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忍耐強い愛情

 夏の図書館は、とても居心地のいい場所だった。
 読書の虫である鳴海先輩に言わせれば、図書館は春夏秋冬いつ何時であろうと居心地の良い場所になるのだろう。虫と呼ばれるほどではない私にとっても、夏場の図書館が一番過ごしやすい。冬はページを繰る指が悴むことがあるし、春と秋は外を歩いている方が心地良かった。図書館は夏の日光からの逃げ場にちょうどいい。
 ここにいれば適度に涼しく、湿度の高さにも、日射の強さに悩まされることもない。夏休み前ならば休日でもがらがらで静かに過ごすことができる。それに何より、窓から見える情景が美しい。
 去年と同じように、図書館の外にある花壇には紫陽花が色鮮やかに咲いていた。あの花を目にする度に私は去年の今頃のことを思い出す。今よりもずっと言葉が少なく、気持ちを見せようとしなかった鳴海先輩との、雨の日の出来事を。
 季節の移ろいと同じように全てのものは変わる。そして今年、私には決定的な環境の変化が訪れた。図書館を訪れる目的が変わった。受験生として迎えた高校三年の夏、少しでも勉強の捗る環境をと思い、足しげく通っている。鳴海先輩はそんな私の図書館通いに不満もなく付き合ってくれた。
 ほとんど人気のない館内、四人がけのテーブルに私はノートと参考書を広げ、学期末考査に向けての努力を重ねている。
 努力はしつつも、時々顔を上げて、こっそり観察している。真剣な表情で読書に耽る先輩の眼差しを。しなやかにページを繰る器用そうな指の動きを。そして読み終えて本を閉じた時、深い息をついた瞬間の満足げな顔を。
 先輩の肩越しには図書館の窓が見える。良く晴れた夏空の下に咲く紫陽花の花が見える。
 何て絵になる情景だろう。
 大好きな人と、美しい花と。このまま写真にして閉じ込めてしまいたくなるくらい、いとおしい。
 私は夏の図書館が好きだった。今、目に映るものの全てがこの上なく、好きだった。

「……どうした」
 不意に、鳴海先輩が口を開いた。
 それは図書館の静寂に溶け込むほど潜めた声だった。にもかかわらず、私はびくりとして視線を泳がす。
 見惚れてしまっていたのに気づかれただろうか。
「え、あの」
 思わず口ごもると、先輩は眉間に皺を寄せて、
「どこか、わからないところでもあったのか」
 と尋ねてくる。
 親切な言葉だっただけに気まずく思った。先輩を眺めていたので全く勉強に集中していませんでした、とは言えない。先輩まで気まずい思いにさせることもない。
「いえ、そういうわけではなくて……その、目が疲れたので、遠くを見ていたんです」
 我ながら下手な言い訳だと思ったものの、先輩は特に訝しがることもなかった。
「そうか。無理はするなよ」
 そして静かに椅子を引いて立ち上がる。
「本を取ってくる」
 短く告げると、私に背を向けた。
 私は慌ててその背中に声をかける。
「いってらっしゃい……」
 黙って顎を引いた先輩は、きびきびとした足取りで本棚の向こうへ消えてしまう。その姿が見えなくなってから、私は溜息をついた。
 受験勉強と恋愛感情はことごとく相容れないものだ。鳴海先輩とやって来る夏の図書館は、実は勉強向きの環境ではないのかもしれない。夢中になりたいものが多すぎて、一番重要なことに集中し切れない。
 とは言え、今が頑張り時だ。私の志望校は先輩の通う大学でもある。努力を尽くせば、来年の今頃はもう少し一緒に過ごす時間が増えているはずだから――それが全てではないにしろ、動機にしては不純だ。だから捗らないのだろうか。

 雑念を振り払い、私は再び参考書に向かう。そこに記されている無愛想な英文を訳そうと試みた。
 と、急に参考書の上へ影が落ちた。
「隣、いいかな」
 聞き覚えのある声が降ってくる。
 はっとして顔を上げれば、見えたのは人懐っこい顔の、よく知っている人。男性にしては小柄なその人は、私が答える前に隣の椅子を引いて、腰かけてしまった。
 それから私に向かって、愛想良く笑いかけてくれる。
「雛子ちゃん、こんにちは」
「こんにちは、大槻さん」
 私もつられて笑んだ。
 鳴海先輩の大学の友人で、何度か顔を合わせたことがある。先輩は絶対に認めようとしないけど、大槻さんに言わせれば二人は『とても仲のいい友人同士』なのだそうだ。そして私もその通りだと思う。
「一人?」
 大槻さんはレポート用紙とテキストを広げながら尋ねてきた。いつも陽気で口数の多い人も、図書館では潜めた声なのが新鮮だった。
「いいえ、先輩が一緒です」
 私がかぶりを振ると、大槻さんはとても嬉しそうな顔をする。
「やっぱりね」
 そこにちょうど、本を選び終えた鳴海先輩が戻ってきた。
 先輩は私たちの座るテーブルの手前、三メートルのところで立ち止まり、あからさまなしかめっ面をする。
「何でいるんだ、大槻」
「何でって、俺が図書館来てたらおかしいみたいな言い方するなあ」
 うきうきと応じる大槻さん。
 私の向かい側の席に着いた先輩が、鬱陶しげな視線を大槻さんへと送った。
「実際、ろくに本も読まない奴が何を言ってるんだ」
「あ、今日はちゃんと用があって来たんだけどね。レポートの調べ物で」
 大槻さんが手をひらひらさせると、先輩の眉間の皺はますます深まる。
「何だってわざわざ図書館で」
「公共の場をどう使ったって自由でしょ。大体、雛子ちゃんだってしっかり勉強中じゃないか」
「お前はいつも喧しいから困る」
「俺だって場の空気くらい読むよ。静かにしてるって」
「どうせ口だけだ」
「ひっどいなあ」
 およそ友人同士には見えないやり取りだけど、これでも先輩は、絶対に大槻さんを突き放したりしない。
「こっちは読書に来てるんだ。騒がしくするなよ」
 釘を刺す一言はあしらうだけのもので、邪険にはしない。何だかんだで鳴海先輩は、大槻さんのことが好きなのだと思う。
 大槻さんは大槻さんで、鳴海先輩をいたく気に入っているのを知っている。
「はいはい。しっかり勉強頑張りまーす」
 そう言うと、私の方に向かってにっこり笑った。
「雛子ちゃん、一緒に頑張ろうね」
「そうですね」
 流れに乗り切れないながらも、その言葉には頷いた。
 視界の隅で先輩が仏頂面になったのも見逃さなかった。

 それからしばらくの間、私たち三人は沈黙を守り続けた。
 大槻さんは宣言どおり真剣な面持ちでレポートに取り組んでいたし、鳴海先輩は相変わらず読書に没頭している。お蔭で私も受験勉強に集中できそうだった。
 先輩の顔を眺めていられないのは少し惜しいけど、しょうがない。
 英訳が何ページ分か済んで、入り組んだ会話文に突入したあたりで――ふと、指で肩をつつかれた。
 何だろう、怪訝に思って隣のを見やる。
 口元に笑みを浮かべた大槻さんは、目配せをしながら私に何かを差し出した。レポート用紙を切り取った、小さな紙片だ。
 内心、首を傾げながら受け取った私は、その紙に丁寧な文字が並んでいるのを見つけた。初めて見る大槻さんの字は意外にも――と言ったら失礼かもしれないけど、きれいで大人っぽく整っていた。
『デートで図書館来ることって結構あるの?』
 丁寧な文字で、そう質問が綴られていた。
 驚いた私が思わず隣を向くと、大槻さんは唇の前に人差し指を立ててみせる。
 あくまでも手紙で、と言うことだろうか。少し愉快だなと思いながら、私はその紙片に返答を記す。
『そうです。先輩は、図書館が好きですから』
 音を立てないように、待ち構えていた大槻さんの掌の上に載せた。
 すぐに私の返答を確かめた大槻さんは、微かな笑い声を漏らす。その後でまた何かを書いて、私の目の前に紙片を寄越した。私の字の下に、大槻さんのきれいな字が並ぶ。スペースを気にしてか、さっきよりも小さめに。
『せっかく夏なのに、遠出したりとかしないの?』
 読んだ後で、私はちらと鳴海先輩を見た。
 先輩は本に夢中のようだ。こちらのやり取りには気づいていない。
『鳴海先輩は人混みが好きではないので、図書館か、先輩の部屋以外で会うことはまずありません』
 手早く返事を書いて、再び大槻さんに手渡す。
 今度は盛大に吹き出された。
 慌てて口元を押さえた大槻さんは、私と同じように鳴海先輩の方を窺いながら、新たにレポート用紙を切り取り、すらすらと迅速に続ける。
『聞いてたとおり、鳴海くんは本当に出不精なんだね。雛子ちゃんの方は、たまにはどこか連れてって、とか思ったりしない?』
 一体、先輩はどんな話を大槻さんにしていたのだろう。私をどこへ連れていったとか、いつ会ったとか、そんなことまで逐一報告しているのだろうか。それとも、言わされているのだろうか。
 想像するとおかしくて、私まで笑ってしまった。
 確かに先輩は出不精だ。一緒に過ごす時間はどこであっても楽しいものだけれど、たまには行ったことのないところへ出かけてみたいと思ったりもする。
『思う時もありますけど、先輩が楽しくないところに誘うのは悪いですから』
 答えを書いて差し出すと、大槻さんは口元を押さえたままでくつくつ喉を鳴らしてみせた。肩が小刻みに震えている。笑うのを必死に堪えているようだ。
 そのせいか、すぐに返ってきた紙片の上、大槻さんの字までが震えていた。
『たまにワガママ言ってもいいと思うよ。鳴海くんみたいな人は、はっきり言わないとわからないだろうし』
 そう言われても、実際難しい話だと思う。
 はっきり言ったところですげなくされるのは辛い。先輩は興味のないことには本当に冷徹な人だ。私の提案次第では、鼻で笑って一蹴だろう。そのくらいなら先輩の好みに合わせている方がいいくらいだと思っている。だけど。
 私がどう答えるべきか迷っていると、
「……何をしてるんだ、お前たち」
 ちょうど脳裏で思い浮かべていたような、冷たい声が聞こえた。
 鳴海先輩はテーブルを挟んだ向こう側から、不機嫌そうに私と大槻さんの顔を睨んでいる。突き刺さるような視線だった。
「何って、筆談」
 動揺しそうになる私を他所に、大槻さんはごく平然と答えて、それからわざわざ聞き返してみせた。
「何話してるか、気になる?」
「ならない」
 先輩は即座に、きっぱりと言った。
 とは言え、本心が言葉通りでないことは、表情からでも十分察することができた。目は手元の書籍に落とされているけれど、ページは一向に繰られない。私が見ているのにも気づいているのか、眉根をぎゅっと寄せていた。
「気にならないってさ。じゃあ続けようか、雛子ちゃん」
 なのに、首を竦めた大槻さんの物言いは堂々たるものだ。腕を伸ばして、まだ私の目の前にあった紙片に新しい文章を書き足した。少し崩された字が滑らかに並んでいく。
『いっそ困らせちゃうくらいがいいんだよ。彼女に上目遣いでおねだりされて、言うこと聞かない男なんていないって』
 私は眉を顰めた。
 大槻さんの言葉を疑いたかったわけではない。でもごく一般的な恋人同士ならともかく、先輩は『一般的』な物差しで測れるような人でもない。
 上目遣いでねだってみせたところで逆効果だろう。媚びた振る舞いが通用する人でもない。そもそも上目遣いなんて、可愛い子が可愛らしくするから許されるのであって、私ならまた視力が落ちたのかと心配されるのが関の山だ。
 でも、通用すればいいのに、とは少し思う。
 先輩とならばどこへ行ったとしても楽しいに違いない。だったらどこへでも行ってみたい。知らない土地へ行って、新しい記憶を、思い出を共有したい気持ちはある。夏の図書館も通い慣れた先輩の部屋も居心地はいいし、一緒にいて楽しい場所だけど、私はもっと違う顔の先輩だって見てみたい。
 隣から視線を感じる。大槻さんは私からの返事を待っている。好奇心を隠そうともせず、どこか楽しそうに待っている。
 私はどう答えていいのかわからずに、ペンを持ったままで思案を続けていた。
 でもその思案を断ち切る、がたん、という音がした。
 すぐさま私は顔を上げ、相変わらず仏頂面の鳴海先輩が席を立つのを見た。
 本を戻しに行くのかと思いきや、それはテーブルの上に置いたままで、この場から立ち去ろうとする。――どこへ行く気だろう。
「あれ、どこ行くの」
 真っ先に大槻さんが声をかける。
 先輩はこちらも見ずに答えた。
「外だ。目が疲れた」
 機嫌の悪さが瞭然とした、低い声色だった。
 振り向かず、私の方も見ないまま、早足で図書館を出て行く先輩。すぐに姿は見えなくなって、隣の席で大槻さんが肩を竦める。
「ああ、ありゃ妬いちゃったね」
 そう言ってから私に向かって、苦笑いを浮かべてみせた。
「つくづく大変だね、雛子ちゃんも。手のかかる彼氏だよ全く」
「いえ、そうでもないですけど……」
 答えながらも私は気が気でない。
 やきもち、なんだろうか。それだけならまだ可愛いものだけど、先輩が機嫌を損ねると強情さにも磨きがかかるから厄介だ。私がわがままを言うどころの話ではなくなる。
「心配性なくせに、無関心を装いたがるからなあ」
 大槻さんが喉を鳴らして笑った。
「で、どうするの。雛子ちゃん」
「え? あの」
「行っといで。追い駆けたげなよ」
 手がひらひらと振られた。
 大槻さんの笑顔は、いつでも人懐こく愛想が良い。
「荷物は見ててあげるから。……一応、責任感じてるしね」
 責任というならきっと私にもある。だから少ししてから、私も立ち上がった。

 図書館の外に出ると、途端にむっとする熱気と強い直射日光に曝された。
 今日も暑い。遠くの景色がゆらゆらと揺れているようだ。冷房の効いた図書館の中はやはり快適だった。
 涼に恋しさを覚えつつ、私は駆け足で先輩の姿を捜し始める。
 いくらも歩かぬうち、先輩を図書館横の軒下で見つけた。
 あの紫陽花の花壇の前に一人でいた。日陰で腕組みをして経つ姿は、遠目から見ても不機嫌だとわかる佇まい。私が近づいてもちらと見ただけで、口を開こうともしない。
「先輩」
 私は日陰に踏み込んで、先輩の横に並んだ。
「あの……」
 けれど言葉が続かない。そもそも何を言う為に追って来たのか、ここに辿り着くまで考えてもいなかった。
 困り果てて、先輩が注視している花壇に目をやる。鮮やかな色彩がきれいだ。鳴海先輩と紫陽花はとても絵になる組み合わせだと今でも思う。花言葉は――そう、『忍耐強い愛情』だ。
「何をしに来た」
 ふと低い声がして、私はびくりとする。
 先輩に視線を戻せば、影の落ちた面差しがこちらを向いていた。
「あの、……先輩が、拗ねていらっしゃるのかと思って」
 私は他に言いようもなかったので正直に答え、鳴海先輩からは睨まれてしまう。
「そういう言い方をするな」
 単語自体は否定しないあたり、正解だということだろう。把握はしつつもあえて確かめておく。
「では、拗ねてはいらっしゃらないんですか」
「……多少はな」
「私と大槻さんが仲良くするから、やきもちを妬かれたんですよね」
「否定はしない」
 珍しく率直に、先輩にしてはとても素直に答えた。
 また意地を張られるのだろうと覚悟を決めていた私は、拍子抜けする思いで告げた。
「考え過ぎです」
 素直にしていれば可愛い人だ。私は笑いたくなったけど、先輩は笑わなかった。
 それどころかますます険しい表情になった。
「そんなことはない。随分と楽しそうに見えた」
「え……そうですか?」
「そうだ」
 先輩が尖った顎を引いて、続ける。
「大槻といると本当に楽しそうじゃないか。俺といる時はあんな顔はしない。見たことがなかった」
 熱せられた外気の中にもかかわらず、先輩の声は冷たかった。
 誤解をしている、というだけではないのがありありとわかる。根拠もないのにそういう物言いをする人ではない。だから先輩の目には実際に、そう映っていたのだろう。
 私は大急ぎでかぶりを振った。
「違います、先輩。大槻さんと私は先輩の話をしていたんです。だから楽しそうに見えたんですよ」
 好きな人の話をするのに楽しくないはずがない。
 私にとっての先輩は言わずもがな、他の誰よりも一番大好きな人だったし、大槻さんだって鳴海先輩のことが好きだ。話していればよくわかる。
 私と大槻さんは先輩を介してしか知り合うこともなかったし、今後も先輩を間に挟んでこそ続けられる付き合いしかしないと思う。そのくらいの分は弁えている。たったそれだけの関係だ。
 そしてこれは、先輩がいなければ成立しない関係だ。
「私は大槻さんと話すのが楽しいんじゃないんです。大槻さんと、先輩のことについて話すのが楽しいんです。私の知らない先輩のことを、大槻さんはよく知っていらっしゃるからです」
 言い募る私に、鳴海先輩は押し黙ったままだ。
 唇を真一文字に結んで、じっと私を見据えている。
「先輩、機嫌を直してください」
 なるべく穏やかにそう告げると、先輩は顔を歪めた。本当に拗ねたような表情をした。
「悪かった」
 次いで放たれたのが謝罪の言葉だと気づくのに、少し時間が必要だった。
「――え?」
 今日の先輩は何かと素直だ。どうしたのだろう。
「少し、驚いていた。お前があまりにも楽しそうに笑うから」
「そんな、ですからそれは、先輩の――」
「話題が何であれ、お前のああいう顔は見たことがなかった。大槻があっさりそれを引き出してみせたのが、堪らなく悔しかった。そういうことだ」
 なぜだか自嘲気味に打ち明けられた本心が、胸に突き刺さるように響く。
「私、楽しそうに見えませんか? 先輩とご一緒している時は」
「あんなにたくさんは笑わないな」
 そう言って先輩は苦笑した。
「自覚はある。結局のところ、俺といても笑うような楽しいことはないからな。お前が笑っている顔を見ることもあまりなかった」
 紫陽花の色を映す双眸が揺れる。
 無愛想なばかりではない人の、とても繊細な一面を見た気がした。知らなかったわけではないけれど、いつも頑なさや凛々しさばかりが目について、私は時々忘れてしまう。鳴海先輩の持つ、呆気ないほどの脆さと、まだ掴みきれない寄る辺なさを。
 私は歯痒い思いで俯く。鳴海先輩と過ごす時間が楽しくなかったわけじゃない。楽しくないはずがない。けれど先輩の前で笑うことがあまりなかったのは――簡単な話だ。『楽しい』以外の気持ちを、より強く感じていたからだ。先輩と一緒にいる時には、いつも感じていた。楽しさとは違う意味での、どきどきするような感情。
 それを、どうすれば上手く伝えられるのだろう。
 どうすれば、誰よりも先輩と一緒にいたいのだと、先輩と過ごすのが一番いいのだと、伝えることができるのだろう。
 思案に暮れている間に、先輩は違うことを考えていたようだ。しばらくして切り出してきたた。
「ところで、大槻とは何を話していたんだ」
 私は我に返り、すぐさま答える。
「ええと……休日に先輩と会う場合、主にどこへ行くのか、と言う話です」
「そんなくだらないことであんなに笑っていたのか」
 気の抜けた声で呟いた先輩が、その後肩を落とす。
 落ち込ませてしまったようで申し訳ない気分になった。大槻さんの話は決して、くだらない内容ばかりではなく、私にとっては考えさせられるものでもあった。
 例えば――。
「先輩」
 ふと思い立って、私は高い位置にある先輩の顔を見上げながら言った。
 斜めにこちらを見て、先輩は眉根を寄せる。
「何だ」
「少し早い話ですけど、夏休みに入ったら、どこか遠出をしませんか」
「……何だって?」
 先輩が語調を強めて聞き返す。いきなり話題が変わったので、戸惑ったようだ。
 私は努めて冷静に続けた。
「去年の夏休みも出かけましたよね。あの時みたいに、テストが一段落ついたら計画を立てましょう。私も今年は受験がありますから、どこか遠くへ出かけるなら、夏休みが最後のチャンスだと思うんです」
 上目遣いにする余裕まではなかった。
 でも、たまにわがままを言うくらいは、許されると思いたい。
「どこか行きたいところでもあるのか」
 訝しがる先輩に、私は少し笑って、
「いえ、特には。でも先輩と一緒なら、どこだっていいんです」
 と告げる。
 それともう一つ。
「出来れば、今回こそは泊まりがけがいいです」
 前回は叶わなかった。鳴海先輩という人は、そういう点では石頭だからもどかしい。
 でも、好きな人とはできる限り長く一緒にいたいと思うのは当然の心理じゃないだろうか。その方が絶対にいい。私はちっとも構わない。
「駄目だ」
 案の定先輩は、ぎょっとした様子で拒んだけど、
「泊まりがけなら、ずっと一緒にいられるんですよ。先輩は私と、一日中一緒にいたいとは思いませんか」
 と尋ね返せば、たちまちぎくしゃくと目を逸らされた。
 思えば先輩は、動揺の顔に出やすい人でもあった。
「いや、それは……思わなくもない、が」
「私も先輩となら、少しでも長く一緒に過ごしたいと思います」
 念を押すように言う。
 長い逡巡の末、先輩は溜息をついた。
 そして躊躇いがちに応じた。
「お前、本当にいいのか」
「当然です」
「わかった。考えておく」
 短く言った先輩は、手の甲で額の汗を拭う。
 日陰にいても暑さを感じる、よく晴れた夏の日だった。私も先輩も、お互いに頬が上気していたって、別段おかしいことでもない。
 でも、長居はしない方がいいかもしれない。倒れられても困る。まだ夏休みにも入っていないのに。
「先輩、そろそろ戻りましょうか」
 私はそっと、先輩の袖を引いた。
 けれど先輩はかぶりを振って、答える。
「いや、俺はまだいい。先に戻ってくれ」
「どうしてですか。まさかまだ、大槻さんとのことを怒っておいでなんですか」
「そうじゃない。ただ……頭を冷やしたい」
「はい?」
 この暑い日に、外気に触れるようなところで、一体何を言っているのか。
 戸惑う私に、もっと混乱を来たした様子の鳴海先輩が言い放つ。
「お前が滅多なことを言うからだ」
「何でしょう。もしかして、旅行の件についてですか」
「……後悔するなよ」
 ぼそりと零された呟きに、私は、そう言えばもう一年半の付き合いになるのだった、と改めて思い返していた。
 タイミングとしてはどうなのだろう。悪くはない気がする。

 図書館内に戻った私を見て、待ち構えていた大槻さんは怪訝な顔をした。
「あれ? 鳴海くんは?」
「頭を冷やしてから戻るそうです」
 椅子に腰を下ろしながら、正直に話す。そうとしか言いようもない。
 すると大槻さんは、
「なるほどね。やっぱり面白いな」
 と言っておかしそうに笑った。
 その後で私の顔をじっと見て、こう尋ねてきた。
「雛子ちゃん、すっごく幸せそうだね」
 当然、私は笑って頷いた。
「はい、もちろんです」
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