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葉月(4)

 夕食の片づけを済ませてから、澄江さんがお茶を入れてくれた。
 空は赤々と暮れていき、涼しい夕風がベランダから吹き込んでくる。再びテーブルを囲んで、私たちは他愛ないおしゃべりに花を咲かせた。
 話してみて驚かされたのは、澄江さんが先輩の作品の熱心な読者であることだった。先輩が書いたものは全て読了しているらしく、先輩の硬質な文章が好きなのだと言っていた。
「この間、五月の終わり頃だったかしらね。送ってくれた冊子も楽しく読ませて貰ったわ」
 澄江さんはうれしそうに話す。
「あなたの書いたお話、面白かったわね」
「ありがとうございます」
 先輩が顎を引く。答えたのはそれだけだったけど、横顔がほんの少しだけ笑ったように見えた。
「文章の良し悪しなんて私にはわからないけど、あなたの書くものを読むのは好きなの。また何か書いたら読ませてちょうだいね」
「わかりました」
 二人の会話を、私は微笑ましい思いで聞いていた。澄江さんの前ではいくらか素直な先輩が可愛い。いいものを見た、という気分だ。
「そういえば、雛子さんも文芸をなさってるのよね」
 不意に澄江さんが私に水を向けてきた。
「よかったら今度、あなたの書いたものも読ませてくださらないかしら」
「わ……私のですか?」
「ええ。若いお嬢さんの書かれる文章、とっても興味があるの」
 無邪気な口調でお願いされて、私は答えに迷う。
 私も一応は文芸部員だけど、創作活動はあくまで趣味の範囲を出ない。先輩の作品と比べると文章は拙いし、物語の整合性には欠けるし、おまけに語彙も貧弱だ。そんなものを澄江さんに読ませていいのだろうか。私の書くものは、澄江さんのような世代の方の鑑賞に堪えうるものだろうか。
 逡巡していると、横から先輩が言葉を添えてきた。
「何をためらうことがある。お前だって、人に読ませる為に書いているんだろうに」
「それはそうですけど……。先輩の書かれるものと比べたら、私のは、読んで楽しんでいただけるかどうか。自信がなくて」
「澄江さんは、お前の作品を批評しようとしてるわけじゃない」
 先輩が断言する。澄江さんも深く頷いた。
「ええ。私にできるのは、読ませていただけるお話を隅々まで味わうくらいよ。それに、あなたにもあなたにしか書けないようなお話があるのでしょう?」
 たくさん本を読んでいる人の言葉だと、何となく思う。澄江さんは鳴海先輩にとって、とてもいい読者なのだろう。私は――私にも、あるだろうか。私でなければ書けない話が。
 考え込む私に、澄江さんは穏やかな目を向けてくる。
「近頃ね。寛治さんの書く文章が変わってきたと思っていたところだったの」
「先輩が……ですか?」
 そうだろうか。日々読ませて貰っている私にはそういった認識はなかった。
「ええ。以前よりも柔らかくて温かみのある言葉を使うようになったと思うの。だからきっと、誰か女の人の影響を受けたんじゃないかと思っていたんだけど、今日ようやくわかったわ。それは、雛子さんだったんでしょう」
 澄江さんの問いかけに、先輩は否定も肯定もしない。ただ仏頂面でいる。
「だからね。寛治さんに影響を与えてくれた人の書いたお話も、是非読んでみたいのよ。もしよかったら、今度読ませてちょうだい」
 強いる口調では決してなかったけど、熱望の意思は汲み取れた。
 私は、思いのほか動揺していた。私が先輩に影響を与えただなんて考えもしなかった。私の存在が先輩の文章を、あるいは創作されるものそのものを変えているなんて。先輩の硬質な文章はたやすく揺るぐことのない、とうに確立されたものだと思っていたし、そこに何かが影響を及ぼし変質させる可能性も、これまでは一度も想定できなかった。
 だけど人間関係は、それから人の歩みは、その人が創り出すものを変えていく。
 先輩は私の存在を得て変わったのだろうか。私が傍にいることは、先輩にとってプラスの意味があるのだろうか。そうだとしたら、うれしいような、いささか畏れ多いような、だけど自分ではまだ確信できないような、不思議な気持ちになる。
 澄江さんがどういうつもりでそれを言ってくれたのであれ、多少なりとも私が先輩に影響を及ぼせているらしいという、第三者から見た印象だけでも幸いだった。それなら私にも、先輩の傍にいる意味があると思うから。
「では、何か書けたら読んでくださいますか」
 遂に私は決心がつき、澄江さんに向かって尋ね返した。
 澄江さんは間髪入れずに頷いた。
「ええ。楽しみにしているわね、雛子さん」
 優しい言葉だった。私には、澄江さんこそが先輩に影響を与えた最もたる人物であるように思える。先輩が時折見せる温かい気配りの心は、間違いなくこの人によって育まれたものだろう。
 そして私は、ここではなく私たちの町にあるという先輩のご実家がどんなところか、少しだけ気になった。

 それからもいくつかの世間話を続けて――時計の針が、午後六時を回った頃だ。
「さてと」
 話が落ち着いた時を見計らい、澄江さんが立ち上がった。
「私はそろそろ、休ませて貰おうかしらね」
 想像はしていたけど、それでもやはり驚いた。夕食も早かったとは言え、外もようやく宵空を迎えたところだし、私の感覚では就寝時間には早すぎる。他所の家の生活習慣に口を挟むつもりはないけど、こんな時間に寝て、夜中に目が覚めたりしないのだろうか。
「明日は何時の電車で帰るの?」
「正午前です。夕方までには向こうに着くように帰ります」
「そう。じゃあ、お昼ご飯はお弁当でも用意しようかしら」
 驚いているのは私だけで、澄江さんと先輩は当たり前のように言葉を交わす。そしてそれも一段落すると、澄江さんは私と先輩にお辞儀をした。
「では、お先に失礼するわね。お休みなさい」
「は、はい。お休みなさい」
「お休みなさい、澄江さん」
 澄江さんは奥の畳の部屋へ入ると、そっとふすまを閉めた。すぐに向こうは静かになって、連鎖するように居間にも沈黙が訪れる。小さな家はしんとして、二階で風がカーテンを揺らす音がはっきりとわかった。
 この辺りは車通りもほとんどないようで、傍の海辺の潮騒さえ聞こえてくるような気がする。あるいは気のせいじゃないのかもしれない。
 そうなると普通にお喋りするのも気が引けて、私は先輩に小声で尋ねた。
「先輩。澄江さんはもしかしてお疲れだったのでしょうか」
「いや、いつもこの時間だ。年寄りだからな」
 先輩は事もなげに答える。
「そうでしたか……」
 お年を召した方が早寝早起きなのはよくあることだ。だけど澄江さんは話し方や顔つきが若々しいから、お年寄りと言われてもしっくり来ない。確かに少食だったし、腰を悪くしているご様子もあったけど。
「先輩」
 根掘り葉掘りするようで抵抗はあった。でも私は澄江さんのことも、先輩についてももっとよく知りたかった。だから聞いてみた。
「澄江さんは、こちらにお一人で暮らしていらっしゃるんですか」
 向けた視線の先で、先輩はわずかに眉根を寄せた。
「そうだ」
 その後で、これ以上の質問を遮るように唇を結ぶ。
 私も、知りたい気持ちはあってもどこまで尋ねていいのかはわからなかった。こんなに静かなところで一人暮らしをしている澄江さんのことを、知りたがってもいいものなんだろうか。気になることは他にも、たくさんあるけれど。
 黙っていると、唐突に先輩が言った。
「散歩でもするか」
 尋ねたのではなく、既に決定事項だったようだ。私がはっと顔を上げると、先輩はさっさと立ち上がっていた。無愛想な顔が私を見下ろしている。
「せっかく海まで来たのに、あまり海を見ていないようではもったいないからな」
 口調まで愛想のない先輩に、私は慌てて追従した。
「はい、ご一緒します」
 立ち上がり、玄関へと向かう先輩の背中を追い駆ける。静かな家を後にする。

 この時刻の空はすみれ色をしていた。
 遠くに星たちが微かな光を放ち、ちらちらと瞬いている。だけどそれよりも強く満ちた月が輝いていて、冴え冴えと冷たい光に押されるように星たちは息を殺している。
 外に吹く風は生温く感じられた。家の中よりも強い潮の香りがする。
 海沿いの舗装された道を行くと、波の音がよく聞こえてきた。湾曲した道に沿うように岸壁が続き、その途中途中にぼんやり灯る水銀灯が立っている。道の先のずっと向こうまで、点々と続いている。
 人通りはほとんどなかった。ひっそりとした道を、私たちは並んで歩いていた。
 先輩はいつもよりもゆっくり歩いていた。考え込むような表情で、しばらく黙って歩き続けた。何を考えているのかは、いつでもよくわからない。ただ、話しかけるのも悪いような気がして、私もずっと黙っていた。
 海へと目を向ければ、海面にも月光が跳ね返っている。空にあるはっきりとした形は、海の上ではゆらゆらと曖昧な形状を映しているばかりだ。そこでも月の光は白く、何よりも冷たく見えた。
 並んで歩きながら思う。今は、二人きりだ。
 二人だけの時間が訪れたことを、私は複雑な思いで受け止めていた。私にとっては全く知らない旅先で、頼れる人は隣にいる先輩だけだった。その事実が気分を感傷的にさせるのかもしれない。
 手を伸ばせば届きそうなくらい近くを歩いているのに、私は先輩に触れられなかった。先輩は思案する表情で、しばらく私から距離を置き続けていた。今、何を考えているのかはわからない。だけど、考えているのは多分――。

 海沿いの道の途中で、先輩が足を止めた。
 そこには何もなかった。明るい水銀灯の真下を避けたようだった。海に映り込む月明かりが眩しく、先輩の肩越しに見えた。
 私も合わせて歩くのを止め、先輩の顔を見上げていた。先輩はまだ私を見なかった。向かおうとしていた方を見やりながら、険しい横顔で立っていた。
 その薄い唇が動いたのは、しばらく経ってからやっと動いた。
「雛子」
 私の名前を、息をするように呼んでみせた。
「はい」
 すぐに私が返事をすると、やはり先輩は私を見ないまま、
「お前に、話しておきたいことがある」
 事務的な口調で続けた。
「いや、話さなくてはならないこと、かもしれない。俺はずっと、お前にその話をしなかった。しかし永遠に秘密のままにはしておけないから、今から話すことにする」
 先輩は秘密の多い人だ。些細なものから、重大な事柄までたくさんの秘密がある人だ。だから隠し事をされていてもそれほど驚かない。むしろそれを明かそうとする態度の方が驚きだった。
「先に言っておく。あまり面白い話ではない。むしろつまらない話だ」
 先輩は、素っ気なく言葉を継ぐ。
「だが、次はない。二度は言わない。だから最後まで聞いてくれ」
「……わかりました」
 私に異存はなかった。頷くと、その後は姿勢を正して先輩を見上げた。
 温い潮風が吹き抜けていく。私と先輩の間にある、それこそ永遠に埋まらないとさえ思っていた隔たりを抉じ開ける。
「澄江さんは……」
 先輩が初めに口にしたのは、おばあさんの名前だった。
「あの人は、俺の祖母ではない、ことになっている」
 慎重に告げられた内容を、私は平静に受け止めようと努めた。あの人は、先輩のおばあさんではない――いや、ないことになっているというのは、どういう意味だろう。
「血の繋がりは確かにある」
 私の疑問に答えるように、先輩はそう添えてから尚も続けた
「しかしあの人と、俺の父方の祖父は遠い昔に離縁している。だから俺もあの人を、祖母と呼んではいけないことになっている」
 先輩の視線が足元に落ちた。ひび割れたアスファルトの道に。水銀灯の明かりが届かない、その上に。
「だが、俺はそうは思っていない。思いたくなかった。あの人は、俺にとって特別な人だった。あの人こそが俺にとっては唯一の、家族だ」
 強い口調で先輩は言い、その後、何かに耐えるように唇を結んだ。
 私は先輩の話を邪魔するつもりはなかった。黙って、告げられる全ての言葉を聞き逃さず、拾い集めておこうと思った。どんな言葉でもそれは、先輩が初めて打ち明けてくれる、秘密の言葉だ。だから黙って聞いている。目を逸らさずに、ずっと見つめている。
 先輩が溜息をついたのが、波の音の狭間に聞こえた。
「恐らく、血筋なのだろう。俺の両親もかつて、俺が幼い頃に別れている。行くあてがなかった当時の俺は、厄介払いのようにここへ送られた。澄江さんも面倒を押しつけられたものだが、あの人は不平一つ零さずに俺を育ててくれた」
 胸が痛む。先輩はこんな辛い話を、どうして淡々と話し続けられるのだろう。私は漏らさず聞こうとしているけど、それでも苦しくてたまらないのに。
「それだけのことだ。俺にとって澄江さんが特別で、それ以外の人間がそうではなかった理由は、ただそれだけの話だ」
 先輩は言い切り、また息をつく。
「俺の祖父母も、両親も、皆が同じことを繰り返している。あの家では家庭も、夫婦の情愛も、親子の間柄さえ酷く脆い。何もかもが長続きせず、やがて終わりが来てしまう。何が原因なのかは判然としないから、俺はずっと、血筋なのだと考えていた。同じ過ちを繰り返し、得たものを自ら壊して、普通の人間ならば当たり前の関係さえ続けられない血筋なのだと。今もやはり、そう思う。だから――」
 ぎこちなく、その時視線が上がった。
 先輩と目が合う。すぐに逸らされる。私は息を呑む。
 先輩が、いつになく不安の色を帯びた顔をしていた。この人もこんな表情をするのかと思った。常に強気で、自信家で、何があっても揺るがない意思を持つ鳴海先輩が、今は恐怖に怯えた表情をしていた。もう一度、ぎくしゃくと私を見た。
 薄い唇は震えるように、次の言葉を、
「だから、もしかすると」
 そこで止めて、その先は、言わなかった。

 もしかすると――後に続く言葉は、言われなくてもわかった。
 愕然としながら、私は先輩の心許なげな視線を受け止める。
 先輩の秘密を教えてもらった。先輩が抱えている不安もわかった。だけどどんな事情があろうと、私が先輩を不安にさせる根拠は何も、何一つとしてないはずだった。
 私の気持ちはたった一つだ。今までも、これからもずっと。悪い方向に変わるなんてありえないし、他の人の存在があるわけもない。これからもずっと、先輩だけを想い続けていられたら、先輩の傍らにいられたら、それだけでいい。この想いにも根拠はないと先輩なら思うかもしれないけど、信じて欲しいと願う。
 だって、好きだから。

「先輩」
 決然と、私は先輩を呼んだ。
 私は離れるつもりも、終わらせるつもりもなかった。判然としないような不安にとらわれるくらいなら、私を信じていて欲しかった。
 私たちが一緒にいた一年と八ヶ月は、曖昧ではなく、はっきりとした輪郭を持って存在しているはずだ。無為に過ごしてきたわけでもなく、お互いに悩み、苦しむ期間を経て、確かな感情を培ってきたと私は思っている。だけどそれだけでは、先輩は信じられないと言うだろうか。
「大丈夫だと、言ってください」
 私が見上げた先で、先輩は小さくかぶりを振り、不安の色を追い払う。
「大丈夫だ」
 願ったとおりの言葉を口にした後、いつものように仏頂面になった。でも、心なしか私を見つめる目が優しい。笑ってはいないけど、とても優しい。こうして見ると少しだけ、澄江さんに似ているかもしれない。
 私はいつの間にか呼吸を止めていたことに気づき、ひとまず息をつく。全身が緊張で強張っている。握り締めた手のひらに自分の爪が食い込み、痛いくらいだった。
「同じ轍を踏むつもりはない」
 自らを戒めるような口調で先輩は続け、そしてふと目を伏せた。
「昔は……違った。壊れてしまうにせよ、長くは続かないにせよ、どうでもいいと思っていた」
 私は黙って目を瞬かせた。
「初めのうちは、単に話し相手が欲しかった。それもできるだけ従順な奴がいいと思った。自己主張をあまりせず、それでいて馬鹿ではなく、趣味は合うが可能なら俺とは違う意見を言えるような感性の持ち主。それからあまり騒がしくなく、必要のない時には滅多に口を利かないような奴。――その条件に、お前は合致していた。そういう奴を、傍に置こうと思って、そうした」
 そこまで言ってから、先輩は口元を綻ばせた。
「もっとも、傍に置いてみてからわかった。その他の条件はともかく、お前はあまり従順な女ではなかった。それどころか時々、子供のようにわがままになる」
 そうでしょうか、と反論したくなったのを堪えた。わがままであることに自覚はあった。
「だが、お前にわがままを言われるのは嫌いじゃない」
 だから先輩がそう言った時、私は再び瞬きをした。
「お前の笑う顔も、嫌いじゃなかった。控えめで、誰かに遠慮でもしているような笑い方をする。初めはその顔も鬱陶しくないからいいと思っていたが、ある時、それは違うと気づいた」
 先輩は照れているかのように、ためらいがちに語る。
「好ましい、のだと思った。お前の笑う顔が」
 にわかに鼓動が速さを増した。私は目のやり場に困り、だけど先輩からは逸らせずに、そのまま見つめていた。
「お前の幼いところも、あまり従順ではないところも、いくつかの事柄に関しては驚くほど無知なところも、いささか落ち着きに欠けるところも。お前の欠点すら、今は、好ましいと思う」
 欠点ばかり論われても悪い気がしなかった。むしろうれしかった。先輩が私のことをよく知ってくれている。それでいて好意的に受け止めてくれてもいる。
「そのことに気づいた時、初めて失いたくないと思った。だから、俺は」
 先輩はようやく、私を見た。
 眼差しは真っ直ぐだ。先程のように不安に囚われてはいない。揺るがず強く私を見つめている。
「お前を失わずに済むように、お前を、ずっと傍に置いておけるように、できるかぎりのことをする。その為には何が必要かも考えている」
 ふと、先輩の手が持ち上がる。
 握り合わせていた私の手に、優しく添えてきた。先輩の手のひらは潮風よりもひやりと冷たい。長くて器用そうな指がゆっくり折り畳まれて、私の手を包む。
 引き寄せられるように、自然と顔が近づいた。
「お前を失いたくない」
 至近距離から先輩が囁いた。
「お前を離すつもりもない。これからも、俺の傍にいろ。ずっと、俺から離れるな」
 命令口調だ、と思った。それが不快ではないのは、先輩の言葉だからだ。私が先輩の言葉の真意を読み取れるようになったからだ。ある種洗練されていない、鋭いばかりの言葉から、その裏側に潜む本当の気持ちを、私がちゃんと理解できるようになった。
 あるいは、理解できるようにしてくれたのかもしれない。
 先輩が、私の為に。
「はい」
 私も迷うことなく頷いた。
 それから、可能な限り笑って告げた。
「私も、先輩が好きです。だから絶対に離れません」
 先輩は笑んでいるように見えた。ごく微かな、曖昧な笑みだったけど、間違いなく私に向かって笑ってみせた。
「後悔するなよ」
「後悔なんてしません。これまでも、一度としてしたことはありません」
 私の回答を、先輩はどんな思いで聞いただろう。
「お前は本当に物好きだ」
 呆れた口調の先輩は、私の手をじっと眺めている。
「だがお前のような物好きがいるから、俺の気も変わった。……感謝している」
 私も、同じ思いだった。先輩に対して、今は感謝の気持ちでいっぱいだった。秘密を打ち明けてくれたこと、それでも尚、大丈夫だといってくれたこと。そしてその後にくれた温かい言葉の数々――全てがうれしかった。あいにくと私は語彙が貧弱で、その感謝をどう声に出して伝えていいのか、伝えきれる気もしなかったから、後はひたすら先輩を見つめ続けた。
 先輩もそれ以上は何も話さなかった。お互いに言葉を必要としていないのかもしれない。月明かりの下、長らく無言で見つめあった。
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