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水無月(3)

 バスルームを出ると、私は借りたタオルで身体を拭き、髪を軽く拭いて、更に借り受けた先輩のTシャツと、学校指定のジャージを身に着けた。
 Tシャツは窮屈ではなかった。むしろ肩幅が余るほどで、私は意外に思う。背が高いからすらりとして見えるだけで、先輩は思っていたより肩幅の広い人なのかもしれない。今までは気付かなかったけど、後で観察してみよう。
 濡れた制服は畳んで、補助バッグの中にしまい込んだ。帰ったら急いで洗濯をしなくては。
 バスルームの照明を消し、換気扇を回してから、一つ深呼吸をする。
 遠くから雨音が戻ってきた。
 先輩のところへ戻るのに躊躇があった。くだらないことで泣いてしまった後だ。顔を見せるのが気恥ずかしい。
 これから何でもないような顔をした私が湯上り姿で現れたら、先輩は呆れてしまうだろうか。それとも鼻を鳴らして笑うだろうか。どちらでも構わないけど、さっきのことは気にしないふりをしていてくれたらと願ってしまう。

 タオルで髪を拭きながら、必要もないのに足音を忍ばせて、先輩がいるはずの部屋を覗き込む。
 鳴海先輩は座卓の前で、背筋をぴんと伸ばして座っていた。
 先輩も着替えを済ませていたようだ。黒いシャツを着ていた。だけどこちらへ向けている背中が、いつになく落ち着かないように見えるのは気のせいだろうか。手にした文庫本を開くでもなく、ひたすら室内に視線を泳がせているのが、横顔だけでもわかる。何か考え事をしているのかもしれない。
「先輩」
 戸口から私が声をかけると、先輩はびくりとし、戸口へとぎくしゃく視線を向けてくる。それから明らかに表情の選択に迷った様子で、切り出した。
「済んだか」
「はい、あの……どうもありがとうございました」
 私が感謝を口にすると、先輩は気まずげに応じる。
「気にしなくてもいい」
「でも、大変助かりました」
 感謝してもし足りないくらいだと思う私に、だけど先輩は僅かにかぶりを振った。
 その後で呟く。
「こっちは心臓に悪かった」
「え? 心臓、ですか?」
 物騒な物言いに、思わず私は聞き返す。にもかかわらず、先輩はそれ以上は語らなかった。
 代わりに、すぐ傍の床を示して告げた。
「座れ。髪を拭く」
 命令口調だった。
 私がその言葉に唯々諾々と従ったのは、命じられたからではなく、むしろ望んでいたことだったからだ。
 先輩に髪を拭いて貰う。それはとても甘美で、幸せに満ちた行為だ。
 言われた通りに腰を下ろすと、先輩の手は私からタオルを取り上げ、すぐに濡れた髪を拭き始めた。優しく丁寧な手付きだった。去年のあの時と変わりなく、先輩は優しかった。
 温かい感情が広がっていく。
 それから、懐かしい思いもまた。
「先輩」
 私は髪を覆うタオルの隙間から、話しかけてみる。
「どうした」
 手を止めずに、先輩が問い返す。
「あの、以前にもこんなことがあったのを、覚えていますか」
「以前? 何の話だ」
 訝しげな声が聞こえて、私はほんの少し落胆した。
 もしかして先輩は、あの時のことを忘れてしまっているのだろうか。私も今日まで忘れかけていたくらいだから、そうなのかもしれない。去年、酷く雨が降った日の出来事。
 私にとっては驚きと同時にとても幸せな出来事だったけど、先輩にとってはどうでもいいような、つまらない記憶なのかもしれなかった。
 だとしても、あの日のことが色褪せてしまうわけではない。私は笑って語を継いだ。
「以前にも雨の日に、先輩に髪を拭いてもらったことがあったんです」
 すると先輩は眉間に皺を寄せて、直後、全く違うことを話題にした。
「元気そうだな」
 予想していなかった言葉が聞こえ、さすがに驚く。
 何のことだろう、と思っていると、
「外で会った時は大層打ちひしがれた様子だったから、本当は何かあったんじゃないかと思っていたんだが」
 先輩が嘆息する。
 ようやく気付いて、私は恥じ入る思いで身を縮めた。
「すみません……あの、本当に何かあったというわけではなくて」
「単に、水を掛けられて、それで落ち込んでいただけか?」
「そうです。心配をおかけしました」
 私の言葉を先輩は否定せず、深く頷いてみせたので、恐らくかなり心配させてしまったのではないかと思う。
 こちらとしても弁解のしようがなかった。水を跳ねられたのも、元はと言えば私の不注意によるものだ。
「考え事をしながら歩いていたので、避け切れなかったんです」
 反省を込めて私が言えば、先輩も私の髪を拭く手を止めた。かと思うと、非難の視線を向けてくる。
「またぼんやりしながら歩いていたのか」
「はい、すみません……」
 言い訳のしようもない。
 感傷に囚われるにしても、歩きながらでは危険だとわかった。考え事をしながら歩くのは、もっと反射神経と注意力のある人でなければ向かない。先輩を不安がらせてしまった以上、しばらくは歩きながら思索に耽ることを止めておこうと心に誓った。
 そのお蔭で、こんな幸せな時間が生まれたのかと思うと複雑だ。罪悪感も多少ある。
「本当に、何でもないんだな?」
 先輩に確かめられて、私は大きく首肯した。
「はい」
「なら、いい」
 微かに笑ったようだった。
 それから先輩は、また私の髪を拭き始めながら尋ねた。
「一体、何を考えながら歩いていればそんな目に遭うんだ」
 答えにくい質問だった。
 先輩のことです、と言い切れるならよかったのに、それだけではないからややこしい。私は返答に窮し、俯く。
「くだらないことなのか」
 言葉のオブラートを持ち合わせていない先輩は、ずばりと尋ねてくる。
 私は、どうしても答えられない。
 深刻な悩みではないのかもしれない。先輩の目から見たら、きっとくだらないことに違いない。だけどあの時の私は、まさに囚われたようにとりとめなく思索を続けていた。
 一つのことを考え出せば次から次へと悩み事が増えていくようだった。
 文芸部のこと、受験のこと、残り少ない高校生活のこと、それからもちろん、先輩のことも――何一つとして自力では答えを見出せないまま、こうして六月を終えようとしている。
 やり残したことがあるような気がしてならなかった。それが何かもわからないまま、あと九ヶ月で高校生活が終わってしまう。その間には大学入試もある。私は何を成せるのだろう。何かを、せめて一つのことでもきちんと成し遂げられるだろうか、全く自信はなかった。
 気が付けば雨の音の中、随分長いこと黙り込んでしまったようだ。
 私が口を閉ざしていると、やがて先輩が沈黙を破った。
「くだらないことでも構わない」
 はっとして、私は面を上げる。
 先輩は真剣な眼差しで私を見下ろしていた。
「話くらいは聞いてやる。どうしても我慢ならなければ口を挟むかもしれないが、とりあえず話してみろ」
 優しい手が、私の髪からタオルを外した。
「そのくらいの力にはなる」
 飾り気のない口調で言った先輩は、まだ少し湿り気を含んだ私の髪を、静かに指で梳いてくれた。
 抱き寄せられるように髪に触れられ、距離が近づく。
 私は視線を床に落とした。先輩の顔を直視することができなかった。さまざまな気持ちがない交ぜになっている中、奇妙に幸せな思いだけがはっきりと存在している。こんな時に、先輩を不安がらせておきながら、私は浮かれた気分でいる。
「それとも、俺では頼りにならないか」
 珍しく気弱なことを、先輩は口にした。
 驚きつつ、私は急いで否定する。
「そんなことはないです」
 頼りにならないなんてことはない。私にとって先輩は、目標であり憧れでもある。先輩に頼ることができるのは、本当に幸せなことだ。
「だったら話せ」
 すかさず促された時、私はうれしさを隠し切れなくなり、胸の前で手を握り合わせた。
 先輩について知らないことは多い。世間一般の常識としては、一年半も付き合えばある程度相手のことを熟知しているのが普通ではないかと思う。だけど鳴海先輩は私に秘密を作りたがるので、距離を測るのは、なかなかに難しいことだった。どこまでなら踏み込んでも構わないのか。どこからが踏み込んではいけないところなのか。わからない時は距離を置き、触れないようにするのが常だった。
 だけど今日は一つ、わかった。辛い時、先輩が手を差し伸べてくれたら、その時は甘えてもいいのだと知った。その方が、先輩も安心してくれるようだ。
 ようやく顔を上げると、先輩は気遣わしげな顔をして私を見下ろしていた。
 おずおずと告げてみる。
「話を、聞いてください」
 先輩が黙って顎を引く。その時、どことなくほっとした表情になった。
 雨脚が少し弱まったようだ。すっかり日が暮れていた。通い慣れた先輩の部屋は既にブルーのカーテンが引かれ、蛍光灯の唸るような音が微かに聞こえる。今は何時くらいだろう。
 時計を確かめる気はなかった。
 時間は、どうでもよかった。
 先輩と一緒にいられたらそれだけでいい、と思った。いつかは、そのうちに帰らなくてはならないけど、本当は急ぐ必要があったけど、私は時計から目を背け続けた。先輩も何も言わなかったから、多分、同じように思ってくれているのだろう。
 直視しなくてはいけないのは今の気持ちだ。
 私が抱いている感情と正対し、それを先輩に打ち明けることだ。
「焦りがあるんです」
 静寂の中で切り出した声が少し、かすれた。
「この間進級したと思ったら、いつの間にかもう六月です。こんな風に時間が、知らないうちに過ぎ去ってしまうのかと思うと、しなくてはならないことの全てがやり遂げられないまま終わってしまうような気がして……」
 正座をして向き合う姿勢。
 すぐ眼前にいる先輩は、まだ口を開かない。黙って耳を傾けてくれている。
「先輩もご存知の通り、私は今年度から文芸部の部長になりました。と言っても、三年生が一人きりだからやむなく、ですけど。でも」
 溜息が出る。
「部員は一向に増えませんし、現在いる三人だけでは活動も細々としてしまいます。私も秋には引退しなくてはいけませんから、せめてそれまでに形に残る活動をして、部員を勧誘したいと思うのですが、妙案も浮かばない状態なんです」
 それでも、文芸部のことだけ考えていればいいのなら、まだよかった。
 私にはもっと大きく比重を占める、将来への不安があった。
「受験勉強も……事実を言えば、あまり順調に進んでいないんです。どうしてもいろんなことを考えてしまって。高校生活が終わってしまうことが何となく、信じられなくて、現実のことのように思えなくて、どうしても行き詰まってしまうんです」
 一つ不安があると何も手につかなくなる。
 そうこうしているうちに焦りはより募り、悩み事は八方塞がりになる。
「私、このままだと、何もかも成し遂げられないような気がするんです」
 自然と囁くような小さな声になって、私は先輩に打ち明けた。
「このままでは、全てのことをやり残したままで卒業してしまうような気がして、ならないんです」
 そこまで話した時、胸が苦しくなって、私は唇を結んだ。
 先の見えない不安は何よりも恐ろしい。気が付かないうちに現実よりも大きく膨れ上がって、心を呑み込んでしまう。そうして現実すらも霞んで見えなくなる。
 わかっているのに、私は既に何も見えなくなっている。輪郭のぼやけた不安のせいで、何をなすべきかがわからなくなっている。
 しばらくの間、先輩は眉間に皺を寄せたままで黙り込んでいた。
 口を開いたのは、ふと雨の音が遠ざかった瞬間だ。
「身の程を知ることだな」
 ぽつりと一言、そう言った。
 私は瞬きと共に尋ね返す。
「身の程……ですか」
「そうだ」
 先輩は尖り気味の顎を引き、更に続けた。
「できもしないのに何でも完璧にやり遂げようと思えば、必ず失敗する。できないことがあるのはおかしなことじゃない。むしろ、自分が何を求められているかを把握して、それだけは確実に成し遂げられるようになるべきだ」
 突き放すような口調に、どきっとする。先輩には、私が何を求められているのかがわかるのだろうか。
 私の内心を読んだように、先輩は嘆息した。
「例えば文芸部のことだ。お前は三年が一人しかいないから、やむを得ず部長になったんだろう。なら、誰もお前に上等なことを期待していないはずだ。欲張らず、部長として最低限すべきことだけこなしていればいい」
「……はい」
 思い当たるふしがあり、私は俯く。
「大切なのは、優先順位を忘れないことだ」
 先輩はそう言った。
「この一年を棒に振ったと後で悔やむことのないよう、まずは何を優先させるべきか、お前が今求められていることは何かを冷静に、落ち着いて考えろ。他のことは余裕が出来てからでもいい。誰もお前を完璧な人間だとは思っていないだろうし、お前に対して完璧さを求めるはずもない」
 完璧な人間ではなかった。先輩の言う通り、私は完璧ではなく、むしろ未熟で欠点の多い人間だ。だけど完璧でありたいと思った。誰の期待も裏切りたくはなかったし、誰にもいい顔をしていたかった。失敗するのは嫌だった。できないことがあると、誰かを落胆させるのは嫌だった。
 その一番の対象は、他でもない先輩なのだと思う。
 先輩には落胆も、失望もされたくなかった。完璧な人間ではなく、欠点ばかりを見つけられていることは承知の上で、せめて先輩の目に付かないところでは全て立派にやり遂げておきたかった。様々な悩み事を、先輩と会う時間には持ち込みたくないと思っていた。
 だから、なのだろうか。先輩との間にいつまでも距離があるように思えるのは、実は私のせいなのかもしれない。見栄を張り、落胆されてしまうことを恐れるあまり、距離を取り続けているのは私の方ではないか、と。
 そうと気付いたら余計に落ち込んだ。私はどこまで見栄っ張りで、身の程を知らない奴なんだろう。
「……私、身の程知らずでした」
 正直に、今の気持ちを打ち明ける。
「完璧でありたいと思っていたのは、本当に、先輩のおっしゃる通りです。完璧にはなれなくても、限りなく完璧に近い人間でありたいと思いました」
 だけどそれすら、身の丈を知らない意識だ。
 先輩は咎めるような目で私を見た。
「理想が高過ぎるな、お前の場合は」
 私は苦笑して頷く。
「そうだと思います。私の理想は、先輩ですから」
 告げた途端、先輩は妙な顔をする。
「本気か?」
「もちろんです。先輩は、限りなく完璧に近い方だと思います」
 私は確信している。先輩に欠点がないとは言わない。それは、先輩の傍にいる私がよくわかっている。
 でも、限りなく完璧に近い人だと思う。先輩なら周囲の期待を重圧とすることなく、求められたことをきちんとやってのけるだろうし、優先すべきことを見極めることもできるだろうし、その上で他のことまでこなす余裕もある。
 潔癖でストイックで、だけど望む目標に対してだけはひたすら追求することを止めようとしない。姿勢よく直立し、いつ何時も自分らしくある。険しさを他人に向けることも厭わないけれど、同時に自分にも厳しく、律することの出来る人。私は、そんな先輩に少しでも近づきたかった。先輩は常に、私の理想の人だった。
 だけど本人にその自覚はないらしい。訝しがる先輩がぼやいた。
「お前は俺を買い被ってやしないか」
「そんなことはありません」
「いや、ある。お前の視力が悪いのは今に始まったことじゃないが、勝手な理想を押しつけられても困る。どう解釈したら、俺が完璧に近い人間だと思えるんだ」
 低い声で反論された。でも私は即座に察した、こう見えて照れ屋な人だから、謙遜しているに違いない。
「だって、先輩は本当に素晴らしい方だと思うんです。高潔で、ストイックで、生真面目で、目標に向かって弛まず努力を続けるような、とても直向きな精神の持ち主だと私は思っています」
「誰の話だ」
「先輩のことです」
 私は先輩を理解しているつもりだ。先輩が私にとって、理想となり目標となるべき人であるのは間違いない。だから私は先輩に惹かれたのだし、先輩に相応しい存在でありたいといつも願う。
 にもかかわらず、私の言葉を聞いた先輩は、目を伏せてしまった。
「勝手に人を美化するな」
「していません。私には、そう見えるんです」
 すぐに私は言い返したけれど、
「それでお前が重圧を感じているのなら、全く本末転倒じゃないか」
 先輩に指摘されると、言葉に詰まってしまう。
 重圧。先輩の存在がプレッシャーになっているなんてことは、ないはずだった。それは、先輩に相応しい人間でなりたいと常々考えていたけど、だからと言って――。
「思い込みの激しい奴だ」
 溜息混じりの声が聞こえた。
 はっとなって視線を上げると、ちょうど先輩もこちらを見たところだった。
 目が合う。
「俺が今、何を考えているかを知ったら、お前は間違いなく驚くだろうな」
 先輩が無愛想に言った。
 こちらに向けている目つきは鋭く、気圧された私は思わず聞き返す。
「何を……考えているんですか?」
 答えはなかった。
 次の瞬間、視界が暗い影で覆われたかと思うと、急に唇を塞がれた。
 先輩が、私の後頭部と左頬を抱え込むようにして持ち上げる。
 まだ湿り気を含んだ髪が押し付けられるように頬に触れ、髪越しに先輩の手の熱が伝わってきた。
 反射的に目を閉じた私は、戸惑いを隠し切れずにいる。初めてではない、ないけれど、どうしてこのタイミングで口づけられたのかがわからない。先輩が何を考えていたのかがわからず、困惑したままでいた。
 先輩はしばらくの間、私を離さなかった。
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