menu

霞がかった視界の中で

 今日はとても天気のいい、暖かい日だった。
 私は座卓を借りて、そこに教科書とノートを広げている。白いノートは春の日差しを跳ね返すように光っていた。
 眩しさに目を眇めたくなり、思わず視線を転じる。
 鳴海先輩の部屋はいつものように居心地がいい。大きな窓のある室内は常に一糸の乱れもなく整頓されている。音楽を聴く趣味はないのかオーディオの類は置かれておらず、たまに外の道路を走り抜ける車の音以外は、ひっそりと静かだった。
 そして部屋の主、鳴海先輩はいつものように机に向かって文庫本を読み耽っている。私の様子を見守るということもなく、私が勉強の手を止めたところで何か言ってくることもない。こちらからは背中しか見えないものの、こういう構図には慣れているからか、寂しいと思うことはなかった。

 三年に進級してからというもの、先輩の部屋で受験勉強をする機会が増えていた。
 実のところ『増えた』よりも『増やした』の方が正しい。この部屋にいると成績優秀な鳴海先輩のご利益があって勉強が特別捗るということは全くなく、私が先輩と会う為の口実にしたがっているだけだった。受験勉強がしたいのでお邪魔してもよろしいですか、と私が言えば、先輩は疑うこともなく快諾してくれる。
 口実とは言え、勉強自体は実際にしなければならない。手を抜こうものなら生真面目な先輩に軽蔑されてしまうだろう。だからそうして誘った後の行き先は市内の図書館か、今日のように先輩の部屋に伺う程度だ。デートと呼べるものでは到底ないのだろうけど、私はそれでも満足だった。ひとまずは先輩の傍にいられるだけでよかった。
 ぽかぽかと陽気の日に静かな部屋で、先輩と二人だけで過ごす時。この時間を幸せと言わずして、一体何だと言うのだろう。言葉を交わすことも見つめ合うこともないけれど、ゆっくりと穏やかに送る日を、私はこの上ない幸いだと思っていた。
 ただ、――ただ、思う。
 もしももう一つだけ私に幸福が訪れるとしたら。既に満ち足りた思いを抱いている私の願いが、もう一つだけ叶うとしたら。私は迷わずに願うだろう。
 ――視力が欲しい。
 どうして私は目が悪いのだろう。眼鏡を外し、眉間を押さえて目を閉じながら、内心でぼやく。瞼を落とした途端、じんと染みるような感覚があり、自然と涙が滲んだ。押さえた眉間が鈍く痛む。
 せめてもう少し視力がよければ受験勉強が捗ったかもしれない。そう思うのは言い訳がましいだろうか。
 だけど実際に目が悪ければ損をすることばかりだった。眼鏡はすぐ曇るし、授業などで走る時には邪魔になるし、外せばほとんど見えなくなってしまうからお風呂にだってかけて入らなければならない。肩凝りと頭痛は竹馬の友の付き合いだ。
「……疲れたのか」
 ふと先輩の声がして、私は慌てた。
 閉じていた目を開けて、ぼんやりと霞がかった空間から眼鏡を捜す。銀フレームをほとんど感覚だけで手繰り寄せることに慣れていた。
 そうして慌てて眼鏡をかけると、レンズ越しに先輩のいた方を見て、クリアになった視界の中に訝しげな顔を見つけた。
「何を慌てているんだ」
 デスクチェアから斜めに見下ろす角度の先輩が、少し笑いを含んだ声で言った。
「いえ、あの、眼鏡を外していたので……」
 もごもごと私は答える。先輩がこちらに背中を向けていたから完全に油断していた。気を抜いた姿は、この人には見られたくない。
「目が悪いと大変そうだな」
 先輩が首を竦める。全くです、と私は頷く。
「すぐに目が疲れるので、長いこと教科書と向き合うのも難しくて」
 つるりとした教科書の紙面や、真っ白なノートは、日差しを跳ね返してとても眩しい。今日みたいに天気のいい日中は、長い間文章を追うのも骨が折れた。
「今年から受験生ですから、愚痴ってもいられないんですけどね」
 私はそう言って、付け加えるように笑んだ。
 理由があったとしても、弛まず勉強に励まなくてはならないはずだった。それこそ受験生だから、だ。
 鳴海先輩だって、私が受験生だからここにいることを許してくれているのであって、もし私がさぼってみせるようであればここにいる理由がなくなってしまう。毎週、休日の度に会う理由もなくなってしまう。
 受験勉強は私が先輩と会う為の最大の口実だった。その口実がなければ、受験生の身分で毎週のように出歩くことなど、先輩は許してくれそうにもない。
 先輩は厳しい人だ。私が受験勉強よりも恋愛感情を優先させたところで、受け容れようとはしないだろう。だから、私には口実が必要だった。
 とても浅ましいやり方だとわかっている。でも。

「大分、疲れているようだな」
 響くように低い先輩の声がした。
 どきっとしながら視線を上げると、ちょうど先輩はデスクチェアを軋ませながら立ち上がったところだった。
 そのまま私の傍らへやってくる。膝をつきながら、口を開く。
「肩を揉んでやろうか」
「はい……えっ?」
 危うく頷きかけて、私はすぐにかぶりを振った。
「い、いえ、結構です。気を遣っていただかなくても……」
「別に気は遣っていない」
 事もなげに先輩は言う。
 だけど、どうしても遠慮したかった。先輩にそんなことをさせるなんて、私の本当にごくわずかな良心が、それでもやはり許さない。
 そしてお願いするだけの度胸もなかった。
 何せ初めてのことだ。先輩もそうだけれど、男の人に肩を揉まれる経験は皆無だった。まして相手が先輩で、あの器用そうな手が私の肩に触れると思うと、それだけで途轍もなく緊張した。
「目が悪いと肩が凝るんじゃないのか。前にそう言っていただろう」
 先輩の言葉は事実だ。だけど。
「でも、申し訳ないです」
「まあ無理にとは言わない。嫌ならいい」
 今度は先輩がかぶりを振った。
 嫌、ではない。もちろん嫌なはずがない。でも……。
 私は少し逡巡した。遠慮したい、と言う気持ちとは裏腹に、先輩の申し出に抗いがたい魅力を感じている。肩凝りが酷いからではなく、もう少し邪な思いで。
 先輩が私の肩に触れてくれたら、一体どんな感じがするのだろう。
 知りたい、触れられてみたい気持ちが湧き起こる。それは驚くようなスピードで膨れ上がり、気が付くと私の心は百八十度転換していた。
「あの」
 そしていつしか、口を開いていた。
 眉根を寄せた先輩と視線が合う。
「では、少しだけ……お願いしてもいいですか」
「わかった」
 短く言って、先輩は尖った顎を引いてみせた。
 すぐに立ち上がり、私の背後に座ったのが気配でわかる。
 私は目を閉じる。その必要は全くないのに、目を閉じたくなった。

 肩に触れる。先輩の手が、指が。
 着衣越しに伝わってくる温かさ。先輩の手は大きくて、とても器用そうだった。私はこの手が好きで堪らなかった。この手で触れられるのが好きだった。
 先輩の手が一旦離れて、私の髪をそっと払った。束ねた髪が肩から前へと落ちたのがわかり、私は息を呑む。
 そしてもう一度、肩に手が乗ると――ふと、罪悪感に駆られた。
 先輩は純粋な厚意で私の肩に触れてくれているのに、私は、こんな時に何を考えているのだろう。
 でも抗いがたい。先輩の手の大きさ、温かさ、間近に感じる気配と、何よりも優しさ。全てのことが撥ね退けることのできない魅力で私を捕らえてしまっていた。

 目を閉じた私は、唇を結んだ。
 けれど先輩の手がゆっくりと動き出した瞬間、
「い……いたたたた!」
 訪れた激痛に、思わず声を上げてしまった。
 まるで肩を潰されたようだった。あまりの痛みに、肩に穴が開いてしまいそうだった。既にぽっかり開いてしまったのかもしれない。涙が滲むのが、ぼやけた視界でわかった。
「痛い、痛いです、先輩!」
 叫ぶとすぐに手の動きは止まったけれど、直前まで肩にかかっていた圧と痛みはそう容易くは消えなかった。ずきずきとしばらく痛み続けた。
「雛子、声が大きい。近所迷惑だ」
 先輩は先輩で、何とも非難がましい声を上げる。
 だって、と反論しかければ、こちらを覗き込んできた顔の険しいこと。レンズと涙越しに見た私は、口を噤みたくなった。
「痛むのはそれだけ凝ってるということじゃないのか。黙って揉まれていろ」
 先輩の言うことはもっともだった。もっともなだけに、さっきの痛みがことさら恨めしい。
「でも先輩……」
「何だ」
 注文を付けられた立場ではないことは承知の上で、あえてそっと告げてみる。
「いえ……ただ、できればもうちょっとだけ優しくお願いします……」
「善処する」
 険しい顔で言った先輩が、また私の背後へ戻る。
 いいように取り計らってもらえたのか、今度はさっきよりも優しく、柔らかく、手を動かし始めた。
「このくらいでどうだ」
「はい、あの、ちょうどいいと思います」
「そうか。次は叫ぶなよ」
「はい、すみません」
 ずきずきと痛みの残る肩に、先輩の手は心地よかった。
 私はそっと眼鏡を外して、座卓の上に置いた。さっき滲んだ涙は指で拭い、それから静かに目を伏せる。
 本当に何もかも解かれていくようだった。
 先輩は、先輩こそ無愛想で、私に本心をちっとも見せようとしないのに、私の心は簡単に解いてしまう。先輩の手は私の心底まで届いて、驚くほど優しく触れてしまう。私が思っていることを、だけどなかなか言えないようなことを、素直に伝えたくなってしまう。
 先輩のことが好きだった。
 何もかも解かれても構わないくらい、好きだった。

 気持ちの良い手の温かさに、私は深く息をつく。
 すると背後では微かな笑いが聞こえた。
「疲れているんだな」
 先輩の声も、いつになく優しかった。
 はっとした私は思わず目を開ける。開けても、眼鏡がなければ見えるのは霞がかった世界だけ。見慣れているはずの先輩の部屋が、ぼやけた輪郭で映るだけ。
 でも、見えていなくても不安はなかった。
 先輩がすぐ傍にいるから、怖いことは何もない。
「雛子」
 と、先輩が私を呼ぶ声。
「無理はするなよ」
 諌めるような言葉が続いて、私は振り向こうと首を動かしたけど、肩にある手がそれを制するみたいに私の頬を押しやる。
 でも言葉は続く。
「受験勉強に熱心なのはいいが、身体に負担をかけてまでやるものでもない。最近、張り詰めた様子でいるから気になっていた」
 その時、痛んだのは肩ではなかった。
 先輩の手はまだ優しく私に触れていた。
「たまに息抜きも必要だ。それに、今から張り切り過ぎて疲れてしまっては元も子もないからな」
 私は返答に詰まった。
 先輩の優しさがわかったからこそ何も言えなくなった。
 鳴海先輩が思うほど、私は純粋な人間ではなかった。むしろ、卑劣な性質をしていた。先輩に会う為なら、受験勉強だって手段にしてしまうような浅ましさを有している。
 でも先輩は、そんなことは知らない。知り得るはずもない。
 知らないくせに、私の心を解いてしまう。真実を口にして、洗いざらい打ち明けさせたくて堪らないようにしてしまう。
「勉強をしない休日を作るようにしてはどうだ。ここのところ毎週、受験勉強ばかりじゃないか。少しは休んだ方がいい」
 鳴海先輩がそう言った時、張り詰めていたものは断ち切られた。
 思わず私はかぶりを振っていた。
「違います。違うんです、先輩」
 肩の上の先輩の手が、止まる。
 緊張したように重くなる、その手。まだ温かい。
「……何がだ」
 訝しげな声が尋ねた。
 尋ねられたら、もう言わずにはいられない。
「私、受験勉強をしないと、先輩にお会いできないような気がしていたから……」
「は?」
「勉強を口実にしていたんです。先輩に毎週会いたいから。勉強なんて本当は二の次で、先輩に会えたらそれでよかったんです」
 眼鏡のない視界は、視力の悪さ以上に霞んでいた。涙で滲んで見えた。
 泣きたくなるのも、考えてみればおかしな話だ。悪いのは私だ。愚かなのも私だ。泣く権利はどこにもない。代わりに謝罪をしなくてはいけない。
 私はずっと先輩を欺いてきた。
「ごめんなさい……」
 私がそう口にすると、先輩の手が肩から離れた。
 ぎゅっと、私の手を取った。
 視界に影が過ぎる。ぼやけていてよくわからないけれど、先輩の顔だ、と気づいた。
「なぜ泣く」
「だって、私」
「泣くようなことじゃない。馬鹿げた話だがな」
 素っ気なく先輩が言ったので、私は俯きたくなった。
 だけど先輩の顔が近づいて、どこにも逃げ場がなくなる。私に影が落ちたのだけははっきりとわかった。
 それから、先輩の吐息が額にかかるのも感じた。
「受験勉強でなければ会わない、などと言った覚えはない」
 至近距離から先輩の声がする。
「むしろ、息抜きくらいなら付き合ってやる。……どうして言ってくれなかったんだ、馬鹿か、お前は」
 私の心を解いてしまう、とても優しい声がした。

 確かに私は馬鹿だった。
 思い込みで判断し、動き、決めつけてしまうような短絡的な人間だった。
 自分の心を覆い隠そうとするのに必死で、先輩の心中を推し量ることすらできていなかった。
 そして結局、馬鹿みたいに強情になって、先輩を巻き込んで、挙句の果てに勝手に泣き出して――先輩を困らせている。呆れられたかもしれない。きっと、そうだろう。

「ごめんなさい」
 もう一度、私は告げた。
 距離がごく近かったから、鳴海先輩が微かに笑うのが聞こえた。
「やはり、無理はしていたか」
「先輩、私は……」
「いや、無用なプレッシャーまで背負い込んでいるのがよくわかる」
 どこまで、先輩は私を見抜いているのだろう。どこまで解いてしまうのだろう。
 私自身が気づかなかった思いまで、探り当ててしまった。
「確かにな」
 と、ぽつり、低い声が落ちる。
「受験生の身では、どこかに出歩くのも難しいだろう。今までのようには行かなくて、苛立つこともあるだろうと思う。何よりも学業が優先される時期が一年も続くなど、憂鬱をにしか思えないだろうな」
 熱い吐息が私の額を撫ぜて行く。
「だから俺は、お前の力になる」
 私の手を握る大きな手。
「これからの一年はそうして過ごそうと決めていた。俺はお前に手を貸す存在でありたいし、必要とあらば受験勉強も、息抜きだって手伝ってやる」
 雫が頬を滑り落ちた。
 先輩に笑われるとわかっていても、泣きたくなった。
「俺も、会う機会は多い方がいい。だから何も遠慮することはない」
 そっと言い添えられた先輩の言葉に、私はつい、しゃくり上げてしまった。
 幼いと思われてもよかった。泣きたかった。こんなにうれしいことはないから、これ以上の幸せなことはないから、思い切り泣いてしまいたかった。
 この上ない愛の言葉だ。これは。
 鳴海先輩からの、最早疑いようもない愛の言葉だ。
 私は自分でも気づかずにいた。目を背けていたのかもしれない。受験生と言う身分が齎す様々な重圧、先輩と気軽に会えなくなることへの不安、それから、口実を作ることへの罪の意識。
 先輩はそれらを何もためらわずに受け止めてくれた。軽蔑もしなかった。恐らくそれは、『先輩』だからこその度量だと思った。
 既に先輩は知っているのだ。これから先、受験生としての私が向かえるであろう様々な苦難を。知った上で、力になると言ってくれた。
 頼もしくて、温かくて、とても優しい愛の言葉だった。
「だから、どうして泣くんだ」
 困り果てた声が聞こえて、私は泣きながらかぶりを振った。
 あまり盛んに振ったので、眩暈がして、先輩の手に止められた。頬を挟まれるように止められた。
「わかった。わかったからもう泣くな」
 先輩が本当に困った様子でいたので、出来るだけ早く泣き止もうと努めた。だけどなかなか思うように泣き止めず、結局しばらくの間、私は声を殺しながら泣き続けてしまった。
 眼鏡を外しておいてよかった、と思った。

 器用そうな指先が、私の頬を撫で、涙を掬い取る。
「泣き止んだか」
 先輩がそう、声をかけてきてくれた時の顔を、私ははっきり見ることができなかった。
 涙がようやく乾いても、眼鏡は恐らくまだ座卓の上にある。私と座卓の間には先輩がいて、手を伸ばせずにいた。何だか今更のような気もした。
 気分が落ち着くとどうでもいいことまで気になってしまうものだ。今の私はどんな顔をしているだろう。視力のいい先輩からは、誤魔化しようのない泣いた後の顔が見えているはずだった。そう思うと急に居た堪れなくなる。
「はい……」
 がさがさの声で答えた私に、先輩は少し笑った。
「もう滅多なことでは泣くなよ。こっちが困る」
「そうします。ごめんなさい」
 私は俯こうとしたけれど、まだ頬を押さえたままの先輩の手に止められた。
 にわかに距離の近さが気になり始めた。
「あの、先輩。あまり見ないでください」
 泣いた後の顔なんて、見栄えのいいはずがない。みっともないに違いなかった。
「今更だな」
 先輩は本当のことを言った。こういう時は身も蓋もないことを言う人だった。
「あまり見られるものでもないから、珍しい。泣いた後の顔も、眼鏡を外した顔も」
 面白がられている。
 恥ずかしさが先に立ち、
「……見ないでください」
 二度目の懇願は、少し鋭くなった。
「嫌だ」
 返ってきた言葉も鋭く聞こえた。
 私はとっさに、眼鏡に手を伸ばそうとした。だけどその手は、素早く動いた先輩の手に阻まれた。
 ぎゅっと強く握られて、霞がかった視界は遮られる。
「先輩、私、眼鏡をかけないと何も見えないんです。先輩の顔も見えません」
 そう訴えた私に、先輩は、低く落とした声で応じた。
「見なくていい」
 その後で、眼鏡が必要なくなるほどの距離にまで近づいた。睫毛が触れそうなほどの近さ。だけど私が、先輩の顔を見ることは結局、なかった。
 代わりにきつく目を閉じてしまった。
 ほぼ同時に先輩は、私の顎を掴むようにして引き寄せる。
 唇までの距離は思っていたよりも近かった。

 ――離れた後の沈黙を少し気まずく感じた。
 眼鏡を探し当て、ようやくかけ直すと、どこか不機嫌そうな顔をした先輩がそっぽを向いたところだった。
 クリアになった視界の中で、先輩の薄い唇までの距離を測る。私の唇は、まだその柔らかさを覚えている。
「先輩」
 私が呼ぶと、さっきまでの優しさはどこへやら、ぶっきらぼうな声が返ってきた。
「何だ」
 今を気まずく思っているのは、私だけではないらしい。
「あの……今日はもう、勉強が手につきそうにないです」
 正直に告げた。
 散々に泣いた後で少し疲れていたし、それ以上に動悸が激しい。部屋の室温が上がったような気もして、暑かった。
 先輩が深く嘆息した。
「じゃあ、息抜きでもしたらどうだ」
 投げ遣りにも聞こえたその言葉の後で、決まり悪そうに笑った先輩。
 レンズ越しに見たその表情がいとおしくて、私は、もっと目がよければと思わずにいられなかった。
 もっと視力がよければ、先輩の表情の全てを捉えることができるのに。
 今日、これから過ごす時間は、いとおしい人を眺めているのにちょうどいい機会なのに。
 でも悔しい気持ちよりも嬉しさが勝り、幸せを噛み締めつつ私も笑った。
「そうします」
 息抜きの時間には先輩も付き合って貰おうと、もう決めていた。
top