賑やかな食卓(2)
長方形のテーブルを六人で囲むのはちょうどいいようでよくない。私の父と母、兄と栞さん、そして私と鳴海先輩という組み合わせがある中で、最低でも誰か一組は隣り合って座れないことになる。
もっとも今日の主役は結婚を控えた二人ということで、兄と栞さんには並んで座ってもらうことにした。私は鳴海先輩の近くであればそれでよかったから、兄たちの向かい側に母と並んで座った。鳴海先輩はテーブルの角を挟んで私の右隣、その真向かいには父がいる。
母は父の世話を焼く気満々で、お手製のサラダを取り分けている。テーブルの上には六人前の寿司桶の他、サラダや揚げ物といった母の手料理が並んでいた。若い人が来るんだから、と唐揚げやらエビフライやらを張り切って作っていたけど、父にはまず野菜から食べさせる気のようだった。
「お父さんはお野菜しっかり取らないと駄目だからね」
「そんなに盛らなくていい。せっかくの寿司が入らなくなる」
父は慌てながらサラダを山盛りにされたガラス鉢を受け取る。それから栞さんと鳴海先輩の方を見て、まるで弁解するように言った。
「こういう時はまずビールで乾杯するもんなんでしょうけど、あいにくうちは酒に弱いの揃いでして。すみませんね」
「い、いえ、大丈夫です」
「お構いなく」
栞さんも鳴海先輩も、間を置かずに頷いた。
すると母が顔を輝かせて皆を見回す。
「でもせっかくお二人とも成人してるんだから、皆でお酒飲むっていうのもいいかもね」
「よくないよ。やめてよお母さん」
私はこの場で唯一の未成年として家族のブレーキ役を買って出た。栞さんが飲める人かどうかは知らないけど、こういう席で家族三人がみっともなく潰れる姿は見せたくないし、私だって見たくもない。
うちの両親も兄と一緒で、大して飲めもしないのにお酒を飲みたがる。早々に潰れてしまう分、深酒にならないのはいいのかもしれないけど、弱いのに何かというと飲みたがる気持ちは今もって理解できない。鳴海先輩がお酒を飲む姿はほんのちょっと楽しそうで、一緒に飲めたらな、と思うこともあるけど――間違いなく私もお酒には強くないだろうから、その時は重々気をつけるつもりでいる。
「ヒナ、前にも言ったろ。大人は酒飲んでこそわかりあえるもんなんだよ」
不満顔の兄が偉そうなことを口走る。
そう言って前に先輩の前でべろべろになったのはどこの誰だっただろうか。あの時は反省していると言っていたくせに、都合の悪いことはあっという間に忘れてしまったようだ。
私としてもお酒が人の、普段は言いにくい本心を引き出すこともあるという効能自体まで疑っているわけではない。ただそれはある程度飲んでもしゃっきりしていられる人の話であって、ビール一本でとろんとしてしまう兄には不向きの効能だと思う。もちろん父と母もそうだ。
「お兄ちゃんこそ、栞さんの前で格好悪いところは見せられないよね?」
私が聞き返すと、兄は妙にでれでれしながら隣の栞さんを見て、
「そんなの今更だよ。な、栞?」
と尋ね、栞さんはそこで心得たように微笑んだ。
「今日は文くんのご実家だからね。潰れても心配要らないかな」
「いや、潰れるって決まったわけじゃないんだけど……」
どうやら兄は既に栞さんの前でも醜態を晒したことがあるらしい。もしかしたらお二人の馴れ初めも、飲み会などで潰れた兄を栞さんが介抱したところから始まったのかもしれない――あり得る。
私は密かに鳴海先輩に視線を送り、鳴海先輩もどこか腑に落ちた顔をこちらへ向ける。先輩もとうに兄のお酒の弱さを知っているから、いざとなれば止めてくれることだろう。
「じゃあとりあえずは酒抜きで、寿司でもいただきましょうか」
父の音頭で全員が手を合わせ、いただきますを言ってから、めいめい好きなように少し早めのお夕飯を食べ始める。
お寿司を食べる為にまずサラダをやっつけにかかる父を、母が温かく見守っている。もしかしたら鉢が空になった瞬間目がけてお替わりを盛ってやるつもりでいるのかもしれない。
兄は相変わらず貝類が苦手のようで、早速栞さんにトレードを持ちかけている。栞さんも慣れているのか、戸惑うことなく兄からホタテを預かり、代わりのお寿司を兄の桶に入れてあげている。その時の表情をちらりと窺って、優しそうな人でよかったな、と思う。
それなら私も鳴海先輩に優しさを発揮したいところだけど、あいにく先輩は甘い物以外の好き嫌いはほとんどない人だ。いつものように姿勢よく、行儀よくお寿司を食べている。指の長い器用そうな手は箸の持ち方も完璧で、見ていて惚れ惚れするほどだった。
そうやって黙って眺めていたら、鳴海先輩も私の視線に気づいて口を開いた。
「お前も交換して欲しいのか?」
先輩の手が指し示した桶の中にはいい色艶をしたサーモンがある。どうやら私が好きだと言っていたのを覚えていてくれたらしい。
「そんな、いいですよ。お気持ちだけで十分です」
私がかぶりを振ると、先輩はかえって怪訝そうにしていた。
「だが、好きなんじゃないのか」
「好きですけど……先輩は食べないんですか?」
「サーモンも、より美味そうに食べてくれる奴のところへ行く方が喜ぶだろう」
冗談ともつかない口調で先輩が言ったので、私は結局、お言葉に甘えてしまった。先輩からサーモンをいただいたお礼に何か好きなのをと勧めたら、先輩はあなごを持っていった。好きなのだろうか、覚えておこう。
「へえ、仲いいじゃない」
いつの間にか母が私たちの方を見ていて、不意打ちのようなタイミングで冷やかしてきた。
とっさのことに私が絶句すると、すかさず兄も向かい側からにやにや笑いを向けてくる。
「仲いいんだよ。彼氏といる時の雛子は、二言目には『先輩が、先輩が』だからな」
「そ、そんなにかな……」
反論の言葉も浮かばなくて、ひとまずもごもご言うだけに留めた。正直、自覚もある。
だけど先輩と一緒にいる時、他の人に目がいく方が変だし先輩にも失礼だと思う。付き合っているのだから当然のことじゃないだろうか。
そう思いながら横目で鳴海先輩を窺うと、先輩も箸を止めて少し気まずげにしていた。慌てて私は告げておく。
「あ、あの気にしないでください先輩。うちの母も兄も本当ずけずけ物を言うところがあって――」
「いや、大丈夫だ」
先輩は小さく首を振り、私を安心させるつもりか、ごく優しい顔つきで続けた。
「恐らくご両親も、俺がどんな人間で、どんなふうに交際しているのか知りたがっていらっしゃるのだと思う。それなら誤魔化さずお話しする方がいい」
その言葉は事実のようで、母はもう好奇心で目を爛々と輝かせているし、父も物憂い顔つきながらもこちらへ身を乗り出してきている。
私が観念して肩を落とすと、待ち構えていたように母が切り出してきた。
「鳴海さんは、雛子の高校時代からの先輩なんですもんね?」
「そうです」
「それでもうかれこれ二年……二年半だった? それだけ長く付き合ってるんだから、きっとものすごく気が合うんでしょうね」
気が合う、と評されるとちょっとくすぐったい。私と先輩には読書や創作といった共通の趣味があるものの、気持ちが通じ合うまでには随分と長い時間がかかってしまった経緯もある。初めから気が合ったわけでも、話が合ったわけでもなかった。
そういう紆余曲折も、いつか誰かに話したりするようになるのだろうか。
できればそれらは私たちだけの秘密でもいいくらいなんだけど。やっぱり気恥ずかしいから。
「雛子さんといると、とても幸せな気持ちになれるんです」
先輩は先輩でものすごく直球なことを言い出したので、私は危うく窒息しかけた。
「俺は全くと言っていいほど楽しい話ができる人間ではありませんが、そういう俺の話でも、雛子さんはじっと聞いてくれます。そういうところが、嬉しくて」
鳴海先輩はその言葉を、真っ直ぐ正面を向いて言い切った。
浮かない顔をしている父に向けてだ。
私はそんな父の顔を見てから、改めて鳴海先輩に視線を戻す。先輩の横顔は真剣だけど、ここへ来る時のような眼光の鋭さはなかった。口にした通りの幸せが滲み出て、表情を穏やかに和ませているようだった。
幸せだって、思ってくれているんだろう。そう思うと私も嬉しかったけど、お酒も飲んでいないのに頬が熱くなってきて、困った。
「……そうか。それは、ありがたいことだなあ」
浮かない顔をしていた父が、今度は落ち着かないそぶりを見せ始めた。もぞもぞと座り直しながら照れ笑いを浮かべる。
「雛子は子供の頃から本ばかり読んでる子でしてね。親の私が言うのも何だが、こまっしゃくれたところがあるもんで」
彼氏の前でくらい手放しで誉めてくれてもいいのに、父はそんなことを言う。
しかも、何だか嬉しそうに。
正直それだって自覚がないわけではなかったけど――読書によって得た知識は私を少し背伸びがちな女の子にしてしまったように思う。そんな私が初めてぶつかった壁、今までになくはっきりと感じた失敗や挫折の数々が、この恋の始まりには存在していた。ちょっとした会話がすれ違いを生んだこともあったし、相手の心を読むことの難しさも、逆に言葉にしてわかりあうことの大切さも学んだ。人間関係は言葉によって築くものだ。黙っていて自然と伝わることなんてないのだから、私たちはもっとたくさん話をしなくてはならない。
「でも、そんな雛子がちゃんと誰かの話に耳を傾けられるようになったなら、私たちとしても嬉しいことです」
父の言葉を引き継ぐように母が頷いた。
「最近はお料理も始めてるし、少し大人になってきたみたいだもんね」
「え、ヒナ、お前料理なんかするのか」
すかさず兄が聞きつけてきたけど、それには誰も、はっきりとは頷かなかった。恥ずかしながら。
鳴海先輩ですら少し笑って、期待を寄せるような目を向けてきただけだった。
「もうじき、ちゃんと作れるようになるよ。頑張る」
私が宣言するように言うと、兄は拗ねたように頬杖をつき、視線を落とす。
「昔、俺が何回言っても全然作ろうとしなかったくせにな」
隣で栞さんがくすくす笑っている。兄と栞さんの間で私の話題がどんな具合に持ち上がっているのか、やっぱり気になる。
「今日までご挨拶ができず、申し訳ありません」
鳴海先輩が姿勢を正して、父に向かってすっと頭を下げた。
「遅くなってしまいましたが、改めて雛子さんとお付き合いをするお許しをいただきたいと存じます」
その瞬間、驚いたのは私だけだったようだ。
私は先輩がそこまでするとは思わなかったし、その必要もないと思っていた。それは結婚とか婚約とかそういう段階でするものであって、今はそこまではしなくても誰も咎めたりはしないだろう。私は余程先輩を止めようか迷ったけど、先輩を見つめる父の顔を確かめて、黙っていることにした。
父は驚きもせず、頭を下げる先輩を見守っていた。口元は軽く笑んでいた。でも全体的には物寂しげな顔つきに見え、内心どう思っているのか、今更のように気になってしまう。
「もちろん、こちらこそよろしくお願いいたします」
時間にしてほんの数秒間の沈黙の後、父はそう言い、頭を下げ返した。
そして顔を上げた鳴海先輩に向かって言い添える。
「ふつつかな娘ですが……仲良くしてやってください。娘もきっとあなたといると幸せなんだと思います」
反対されるなんて思っていたわけではない。
ないけれど、父が全て言い終えた後、なぜかふうっと息が漏れた。
私は思わず先輩を見て、先輩もこちらを向いたから、期せずして顔を見合わせる格好になった。私は安堵のあまりつい笑ってしまったけど、先輩はここですぐに笑うのは失礼だとでも思ったのだろう。口元を引き締めつつも、目元だけを私だけにわかるよう柔らかく細めてくれた。
「ありがとうございます」
鳴海先輩がお礼を言い、私もすぐ後に続いた。
「ありがとう、お父さん」
「どういたしまして。娘を取られたようで寂しいですが、まあうちのお兄ちゃんが取ってきた分、おあいこか」
父がそう応じると、今度は兄と栞さんが顔を見合わせる。こちらは二人揃ってにっこり笑い合っていた。
「じゃあ、そういうことで……」
話が一段落したと見てか、母がお寿司を食べながら言った。
「雛子の彼氏さんのことは何て呼べばいい?」
やぶからぼうに何の話だろう。私が無言で眉根を寄せると、母はうきうきと続ける。
「ほら、栞さんのことはもうお名前で呼んでるでしょう? だったら鳴海先輩のこともほら、お名前で呼ぶべきかと思って」
「ええと、何と言ったかな――寛治くん?」
父がぎこちなく、その割に遠慮なく名を呼ぶと、鳴海先輩は今までになく驚いた様子だった。一瞬目を剥いてから、平静を装うように呼吸を整え答える。
「……はい」
「失礼でなければそう呼ばせてもらってもいいかな、寛治くん」
「構いません。あの、お気になさらず」
言葉ではそう答えていたけど、先輩は照れているのか戸惑っているのか、目が泳いでいる。
考えてみれば鳴海先輩を名前で呼ぶ人なんて、私の知る限りでは澄江さんしかいなかった。私も、一番のお友達である大槻さんも先輩を名字で呼んでいたし、大学の知り合いや先生方からも名字で呼ばれていた。他に先輩を名前で呼んでくれる人はいたのだろうか。
「先輩、いいんですか? もし失礼なら……」
私は助け舟を出すつもりで囁いた。
先輩は苦笑して、短く答える。
「そんなことはない」
「じゃあ遠慮なく。寛治くん、エビフライなんかもあるからよかったら食べてね」
母がためらいもせず後に続いた。もともと母は私や兄の友人にも非常に愛想がいいと言うか、馴れ馴れしいくらいの人なので、こういう反応もいつものことだった。
「なら、俺も寛治くんって呼んでいい?」
更に兄がはしゃぎ気味に言い出した。
「よくよく考えてみたら俺の方が年上だし、別に失礼でもないよな? 将来的には弟になるんだし、今から仲良くしとかないと」
「ええ、どうぞ」
鳴海先輩が尖った顎を引く。でも明らかにそわそわしている。名前で呼ばれること自体に慣れていないのだろうな、と思う。
「本当にいいんですか、先輩。うちの家族が図々しいようだったらはっきり言ってください」
私は先輩の袖を引っ張ってそう告げたけど、先輩が笑いかけたタイミングで兄が割り込んできた。
「図々しくない! むしろ俺たちはヒナの彼氏と一刻も早く打ち解けようとしてるんだぞ」
「だからって……。大体、私だってまだ名前で呼んだことなんてないのに」
「じゃあヒナも呼べばいいじゃん。『先輩』じゃなくてさ」
ものすごく簡単なことのように兄はいい、隣の栞さんに同意を求めた。栞さんはどこか興味深げにこちらを見ていた。
考えてみれば私も既に兄の彼女を『栞さん』と呼んでしまっていたし、この件で兄たちを咎めることはできないだろう。ただ私自身は、鳴海先輩を名前で呼ぶ日が来るとはあまり考えていなかったから、兄の考えなしの提案に思わず息が詰まった。
「えっ、だ、だって」
「だって、いつまでも『先輩』ってわけにはいかないだろ」
「そ、そんなことないよ。だっていつまでも先輩は先輩だし、年上だってことが変わるわけでもないし――」
私は早口になって反論しつつ、鳴海先輩の反応を窺ってみた。
鳴海先輩も、困ったように私を見ていた。
「寛治くんはどう? ヒナの先輩呼び、ぶっちゃけ他人行儀だって思うだろ? そろそろ名前で呼んでくれても、なんて考えたことない?」
兄はここぞとばかりに攻勢に転じ、水を向けられた先輩は慎重に答える。
「そう呼ばれるのにすっかり慣れてしまって、あまり深く考えたことがないんです」
「でもファーストネーム呼びって距離縮まったって思えるんだよ。見るからに特別な関係って言うかさ」
そういうものなんだろうか。
私もいつかは先輩のことを、寛治さん、なんて呼んだり、とか――いやさすがにそれは気恥ずかしいし変だし何だかすごく、妙に背伸びしたがっているみたいで面映い。想像するだけで頭がショートして駄目になりそうだった。
鳴海先輩は付き合い始めた当初から私を名前で呼んでくれたけど、あれもやっぱり兄の言うような意図があってのことだったりするんだろうか。いや、当時の鳴海先輩なら、単に呼びやすさだけで決めていそうな気もする。
「先輩は、私に名前で呼んでもらいたいですか?」
兄があんまりしつこいので、私は恐る恐る先輩に尋ねてみた。
たちまちうろたえた先輩が、慌て気味に口を開く。
「い、いや、今じゃなくていい。そのうちでいい」
「そのうち……じゃあやっぱり、名前で呼んで欲しいってことですか?」
「そうじゃない。嫌だというわけでもないが、お前に呼ばれると恐らく驚くだろうから、徐々に慣らしていってくれると助かる。もちろん今すぐではなく将来的にでいい。何年かかけてようやく馴染むくらいで十分だ」
こちらが驚くほど長々と弁解した後、先輩はすっかり真っ赤になってしまった。
おかげでその後、両親にも兄にもからかわれて大変だった。
「まあまあ、寛治くんも雛子もそう照れることはないじゃないか」
「二年もお付き合いしてる割に随分初々しいのね。最近の若い人ってこんなものなの?」
「だろ? 見てるこっちが照れるだろ? そうなんだよこの二人は!」
好き勝手言い始める家族たちを睨みつけつつ、私はそろそろ茹で上がりそうな先輩に詫びた。
「先輩すみません。もう本当に、うちの家族の言うことはスルーでいいですから!」
「大丈夫だ」
ちっとも大丈夫ではなさそうに、鳴海先輩は息をつく。
「ただちょっと、お前に名前で呼ばれるのを想像してみたら、思ったよりどぎまぎしただけだ」
家族の前でそんなことを言われて、私は一体どうしたらいいのだろう。
もし本当にそういう機会が訪れたら、私たちはお互い大変なことになりそうだ。