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八重咲く如く

「先輩!」
 呼びけられて、思わず立ち止まる。
 今のは雛子の声だった。あの声を聞き違えることはさすがにない。
 視線を巡らせてその姿を探す。夕暮れ時の駅前通りは行き交う人波でごった返している。それでも見つけるのはたやすいと思っていた姿が、しかしすぐには留まらなかった。
 ――聞き違えたか?
 訝しがっていれば、ふと雑踏の中から浴衣姿の女がこちらへと寄ってきた。着ているものに合うように髪をまとめたその女は、俺の前に立つなり、聞き覚えのある声でこう言った。
「こんなところでお会いできるなんて、偶然ですね」
 眼鏡をかけた顔にも見覚えがあった。
 しかし、記憶の中にある顔とはいくらかの相違もあり、そうと気づくまでやや時間を必要とした。
「雛子か?」
 驚きながら尋ねた俺に、彼女はいつもの控えめな笑みを見せる。
「おわかりになりませんでしたか」
 確かにすぐにはわからなかったが、化けたというほどはなく、目の前でしげしげと眺めれば確かに見間違いようもない。いつもと違う髪の結び方や浴衣の装いがよく馴染んで、雛子を別人のように、やけに大人びて見せている。
「いや、わからなくもなかった」
 言い訳のように呟いてから、俺は眉を顰めた。
「見たことのない格好だったから、いささか驚いただけだ」
 着ているもので見かけが変わるのもよくあることだ。特に女は化けるが如く印象を変えるものだと聞いている。しかし、それなりに長い付き合いをしてきた雛子が何か変わった服装をしてきたからといって、こんなに驚かされるものだろうか。見慣れているはずの彼女の初めて目にする姿が、積み上げてきた記憶をあっさり打ち崩し、形容しがたい戸惑いを抱かせる。
 見たことがないから驚いた。それだけのはずだった。
「ええ。今日は花火大会ですから」
 どこか得意そうに雛子が答えた。藍色の浴衣の袖をこれ見よがしに広げてみせる。四ひらを広げた紫陽花の柄行だった。こちらへ向けた期待混じりの視線の意味を察して、面倒だという気持ちが先立つ。
 何をそんなに浮かれているのか、どんな格好をしようと中身は所詮子供じみている。今日の装いを誰かに誉めて貰いたいのだろうが、それならあいにく相手を間違えたようだ。存外に面食らわされている事実も癪に障り、俺はすげなく言ってやった。
「いい柄行だな」
 短い言葉だけでも喜ぶような単純な奴だと知っていた。どうせ他に誉め言葉も見つからないから、浴衣だけを誉めた。
「ありがとうございます」
 予想どおり、雛子は素直に頭を下げる。それからふと小首を傾げてこちらを見た。
「先輩は、今日はお買い物でしたか?」
「そうだ」
 頷く。夜には気乗りのしない外出の予定があった。それまで時間を潰そうと、以前アルバイトをしていた古書店を覗いてきたところだ。しかしまさか、こんなところで雛子と出くわすとは思いもしなかった。
 先の発言とその装いから察しても、雛子は花火大会へと赴くつもりでいるのだろう。クラスメイトに何人か、よく行動を共にする者がいると聞いていたから、恐らく彼らと一緒なのだろう。こんな偶然でもなければ、俺が彼女の浴衣姿を目にすることはなかった。
 それにしても、案外と不似合いでもない。俺は心中密かに唸る。
 彼女は普段、制服の延長線上にあるような隙のない服装ばかりしている。そういう服装は彼女を年相応に見せ、決して不似合いでもないのだが、変わり映えがしないとでも言うのか、いつも同じ服を着ているわけでもないのに単調に見えるものだと思っていた。かといって妙に背伸びをしたり、学生らしくない派手な格好もして欲しくないものだが――今宵の装いは派手でもなく、幼くもなく、しっとりと落ち着いて見えた。
「気に入っていただけましたか、先輩」
 視界を遮るように、雛子は俺の顔を覗き込んでくる。その表情の明るさに思わず顔を顰めた。
 浴衣が不似合いではないことを彼女自身もよくわかっているのだろう。そういう顔つきをしている。隠し切れない自信のほどが窺えると、誰が誉めてやるものか、と強く思う。
「気に入るも何もない。お前が俺の知らないところでどんな格好をしていようがどうでもいい」
 憤然と答えるや否や、雛子は眉尻を下げた。
「そうですか……」
 あからさまな落胆の様子。
 俺がまともに誉めるとでも思っていたのだろうか。浅はかな奴だ。誉めたら誉めたで図に乗るくせに、これだから扱いに困る。
 大体、着るもの一つ変えたくらいで浮かれることか。軽薄に見せびらかすような真似をして、同じように浮かれている性質の悪い連中に目をつけられたらどうするつもりでいるのだろう。装いを変えて大人のように見せたところで、中身は目立った成長もないいつもの雛子だ。事実大人になったわけでも、分別がついた訳わけもない。
 感心しない思いでいると、不意に雛子が切り出してきた。
「あの、私、約束がありますので。これで失礼しますね」
 その言葉で意識を引き戻された。
「あ……そうか」
「はい。クラスのお友達と約束しているんです。花火を見に行くって」
 やはり彼女はそう言って、表情に冗談めかした色を閃かせた。
「よろしければ先輩もいかがですか、花火見物」
 これは、こちらの返答を読んだ上での問いだ。雛子の友人がいるところへ出向く気は端からない。俺はかぶりを振った。
「俺はいい。人の多いところは苦手だ」
 すると彼女も得心の面持ちになり、会釈を一つしてみせた。
「では、失礼します」
「ああ」
 顎を引いて答える。
 微笑を浮かべた雛子は、俺の横を通り過ぎ、駅前の通りを歩き出す。浴衣の裾に気をつけながら、かつかつと足音を立てていく。
 背を向けられてしまえばその姿はたちまち見知らぬものとなる。まとめた髪と藍色の浴衣は、彼女を雑踏へ溶け込ませる。よそ行きの装いを飾る紫陽花は、間違いなく他人の目にも鮮やかに留まるだろう。揺るがぬ意思を持つように、静かに咲き続けながら人目を引くのが紫陽花の佇まいだ。あれは紫陽花の花、そのものにも思える――。
「雛子」
 気づけばその名を呼んでいた。
 見知らぬ姿が振り返り、人混みの中、見覚えのある面差しを向けてくる。
「どうかしましたか、先輩」
 怪訝そうな彼女に俺は尋ねた。
「帰りは何時頃になる?」
「はい……? 私ですか?」
「他に誰がいる」
 何を聞かれたと思っているのか。相変わらず勘の鈍い奴だった。
 こちらの苛立ちを察してか、雛子はいささか早口になり、
「恐らくそんなに遅くまでは……私も含めて、皆受験生ですし」
 と答えたので、間髪入れず申し渡す。
「そうか。じゃあ、終わったら連絡しろ。お前を迎えに行く」
 眼鏡の奥の双眸が瞠られた。
「え……あの、ええと、よろしいんですか」
 たどたどしい声が続いて、更に苛立ちが募る。都合が悪ければそもそも、そんな申し出などしない。考えればわかることをいちいち尋ねてくる。
「たまたま、暇だからな」
 外出の予定を失念したわけでもなかったが、俺はそう言った。どうせ気乗りしない用事だった。この際、どうでもいい。
「それに近頃は物騒だ。お前を一人でふらふら歩かせておくには不安もある」
 むしろ、雛子に対する義務の方が重要だ。要らぬ知恵ばかりつけて一向に成長の気配のない小娘を、無事に駅まで送り届けることは、年長者としての義務に違いない。浮かれた心が窺える今日は尚更だ。
「私、ふらふらなんて歩きませんけど……」
 雛子は不満げだった。生意気なその反意こそが幼い。
「返事をしろ。迎えに来て欲しいのか、来て欲しくないのか、どっちだ」
 俺が急かすと、それでも正直な口調で答える。
「それは、来ていただきたいです」
 初めからそう言えばいいものを。返答に満足した俺は、もう一度釘を刺しておく。
「わかった。迎えに行くから早目に連絡しろよ」
「はい」
 きちんと頷いた雛子が、再び歩き出すのを見送った。見知らぬ後ろ姿が雑踏に飲み込まれる直前、裾を彩る紫陽花の柄が目に留まる。八重咲く紫陽花の佇まいが、なるべくなら人目を引かなければいい、と思う。

 とっぷり暮れた時分になり、ようやく雛子から連絡があった。
 神社へ向かうと、鳥居の前で彼女はひっそり立っていた。着慣れない浴衣に疲弊したのか、表情に少し翳りがある。それでも、俺に気づくと控えめな微笑を浮かべてきた。
「疲れたか」
 歩み寄るなり俺は尋ねた。
 たちまち彼女は苦笑して、素直に答えてみせる。
「少しだけ。慣れない履物でしたから」
「そうか」
 浮かれて歩き回るからだ。内心、呆れる思いで嘆息する。しかし次の瞬間、俺の視界を遮るように彼女の手が何かを差し出してきた。
「先輩、よろしければいかがですか」
「何だ?」
 細身の透明なガラス瓶はじっとり汗を掻いていた。手に取るとひやりと冷たい。俺が眉を顰めると、すかさず雛子が説明を添える。
「ラムネです。ご存知ですよね?」
「当たり前だ。これは、どうした?」
「露店で買いました。帰り道に、一緒に飲もうと思いまして」
 謝礼のつもりだろうか。余計な気の遣い方をする。買う前に尋ねてくれたなら制止したものを。
「好きなんです、私。ラムネの味もそうですけど、中のビー玉を集めるのも好きで、縁日では必ず買って、つい歩きながら飲んでしまいます」
 嬉々として語る表情はあどけない。
 全く、いちいち釘を刺してやらねばわからない奴め。これ以上呆れることもないだろうと思いながら、俺は鼻を鳴らした。
「余計な気を遣うな」
「お好みに合いませんか?」
「あまり飲まないな。それに、歩きながらでは行儀が悪い」
 それこそ、子供のすることだ。
「でも露店の食べ物は、歩きながら食べるものでもあると思います」
 しつこく食い下がる言葉を一蹴する。
「歩きながらの飲食はみっともないし、落ち着かない。持ち帰って家で飲むことにする」
 俺はそう言って、つき返すことだけはしなかった。歩き出した横で、雛子もまたガラス瓶を開けようとせず、行儀よく俺についてきた。

 花火大会の後の通りは、どこも人で溢れ返っている。賑々しさが肌に合わず、駅までの道は自然と人の少ない辺りを選んでしまう。
 静かな夜道を並んで歩く。今夜はいささか蒸し暑い。
「花火、きれいでしたよ」
 余程楽しんできたのだろう。疲れているはずの雛子は、明るい表情で花火について語った。
「音は聞こえていた」
 俺は相槌を打つ。
「さすがに部屋の窓からは見えなかったがな。うちの大学からは、毎年よく見えるそうだ」
「そうなんですか」
「大槻たちが見に行っているはずだ」
 連中のことだ、黙って観賞などしていないだろう。ビール片手に花火そっちのけで大騒ぎを始めている頃かもしれない。四季折々の風物詩を酒盛りの理由にする連中ばかりだ。
「どうして先輩は行かなかったんですか? 会場まで行って見るよりも、人が少なくてよかったのでは?」
 雛子に尋ねられ、特に誤魔化す気も起こらなかった。率直に答える。
「そうだな。半ば強引に誘われて、断るのも面倒だと思っていた」
 街灯の明かりが隅々までは届かない夜道。俺はひたすら前だけを見据えながら歩いていた。静寂の中に、聞き慣れない足音が響き続けている。かつかつと高く、耳に残る音だった。
「だが夕方、駅前でお前と約束をしてから、断りの電話を入れたんだ」
「え、そんな……」
 雛子が言葉を失うのがわかり、俺は先んじるように告げる。
「余計な気を遣うな。俺は俺で気の向いたようにしただけだ」
「でも」
 反論しかけた彼女を横目で見遣る。やはり、気遣わしげにしている。
「お前を連れていくわけにはいかなかったからな」
 藍色の生地に咲く紫陽花は、薄暗い道でも鮮やかに見えた。やはり人目を引いたのだろうか。余計な連中の気を引くことはなかっただろうか。一抹の不安が過ぎる。
「来年は、お前もうちの大学で見るんだろう」
 そのことは既に確定事項だと考えている。雛子ならば決して不可能ではない。それだけの努力もしているはずだ。だから、あえて仮定では語らない。
「ええと、頑張ります」
 表情を引き締めた彼女に、
「期待している」
 俺は頷き、その後一つ嘆息した。
 次に口にする言葉はわずかな躊躇を引き起こした。だが、結局言ってしまった。
「ならばその時は、また浴衣を着て来い」
 不意に、甲高い下駄の足音が止んだ。
 訝しがりながら顧みれば、雛子は一歩後方で立ち止まり、物問いたげな面持ちでいる。むしろこちらが問いたくなる。
「何だ。何か言いたいことがあるのか」
「いえ……」
 雛子は声を落として、しかしはっきりと尋ねてきた。
「この浴衣を、気に入っていただけたのかな、と思いまして」
 誰がそんなことまで言った。図に乗り過ぎだ。
「気に入るも何もない。ただ、こういう機会でもなければ見られないだろうからな」
「先輩のお望みとあらば、いつでも着て参ります」
 妙にはきはきと告げてきた彼女を鬱陶しく思う。意図しているのかいないのか、こちらを動じさせるのが上手い。
「そんなことは頼んでない。たまに見られるくらいがいいんだ」
 言い放った後で、失言だったかと思う。紫陽花の柄に引きつけられたのは俺もまた同じだと、自ら詳らかにしているようなものだった。
 だが事実だ。紫陽花の八重咲く如く、静かだが色鮮やかな佇まいには目を奪われた。視界に入れまいとしても、自然と踏み込んでくる。にもかかわらず、聞き慣れた声がいつものように幼い言葉を語るのだから、誰が動じずにいられるものか。
「女が、着る物で様変わりして見えると言うのは、実にその通りだな」
 思わず呟くと、雛子は小首を傾げてきた。
「今日の私は、様変わりしたように見えましたか、先輩」
「……子供じゃないように見える」
 但し、見た目だけだ。あくまでも。
 中身がどんなものかは知っている。十分に知っているからこそ厄介だった。
「私、いつもは子供っぽいでしょうか」
 自覚はないのか、雛子が問いを向けてきた。
「そうだな」
 答えてやると、もう一つ問われた。
「先輩は、どちらの私がお好みに合いますか」
「どちらも、同じくらい扱いに困る」
 愚問だ。
 睨みつけてやれば目が合って、笑われているのがわかった。ほとんど自棄で尋ね返してやる。
「どうしてその柄にしたんだ」
 決まりきった答えを口にするように、彼女は意気揚々と言った。
「先輩に見ていただきたいと思って、紫陽花の柄を選びました」
「かえって見づらくなるようなことを言うな」
 どうせ自信があるのだろう。浴衣が不似合いではないということにも、紫陽花がよく似合っているということにも。だったらわざわざ誉めてやる義理はない。浮かれた気分でいる奴を余計に図に乗らせることもないだろう。少しは落ち着いて、俺のいないところでは用心深く振る舞って欲しいものだ。
「来年は、もう少しじっくり見ることにする。……花火のついでにな」
 そう告げながら、内心では彼女の成長を願う。来年の今頃までにはもう少し釣り合いが取れているといい。しっとりとした落ち着きに見合った心持で、黙って隣に立っていればいい。それならまだ扱い易い。
 内心で顔を顰めた時、やぶからぼうに雛子が言った。
「先輩、ここなら人気がありませんよ」
「だからどうした」
 どうして人目を気にする必要があるのか。さすがにぎょっとしたが、こちらの動揺などお構いなしで、彼女はあどけない微笑を浮かべた。
「歩きながらラムネを飲んでも、誰にもお行儀が悪いなんて言われないと思うんです」
 佇まいはまるで大人の女のようなのに、中身は一向に成長がない。
「よろしければ、いかがでしょう。それも先輩の為に買ったものなんです」
 だが、そんな相手でも突き放せないのは不思議なものだ。振り回され、動じさせられ、酷く疲弊させられても、俺は彼女を放り出せない。
 見てみたいのかもしれない。幼さの向こうにある、俺がまだ知らない顔を。
 だから彼女の手を取った。それから――それからのことは、互いの秘密にさせておいた。
 誰の目に留まらなかったとしても、彼女の幼さに付き合わされる自分の姿は、滑稽なように思えてならない。彼女は不似合いではないと言ったが、俺は断じて認めたくない。
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