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皐月(3)

 この書店の本棚はとても背が高く、天井との間には照明の光を行き届かせる為の隙間があるだけにすぎなかった。平棚もないせいで通路はすっきりとしており、まるで本を敷き詰めた壁の間に立っているような気分になる。
 文庫本でできた壁を背景にして、いつの間にか鳴海先輩が私の傍に立っていた。

「え……」
 私は酷く驚いていた。
 先程まで思考を想像で埋め尽くしていた、当のその人が目の前にいる。いつものように姿勢がよく、記憶にある通りのモノトーンの服装で、鋭い目つきも薄い唇も笑いの気配一つ見せずにいる。見慣れた姿があまりにも唐突に現われたので、もしかして私の頭の中から抜け出してきたのではないかと、一瞬本気で思いかけた。
 それなら数週間ぶりに顔を合わせた私に対して甘い言葉の一つもかけてくれたらいいものだけど、現実の先輩はそういうそぶりもなく、むしろどこか疑わしげに私を見下ろしている。
「偶然だな。ここで何をしている?」
 挨拶もないうちから、先輩は詰問口調で尋ねてきた。
 その声にはいつもの熱のなさの他、刺々しさも存分に含まれていた。先輩は自らが言い渡した養生の命を、私が破ってしまったと思っているのかもしれない。私は旅行の疲れも癒えてすっかり元気でいたけど、だからといっていくらも立たないうちに遊び歩いているのでは心証も悪くなって当然だろう。
 慌てて弁解した。
「これも、養生のつもりでした。つまり、身体が復調してきたので、次は心の栄養を取ろうと思って」
 小手先の言い訳が通用する相手ではないこともわかっている。だから今のは半ば冗談のつもりだった。先輩が面白がってくれる可能性はゼロに等しいけど、鼻で笑うくらいのことはしてくれるだろう、と踏んでいた。
 ところが先輩は私を馬鹿にすることもなく、求めた答えが得られなかった時の顔つきで眉を顰めた。
「そういう意味で聞いたんじゃない」
 私は困惑する。
「じゃあ、どういう意味で聞いたんですか?」
 問い返せば、先輩はなぜか気まずそうに視線を逸らし、文庫新刊の棚を睨んだ。
 そのまま黙ってしまったので、やむなく私は先輩の真意を自力で推理し始める。
 ここで何をしているのかと、先輩は私に聞いた。本屋さんに立ち寄る人間の用事なんてそう多くはないと思う。せいぜい本を買いに来たか、立ち読みをしに来たか、新刊のチェックをしに来たか、そんなところじゃないだろうか。私と先輩はお互いに読書家なので、一緒に書店へ足を運ぶことだって頻繁にあった。だから私が書店に、全くの無目的で訪れることはないと先輩もよくご存知なはずだった。
 考えているうち、逆に先輩がここにいるのが不思議に思えてきた。人混み嫌い、喧騒嫌いの先輩がこんな大きなお店に自発的にやってくるとは想像していなかったからだ。
「確かに、偶然ですね」
 鳴海先輩が黙っているので、私は会話を継いでみる。
「先輩とここで会えるなんて思ってもみませんでした。偶然でも嬉しいです」
 すると先輩は、やや複雑そうに私を見た。
「嬉しいか」
「はい。会えるってわかってたら、お土産を持ってきてたんですけど」
 お菓子ではさすがに、ずっと鞄に入れておいて会えたら渡す、というわけにはいかない。私はほんの少しだけ、お土産を小さなものにしなかったことを後悔した。
 もっともすぐに立ち直り、これで更にもう一度会いにいくチャンスができたということなんだから、近いうちに必ず先輩のところへ持参しようと心に誓う。
「先輩は、ここへはよく来るんですか?」
「今日初めて来た。品揃えがいいと聞いたから覗いてみようと」
「そうなんですか。だったら、二人でくればよかったですね」
 口にしてしまってから、この場にいないとは言え車で連れてきてくれた兄に失礼ではないかと思ったけど――でもよくよく考えれば、兄だって『彼女連れで来たかった』などと口走っていた。おあいこだ。
 ともあれ私の言葉を聞き、先輩はまた複雑そうな顔をする。それから改めて私を見下ろすと、珍しく言いにくそうに切り出してきた。
「雛子、単刀直入に聞くが」
「何でしょうか」
「お前は、ここへ誰と来た?」
 それは別に言いにくそうにすることでも、単刀直入に聞くような話でもないと思った。でも先輩が食い入るように私を見てくるので、ひとまず急いで答えた。
「兄です」
 今度は、先輩が驚いたようだった。目を剥いて復唱してくる。
「兄? ……お前のか?」
「はい。話したことありますよね、私の旅行カバンを持っていってしまったうちの兄です。今頃になって帰省してて、それで今日はここまで乗せてきてもらったんです」
 先輩にも家族の話をしたことがある。
 ただそれはあくまで会話のついでに、説明の必要がある場合のみだった。先輩はご自身の家族については口を重く閉ざしていたし、そのせいか私の家族についてもあまり聞きたがろうとしなかった。兄の話もちらっと語っただけだから、先輩はうちの兄の名前すら知らないはずだ。
 その時、先輩の脳裏でどのような思考が流れたのかはわからない。ただ確実に何か思うそぶりがあり、少ししてから呟く。
「そうか」
 一呼吸おいてもう一度、
「……何だ、そうか」
 どうやら深く、安堵した様子だった。
 なぜほっとしたのか、私は奇妙に思う。先輩は随分と、私がここに何しに来たか、誰と来たかを気にしているようだった。そして私の前に現われた時、普段よりも更にきつい言動を取っていたのを覚えている。
 これらから導き出される仮定に、日頃勘が鈍いと言われている私でも容易に辿り着くことができた。
「もしかして私が、他の男の子と買い物に来たとでも思ったんですか?」
 意地の悪い質問だろう。私も聞くかどうか、少し迷った。
 だけどむしろそんな心配はちっともないのだと伝えたくて、私はその仮定を先輩に確かめた。
 案の定、先輩はぎょっとしてみせた。そして衝動的な言葉を飲み込むかのように唇を引き結んだ後、苛立たしげに言う。
「こういう時だけ聡いのは、実に忌々しいな」
 どうやら図星のようだった。
「ないですから、そういうこと。私には他に仲のいい男の子もいませんし」
 そう言うと先輩は歯軋りしながらも、
「お前を信用していないわけじゃない。だがな……いざお前が、見知らぬ男と二人、仲睦まじく歩いているのを見たらさすがに驚く。見かけた直後は何事かと思ったぞ」
 と訴え、それで私が笑いを堪えきれずにいるのを見るや更に噛みついてきた。
「笑うな。こうなったら開き直って言うが、そもそも俺にはお前が他の男と一緒にいた場合、相手が誰かと遠慮なく問い質せる正当な権利があるはずだ」
 こんな時でも理詰めの反論をするのがいかにも鳴海先輩らしい。ちょっと誤解をしたくらいで一生懸命に言葉を並べ立ててくる姿が、私にはおかしかった。
 思えば書店に来るといつも特定の作家しか探さない先輩が、文庫の新刊コーナーに『偶然』現われるのも妙な話だ。私と兄の姿を目撃し、まさに問い質そうとここへやってきたのだろうとやっと気づいた。悪いことをしたとは思うものの、らしくもない必死さが可愛くて仕方がない。
「そ、そうですね……。是非いつでも問い質してください」
「だから笑うなと言っている」
「無理です、先輩」
「俺はあくまで正当な権利を行使したまでだ。なのになぜ、恥をかかされたような気分にならなきゃいけない」
 その言葉通り、先輩は非常に恥ずかしそうだった。しばらく不機嫌そうに私が笑うのを睨んでいたけど、とうとう居心地が悪くなってしまったんだろう。急に踵を返した。
「もういい。俺は帰る」
 臍を曲げてしまったようだ。私は急いでその腕に取りすがった。
「ま、待ってください先輩。もう笑いませんから」
「笑いながら言うな。俺は今日で一生分の恥をかいたぞ」
「そんな大げさな。先輩が帰ってしまうと、私、寂しいです」
 私が引きとめようとすると、先輩の肩が動揺したように小さく跳ねた。ぎくしゃく振り向いた顔はまだ仏頂面だった。
「何を言う。お前は他の男と来たくせに」
「ですから、相手はうちの兄ですよ」
「今のはわざと言った。ただの意趣返しだ」
「もう、先輩……」
 そんな問答を続けていればやがて先輩の気持ちも落ち着いたようだ。取りすがる私の手をやんわり外しつつ、いつものような淡々とした声で続けた。
「それに、お前は俺の話を家族にしていないんじゃなかったのか。俺といるところを見られたら、お前が弁解に困るだろう」
 思わず私は言葉に詰まる。
 先輩について家族に伏せているのは、恥ずかしいから、そして追及されるのが面倒だからだった。私も思春期の娘として、親に対して恋愛事情を明け透けに語るのは抵抗が強かった。親も親で、彼氏がいると報告したらそれだけで納得し後はそっとしておいてくれるような人々では断じてない。だから言いたくない。
 だけど、今日ここに来ているのは兄だ。兄ならば、『お父さんお母さんには黙ってて』と言えばわかってくれるのではないか。
 そもそも鳴海先輩は尊敬すべき立派な人だし、こそこそと付き合う必要もないはずだった。まるで悪いことでもしているみたいに、先輩の存在を隠すのはどうなのだろう、と唐突に思った。
 胸に浮かんだのはつい先程、先輩が口にした言葉だ。
 ――正当な権利。
 先輩は私に、私の家族に紹介してもらう正当な権利もあるのではないだろうか。
「よければ……今日、ご紹介しましょうか」
 妙に力のない声が出た。大事なことだからはっきり尋ねなければならないのに、覚悟も決まらないうちからの申し出は、我ながら酷く頼りなかった。
 それを先輩も見抜いたのだろう。私の顔をじっと見つめた後、呆れたように笑んだ。
「無理をするな。そんなのは先の話でいい」
 そして何事もなかったかのように、今度こそこの場を立ち去ろうとした。
 だけどそこへ、
「――あ、ヒナ。もう買う本選んだか?」
 間の悪いことに、文庫本でできた壁の間の通路にうちの兄が現われた。
 兄は眼鏡をかけた顔をひょっこり覗かせた後、私の傍に立つ先輩に気づいたようで、あれっという表情になった。ゆっくりこちらへ近づきながら言った。
「えっと、お友達? じゃないか……もしかして、高校の先生?」
 鳴海先輩は東高校在学中もあまり制服の似合わない、いささか大人びた顔つきをしていた。姿勢のよさやきびきびとした立ち居振る舞いとも相まって、実年齢以上に見られることも珍しくない。大槻さんが初対面の折、同期生とはつゆとも思わず接していたという話も耳にしている。
 だから兄の誤解もそう突飛なものには感じられなかったけど、とにかくタイミングが悪すぎた。私は覚悟もないままの状況だったし、先輩を紹介しなければという気持ちと、先の話でいいと言われた直後だけに言葉を選ばなければという気持ちが行き交い、しどろもどろになっていた。
「あ、あの……高校の先輩、と言うかOBなんだけど、鳴海先輩。今は大学生で……」
 何を話せばよくて、何を話したらいけないのか、よくわからなくなっていた。
 兄は私の態度に不審を抱いたようではなかったけど、驚いたように目を瞠った。
「大学生? じゃあ、年下か」
 私はまごまごしながら、まだ隣に立つ先輩を見上げる。
 でも先輩はどういうわけか、私よりよほど落ち着き払っていた。私の兄に向かってきちんと、品よく頭を下げた。
「鳴海と申します。初めまして」
「あ、どうも……。雛子の兄です」
 先輩と比べると兄はぼんやり答え、それから愛想笑いを浮かべた。
「何か、妹がお世話になってるみたいで」
「いえ、こちらこそ。在学中は妹さんにも大変お世話になりました」
 そう言うと先輩は私に視線を戻し、いつになく穏やかに微笑んだ。私を安心させようとするみたいに。
「……それじゃあな、柄沢」
 いつもとは違う呼び方で私を呼ぶと、鳴海先輩はもう一度兄にお辞儀をして、それから本棚の通路を出ていく。その背中が文庫本の壁の向こう側に消えてしまうと、先輩はこのまま店を出て、帰ってしまうのだろうと無性に寂しくなってしまった。
 やっぱり紹介するべきだっただろうか。ちゃんと、正直に。
「年下かあ……ぜんぜん見えないな」
 ぐるぐると後悔を巡らせる私をよそに、兄は何やら感心している。
 私の方へ向き直り、
「大学生なのにしっかりしてるな、俺とは大違いだ」
 と言うから、私は脱力しつつ応じた。
「お兄ちゃんと比べたら失礼だよ。先輩はもう一人暮らししてるしね」
「へえ、えらいな。真面目そうだもんな」
 納得する兄は買い物かごを提げていて、そこには兄が結末を気にしていたシリーズの単行本が全巻入っていた。私がそこへ目をやると、兄は誤魔化すように笑った。
「たまには大人買いっていうのもいいかと思って」
 豪気な買い物ぶりに、私は兄の一人暮らしが上手くいくのかどうか、若干の懸念を抱いた。
「ヒナは? 何も買わないのか」
「……今日はいい」
「一冊くらいなら買ってあげるのに」
「ううん。何か、いい」
 ゆっくり本を選ぶ気分ではなくなっていた。去っていく鳴海先輩の後ろ姿が瞼に焼きついている。後悔のような、罪悪感のような気持ちと共に。
 落ち込む私を、兄は兄なりに推し量ろうとしたようだ。やがて気遣わしげに言われた。
「あ、もしかしてさっきの子、ヒナの片想いの相手だったとか?」
 そこで『両想い』と言ってもらえないことに、勝手ながらも更に落ち込んだ。
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