Tiny garden

初めて出会う顔

 考えてみれば、俺は雛子の寝顔を見たことがなかった。
 これまでは午後六時までという門限があったから機会がなくても当然だった。彼女が俺の部屋で長い時間を過ごした後、時々は眠そうな顔をしてみせることはあったが、それでも見るからに必死になって起きているのが常だった。起こしてやるから寝てもいいと俺が言うと、もったいないから嫌ですと答える。その気持ちは俺も同じだから無理強いはせず、彼女が眠ってしまわないよう恋人らしい軽い会話を続けるようにしていた。
 去年の八月の旅行は最大のチャンスと言えたのかもしれない。実際、俺はあの時彼女の寝顔を見たつもりでいたが、彼女が実は起きていたことを後で知らされた。つまり俺が寝顔だと思って見たものは寝たふりの顔でしかなかったわけだ。
 寝顔だと思っていた寝たふりの顔は、今でもはっきりと記憶しているほどきれいだった。前髪の隙間から覗く白い額、眼鏡を外し瞼を閉じた女らしいなめらかな顔立ち、微かな呼吸を繰り返す薄く開いた唇――今思い返してみても彼女の狸寝入りの技術はなかなかのものだ。俺からすれば悔しくもあり、非常に気恥ずかしくもある。
 ともかく、これまで俺は雛子の本物の寝顔を拝む機会がなかった。
 それがまさか、こういう形で訪れるとは思ってもみなかったが――。
「え、マジで雛子ちゃん寝ちゃった?」
 大槻が腰を上げ、空いたビール缶が並ぶ座卓越しにこちらを覗き込んでくる。
 俺の右隣に座っていた雛子は、今や俺の肩に寄りかかり、すっかり目を閉じている。寄りかかった姿勢すら不安定で舟を漕ぐように揺れているので、慌てて肩を支えてやった。遠慮なく体重をかけてくるところから見て、やはり本気で寝入ってしまったらしい。
 耳を澄ませばすうすうと安らかな寝息が聞こえてくる。どうやら確定のようだ。
「寝てるな」
 俺はそう答え、支えていた彼女の肩を揺すった。いくら俺の部屋とは言え今寝られては少々困る。そろそろ帰さねばならない時間だと思っていた。
 しかしそこで大槻は慌てて、
「いや、寝落ちた直後みたいだし、そっとしといてあげようよ」
「どうせもう少しで起こさなくてはならない」
「そうだけど。見てみなよ、気持ちよさそうに寝てんじゃん」
 奴の言葉に俺は雛子の寝顔を覗き込んでみる。確かに気持ちよさそうに寝入っていた。何の憂いもなさそうな寝顔は、以前見た寝たふりの顔よりも安らいで見えた。

 五月の連休が明けると、大学の空気も次第に落ち着きを取り戻し始めた。
 ある意味この時期からようやく通常の学生生活が始まるようなものだ。講義はほぼ予定通りに開かれ、受講する側も大抵は前期試験を見据えて学習に本腰を入れるようになる。サークルの勧誘活動は引き続きほうぼうで行われているが、既に新入生を迎え入れて活動を始めたところもあり、新歓シーズンもそろそろ終盤戦といった趣だ。三度目の春を迎えた俺にとっては、雛子がいること以外は代わり映えのない、いつもと同じ五月だった。
 雛子も大学生活には大分慣れたと言っており、何人かの友人を得てそれなりに楽しく過ごしているらしい。ただ完全に慣れてしまったというわけではないようで、未だに何かというと高校と大学の違いに驚いてみせたり、新鮮な出来事に遭遇すれば大げさにはしゃいでみせたりと忙しい毎日を送っているようだ。
 そんな折、大槻が俺に『たまには飲まないか』と誘いをかけてきた。奴は奴でこのところ楽団の方が忙しかったらしく、新入生の勧誘及び歓迎会、それに毎年行われる市主催の野外演奏会を無事終わらせて、とりあえず一息ついているらしい。たまにはいいか、という気持ちで大槻の誘いを受けた俺だったが、思いがけず雛子まで同席したいと言い出した。
「もし迷惑じゃなかったらでいいんですけど、私もご一緒していいですか?」
 迷惑ではないし大槻と雛子も旧知の間柄だ。彼女が同席しても悪いことはないのだろうが、俺は迷った。理由もなく酒を飲む場に未成年を同席させるのはあまりいいことのように思えなかったし、他でもない彼女自身が疎外感を覚えるのではないかという気もしたからだ。
 だが大槻は気にしていないどころか、むしろ大歓迎の姿勢を見せた。
「飲み会って思うから雛子ちゃん連れてくるの抵抗あるんだろ? 夕食会、おまけに酒付きって思えば全然問題ないじゃん」
 奴曰く、男二人のむさ苦しいのよりは女の子がいた方が華がある、ということらしい。それは俺としても同意できたので、迷いつつも雛子も同席させることで落ち着いた。
 ただ彼女を連れて外へ飲みに行くのは抵抗があり、俺は二人を俺の部屋へ招くことにした。大学の講義を終えた夕方頃に落ち合い、近所のスーパーで酒と雛子用のソフトドリンク、それにいくつかのつまみを見繕ってから三人で部屋へと向かった。
 一人だけ酒を飲めないという状況下でも、雛子は十分楽しそうだった。夕食の代わりにとつまみもたくさん食べたし、酒を飲む俺や大槻と明るくお喋りもしていた。
「飲み会の空気っていいですよね。何か、いかにも大人という感じがします」
 そう語る雛子は『サークルの先輩と飲み会をする』と主張して、門限を一時間だけ延ばしてもらったらしい。概ね間違いではない。親からは一滴たりともアルコールを摂取せぬことを厳命されたそうだが、本人も無論遵守すると言っていた。
「ああ、そういうのに憧れちゃうお年頃? 雛子ちゃんは素直でいいね」
 大槻は相好を崩して応じている。奴の酒を飲むペースは雛子の前でも普段と変わらず、二時間でビール四本を空ける飲みっぷりだった。それでいて全く酔っ払った様子を見せないのも普段通りだ。
 俺は一応、雛子の前だからとセーブしながら飲んでいた。大槻と比較すると俺は弱い方だから当然だが、おかげでさして酔っ払うこともなく、三人での会話に興じることができた。
「酒を飲むだけで大人になれるわけじゃない」
 俺が肩を竦めると、雛子は軽く笑って、
「それはわかってます。でもずっと不思議だったんです。どうして大人になるとお友達同士や学校、職場の集まりとかでも決まってお酒を飲むのかなって」
 と言った。
 すかさず大槻が答える。
「お酒が入ると手っ取り早く仲良くなれそうな気がするんだよ。いつもより腹を割って話せそうっていうかさ」
「うちの兄も同じことを言ってました」
 雛子の笑みが苦笑に変わった。俺が彼女のお兄さんと飲んだ日のことを思い出したのだろう。
「俺と鳴海くんも飲むと結構ぶっちゃけるからね。腹割りまくりだから。ね、鳴海くん!」
 大槻がこちらに水を向けてきたので、俺は内心舌打ちする。確かにかつて腹を割って話したこともあるが、雛子の前では余計なことを喋って欲しくない。
「お前なんて酒飲む前からべらべらと無遠慮に喋るだろう」
「無遠慮なんて! やだなあ、こんな気配りに溢れた大槻くんを捕まえて」
「いいや無遠慮だ。雛子の前でこの話題を持ち出した時点で既にそうだ」
「まだ具体的なことは何も言ってないじゃん。雛子ちゃん、君の彼氏が俺を脅しにかかってるよ!」
 わざとらしく身体を震わせた大槻に、雛子がくすくす笑い出す。そして俺に向かって尋ねる。
「普段、大槻さんと二人の時はどんな話をしてるんですか?」
 正直に言えるはずがない。
 俺が言葉を選ぶ為に黙り込むと、すぐさま大槻が割り込んできた。
「もうすごいよ鳴海くんなんて。二言目には雛子が雛子がっつって惚気話ばっか」
「言ってない! おい大槻、勝手に話を捏造するな!」
「ほぼ言ってるようなもんじゃん。雛子ちゃんがいかに可愛いかって話を延々とするだろ」
「してない!」
「あと雛子ちゃんを大切にしたいって話とかさ。心配性だからしょっちゅうやきもきしてるしさ」
「それは……してるかもしれない」
 心配してないと言い切る気にはなれず渋々俺が認めると、大槻は声を立てて笑い、雛子は酒でも飲んだように真っ赤になった。
「で、でも、私も飲み会じゃないですけど友達と会う時は先輩の話よくしますから。一緒ですよ」
 そう言ってくれたのはフォローなのだと思う。恐らく。
 そんな調子で飲み会、もとい酒付き夕食会は賑やかに行われていたのだが――。
 午後七時半を回った辺りで雛子の口数がぐっと減った。俺や大槻が話しかけると笑ってみせるのだが、時々眠そうに目を擦ったり、あくびを堪えて目に涙を浮かべたりと明らかに眠そうな様子だった。
「雛子、眠いんじゃないのか? そろそろお開きにした方がいい」
 俺が声をかけると、それでも強くかぶりを振った。
「平気です。だってまだ七時ですよ。今日はせっかく門限も延ばしてもらえたんですから」
「それはそうだが……」
 しかし随分と眠そうだ。
 そう思って注意を払っていたら、彼女は午後八時を迎える前に俺の肩にもたれ、そのまま驚くほどすんなりと寝入ってしまった。

 そして現在に至る。
「――にしても、呆気なく寝ちゃったな。うちの姪っ子みたいだ」
 大槻が声を落とし、おかしそうに笑う。
 俺は肩を竦めたかったが彼女に寄りかかられている為叶わず、代わりに嘆息しておいた。
「酒も飲まないのに寝る奴がいるとは思わなかった」
「俺も。つか素面の寝落ちって初めて見たかも」
「確かにな。疲れていたのなら、無理して付き合うこともなかったのに」
 雛子は随分深い眠りに落ちているようで、俺たちの会話にもまるで反応を示さない。今日も五時限まで講義を受けていたから、ここへ来る前からそれなりにくたびれていたのかもしれない。そうでなくても今は五月、新生活を勢いで乗り切ってきた者たちが少しずつ疲れの色を見せ始める頃合いだ。
「無理してでもついてきたかったんだろ」
 何本目かわからないチューハイの缶を呷り、大槻が言った。
 思わず俺が目を瞬かせると、奴はにやりとして続ける。
「雛子ちゃんは君を追っ駆けてここまで来たんだよ。ようやく同じ大学まで来れたんだから、もう君に置いてかれたくないんだろ。そりゃ疲れてても無理しちゃうって」
 そうは言われても俺と雛子の間には二年の差がある。どうしても俺は彼女を置いていくことになる――むしろ置いていかなければならない。その差を埋めることは永久にできないはずだ。
 俺は彼女の寝顔を改めて見下ろし、その気を許しきった面持ちにまた溜息をつく。言われてみれば入学してからの約二ヶ月を、彼女はずっと全速力で駆け抜けてきたように見えた。
 いや、もしかするとずっと前から、彼女は休みなく走り続けてきたのかもしれない。
 ここへ来る為に。俺に、追い着く為に。
 本物の寝顔をしばらく眺めていると、不意に大槻が立ち上がった。
「じゃあ俺、そろそろお暇しよっかな」
「待て。後片づけを手伝ってからにしろ」
 座卓の上には空き缶や食べ残しの載った皿が雑然と並んでいる。どうせ起こすにしても、寝ついたばかりの雛子を起こして手伝わせるのも忍びない。それに俺と大槻でやれば数分で片づく量でもあるはずだった。だから俺は大槻を咎めたが、大槻は伸びをしながら訳知り顔になる。
「けど、俺がいたら邪魔じゃない? せっかくのお楽しみタイムだろ」
「何の話だ」
「ほら雛子ちゃん寝ちゃったし。ベッドに連れ込むんなら今しかない!」
 大槻が俺のセミダブルベッドを指差したので、思いきり睨みつけてやった。
「馬鹿なことを言うな。いいから帰る前に片づけを手伝え」
「えーいいの? 俺だったらこんな据え膳、迷わずいただいちゃうけどなあ」
「お前の話なんて知ったことか!」
「それに雛子ちゃんも、鳴海くんならともかく俺にはこんな可愛い寝顔見られたくないだろ」
 言われてふと見れば、大槻はやはり無遠慮に、俺に寄りかかる雛子の寝顔を眺めている。にやにやと締まりのない顔で。
 そこで俺は雛子を抱きかかえ、起こさないようにゆっくりと床に寝かせた。その上に俺の着ていたカーディガンをかけてやってから、尚もこちらを覗き込もうとする大槻に告げた。
「こちらを覗かないようにしながら手伝え」
「へいへい。嫉妬深い彼氏がいるとおちおちうたた寝もできないね、雛子ちゃん」
「何を言う、逆の立場ならお前もこうするだろう」
「……するわ。おし、なるべく見ないようにして片づけまっす!」
 口ではああだこうだと言いつつも、大槻は後片づけをきちんと手伝ってから元気な足取りで帰っていった。
 その後で俺はぎりぎりの時間まで待ってから、彼女をそっと揺り起こす。
「雛子、そろそろ時間だ。一旦起きろ」
「ん……」
 呻くような微かな声を立て、雛子が床の上で身動ぎをする。
 尚も揺すると、彼女はゆっくりと重そうな瞼を開けた。焦点の合わない視線が数秒間中を彷徨った後、ぼんやりと俺を捉える。
「あれ、先輩、ここどこ……」
「寝惚けるな、俺の部屋だ。大槻はもう帰った」
「大槻さん……?」
「お前ももう帰る時間だ。もうじき出ないと、門限までに帰れないぞ」
 俺の言葉が通じているのかいないのか、雛子はどうにか身を起こしたが、床に座ってからもしばらくうつらうつらしていた。どうやら相当眠いらしい。
「駅まで歩けるか? 無理なら車を呼ぶ」
「大丈夫……です」
 ようやくまともに受け答えをした雛子は、よろけながらも立ち上がってみせた。

 かなり眠そうではあったが、彼女も駅までの道はのろのろとながらも頑張って歩いてくれた。
 だが電車に乗り込んでからは再び俺にもたれかかって眠り込んでしまい、俺はその肩を抱えるようにして彼女の寝顔を眺めていた。
 寝たふりの時には外していた眼鏡も、今はかけたままだ。そのせいで舟を漕ぐ度に眼鏡がずれて邪魔そうだった。だが勝手に外していいものかどうか迷い、結局触れられなかった。
 真上から覗き込めばぴくりとも動かない長い睫毛が見える。クリームでできているようになめらかな瞼もまるで動かず、彼女の眠りの深さを証明している。電車の振動音に紛れ、規則正しい寝息が微かに聞こえてきた。
 初めて出会う彼女の寝顔を、俺はすっかり酔いも覚め、思いのほか冷静な心境で眺めていた。
 いや、いくらか胸を痛めていた。大槻が言った言葉を思い出しながら――雛子は俺を追い駆けてきた、と奴は言った。それは間違いなく事実だろうし、俺はそんな彼女をじっと待っていたつもりでいた。
 だが三度目の春を迎え、しかもそれがあまりに楽しく、心地よく、幸せな春だったものだから、肝心なことを見落としていたのだろう。
 雛子がここに辿り着くまで、必死に、全速力で走ってきたのだという事実を。
 彼女にとっては初めての、大学生として迎える春だ。俺と過ごす時間以外も忙しく、充実していて当たり前だろう。そして進学したからといって彼女の身体が急に頑丈になったり、強くなるというわけではない。
 追い駆けてきてくれるのは嬉しい。だが俺は彼女よりも大人のはずだ。待とうと思えばいくらでも彼女を待てる。急いで大人になろうとする雛子を、時には立ち止まって待っていてやることも必要なのだろう。それでも埋めようのない二年の差はあるが、そのくらいはこれまでも乗り越えてきた距離だ。これからも必ず乗り越えていけるだろう。
 とりあえず、門限はしばらく午後八時で十分そうだ。
 こちらに身体を預けて眠る彼女の長い髪を指で梳きながら、その身体を支えながら、俺はじっくりと彼女の寝顔を見つめていた。黙って見ていると奇妙に笑いが込み上げてくるようで、一人で噛み殺していた。
 可愛い寝顔であるのは事実だ。
 あの夜、俺が見たのが寝たふりの顔ではなくこの本物の寝顔だったとしても――結果はそう変わらなかっただろう。

 電車の中でたっぷり寝たのが功を奏したか、電車を降りてからの雛子はすっきりと目覚めていた。
「すみません、先輩! 私すっかり寝入ってしまって」
「気にするな。しかし疲れている時は無理しないようにな」
 俺は首を振りつつ釘を刺しておく。
「そんなに疲れているつもりはなかったんですけど」
 彼女は自分でも眠ってしまったことが信じられないというそぶりだった。現在は足取りも軽やか、表情も元気そのもので確かにくたびれた様子には見えない。
 だが疲労とは自身でも気づかぬうちに溜まっていくものでもある。まして新生活を迎えた彼女には例年以上に負担がかかっているはずで、これ以上無理はさせられない。
「飲み会ならお前が二十歳になってからでも、いくらでもできるだろう」
 俺がそう告げると、雛子はいささか残念そうに眉を下げた。
「でも今日はすごく楽しかったです。ご迷惑はおかけしましたけど」
「迷惑じゃない。無理して付き合う必要はないと言っているだけだ」
「無理したつもりもなかったんです、私……」
 雛子は途中で言葉を止めると、懇願するように隣を歩く俺の手を握った。
 寝起きのせいか妙に温かい体温にどきっとしつつ、俺もその手を握り返す。横目で見た彼女の顔が少し寂しそうで、そうなるとこちらも甘い顔をしたくなってしまう。
「他の人間にお前の寝顔を見られるのは気が進まない」
 だから素直に打ち明けたら、雛子は一度瞠目してから、上目遣いにこちらを見る。
「私も先輩以外の人に見られるのは……じゃあ今度は、絶対寝ないようにしますから」
「そうだな。調子さえよさそうなら、また誘ってやってもいい。今日は確かに楽しかった」
「先輩!」
 雛子が嬉しそうに腕に飛びついてきた。
 俺もつい口元が緩むのを覚えながら、何気なく向かう道の先に視線を投げた。
 夜の色に染められたアイボリーの壁の一軒家前に、ふと、人の姿が見えた。
 遠目には誰だかわからなかったし、近づいていってもよくわからなかった。白っぽい服を着た女性で、どうも眼鏡をかけているらしいということだけは掴めたがそれだけで、俺にとっては知らない姿だった。ただ俺たちが近づいていくにつれ身体をこちらに向けて待ち構えるようにしていたので、何となく予感はした。
 そしてその人物まで二十メートルという辺りでようやく雛子が気がつき、途端にびくりと足を止めた。掴んでいた俺の腕を離したかと思うと、大慌てでこちらを向く。
「せ、先輩、あの……」
「どうした?」
「なぜか、母がいるみたいなんですけど……!」
「は?」
 酔いがまだいくらか残っていたのだろうか。はは、という単語が『母』に変換されるまで数秒のタイムラグがあった。
 そしてその時には、柄沢家前にいた女性はこちらへと歩み寄り、暗がりでもはっきりとわかる笑顔で俺たちを出迎えた。
「お帰り、雛子。そんなに急いで手を離さなくてもいいんじゃない?」
「お、お母さん……! ううん、違うの。別に誤魔化したとかじゃなくて!」
 慌てふためく雛子が声を上げるのを、雛子のお母さんは唇の前に指を立てて制した。
 雛子と比較するとやや小柄な中年女性だった。前に写真で顔だけは拝見していたはずだが、実物は写真よりも少し若く見えた。社会人の息子がいると言われれば驚く者もいるかもしれない。フレームのない眼鏡をかけ、髪を一つに結んだ顔つきにはどことなく雛子やお兄さんの面影がある。
「こんな時間に騒いではご近所迷惑でしょ。それで、先輩のことは紹介してくれないの?」
 雛子のお母さんは俺を指して『先輩』と言った。以前も雛子のお兄さんに年上と間違われたことがあるから、そう思うのもあり得ることなのだろうが――直感だが、外見だけでそう判断したとは思えなかった。
 それで雛子は困り果てたように俺を見る。俺は彼女ほど狼狽はしていなかったし、こんな日がやってくるであろうことも想定はしていた。だから黙って頷くと、雛子も頷き、それから言った。
「あ、あの、鳴海先輩っていうの。高校の先輩なんだけど、大学も一緒で、同じサークルにも入ってて……」
「ふうん、そう」
 雛子のお母さんは娘が語る情報を驚きもせずに聞いている。以前から知っていたようにも見えるのは、気のせいだろうか。
「鳴海と申します。今日は遅くまで雛子さんを付き合わせてしまい、申し訳ありません」
 俺が詫びると雛子のお母さんはにっこり笑んで、
「そうね。デートだって言うんだったら門限は守って欲しかったとこだけど」
「違うの、あの、先輩は悪くなくて今日は本当に飲み会で!」
「はいはい。別に怒ってるんじゃないから、あんたはもう家に入ってなさい」
 弁解しようとした雛子はあっさりと制され、それでも尚この場に留まろうと思ったようだが、そんな娘の心境すら見透かした様子でお母さんは穏やかに言い渡した。
「大丈夫だから。お母さんはちょっとあなたの先輩にご挨拶をしておきたいだけ」
「……うん。それなら」
 雛子はまだ不安そうにしながらも、俺の方を振り返って頭を下げた。
「じゃあ、先輩、今日はありがとうございました。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
 俺はなるべく笑んでそう応じると、彼女が玄関の扉をくぐり、その扉が完全に閉まるまで見送った。
 雛子のお母さんもその間は黙っていたが、扉の閉まる音が響くとすかさずこちらを向き、好奇心に目を輝かせながら唐突に切り出した。
「うちの娘とは、いつから?」
「え?」
 一瞬何を聞かれたのかわからなかったが、すぐ思い当たり急いで答えた。
「三年前の冬からになります」
「あら、そんなに? 去年くらいからと思ってたんだけど」
「ご挨拶が遅くなってしまい、申し訳ありません」
「いいのいいの。そういうのは別に急ぐもんでもないしね」
 割と気さくな人柄なのか、雛子のお母さんは軽く答えるとまた笑んだ。それからしげしげと俺を眺めてくるので、それでなくともこういった母親的な存在とは縁のなかった俺は少々戸惑いを覚えた。
「でも会ってみるもんね。確かに真面目そうな人でほっとしちゃった。おいくつ?」
「二十一になります。今年で大学三年です」
「へえ。うちのお兄ちゃんより落ち着いてるじゃない」
 雛子のお母さんが目を見開く。謙遜すべきかとも思ったが、お兄さんと会ったことを打ち明けてもいいのか判断がつきかねた。
 しかし俺が何か言うより早く、お母さんの方が語を継ぐ。
「前に会ってたんでしょ? 雛子の兄とも」
 どうやら隠す必要はなさそうだ。俺も正直に答えた。
「はい。去年の春と今年の正月、二度お会いしました」
「そうそう言ってた。お兄ちゃんが誉めてたのよ、あなたのこと」
 だが雛子は確か、お兄さんに口止めをしたと言っていなかっただろうか? 何かでお兄さんから情報が漏れたのだろうか、それとも雛子からだろうか。
「今時珍しい真面目な人と付き合ってて、しかも大学の先輩だから、雛子のことは心配要らないって。まあそう言われても心配はするんだけどね」
 おまけに随分と事細かに伝わっているようだ。お兄さんが誉めてくれたのはありがたいことだが、これはもしかすると。
「それで私も一度顔を見てやろうと思ってね。今日はちょっと張り込んでたわけ」
 雛子のお母さんはちょうど雛子がするような得意げな顔をして、胸を張った。
「そういうわけでこれから娘ともどもよろしくね、鳴海さん」
「はい。こちらこそよろしくお願いいたします」
「今度、晩ご飯でも食べに来る? ちょうど近々お兄ちゃんも帰ってくるし、お父さんの前でまとめてご挨拶ってことでどう?」
 そう言った時にお母さんが浮かべた控えめな微笑も、雛子が見せる微笑と少し似ていた。
 雛子があと三十年――いや二十年くらいか、ともかく歳を取ったらこうなるのかもしれない。

 初めての出会いを終えて俺が部屋へと戻った頃、雛子から電話がかかってきた。
『先輩、今日は本当に急なことですみませんでした! うちの母も思いつきで行動する人で――』
「いや、ご挨拶をしなければと思っていたから、ちょうどよかった」
 確かに急なことではあったし驚きもしたが、俺は特に気にしていなかった。むしろ話ができてほっとしているところもある。
 だが雛子の方はどうも穏やかではない様子だった。
『全部うちの兄のせいなんです。予告なしでばらしちゃうんですから、こっちがびっくりです!』
「どうもそのようだな」
『近々帰ってくるって言ってるので、その時に締め上げてやろうと思ってます』
 雛子はすっかり腹を立てていたが、俺は何となく予感していることがあり――お母さんが『まとめてご挨拶』と言っていたから、もしかするとそういうことではないかと思っている。
 何にせよお兄さんは俺のことをよく言ってくれたようなので、ここは肩を持っておこう。
「怒ることではないだろう。むしろお兄さんのおかげで、お母さんの心証は大分いいようだ」
『そうですけど……』
 大きく息をついて、雛子は続けた。
『それでいて自分に彼女がいたことは黙ってるんですから、何て言うか、ずるいです』
 拗ねた声が聞こえてきたから、俺はつい堪えきれずに笑ってしまう。
 おかげでいやに楽しい気分になって、この先に待つ更なる初めての出会いも、何となく乗り切れるのではないかという気がしてきた。
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