Tiny garden

賑やかな食卓(1)

 予告通り、兄は六月の初めに彼女を連れて帰省した。
 初めて会った兄の彼女は少し垂れ目がちの、とても可愛らしい人だった。毛先がくるんとカールした長い髪をサイドテールに結んで、薄緑色をしたノーカラーのシャツワンピースを着ていた。背丈は兄より少し低い程度で、私より十センチは高いと思われた。
「あ……あの、初めまして」
 そしてとても、内気そうな人だった。
 私の家の居間で兄と並んで座った時点でもうがちがちに緊張しているようだった。真向かいにやはり並んで座る父と母の眼鏡越しの視線を受けて、せっかくの可愛らしい顔がたちまち強張る。それでもここでご挨拶をしくじったらもうおしまいだという決死の表情を浮かべ、かすれた声で続けた。
「前田栞と申します。文紀さんとは、職場の同期で……」
 なぜか妙に聞き慣れない兄の名前を口にしたところで言葉に詰まり、すぐさま隣で兄が口を開く。
「栞はちょっとあがり症でさ。でも仕事中はすごくしっかりしてて、働き者なんだ」
 いつも饒舌な兄も、今日は輪をかけてよく喋った。服装が家にいる時よりも小ぎれいなのがちょっとだけおかしい。
「どこで働いてらっしゃるの?」
 よそゆきの服を着てよそゆきの顔をした母が尋ねると、栞さんは瞬きを繰り返しながら答えた。
「サービスカウンターです」
「へえ。文紀は確かグロッサリーって言ってたっけ」
「そうだよ」
 兄が頷く。
 すると母はさっさとよそゆきの顔を捨て、冷やかすような笑みを浮かべた。
「お仕事中はあんまり接点ないんじゃない? 馴れ初めとか聞いちゃおうかな」
「母さん。俺はともかく栞のことはからかわないで欲しいんだけど」
 すかさず兄が母を咎め、その後もじもじしている栞さんに優しい眼差しを向けた。
「同期入社だから最初から顔も知ってたし、一緒に飲み会する機会もあったんだよ。それで仲良くなった感じかな」
 兄の言葉に、栞さんはこくんと頷く。
「文紀さんはとても優しい方で、初めてお会いした時から話しやすくて……」
「そうそう。話してみたら、妙に気が合ったんだよな」
 兄と栞さんは入社してすぐにお付き合いを始めたらしい。ただでさえ何かと気ぜわしい新生活、それも暦通りの休みもない小売業という職種において、苦楽を分かち合える相手がいるというのはとても心強いものだったようだ。二人はすぐに結婚も決めてしまい、既に栞さんのご両親にも会っているらしい。
「それで、父さんと母さんにも栞のご両親に会って欲しいんだけど」
 膝を乗り出す兄に、父と母は顔を見合わせる。
「まあ、そうしなくちゃいけないだろうな」
 真面目くさった顔で姿勢を正す父とは対照的に、母はまるっきり浮かれている。
「何着ていこうかな。ねえお父さん、この機会にスーツ新調してもいい? あと美容院にも行っとかないと!」
「いいよその頭でも。大して変わんないよ」
 苦笑する兄は、それでも少しほっとしているようだった。栞さんと視線を交わし、互いに表情を綻ばせるのを私は見ていた。
 当たり前かもしれないけど、こういう場に居合わせたのは初めてのことだった。そもそも兄は家に彼女を連れてくるような人ではなかったし、こうして紹介してもらったこと自体が初めてだった。
 正式なご挨拶の場なら、私は鳴海先輩が来るまで席を外していた方がいいんじゃないかとも思ったけど、それは兄と父の両方に反対された。緊張を緩和する為に私の存在が必要なのだと口を揃えて言っていたけど、今のところ私が何かに役立っている気配はない。
 ただ、兄が今日の顔合わせに鳴海先輩まで巻き込もうとしたその理由は、栞さんに会ってみてようやくわかった。兄からすればあがり症の彼女を少しでもフォローしたいという思いでいっぱいだったのだろう。鳴海先輩が快く引き受けてくれたことが何より幸いだった。やはり先輩は素敵な人だ。
 早く先輩に会いたいなと思いつつ、私は壁掛け時計を見上げる。まだ午後四時を過ぎたところだった。
 予定ではこの後午後五時に注文していた寿司が届くことになっている。そしてその少し前くらいに、鳴海先輩が我が家を訪ねてくることになっており、私は駅まで先輩を迎えに行くつもりでいた。先輩は『もう覚えているから迎えはいい』と言ってくれたけど、私はそうしたかったのだ――兄たちのように、二人肩を並べて家に入りたかった。
「雛子はどう思う?」
 不意に父が、私の座るソファーを振り返って尋ねた。
 急すぎる無茶振りも恐らくは緊張のせいなのだろう。父は若い女の子と話をするのが得意ではなく、私が友人を連れてくるとよくまごまごしていた。栞さんがあまりにも可愛い人だから、すっかりあがってしまっているのだと思う。
 どうと聞かれても何についての『どう』なのか判断に困ったけど、私は利口ぶって答えておく。
「お兄ちゃんには幸せになって欲しいからね。お祝いするよ、私も」
「ヒナ、ありがとう」
 兄が相好を崩す。
 それから栞さんに向かって説明を添えた。
「ほら、言った通りだろ。うちの妹はこう見えてもしっかりしてるんだ」
 途端に栞さんも表情を和らげ、私に向かって頭を下げた。
「妹さんも、これからよろしくお願いします。いつも文紀さんからお話は伺ってます」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
 私もお辞儀をしてから、何となく気になって兄に問う。
「お兄ちゃん、私のことどんなふうに話してるの?」
「別に悪くは言ってないよ。なあ?」
 兄が同意を求めると、栞さんはくすっと笑った。
 この件は後でじっくり追及しておこうと思う。未来のお姉さんが私について誤った情報を得ているようでは後々困るからだ。
 ともあれ、兄と兄の彼女の来訪は緊張を伴いつつも、概ね和やかに幕を開けていた。

 四時半になったところで、私は先輩を迎えに行く為に家を出た。
 父は心細いのか何なのか、ちょっと駅まで行くだけだというのにわざわざ玄関まで見送りに出てきた。
「気をつけて行くんだぞ」
「うん、わかってる」
 答えた私が靴を履き終えるまでの間、ずっと上がり框に立っていた。玄関の扉に手をかけ、何気なく振り向いてみたらやはり父はこちらを見ていて、少し寂しそうにしていた。母と違って決め込んだ服装こそしていなかったものの、白髪交じりの髪を仕事へ行く時のようにしっかり固めている。
「すぐ戻ってくるよ」
 そう告げると、父は諦め半分みたいな顔で眼鏡の奥の目を細める。
「雛子の彼氏はどんな奴なんだろうな。母さんの話じゃ真面目な人だというが」
「真面目な人だよ。大丈夫」
 私は私の全てでそれを証明するべく、深く頷く。
 すると父も頷き返してきて、
「会えるのを楽しみにしているよ」
 と言って、私を送り出してくれた。
 父がそう言ってくれたのは少しだけ嬉しかった。父は古い映画のような『娘が彼氏連れてきたら一発殴る』というタイプの人ではないけど、鳴海先輩のことを知った後は多少落ち込んでいたようだったから心配だった。わがままだろうけど、両親にはなるべく温かく鳴海先輩を迎えて欲しいと思っていた。
 先輩は温かい家庭を知らない人だ。私も未だにその事情を漏れなく知っているわけではないけど、おおよそ知っているだけに少し気になっていた。鳴海先輩はうちの両親をどう思うだろう。皆で賑やかにご飯を食べるのを、楽しいと思ってくれるだろうか。それとも鳴海先輩でも、こういう局面ではがちがちに緊張したりするのだろうか。
 いろいろ想像を巡らせながら駅までの道を歩いたら、あっという間に駅まで着いた。その時にはもう鳴海先輩も、小さな駅舎の前に立っていた。
 何を着て行くべきか数日前から迷っていたという先輩は、結局襟付きのシャツにチノパンという清潔感重視の服装で現われた。もちろん鳴海先輩がこれまでに清潔感のない格好で現われたことなんて一度もない。ただ先輩自身は本気でスーツを着ていこうと考えていたらしく、そこまでの集まりではないですと慌てて止めたという経緯がある。
 正直ちょっとだけ、いや本当のところはものすごく、見てみたかったけど。
「先輩、こんにちは!」
 私が駆け寄ると、先輩は微かに口元を緩めた。薄い唇は笑っている時といない時で随分と印象が違う。今は穏やかな面持ちに見える。
「こんにちは。今日も蒸し暑いな」
「ですね。でも雨にならなくてよかったです」
 とっくに梅雨入りを迎えたこの時期、雨の降らない日は貴重だった。湿度が高いせいでじめじめしていたけど、青空に真っ白な夏雲がぷかりと浮かんでいるのは気分がいい。
 それでも先輩は雨を予想しているらしく、あの紺色の傘を片手に携えていた。もう片方の手にはお菓子屋さんのロゴが入った紙袋を提げている。
 私がそちらに目を留めたせいだろう。歩き出しながら、先輩は紙袋を軽く持ち上げる。
「手土産を買ってきた。日持ちのする洋菓子だ」
「い、いいんですよそんなの。うちの両親もいいって言ってましたし」
「さすがに今回はそうもいかない」
 鳴海先輩は小さくかぶりを振った。やはり兄と会う時と両親と会う時ではそういう対応も変わってくるものらしい。
 ということは、私も澄江さんにお会いする時は何か持っていった方がよかったのではないだろうか。次にお会いする時は忘れず何か持っていこう。
「ちょうどバイト代も入ったところだ、大した負担でもない」
 きっぱりと言い切ると、先輩は私を目の端に見ながら続ける。
「それに甘い物ならお前も食べるだろう。お前が喜んでくれるなら、俺はそれでいい」
 そう言われると私は嬉しくてはにかんでしまう。先輩の傘を持たせてもらって、代わりに空いた手を握った。先輩も、何か言いたそうにしながらも握り返してくれた。
 先輩の手は指が長くて、立ち姿と同様にすらりとしている。そして夏でも時々冷たい。夏らしく剥き出しの腕も、つい触りたくなるほどひんやりしていた。もしかすると私の手が熱いのかもしれないけど、だとしても先輩は、蒸し暑い日に手を繋いでも文句を言わない。
 歩きながら盗み見た横顔は凛々しく、真剣そのものだった。ただ歩いているだけなのに眼光は鋭すぎるほどで、もしかしたらと思い私は尋ねた。
「先輩、緊張してますか?」
 すると先輩は目だけでこちらを見た。
「多少はな。だが心配するな、挨拶くらいはきちんとする」
「大丈夫ですよ。うちの父も緊張してましたし」
 慰めにもならないことを言った後、私は玄関でのやり取りを思い出し、言い添えた。
「それに、父も先輩に会いたがっていました。楽しみにしてるって」
「そうか」
 鳴海先輩は短く息をつく。冷たかった手もさすがにうっすら汗ばみ始めていた。
 それから夏空を見上げ、躊躇するような間の後で言った。
「恐らくお前のご両親は、俺の家族のことも聞きたがるだろう」
 はっとして、私は急いで口を開く。
「先輩が嫌なら、ずけずけと聞かないよう釘を刺しておきます」
「いや、構わない。今隠したところで、いつかは話さなくてはならないからな」
 そうは言っても、鳴海先輩は明らかに憂鬱そうだった。もっともそれは話すのが憂鬱だというより、思い出すのさえ嫌な記憶だということなのかもしれない。
「普通の親ならそうだろう。娘が連れてきた相手の背景まで知りたがって当然だ。そうすることで本人を見るだけではわからない人となりまで知ることができる」
 先輩の口ぶりはどことなく硬く、経験上そう言っているというよりは、どこかで調べてきた常識を述べているようだった。
 でも残念ながらそれは多分、本物の常識だ。うちの親も今日までいろいろと先輩のことを知りたがっていた――大学の学部やら出身高校やら、馴れ初めやらはいくらでも話せたけど、『ご実家はどこなの?』『そちらのご両親にはもう会ったの?』という問いには少し暗い気分になりながら答えるしかなかった。
 私が先輩のご両親にお会いすることは、永遠にないのかもしれない。前から漠然と思っていた。
「お前にもまだ話していないことがある」
 先輩は私を見て、済まなそうに眉を下げる。
 でもそれはきっと先輩にとって、酷く話しにくい内容だったのだと思う。去年の夏、あの海辺の小さな町で少しだけ打ち明けてくれた時でさえ、先輩はとても辛そうにしていた。
「今日、もし聞かれたら、そういう話もする。その時はお前も聞いてくれるか」
 そう言った時、先輩は、去年よりも穏やかな顔をしていた。
 夏の日差しを背負った顔は陰っていたけど、辛さや苦しさはどこにもない。いつも鋭い目をふっと和ませ、薄い唇に柔らかい笑みを浮かべている。大人の男の人らしい、頼もしげな面持ちだった。
 私は先輩の顔立ちも素敵だと常日頃から思っているので、そういう顔をされるとついどぎまぎしてしまう。もう三年目だというのに、一緒にいて心臓に悪いと思う機会はむしろどんどん増えつつあるようだった。
「……もちろん、聞きます。聞かせてください」
 どぎまぎしながらも答えると、先輩は目で頷いた。
「ありがとう。お前はいつも、俺の話をよく聞いてくれる」
 それは当然のことだ。私は先輩が紡ぐ言葉の全てを取り落とすことなく拾い集めておきたいと思っている。
 もしもそれが先輩にとって、辛く苦しい記憶のかけらだったとしても、先輩がくれたものなら私は構わない。そういうものを一緒に背負えるようになりたい。
 そう決意を固めたら、なぜだか私の方が緊張してきて、先輩には顔を覗き込まれてしまった。
「お前の家へ行くんだろう。お前が硬くなってどうする」
「で、ですよね……。すみません、なるべく平然としてます」
「そうだな。いつも通り、可愛くしていろ」
 先輩がそんなことをさも当たり前のように言ったせいで、私の心拍数は一層上がって、平然としているどころではなかった。

 私が不在の間、我が家の居間でどんな会話が交わされていたのかはわからない。
 ただ私が鳴海先輩を連れて入っていった時、母は早い夕飯に備えて台所に立っていた。居間には緊張気味の父と緊張気味の栞さん、一人普通にしている兄とが残っており、察するに兄が一人で会話を繋いでいたようだ。私たちを見るなり、兄が少しほっとしてみせたのを私は見逃さなかった。
「あっ、鳴海さん! お待ちしてましたよ、さあどうぞどうぞ」
 兄の言葉に先輩は礼儀正しい笑みを浮かべる。
「お久し振りです。この度はおめでとうございます」
「いえいえ、まだもうちょい先の話なんですけど、でもありがとうございます。あ、こっちが俺の彼女です」
 早速兄は栞さんを紹介し、栞さんがぎこちなく会釈をした。
 鳴海先輩も丁寧に頭を下げ返した後、改めてというように立ち上がった父の方を向いた。
 父も先輩を見ていた。ともすれば失礼じゃないかと思えてくるほど、食い入るように見入っていた。最近始まった老眼に対応した父の眼鏡は、見開いた目をより大きく見せている。
 その視線をものともせず、鳴海先輩は再び丁寧にお辞儀をする。
「初めまして、鳴海寛治と申します。この度はお招きいただきまして、ありがとうございます」
「……ええ、初めまして。雛子の父です」
 父はそう応じた後、驚いたようにまた目を見開く。
「大学生、と聞いていましたが……」
「はい。大学三年になります」
「へえ……いや、思ったより落ち着いてるなあ……」
 溜息をつきながら父は、鳴海先輩とうちの兄とを見比べる。
 兄が悔しそうに顔を顰めた。
「何? 父さん、言いたいことあるならはっきり言えよ」
「やめておこう。せっかくのめでたい日に息子と喧嘩なんかしたくないからな」
「もう言ったようなもんだろそれ。俺だって大分落ち着いたよな。なあヒナ?」
 どういうわけか兄が私に水を向けてきたので、私は悪戯をしかける気分で栞さんにお鉢を回す。
「そうなんですか? 栞さん」
「え、えっと……」
 栞さんは言葉に詰まり、途端に兄ががくりと項垂れた。
「そこは『落ち着きましたよ』って即答してくれよ、栞……」
「ご、ごめん。何かとっさに答えが出なくて」
 まごつく栞さんの様子に父が笑い、兄も最後にはつられて笑った。そうなると栞さんもおかしいのを堪えるような顔をし始めて――私はその隙に、鳴海先輩に座るよう勧めておく。
「先輩、どうぞ座ってください。騒がしい家ですみません」
「ありがとう」
 先輩はそう言うと、私にだけ聞こえるような声で続けた。
「賑やかでいい。こういうふうに食卓を囲むのは初めてで、新鮮だ」
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