこあるし、お酒に弱いくせに飲みたがったりするからきっと大変でしょうけど――」
 私がそこまで言った時、栞さんはどういうわけか微笑んで、
「でも、いつもは全然飲まないんですよ。職場の飲み会でも飲まないから、皆の送迎役とか頼まれたりして」
「……そうなんですか?」
「はい。嫌な顔一つせずそういう役割を引き受けてる文くんを、私は尊敬してるんです」
 私の知らない兄の話をしてくれた。
 その時、私はほんの少しだけ、『寂しい』と思った。
 少しだけだ。気持ちの全てでそう思ったわけじゃない。だけど、兄が鳴海先輩の存在を知った時に何を感じたか、今更理解できたような気がした。
 そして、兄が今日の食事会に私たちを巻き込んだ本当の理由も、ようやくわかった。

 紅茶を入れた私は、栞さんより一足先に居間へと戻った。
 居間へ戻ると、兄は相変わらず鳴海先輩を熱心に構っていた。主に二人で何事か話していたようだけど、私の姿を見ると一旦会話を終えた。そして兄だけが立ち上がる。
「ちょっと俺、栞の様子見てくる」
「あ、うん。行ってらっしゃい」
 私が声をかけると、兄はにやっとしてから台所に消えた。
 それから居間へ視線を戻せば、少し神妙な顔をした鳴海先輩が居住まいを正すところだった。父と母もそれぞれ背筋を伸ばし、居間は急に静まり返って、まるで真面目な話をする場のようになっていた。
「雛子、あんたも座りなさい」
 母にやんわり促され、私はカップを乗せたトレーを持ったまま、先輩の隣へと向かう。トレーはテーブルの上に置き、どこか畏まった空気に気圧されるように正座をする。
 さりげなく横目で窺うと、先輩は時間を惜しむように口を開いた。
「雛子さんには既にお話ししているのですが、うちの両親は俺が幼い頃に離婚しています」
 唐突に始まった打ち明け話に、私はどきっとした。私が紅茶を入れている間にそういう話題が持ち上がったのだろうか。
 驚く私を安心させるみたいに、先輩が一瞬だけ私に温かい視線をくれた。その後すぐに両親へと向き直り、続けた。
「父は新しい家庭を築き、母とはもう何年も会っていません。俺にとって頼れる相手は、遠方に住んでいる祖母だけでした」
 その中には初めて聞く話も確かにあった。先輩のお父さんが再婚していたということは――高校時代の先輩が家を出たいと考えていたのは、つまりそういうことだったのだろう。胸が詰まる。
「ですから今日はご招待を受けて、こうして温かいご家庭に触れられて、とても楽しかったです」
 鳴海先輩が微かに微笑む。
 私は今の話を、約束通りきちんと耳を傾け、聞いていた。ごく短い話ではあったけど、それだけでも胸が軋むように痛んで、無性に切なく思った。先輩を幸せにしたい。もっと楽しいと思ってもらいたい。先輩にとって温かくて居心地のいい場所を、私が用意してあげたい。そんなことを考える。
「……楽しんでもらえてよかった」
 しばらくしてから父が目を細めた。既に笑っている母と顔を見合わせ、更に続ける。
「なら、これからも時々うちにおいで。いつも今日みたいなご馳走があるわけではないが、母さん手作りの普通の夕飯なら毎日ある」
 そう言ってから父はちらりと私を見て、
「いつか、雛子手作りの夕飯が食卓に並ぶ日が来るかもしれない」
 期せずして課題が急浮上した私は自然と唇を結ぶ。そういう日を、一刻も早く迎えられるようにしなくてはと思う。
「そうなったら寛治くんには必ず食べに来てもらわないといけないからな。迷惑でなければ、いつでもまたおいで」
 鳴海先輩はその言葉が本当に嬉しかったようだ。ほっとしたように息をつき、口元が綻ぶ。
「迷惑なんてことはありません。ありがとうございます」
 先輩がそう言ったから、私もすかさず後に続いた。
「ありがとう。お父さん、お母さん」
「そりゃあ、雛子が好きになった相手だからな。大切にしないと」
 父は照れ笑いを浮かべてもう一度母を見る。
 母はにっこり笑んで、それからすっと立ち上がる。
「さ、お兄ちゃんたちを呼んできましょうか。紅茶が冷めちゃう」
 それでようやく、兄が私たちを気遣って席を外してくれたのだという事実を察した。全く私の勘の鈍さは相変わらずで、我ながら腹立たしくなるほどだったけど、一仕事終えた先輩が幸せそうにしているのを見たらそういう苛立ちさえ萎んでしまう。
 私の視線に気づくと、鳴海先輩はくすぐったいのを我慢しているような顔で私を見る。台所で入れてきた紅茶のカップをその前に置くと、小声で言われた。
「温かい家だな、ここは」
 私の家は普通の家だ。何か特別なものがあるわけでもなく、よその家と比べて秀でたところがあるというほどでもない。
 それでも、この家に当たり前にあるものが、鳴海先輩をより幸せにできるのなら嬉しい。
 しばらくして母が、兄と栞さんを連れて居間へ戻ってきた。居間にはたちまち賑々しさが戻ってきて、兄は何事もなかったかのように私に言った。
「そういえばヒナ、聞いたぞ。お前、先輩と同じ店でバイトしようとしてんだって?」
「そうだよ。前期試験が終わってからだから、来月の話だけどね」
 兄が冷やかそうとしているのはわかっていたから、私はあえて平然と答えた。
 すると兄は鳴海先輩を見て、いかにも年上ぶった口調で、
「ごめんな、寛治くん。妹が君べったりで離れたがらないんだよ。大変になったら言ってやっていいから」
 余計なことまで言ってくる。
 もちろん鳴海先輩は、真面目な顔でかぶりを振ってくれたけど。
「大変ではありません。一緒の方が安心というのもありますし、俺も楽しいです」
「そっか。確かにそうだよな」
 腑に落ちたように兄は顎を引き、隣に戻ってきた栞さんに目をやる。兄が栞さんを見る時の目つきは、何となく普段と違う。
「俺たちも同じ職場だからこそ安心できるってのあるしな」
「うん」
 栞さんは恥じらいながら頷いた後、少しだけ残念そうに続けた。
「これでお休みまでいつも一緒だったらよかったのにね」
「だよな。おかげで今回も休み合わせるの大変だったよ」
 カレンダー通りの休みとは無縁の兄と栞さんは、今回の帰省に当たってもシフトの調整に非常に苦心したらしい。さすがに同じ日数の休みを貰うことはできず、残念ながら栞さんは兄よりも一日早く向こうへ戻らなければならないという話だった。
「これじゃ結納だの式だのって全部済ませるまでに大分かかりそうだよ」
 そこまで語り終えたところで、兄が入れたての紅茶を啜る。
 私もすかさず、鳴海先輩に紅茶を勧めた。
「先輩、今日は私が紅茶を入れたんです。よかったらどうぞ」
「ありがとう」
 先輩は湯気の立つカップを手に取り、ミルクも砂糖も入れないまま、何度か息を吹きかけてから一口飲んだ。
 私はそれを隣で見守り、そして尋ねてみた。
「お味、どうですか?」
 途端に鳴海先輩はおかしそうな顔をして笑い、先輩の代わりに母が言う。
「飲んですぐ聞くものじゃないでしょ。まだ味わってもいないのに」
「そうだぞ。大体そんな傍から詰め寄られて、美味しい以外の答えなんて言えないだろ」
 兄にまで指摘されて、それもそうだと私は恥じ入った。
 だけど先輩の為にお茶を入れるのはこれが初めてだった。先輩の反応が気になるのだってやむを得ないことではないだろうか。そのうちコーヒーだって買っておくようになって、入れるようにもなるだろう。美味しく入れられるようになるまでにはどれほどの時間と努力が必要かわからないけど、それだって私は頑張るつもりでいる。
 鳴海先輩はもう一口飲んでから、笑いを堪えるような顔で言った。
「美味しい」
「……本当ですか?」
「もちろん本当だ。こんなことで嘘は言わない」
 先輩が保証してくれたので、私もほっとしながら自分の紅茶を飲んでみる。少しだけ、薄かったかもしれない。でも穏やかな味がした。七十点くらい。
「次は更に美味しく入れますね」
 味わってみてから私が言い添えたら、先輩を含め居合わせた皆に笑われた。
「俺は次、いつ飲めるかわかんないからなあ」
 兄が溜息をつく。
「寛治くん、ヒナの入れたお茶とか、あと練習中らしい手料理とか、俺の分までしっかり味わっといて」
 軽い口調で頼まれて、だけど鳴海先輩はその時、重々しく頷いた。
「その役目、お受けします」
「頼むよ。妹は寛治くんの為なら、頑張ってくれると思うからさ」
 私はぼんやりとそれを聞きながら、真摯な眼差しを兄へと向ける先輩の横顔を見つめていた。

 その日は兄と栞さんがうちに泊まっていくことになっていたから、帰るのは鳴海先輩だけだった。
「またいつでもおいで、寛治くん」
「気軽に晩ご飯食べに来ていいからね」
 見送りには全員が出てきて、父と母が口々に声をかける。先輩は丁寧に頭を下げ、ありがとうございますと言った。
「またな、寛治くん。妹と末永く仲良くしてやって」
 兄が手を振る横で栞さんが微笑んでいる。二人に対してもお礼とお暇を告げた先輩は傘を持って玄関のドアを開け、私と一緒に外へ出た。私はもう少し先輩といたかったから、駅まで見送るつもりだった。
 午後八時を過ぎた戸外はすっかり暗くなっていたけど、どうにか雨は免れていた。じっとりと蒸し暑い初夏の夜空には小さな星がいくつも瞬いている。雨のない夜には虫が賑やかなのもこの時期ならではだ。
「先輩、今日は来てくれてありがとうございました」
 手を繋いで歩きながら私が声をかけると、先輩は私の手を握り返してくる。今は、少し温かい。
「こちらこそありがとう。とても楽しかった」
「それはよかったです」
「幸せな家庭とはどういうものか、じっくり拝見することができた」
 先輩が星のきらめく夜空を見上げた。今日の出来事を振り返るみたいにしみじみ続ける。
「昔はもっと遠い世界の出来事のようだったのに、いつの間にか目の前まで来ているようにさえ思える」
 視線がこちらへ戻ってくる。
「俺にもいつか、手が届きそうだ。お前さえいれば」
 そう言った先輩の顔は、確信の色に満ちていた。
 もちろん私だって同じように思っている。
「届きますよ、絶対。私がいますから」
 私が深く頷くと、先輩はわずかに唇を緩めて、歩いていく夜道の先に目を向けた。
 水銀灯の光と家々が灯す明かりが、道の向こうまでずっと続いている。明るくて歩きやすい道。光に溢れた道を、二人で辿れるのが嬉しい。
「今日、ご両親にも話したな。うちの父親と、母親のことを」
「はい」
「ご両親には実家のことを聞かれた。だから明るい話ではないと断って、話をさせてもらった」
 そういう経緯があって、兄は気を遣ってくれたのか。私は納得した。
「俺は東高校にいた頃、父親の新しい妻子と共に暮らしていた」
 これは予想通り、だった。外れてくれても構わない予想だったのに。
 それでも先輩の表情はどこかすっきりとしていた。背負ってきたものをどこかへ置いてきた後のように晴れ晴れとしていた。去年の夏、あの港町で見せた辛そうなそぶりとはまるで違っていた。
「だからあの頃は早く家を出たいと思っていた。昔の話だ」
 私はその言葉を拾い集め、心の中にしまい込む。先輩が重荷に思っているものも、捨てたいのになかなか捨てきれないものも、私が代わりに背負えたらいいと思う。
「あの頃は、こんな幸せな日々がやってくるとは考えもしなかったな。この街に俺の居場所はないと思っていたのに、いつの間にかこんなにも増えた」
 先輩が噛み締めるように言ったから、私も過去に思いを馳せる。
 高校時代の先輩を思い出す。東高校の黒い学生服に身を包んだ、すらりとした長身の男子生徒。鼻筋の通った顔に眼光鋭い瞳、薄い唇に尖り気味の顎――先輩の顔立ちは昔と何も変わっていないのに、表情は大きく変貌を遂げていた。私にとってはずっと近づきがたい、でも気になって仕方がない先輩だった。
 そうして高校時代を振り返るうち、一つ、場違いな疑問が浮上した。
「先輩、聞いてもいいですか」
 鳴海先輩の横顔が明るいのをいいことに、私はその疑問をぶつけてみることにした。
「何だ」
「先輩はどうして、初めから私を名前で呼んでくれたんですか?」
 三年前の十二月、先輩は私を『雛子』と呼んでくれた。
 それが前段階の告白も含めてとても一方的な通告だったから、私はその真意に気づくまで随分長い時間をかけてしまった。
 でも今となっても、先輩が私を名前で呼ぶと決めた経緯はちょっと想像が及ばない。あの頃の鳴海先輩でも、付き合い始めたら名前で呼ぶ、なんてことを考えたのだろうか。
「なぜそんなことを聞く」
 鳴海先輩は訝しそうだった。内心面食らっているのかもしれない、眉を顰めている。
「不思議に思うからです。先輩が女の子を名前で呼ぶなんて、もしかしたらすごいことだったんじゃないですか」
「不思議なこともないだろう。俺はあの時、お前に交際を申し込んだんだ」
 そして思いのほか呆気なく、正答をくれた。
「交際相手は名前で呼ぶものだと思っていた。そうしなければ、俺のものだと他人からわからないからな」
「え、先輩、そんなこと考えてたんですか」
 あの頃の先輩が私を『俺のもの』なんて思っていたとは。今度は私が面食らう番だった。
 とは言え、先輩も私の驚きに少々うろたえたようだ。気まずげに顔を顰めてみせた。
「なぜ驚く。男女交際とはそういうものだろう」
「いえ、まあ、そうですけど。高校時代の先輩がって思うと意外なんです」
 妥協の余地もないほど堅物で、潔癖さだけでできているような高校時代の先輩を思い浮かべてみる。あの頃の先輩はそもそも男女交際に関心があるようにさえ見えなかった。
 でもよく考えてみれば、あの頃の先輩は高校生だ。当時の私には完璧に見えていたけど、大学生になった今の私が振り返ってみると、そのあまりにも不器用な生き方がいとおしく思えてならない。厳密には、当時の先輩は十八歳と八ヶ月、つまり現在の私とぴったり同い年になるのだけど、でももうじき私はあの頃の先輩を追い越してしまう。今の私があの頃の先輩と出会うことができたなら、もう少し思いやる言葉もあげられただろうし、抱き締めることだってできたのに。
 あの頃、寂しがっていた先輩に、私は傍にいることしかできなかった。
「意外か。そうかもしれないな」
 鳴海先輩もどこか得心したそぶりで呟く。
「だが今でも覚えている。お前が持っていた読書感想ノート、あの表面に丸みを帯びた字で書かれていた名前を見た時のことを」
 私も覚えている。先輩は私のノートを手に取り、そして器用そうな長い指先で、私の名前をそっとなぞった。
「画数の多い名前なのに、お前の字できれいに書けていたからな。いい名前だと思った」
 そんなことを言ってから、先輩は三年前よりも更に大人っぽい顔で苦笑した。
「今思うとつくづく、色気のない感想だな」
 そうだろうか。私は今の言葉と、私の名前をなぞる先輩の指先を思い出して少しどきどきした。
 小学生の頃は自分の名前が苦手だった。こんなに書きにくい名前もないものだと思っていた。そんな些細な悩みは当然、成長と共になくなってしまった。
 今の私は自分の名前だってちゃんと書ける。当たり前だけど、昔ほど子供ではない。
「すごくすんなりと呼んでくれましたよね、私のこと」
 繋いだ手が熱い。湿度の高い六月の夜は、ちょっと歩いただけで汗をかいてしまう。だけど私たちは手を離さずにいた。
 私の言葉に先輩は何も言わず、手のひらくらい熱っぽい目でこちらを見た。
 もうちょっと大人になってみたい。その目を見た時、そう思った。
 ふとひらめいて、私は口を開いた。
「……あの。か、寛治、さん」
 とは言え発した声は大人とは程遠い余裕のなさで、まるで全力疾走した後みたいにかすれてしまった。
 今度は先輩がびくりと立ち止まる。強く手を引かれて私まで足を止めると、先輩は私を見下ろすなり思いきり顔を顰めた。
「馬鹿、そんなに気負って呼ぶ奴があるか」
「だ、だって、つい緊張しちゃって……!」
「そのうちでいいと言ったんだ。そんな声で呼ばれたら、かえって心臓に悪い」
 先輩はどぎまぎしているみたいだ。私を見る目が狼狽に揺れている。
 もちろん私はその比でもなくどぎまぎしていて、顔から火が出る思いだった。
「何かごめんなさい、先輩……じゃなくてその、か――」
「いや、いい。今日のところはもういい。十分だ」
「で、でも、もうちょっと練習しないと……」
「これ以上聞かされたら俺が今夜眠れなくなる。頼む、勘弁してくれ」
 道の途中で足を止め、向き合い見つめ合いながら、私たちはお互いに赤面し続けていた。

 こんな私でも、いつかは先輩の名前をすんなりと呼べるようになれるだろうと信じている。
 そして先輩を『寛治さん』と呼ぶようになった私が、今のお互い真っ赤になっている私たちを振り返る日が来たとしたら――その時はちょうど今日みたいに、かつての私たちを、いとおしいと思うのかもしれない。
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