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文月(1)

『この夏休みに、旅行をしようと思う』
 電話をかけてきた鳴海先輩は、やぶからぼうにそう宣言した。
 普通の人なら今の一言が誘いの言葉だとは思いもよらないだろう。先輩が一人旅をする計画を立てたと解釈されてもおかしくない口ぶりだった。
 だけど私にはわかる。慎重な切り出し方と電話越しでも伝わるためらいのおかげで察した。
「私を連れて行ってくれるんですね」
 一応確認しておくと、溜息と共に返事をされた。
『……そうだ。取りやめるなら今のうちだぞ、雛子』
「いいえ、大歓迎です」
『むしろ考え直す気はないか』
「あるはずないです」
『なぜ日帰りじゃ駄目なんだ。お前の考えはつくづく理解できん』
「できるだけ長い時間一緒にいたいと思っているからです」
 往生際の悪い先輩に、私は切々と訴える。
 私たちの間に旅行の計画は持ち上がったのはつい最近の話だった。旅行をしたいですね、という話だけなら大分前から何度も出ていたし、その度に私は『次こそ泊まりがけで』とそれとなく誘いをかけてきた。生真面目な先輩はそれを快く思っていなかったようだけど、長い長い時を経てようやく私の押しが功を奏した。
 鳴海先輩も勢い負けの格好で、ひとまずは旅行の計画を考える、と言ってくれたはずだった。
 なのに、旅行自体が決定事項となった今でも、先輩は泊まりがけであることには及び腰のようだ。
『だがな、雛子。いろいろと……後から考えてみたんだが、不安材料もあることだし、無理に計画を推し進めることもないだろう』
 歯切れの悪い鳴海先輩は貴重だ。遭遇したところで、こんな状況下ではあまり嬉しく思えないけど。
「不安材料とは何でしょうか、先輩」
 私が聞き返すと、先輩はいよいよしどろもどろになる。
『いや、その、つまり、いささか非道徳的ではないかと思う。お前はまだ未成年だし、傍目に見れば俺がお前を連れ回す格好になる。ただの旅行であっても、そうやってお前を連れて行くこと自体が不品行だと言われる可能性もあるだろう』
 それは、生真面目な先輩の価値観からすればそうなのだろう。
 私は先輩と似通った価値観を持ち合わせている方だと自覚しているけど、先輩ほど四面四角でも杓子定規でもない。そして先輩に対する想いの強さは、割と呆気なく道徳だの倫理だのを乗り越えてしまうものなのだ。それがごく一般的な女の子の抱く恋愛感情であると、私はちゃんと知っている。
 恐らく、いや間違いなく、先輩はまだ知らないことだろう。
『大体、ご家族には何と説明する気だ』
 先輩は逃げ道を探すが如く、私に尋ねた。
『まさか正直に、よその男と泊まりがけで旅行へ行くとは言えんだろうに』
「平気です。友達の家に泊まると言っておきますから」
 電話越しで見えなくても、私はそっと胸を張る。
「既にアリバイ工作も頼んであります。その点についてはご心配なく」
 根回しは完璧だ。クラスの仲のいい友人に頼んで、既に旅行中のアリバイ作りへの協力を取り付けてある。面映い思いをしながら旅行の計画を打ち明けて、友人からは散々にからかわれてしまったけど、それだけの価値はある行動だと思っている。
『大丈夫なのか、そんなことをして』
 鳴海先輩は不安げだった。
 いや、不安げに見せかけて、臆病になっているだけと言うべきだろう。
 私たちはこれまで泊まりがけの旅行などしたこともない。一度だけ、事情があってデート後の帰りが遅くなり、日付が替わる頃まで付き合って貰ったことはあったけど、初めからそのつもりで一緒の時間を過ごしたことはない。だからこの度の一件は、私たちにとって特別な意味を持つ計画だった。
 私だって何の考えもなしに推し進めてきたわけではない。友人に渡りをつけたことだってそれはそれは恥ずかしかったし、いかに相手が鳴海先輩と言えど、一夜を過ごすとなれば多少の怖さや、不安や、ためらいが生じないはずがなかった。
 それでも何よりも、先輩と一緒にいたいという気持ちが勝った。受験生という身分ではこの先、会う時間も少なくなってしまう。だからこそこの夏休みには二人の時間を、思い出を、形になるように残しておきたいと思った。そうすれば私だって、心置きなく受験勉強に打ち込める。……はずだ。
 私の両親は放任でもなければ過保護でもない、ごく平均的な考えの持ち主だった。受験生である私に外出を禁ずるようになるのもそう遠い日のことではない。だからそれまでは先輩と過ごす時間を大切にして、めいっぱい楽しんでおきたいと思っている。
 それも先輩はまだ知らないことだ。きっと、私が何の考えもなしに旅行に行きたがっていると思っているだろう。完全に子供扱いされているのが悔しい。だけど私からは、今は言わない。
「そんなに嫌なら、止めてしまってもいいんですけど」
 私は少しずるい言い方で先輩を急き立てる。
 たちまち上手い具合に食いつかれた。
『嫌とは言ってない。懸念を示しただけだ』
「でも、あまり乗り気でもない様子ですから」
 つんとして言い返せば、先輩はまるで言い訳がましく答える。
『そういうわけでもない。ただ、旅行に出かけて、後悔するのはお前の方じゃないか』
「どうしてそう思うんですか? 後悔なんてしません」
 酷い言い種だと思った。先輩と旅行に出かけるのに、どうして後悔することがあるのだろう。それはもちろん、行き先次第で楽しみ方は変わってしまうものだろうけど、どこへ行くにせよ先輩と一緒ならば楽しいのは間違いない。
 しばらくの間、先輩は押し黙っていた。
 そしてややあってから、渋々と答えた。
『そもそも、楽しいのか。そんなに長い間、俺と一緒にいて』
 間髪入れず、私は答える。
「楽しいです。先輩は、私と一緒にいるのは楽しくありませんか?」
『俺の話はどうでもいい。今尋ねているのはお前の意見だ』
「とても楽しいです。そうでなければ、一年半もお付き合いなんてしていません」
 誇らしい思いで言えた。絶対の自信があった。この一年半以上の時間が何よりの証明であることを、先輩にもわかって欲しい。
『つくづく物好きだな』
 呆れたように呟いてから先輩は、
『わかった。そこまで言うなら、もう確認はしない』
 ようやく、計画の推進を決めてくれた。
 もっとも現段階ではまだ行き先すら決まっていないので、ここからが正念場だ。私ばかりが楽しむのではなく、先輩にも楽しんで貰えるような旅行にする為に、ことスケジュールに関しては注意を払わなくてはならない。
 携帯電話を持ち替えた私が、唇を結んだ時だった。
『では、行き先は俺が決めるが、いいか』
 先輩がそう言った。
 予想もしていない言葉に驚く。ここからが大変だと覚悟していただけに、余計にだった。
『要望があれば先に言え。宿泊先の手配と切符の予約もやっておく』
「あの、私はどこでも構いませんけど……」
 答えかけて、私は慌てて言い直した。
「でも先輩、大変じゃありませんか。計画を決めてくださって、その上――」
『そうでもない』
 無愛想な声が途中で遮る。
 電話越しの会話の嫌いなところは、相手の表情が見えないことだ。先輩が機嫌を損ねているのか、それとも単に照れているだけなのか、上手く読み取れない。実際、顔を見てもわからないことも多いけど、ともかく。
『静かで落ち着ける、いい場所を知っている。お前に特に要望がなければ、こちらで勝手に決めておく』
「それでしたら、よろしくお願いします」
 私は素直に頭を下げ、
『わかった。詳細は追って連絡する』
 相変わらずぶっきらぼうな物言いの先輩が告げてきた。
 先程まで散々渋っていた人とは思えない、目を瞠るスピード決定だった。一体先輩の心境にどのような変化があったのか。例によって全く窺い知れない。
「ところで先輩、どの辺りに行く予定なんですか」
 気になったので私は尋ねた。
 返ってきたのは事務的な台詞だ。
『決まってから教える。確認しておかなくてはならないことがあるから、まだ行けると決まったわけでもない』
「……わかりました」
 少しくらい教えてくれてもいいのに、と思わなくもない。だけど、先輩は自らの決断には強い自信と類稀なる頑固さを持ち合わせている人なので、ねだったところで不確定な情報を貰えるとは思えなかった。
 それなら、私についてももう少し自信家であって欲しいと思うのはわがままだろうか。私は機会のある度に先輩に対して好意を示してきたつもりだったけど、先輩にとってそれらはまだ信じられるものではないのだろうか。私の愛情表現が足りないのなら、更なる努力をするところだけど――。

 旅行の計画が一段落ついたところで、私は先輩に尋ねた。
「先輩、近いうちに一度お会いできませんか?」
『どうした。何かあったのか』
 曲がりなりにも一年半交際している彼女に、会えないかと言われて、こんな答えを返してくるのは先輩くらいのものかもしれない。
 確かに、これまでもデートの誘いをするのは先輩の方から、というパターンが多かった。私から誘うことも皆無ではなかったけど、その場合『受験勉強』という口実をつけておくのがほとんどだった。だからと言って、私から理由もなく誘ってはいけないということもないだろう。
 夏休みに入って早三日。先輩の通う大学も既に夏休みを迎えており、会おうと思えばいつでも会えるはずだった。もちろん受験生としての身分は弁えなくてはいけないし、来月に旅行を控えていることを鑑みれば、頻繁に遊び歩くこともできないけど、全く会えなくなってしまう前にたくさん会っておきたい。
 めげずに私は語を継いで、
「旅行の計画とか、できれば会って話し合いたいんです。お互い夏休みに入りましたし、七月中でしたら私はずっと暇ですから」
 と告げたところで、先輩が言った。
『無理だな。七月はずっと予定がある』
「あ、そうなんですか……」
 当然、私は落胆した。
 先輩だって学生の身分だ。講義や講座などがあれば忙しくもなるのだろう。それはわかっていたつもりだったけど、やっぱり少し寂しい。七月はまだ一週間も残っているのに、月が替わるまで会えないなんて。
『来月なら何日か空いている』
 私の気持ちを知ってか知らずでか、淡々とした口調で先輩は言う。
『しかし、電話で連絡を取り合うだけでは駄目なのか? 旅行の計画は俺が引き受けたのだし、話し合うことも特にないと思うが』
「……そうですね」
 無駄な抵抗はしない。先輩に予定があるのなら、わがままを言っても仕方がない。私は溜息をつきながら、今回は先輩を誘うのを諦めた。
「では、時間ができたらまた図書館に付き合ってもらえますか? 先輩が忙しくない時でいいですから」
 電話の向こうで、先輩も嘆息した。
『わかった。八月の第一週まではアルバイトが入っているから、それ以降になると思うが、いいな?』
「はい。――え?」
 私は大きく頷きかけて、はたと考えた。
 アルバイト。誰が?
 先輩が?
「え? あの、先輩」
 驚きに慌てふためきそうになりながら、私は瞬きを繰り返す。
『どうした』
 先輩は随分と訝しげだった
「どうしたって……あの、アルバイトするんですか」
『ああ。言ってなかったか?』
「は、初耳です」
 あまりにも平然と返されたので、私の言葉は上擦った。
 鳴海先輩でもアルバイトをすることがあるのか、と思った。何と言うか、似合わない――と言ってしまったら失礼かもしれないけど、イメージには合わない。
 先輩はご実家からの仕送りで生活していて、その慎ましい暮らしぶりと言ったら、清貧と呼べるほどだと私は思う。無駄なもののほとんどない部屋に住み、食事は概ね自炊をし、外へ出て遊び回ることもなく、今時携帯電話も持っていない。最大の趣味である読書でさえ図書館を大いに活用し、とにかく、とことん節約に努めている。そんな先輩がアルバイトをする必要に駆られているなんて意外だった。
『短期のアルバイトをしている。教授に紹介して貰ったものだ』
「そうだったんですか……」
 私はびっくりしたあまり、二の句が継げなかった。
 もっとも、細やかでまめまめしい先輩のこと、無駄のない働きぶりをしているのではと推測もできた。この生真面目さも働くことにはきっと向いている。対人関係の不器用さに関しては、接客業でなければ問題ないと思われる。
「ちなみに、どのようなアルバイトなんですか?」
 好奇心に駆られて追及する私に、
『古書店だ』
 と、先輩は答えた。
「古書店……じゃあ、本の整理とか、選別とかですね」
『それもあるが、ごく稀に接客もする。滅多に客の来ない店だがな』
「――先輩が、接客を!?」
 今度は声が裏返った。動揺せずにいる方が難しかった。
 だって先輩は、あの鳴海先輩だ。ほとんど常に仏頂面で、眉間に皺を寄せていて、低い声で話すのは無愛想な言葉ばかりで、下級生からは畏怖の対象として見られていたあの先輩が、接客を?
 もちろん、名目上は彼氏である先輩を信用しないのも失礼なこと甚だしい。それに先輩は愛想こそないけど、礼儀を知らない人ではないのだ。もしかしたら、ものすごくきびきびと、まるで外国の衛兵のように格好よく接客に務めているかもしれない。
『何を驚くことがある』
 電話越しに聞く先輩の声が、あからさまに機嫌を損ねる。
 私は慌てて口を開いた。
「ええと……いえ、その、とにかく初耳でしたから」
『そうか。いちいちお前に報告するようなことでもないからな』
 と先輩は言ったけど、正直なところ報告は欲しかった。知らずにいたなんて何ともったいない。
「先輩」
 呼吸を整えてから私は切り出す。
「よろしければ、どちらのお店で働いているのか教えてください」
 すると先輩は、鼻を鳴らしたようだった。
『聞いてどうする気だ』
「是非、お仕事しているところを拝見したいです」
『断る』
 にべもない答えだった。
 だからと言って、私もおめおめと引き下がるつもりはない。
「いけませんか? 先輩のお仕事姿にとても興味があるんです」
『そんなことに興味なんぞ持たなくてもいい。大体、お前に遊びに来られても邪魔なだけだ』
 相変わらず冷たい物言いをする人だ。その言葉が事実であっても、せめてもう少し言い様があるのではと思う。そう言われると、かえって諦めがつかなくなる。
「お邪魔にならないように、遠目に見ているだけにしますから」
 食い下がる私に、先輩の声もだんだんと険しさを増す。
『視界に入るだけで気が散る。どうせ黙って見ているつもりもないだろうしな。来なくていい』
「でも、見てみたいんです」
『駄目だ。来るなと言ったら来るな』
 徹底的に突っ撥ねる先輩は、遂には早口になり、
『そろそろ電話を切るぞ。電話代がもったいないからな』
 一方的な通告をぶつけてきた。
 となれば、こちらも最終手段に出るほかない。
 一呼吸置き、私は言い返す。
「それなら私は市内の古書店を、先輩にお会いできるまで虱潰しに探し回ることにします」
『つくづく強情だな、お前は』
 呆れたような声を漏らす先輩に、尚も言い募ってみた。
「どうしても見てみたいんです。遠くからでも構いませんから、先輩の勤労青年ぶりを是非見たいんです。きっと私、先輩に惚れ直すと思います」
 途端、電話口では息を呑むような気配が聞こえた。
『なっ……急に何を! 馬鹿なことを言うな!』
 うろたえられてもしょうがない。私も自分で言っておいて何だけど、さすがに照れた。
『全く……何て奴だ。お前は時々、突拍子もないことを言い出す』
 よほど心臓に悪かったと見え、先輩はくたびれた様子で応じた。
『悪いが、見て面白いものではないはずだ。俺の邪魔をしたいのでなければ止めてくれ』
「ではお尋ねしますけど、逆の場合は、先輩はどうしますか」
『逆の場合だと?』
 尋ね返されたので、私は素早く答える。
「そうです。もし私がアルバイトを始めたら――」
『受験生が何を言うんだ。大体、東高はアルバイトが禁じられていただろう』
「例え話です。来年、しないとも限らないでしょう」
 鬼の笑うような話を持ち出し、私は主張した。
「私がアルバイトを始めたとして、先輩は、全くの無関心でいられますか?」
『少なくとも、お前の邪魔になるような真似をするつもりはない』
「それが接客業であった場合、お客様として店を訪れてみたいと思いませんか?」
『どうだろうな』
「先輩なら絶対に、私の仕事ぶりが気になって、こっそり覗いてみたいと思うはずです」
『……しつこい奴だ』
 どうやら図星だったと見え、そこで嘆息した先輩が、やがて言った。
『わかった。店の場所は教える』
「本当ですか? ありがとうございます!」
 快哉を叫ぶ私に、だけど案の定、先輩は釘を差してきた。
『ただし、邪魔はするなよ。こっちは仕事をしているんだ』
「わかっています。遠目に見ているだけにしますから」
『できれば俺の視界に入らないよう、わからないようにしてくれ』
「善処します」
 そこは言われた通り、こっそりと見守るだけに留めよう。私だって先輩の邪魔がしたいわけではない。ただ、先輩がどのように労働に従事しているのかを見てみたいだけなのだ。そういう姿も間違いなく素敵だろうと思うから。
『それにしても』
 先輩は、電話を切る直前にこう言った。
『昔はもう少し遠慮がちだったのに、お前はだんだんとわがままになっていくな、雛子』
 ぎくりとしながら聞き返す。
「わがままを言う私は、気に障りますか?」
 その点について、先輩の答えは不明瞭だった。
『……そうでもないから、余計に厄介だ』
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