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皐月(1)

 ある晩、ふと先輩の声が聞きたくなった。
 鳴海先輩は今時珍しいことに携帯電話を持っていない。以前、それとなく尋ねた際には当面は持つ気もないと言い切っていた。持っていると面倒なタイミングで面倒な電話がかかってくるからだ、とも。その中に私からの連絡が含まれていなければいいなと思いつつ、私はいつも先輩の部屋に引かれた固定電話へかけている。
 お互いに寝つくには早い夜の八時半過ぎ、先輩はコール音二回目のうちに受話器を取り、かけてきたのが私だと知るや否や、訝しげに尋ねてきた。
『雛子か。何の用だ』
「いえ、特に用はないんです」
『用もないのにかけてくる奴があるか。切るぞ』
 日頃から歯に衣着せぬ鳴海先輩は、今宵もやはりそういう物言いをする。
「先輩、待ってください」
『何だ。急ぎの用なら聞いてやる』
「用というほどのことはないんですけど」
『それなら切る』
「で、ですから、待ってください。用というより、急に電話がしたくなったんです」
『こんな時にか? 電話代の無駄だ』
「私にとっては無駄じゃないです」
『いいや、お前にとっても無駄だ。疲れているだろうから早く寝ろ』
 冷たい言葉を口にしつつも、一応は私を気遣ってくれているそぶりはあった。鳴海先輩は誤解されがちだけど、本当はとても優しい人だ。だからこそ私も、こんな夜には先輩と話がしたい。
「ただ先輩の声が聞きたくなって……」
 私は素直に打ち明けた。
 本心をはっきりと告げるのには気恥ずかしさもあったけど、正直に言わなければ先輩はそのうち一方的に電話を切ってしまうだろう。
「それも、先輩からすれば用のないことになりますか」
 懇願する思いで尋ねたら、短い溜息が電話の中に響いた。
『くだらないことを言うな』
「くだらなくないです。私はいつだって先輩の声が聞きたいと思っています」
『おい、何を……』
 そこで先輩は少し慌てたようだった。私の発言を制止しようとしたんだろうか、急いで確かめてくる。
『お前、今は一人でいるのか? あまり人前でそういうことを口走るものじゃない』
「平気です。ちゃんと人のいないところで話をしていますから」
『……何をやっているんだ、お前は。話なら帰ってきてからすればいいだろう』
 鳴海先輩は再び溜息をついた。どうやら呆れられてしまったようだ。
『せっかくの修学旅行中だというのに』
 そう言われて私は、思わず照れ笑いを浮かべた。

 五月下旬、東高校の三年生たちは修学旅行に出かけていた。
 三泊四日の北海道の旅。本州を初めて離れた私にとっては広大な大自然も、食べ物の美味しさも、思っていた以上の肌寒さも全てが珍しく楽しかった。それでなくても陽気なC組の友人たちが一緒だ。修学旅行本来の『修学』部分はほとんど忘れ去り、ひたすら楽しい時間を過ごした。
 だけどその一方で、楽しい旅行をすればするほど、私は鳴海先輩のことを思い浮かべてしまう。ここに先輩がいたら、もし先輩と私が同学年、同じクラスだったら――事あるごとにそんな想像を巡らせてしまう。鳴海先輩は北海道の大自然を文章にする際、どんなふうに言葉巧みに描写するのだろう。先輩も紙でできたエプロンを着けてジンギスカンを食べるのだろうか。風の冷たさに震える私を見たら、もっと厚着をしてくるべきだったなと言いながら冷たく笑ってみせたに違いない。
 私と先輩の間には二歳の差があり、先輩は既に東高校を卒業している。だから現実には叶わないことだけど、それでも学校行事がある度に思ってしまうのだった。
 先輩と私が同い年で、どんな学校行事も一緒に過ごせたらよかったのに。
 そうして先輩への想いを募らせた末、私は修学旅行先である北海道からわざわざ先輩に電話をかけていた。
 クラスの友人たちはことこういう話には理解があり、電話の為に部屋を抜け出す私を温かく見送ってくれた。初めは押し入れでかけてもいいよとさえ言ってくれたのだけど、それでも会話が漏れ聞こえてしまいそうで、さすがに恥ずかしいので一人きりになれる場所を求めてホテル内をうろうろした。ホテルの廊下は意外なほど静まり返っていて、ジュースの自販機が低く唸っているのが少しだけ不気味だった。きっと部屋へ戻れば嘘みたいに騒がしいに決まっているけど、その騒がしさから抜け出してみれば何となく心細くて、早く先輩の声が聞きたくなった。
 そしてようやく見つけた無人のロビーの、更に隅の方でしゃがみ込み、電話をした。消灯時間まで三十分を切った今、出歩いているのは私のような物好きしかいないみたいだった。

「先輩と一緒に、修学旅行に来たかったです」
 まだ繋がっている電話の向こうへ、私は本音を告げてみる。
 いつもとは違う数百キロの距離があっても、電話でならタイムラグもなしに会話ができる。言葉との言葉の合間にある、返答を考える為の沈黙だってそのまま届く。私の本音を先輩が受け止め、どう答えようか考えてくれているこの間を、私はとてもロマンチックなもののように思う。物理的な距離など恋の障害にはなりえない。
 けれどいくらか続いた間の後、
『無理を言うな。不可能だ』
 先輩にはばっさりと切られた。知ってはいたけど、こういう時に私に合わせて夢のある想像をしてみてくれるような人ではなかった。
「それはまあ、そうでしょうけど……できたらいいなと思ったんです」
『俺のような級友がお前のクラスに存在してみろ、楽しい旅行が台無しになる』
 自嘲するそぶりもなく、平坦な声で先輩は言う。
『それにお前は俺と違い、友人だってたくさんいるだろう。俺がいないくらいで文句を言うな』
 鳴海先輩の声は同年代の男性と比べても低く、そしてほとんどいつも淡々としていた。
 もちろん人間らしく激高することもあれば、先程みたいにうろたえてみせたり、私に対して思いのほか熱のこもった言葉をくれることもある。だけど普段はこういうふうに、体温の感じられない話し方をする場合が多かった。先輩を評して冷たいと言う人たちがいるのは、この話し方のせいでもあるのかもしれない。
 ただ私にとっては、どきどきするような緊張感と不思議な穏やかさを同時に抱かせる、とても心地よい声に聞こえていた。時間など気にせずに、ずっと聞いていたくなる。
「友達と旅行をするのと、先輩とするのとでは大きな違いがあります」
 私は言い、それとなく水を向けてみた。
「今度は二人で旅行、なんてどうでしょうか。北海道じゃなくてもいいですから」
『旅行なら去年出かけた』
「でも、あれは日帰りでした」
『だとしても旅行には違いあるまい』
 先輩はそう主張するものの、去年の旅行はどちらかというと遠出のピクニックと称するべきものであって、旅と呼べるほどの規模ではなかったように思う。あれを旅行と呼ぶのは、カステラをケーキと呼ぶのに似た違和感がある。楽しかったことだけは間違いないけど。
「私は別に、日帰りじゃなくたって……」
『駄目だ』
 そして私の主張に対しては、間髪入れずに拒絶の意思を示してくる。
 同年代の恋人同士なら、普通は男の子の方が泊まりがけで旅行をしたがるものだと聞くけれど、先輩はそうではないらしい。大切にされていると思いたい、でも実情は、単に子供扱いされているだけのような気がする。
 私としては、ただ鳴海先輩とより長い時間を一緒に過ごしたいだけだ。日帰りの旅行では時間が足りないと思うからこその提案なのに、潔癖すぎる先輩が相手ではそれだけの希望も叶いそうにない。先輩は、私とずっと一緒にいたいと思ったりしないのだろうか。いつも会っているよりも長い時間、二人で過ごしたいと思うことはないのだろうか。
『それより、そろそろ消灯の時間じゃないのか』
 まるで話を打ち切るように、先輩が私を急かそうとする。
『お前ももう気が済んだだろう。教師に見つかる前にさっさと部屋へ戻れ』
「まだ、平気です」
 ロビーの時計を見ながら私は答えた。午後九時、十分前。部屋までは三分あれば戻れる。まだ大丈夫だ。
『見つかったらすぐに電話を切れよ。詮索されると厄介だからな』
 そういう言い方で、先輩はもう少しの通話を許容してくれたようだった。私はほっとして、すっかり温かくなった携帯電話を握り直す。
「わかりました。……あの、先輩」
『何だ』
「先輩は、海と山ならどちらがお好きですか」
 残り時間を意識したせいか、唐突な質問になったように思う。
 案の定、鳴海先輩にも不思議そうにされた。
『今度は何の話だ』
「いえ、もし旅行に行くとしたら、どちらがいいのかなと思って」
『その二択しかないのか』
「先輩なら、騒がしいところには行きたがらないでしょうから」
 遊園地とか、話題の観光地などは行き先候補から真っ先に除外されるはずだった。先輩は人出の多い場所は苦手のようだし、私としてもジェットコースターやその他アトラクションに勇んで乗る先輩は全くもって想像できない。……見てみたい、とも思うけど。
 鳴海先輩の好きな場所は知っている。図書館、書店、古書店、そして先輩が暮らすあのアパートの部屋――私にとっても好きな場所には違いないけど、旅行をするならもっと、普段は行かないようなところがいい。
「それとも行く先々の図書館探訪、なんていう旅行の方がいいですか?」
 思いつきで続けたら、先輩は相変わらず淡々と答える。
『日帰り旅行ではそう多くは回れまい。それならば俺一人で行く方がいい』
「……そうですか」
 落ち込みそうになる私の耳に、体温を感じさせない声が尚も聞こえてきた。
『先程の質問に答えるなら、……そうだな。好きではないが、海がいい』
「海ですか? へえ……」
 聞いておいて何だけど、意外だった。
 いや、きっと『山がいい』と答えられたって意外に感じたに違いない。先輩ならどちらに対しても微妙な反応をするような気がしていた。
「先輩は海のどこがお好きなんですか?」
 突っ込んで尋ねてみる。
 途端、鼻で笑うような気配の後で、
『好きだとは言っていない』
「あ、そうでしたね。でも、海の方がいいんですよね?」
『どちらかと言えばな。波の音を聞きながら本を読むのも悪くない』
 先輩は私の夢やロマンに歩み寄る人ではない。にもかかわらずご自身はそんなふうに、時々ロマンチックな発言をしてみせることがある。いかにも物語を創る人の言葉らしい。
「素敵ですね」
 私は先輩の言葉を誉めた。もちろん、素直な反応があるとは微塵も思っていない。
『そうでもない』
「そうでしょうか? 私は今のお言葉、心の琴線に触れました」
『大げさな。お前は事あるごとに感銘を受けすぎだ』
「先輩の言葉はいつだって私の心に響きます。私は先輩のファンでもありますから」
 畳みかけてみたら、先輩は一瞬黙った。
 それから言った。
『時間だ。いい加減部屋へ戻れ』
 仕方なく私も時計を見る。残念ながら、あと五分で消灯の時間だった。
「わかりました。お休みなさい、先輩」
『ああ。明日に備えてゆっくり休め』
 電話を切る直前、先輩の声はいつも通りのトーンに聞こえた。

 部屋に戻った私は、クラスの友人たちからお決まりの尋問を受け、そして修学旅行の夜らしい内緒話も一通りした。
 本来の消灯時間を三時間も過ぎてからようやく布団に入ったものの、私は何となく寝つけなくて、鳴海先輩のことを考える。
 ああ言ったということは、先輩は海の傍で波の音を聞きながら読書をする機会が実際にあったのだろう。最近の話だろうか。先輩がその為だけにわざわざ海まで足を運ぶとは考えられないけど、実はそこまでするほど海が好きだったという可能性もなくはない。先輩は時々天邪鬼で、好きなものを素直に好きだと言わない人だからだ。
 どちらにせよ、先輩の意外な一面を垣間見られたようで嬉しかった。私にはまだ鳴海先輩について、知らないことがたくさんある。それらを一つ一つ、本のページを開いて読み進めるように知っていけたらいいと思う。鳴海先輩という人を一冊の本とするなら、私はまだその物語をほんの一部分、途中から掻い摘んで読んだだけに過ぎない。だからもっと多くのページを読んでみたかった。好きな人のことは誰より多く、誰より深く知っておきたかった。

 そんなふうに、離れていても先輩のことばかり考えていた修学旅行も無事最終日を迎え――。
 北海道を発つ直前、空港で得た最後の自由時間で、私は先輩へのお土産と合わせてポストカードを買った。先輩の為に、北海道の海の景色を贈ろうと思っていた。だけど南国と違って北国の海は少し寒い色合いのせいか、海だけの写真がなかなか見当たらなかった。ようやく見つけたのが船がたくさん並ぶ港町の写真で、それを空港に備えつけられていたポストから、先輩の部屋へ宛てて送った。
 電話は遠く離れていてもタイムラグなしに言葉を届けられるけど、手紙は今の気持ちを未来へ運んでいくものだ。私の先輩への想いは変わることがない、でも人の感情は絶え間なく変化するのが常だし、ふと胸裏に浮かんだ気持ちをあとで伝えようと思っても、時間を置くと恥ずかしく感じて、思いとどまってしまったりする。
 だから私は先輩にポストカードを送った。今の気持ちを未来へ放り投げて、恥ずかしくならないうちに伝えてしまおうと思った。
 ――いつか私も、先輩の隣で波の音を聞きながら本を読んでみたいです。
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