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気配り記念日

 八月に入ったばかりのある日、私は久々に鳴海先輩の部屋を訪れた。
 久々と言っても、来ていなかったのはほんの三週間ほどだ。その間、先輩のアルバイト先に足を運んで顔を合わせてもいたし、まるまる会っていなかったわけでもない。
 だけど部屋に招き入れてもらって、何一つ変わらない整頓された室内を見回した時、その変化のなさが無性に懐かしく思えた。
 旅行を来週に控えて浮かれているのかもしれない。何となく落ち着かない気分で床に腰を下ろす。先輩は私のすぐ目の前に、向かい合って座っていた。
「アルバイト、お疲れ様でした」
 私はまず、そう述べた。先輩の古書店でのアルバイトは無事に雇用期間を終えたと聞いていた。それで今日、先輩は私を部屋に呼んでくれたのだ。
「ああ」
 先輩は特に感慨もない様子で応じた。こうして向き合っているこの状況をことのほか嬉しく思っているのは、私だけなのかもしれない。
「あの、お久し振りですね、先輩」
「そうだったか?」
 視線を上げた先輩の眉間に、早速皺が寄っている。
「そうですよ。お部屋にお邪魔したのは、三週間ぶりになると思います」
「どうもそこまで間が空いたという気がしない。一度外で会ったからだな」
「ええ。でも、ちょっと寂しかったです」
 私は笑って、正直に告げた。
 にもかかわらず、先輩はどこかはっとしたように目を瞠った。それからまるで探るように尋ねてくる。
「寂しかった? どうしてだ」
「だって、一度アルバイト先にお邪魔してからは、全く会っていませんでしたから」
 もちろん、会いに行こうと思えばもう一度行くこともできた。だけどそうはしなかった。結局、私の存在が先輩のお仕事の邪魔になってしまうのは事実のようだから、ぐっと我慢した。ただ先輩と会えない時間があるのはやはり寂しく、外出の度に例の古書店まで足を伸ばしたくなるのが悩みだった。
 そんな寂しい日々もようやく終わる。
「電話で何度か話をしたはずだが」
 そう尋ねた先輩は、私に会えなくても寂しくはなかったのだろうか。鋭い目を向けられて、私は反射的に小声になる。
「それはそうですけど……やっぱり会って話をするのとは違います」
「手間のかかる奴だ」
 溜息と共に率直な言葉が返ってきた。いつものこととは言え、冷たい答えに私は口を噤む。
 先輩もしばらく語を継がなかったので、室内には沈黙の時間が淡々と過ぎていった。

 この気まずさは何だろう。久し振りに顔を合わせたせいなのか、私たちはお互いに、妙にぎこちない。本当に長いブランクが生じたように、会話が上手く続かない。
 私は何かおかしなことを言っただろうか。いつもなら押し問答になるような何気ない言葉のやり取りが、今日はぎくしゃくとした一方通行の言葉になっているように思う。
 表情を窺う限り、先輩はなぜか機嫌を損ねているようだ。私の軽率な発言のせいで機嫌を損ねたのか、それとも私の来訪以前から不機嫌だったのか、定かではない。ただ、背けた顔が眉を顰めているのはよくわかる。

 どうしようかと途方に暮れている私を、唐突に、先輩が目の端で見た。視線が合うと私は慌てて目を伏せ、先輩は聞こえるように息をつく。
「たった三週間程度で寂しかったと言うか」
 尋ねられて一瞬迷ったものの、正直に答えるしかない。
「はい……あの、すみません」
 子供っぽいことを言ってしまっただろうか。事実だからやむを得ないにしても、そもそもそういう気持ちを抱く時点で私は幼いのかもしれない。ここへ来ていなかった三週間のうち、一度も会えなかったわけでも、口を利いていなかったわけでもないのに――鳴海先輩は私のそういう態度に呆れてしまったのだろう。私はいたく反省した。
 先輩はやはり呆れたように呟いた。
「どいつもこいつも、大げさな連中ばかりだ」
 ただ、呟きの内容は私の予想とは少し違っていた。大げさな連中、とは誰を指すのだろう。私は怪訝に思いながら面を上げる。
 目の前の先輩が顔を顰め、独り言のように言った。
「こちらはお前があれきりやって来ないから、大層仕事が捗ったぞ。常に閑古鳥の鳴いている店はとかく仕事の邪魔が入らなくていい」
 そしてその後で、ふと視線を床に落とす。低い声が続いた。
「それで――」
 先輩は言いかけて、不自然に言葉を止めた。その先に何か言葉があるはずなのに、明らかにそこで止めていた。目が泳いでいるようにも見える。
 ただならぬ先輩の様子に、私は目を瞬かせた。
「それで、どうしたんですか、先輩」
 恐る恐る促すと、深く息を吸い込んでから先輩は、
「いや、大した話じゃない。仕事の邪魔は入らなかったが、一人、喧しい奴がいた。そいつの言うことを鵜呑みにするつもりはないが、一理あるとも思い、考えた」
 と、早口になってまくし立てた。
 相変わらず何のことかぴんと来ない。仕方なく、私は待つ。先輩が私にも理解できるよう、噛み砕いて話してくれるのを待つ。
 次の言葉はややためらいがちに告げられた。
「お前が寂しがっているのではないかと、大槻が言っていた」
「大槻さんがですか?」
 思いもかけない展開に私は驚く。どうしてあの人はそんなことを、わざわざ先輩のような人に言ったのだろう。
「一体どうしてそんな話になったんですか?」
「あいつの言うことは常に脈絡がない。お前の話題が出たのもあいつの気まぐれだ」
「そうですか……あの、私の話をよくするんですか? 大槻さんと……」
「いいから。あいつの言動など気にするだけ無駄だ」
 親しいはずの友人をばっさり切り捨て、先輩は尚も続ける。
「とにかく、大槻が言うには、せっかくの夏休みだというのにお前が俺に放っておかれているようで、一人で寂しがっているのではないかとのことだった。あいつの口ぶりは責めるようで、まるで俺が罪人であると言いたげだった。俺はそんなことはないと言い返したが、今日お前の話を聞いて、大槻の主張が正しかったことを知り、落胆したところだ」
 大槻さんは優しい人だ。会うたびにあの口数の多さには圧倒されてしまうけど、実は気配りの人で、そして鳴海先輩のことを本当に気に入っているようだった。私はあの人が好きだったし、あの人が私を案じて、先輩に声をかけてくれたことにも感謝していた。
 先輩の本心ははっきりとは窺い知れないけど、少なくとも大槻さんを嫌いなはずはなかった。先輩の性格上、嫌いな人と同じところでアルバイトをしたりはしないだろうから。
「それで、俺も考え直さざるを得なくなった」
 私が思案を巡らせている間にも、先輩はぶつぶつと話を続けていた。
「正直に言えば、俺はこういうやり方はどうかと思う。謝意を表すのに物を贈るというのは、一歩間違えば物で釣るような手段とも取れ、心情を伝えるのに適切ではない」
「はあ……」
「しかし大槻がそうすべきだと強硬に主張するから、結果として奴の意見を鑑みた上で、形に残らない物なら適当かと思い、それを用意したわけだが」
「そうなんですか……」
 私の理解力が足りないのか、先輩の話が回りくどいのか。話の肝が見えずに私は困惑していた。
 だけど不思議なことに、話している先輩自身も困惑の色を浮かべている。
「ところで、雛子。お前は甘い物が好きだったな」
 そして向けられた全く脈絡のない質問に、私は呆気に取られた。そもそも先輩の前でお菓子を食べる機会だってこれまで何度もあったし、先輩がそのことを知らないはずがないのに。
「はい。それは先輩もよくご存知ですよね」
 今の質問が何か、この話の流れと関わりがあるのだろうか。釈然としない思いで答えれば、
「冷蔵庫に、チョコレートが入っている」
 視線を外した先輩が言った。苛立ちを含んだ口調だった。
「お前が好きだろうと思って買ってきた。食べるか?」

 そこまで言ってもらってようやく合点がいった。と同時に、どきりとする。
 つまり、それが謝意なのだろう。寂しがっていた私に対する先輩なりの謝意が、冷蔵庫の中のチョコレートだということらしい。この季節に甘い物好きの相手の為、チョコレートを選ぶ辺りは、実に先輩らしいストレートさだと思う。
 それにしても本人の言う通り、先輩にしては珍しい気の配り方だと思った。大槻さんに焚きつけられたのだとは言え、そうして気にかけてもらうのは決して嫌なことではない。むしろ嬉しい。会えずにいた間、私が寂しがっているかもしれないと、先輩が欠片ほどでも考えていてくれたなら嬉しい。

 今日の、先輩のぎこちなさの理由まで思い至って、私は少しほっとした。別段機嫌を損ねているわけではなかったようだ。私の為に、何かの記念日でもないのに贈り物を用意したことを、面映く思っていたのだろう。それにしても回りくどい切り出し方だとは思うものの、その不器用さも鳴海先輩らしさだ。
 私は浮かんでくる笑いを噛み殺しながら、早速お礼を言うことにした。
「ありがとうございます、先輩」
「礼はいい。どうせさして高いものじゃない」
 先輩は軽く首を竦めた。無愛想な態度とは裏腹に、頬がほんのり赤らんでいる。
「でも、うれしいです。私のことを考えてくれたなんて」
「俺が考えたことでもない」
「だけどお話を聞くに、チョコレートを選んでくれたのは先輩ですよね?」
「……だからどうした」
 たちまち先輩は顔を思い切り背けてしまったので、私もそれ以上の追及は止めておくことにした。
 私が引き下がる気配を察してか、先輩は安堵の息をつく。そして、何事もなかったように話題を戻した。
「今、持ってくる。少し待っていろ」
 言うなり立ち上がろうとする先輩を、
「あ、待ってください」
 私は慌てて引き留めた。
 腰を浮かせかけた先輩の訝しげな顔がこちらを向く。
「どうして止める? 食べないのか?」
「いえ、いただきます。でも……あの、言いにくいんですけど」
「何だ。気に入らないのか」
「そうではありません。ただ、いただくのは来週の、旅行から帰ってきてからにしたいんです」
 素直に私がそう告げると、先輩はますます眉間の皺を深めた。
「どういうことだ」
 真顔で問い質されるのはいささか照れることだった。先輩が思うほど深刻な事情や理由があるわけではないから。
 もちろん、チョコレートが気に入らないというわけではない。ただ、いろいろと事情があって、少し前からお菓子の類は控えていたところだった。そこに来てチョコレートを贈られる間の悪さに、先輩には黙っておくべきかとも考えたけど、旅行が眼前に迫っているとあってはやはり言っておかなくてはならない。
「実は、最近甘い物を控えていたんです。旅行に備えて」
 私は言い、即座に先輩が首を傾げる。
「旅行に備えて、どうして甘い物を控える必要がある」
「それは、だって、せっかくの先輩との旅行ですから。何もかも万全にしておきたいんです」
「お前の言っている意味がわからん」
「ですから……甘い物をうっかり摂り過ぎると、お肌にも、体重にもよくないんです」
 そこまで打ち明けると、私は無性におかしくなって、思わず笑ってしまった。神妙な顔をした先輩は、瞬きを繰り返している。
「つまり、美容の為です」
 笑いながら私は、言葉を続けた。
「せっかくの旅行の前に、目立つところににきびができてしまったり、ぶくぶくに太ってしまったら、先輩には愛想を尽かされてしまうんじゃないかって」
「くだらないことを気にかけるんだな」
 先輩は目を瞬かせていたけど、私にとっては決してくだらないことではない。
 好きな人と泊まりがけで旅行に出かけて、いつもよりも長い時間を共有するという一大事だ。それに備え全てにおいて完璧に支度をしておきたいと思うのは、無理もない心情ではないだろうか。女の子とはそういうものだと、私は思う。
「くだらなくないです。大事なことです」
 声に出して主張する。先輩には呆れた眼差しを向けられてしまったけど。
「いつも思うが、そんな必要があるのか」
「多少なりともきれいな私の方がいいって、先輩は思いませんか?」
「大して変わらん。お前はお前だ」
 先輩のその言葉が、許容なのか、無関心なのかが掴み切れない。どちらかはっきりとわかれば、私も従いようがあるのに。
 だから結局、反論してしまう。
「でもいつもよりもずっと長く、一日以上先輩と一緒の時間を過ごすんですよ。いつもよりも長く傍にいられるんですから、できる限り正視に堪えうる私でありたいと思います」
 旅行中の記憶が、何度思い返しても心地いいものになればいいと思う。そもそも先輩の場合、景色ばかりを眺めて私には目もくれない、という可能性もなくはないけど、それでもだ。
 もしかしたら私のことを、気まぐれにでも一時、じっと見つめてくれることがあるかもしれない。いつも目を逸らしてばかりの人が、私と私の想いにじっくり向き合ってくれるかもしれない。起こるかどうかわからないその瞬間にも備えておきたいと、旅行の予定が決まった時から考えていた。
「正視に堪えないような奴は、そもそも旅行へは連れて行かない」
 先輩はそういうふうに言ってくれた。私を横目に見るようにして、
「別に、十分じゃないのか。今のままで……」
 言いかけて、案の定途中で止めてしまい、だけど先輩は私に手を伸ばした。大きな手が私の頭を、慎重に、壊れ物でも扱うみたいに撫でる。
「だが、お前がそうまで言うなら、その努力は買ってやる」
 そうしていつになく穏和な口調で先輩は言った。
 私も思いがけない優しさに触れ、跳び上がりたくなるほど嬉しくなった。
「ありがとうございます! でも、ごめんなさい。せっかくのチョコレートをいただくのが遅くなってしまいます」
「いや、いい」
 先輩がかぶりを振る。
「恐らく同じことだ。お前のその努力と、俺がチョコレートを買ってきた理由とは」
 そうなのかもしれない。相手の為を思って気を配ることには違いない。
「旅行から帰ってきたら、忘れずに食べに来い。俺は食べられないから、放っておけばいつまでもあのままだ」
「はい、そうします。今からすごく楽しみです」
 ためらわずに力一杯頷いた私を、先輩は苦笑いで見下ろしている。
「お前が俺に、愛想を尽かされると思うか。相変わらず、勘の鈍い奴だな」
 その言葉の不思議な温かさに、急に気恥ずかしい思いが湧き起こった。旅行に備えて、という点がいかにも、自分で言っておいてなんだけど意味ありげに思えてならない。先輩は私が鈍い奴だと言うけど、私の真意には気づいているのだろうか。
 確かめてみようと一瞬思った。でも旅行前にそこまで踏み込む勇気はなく、私は恥じ入りながら違うことを尋ねてみる。
「先輩。私、旅行前にはしゃぎすぎでしょうか」
「そうだな」
 率直に、先輩は答えた。だけどそれを咎められもしなかったから、先輩は少なくとも私の心意気を汲んでくれたのだろう。

 今日は、互いへの気配りが素晴らしく功を奏した日だ。
 チョコレートの代わりにこの優しい時間を、二人でじっくり味わいたいと、今は思う。
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