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卯月(1)

 目下の悩み事は来週の日曜日のこと。
 四月の二十九日は、鳴海先輩のお誕生日だった。何をしようか、どう過ごそうかを考えている。

 鳴海先輩は私が通う東高校のOBであり、卒業した現在でもそこそこの有名人だった。
 有名と言っても残念ながら、良くも悪くもという意味合いになるものの――いい意味では、地元の文学賞を受賞した、作家志望の青年として。そして悪い意味では、生真面目が行き過ぎて頑固一徹。自分にはもちろんのこと、他人にも非常に厳しい孤高の人物として。
 先輩は物事に対する好悪をはっきりと表す人だった。特に嫌いなものに対しては一切の妥協をせず、徹底的に冷たい態度を取る。日頃から隠さず持ち合わせている鋭利さを、嫌悪の情に任せて向けることもためらわない。眼光の鋭さとも相まって、先輩を怖れている人、疎んでいる人も大勢いる。私の知る限り、先輩の交友関係はごく狭い範囲に留まっているけど、それを先輩本人が気にする様子は全くなかった。
 そんな鳴海先輩の、俗っぽい言い方をすれば『彼女』である私は、他の人たちからすると物好きの変わり者ということになるらしい。もっとも、私自身は物好きでも変わり者でもないつもりだし、たとえ他人からどういう評価をされようとも先輩を想い続ける気持ちは変えようがない。先輩の抱く目標が作家になることならば、私の夢はそんな先輩をいつまでも、いっそ人生単位で支えていくことだった。
 それならば来る四月二十九日、鳴海先輩の誕生日についても、何もしないというわけにはいかないだろう。相手の誕生日を祝うという行動は彼女にとって義務でもあり、権利でもある。交際一年目の去年は何もできなかったので、今年こそまともなお祝いをしたいと思っている。
 しかしながら、先輩のような気難しい人に喜んでもらえる祝い方を考えるのだってそうたやすいことでもなかった。好みにうるさい先輩は、彼女が贈ってくれたものだからといって、こだわりを捨て愛用してくれるような寛容さを持ち合わせていない。こちらとしても差し上げた品が役に立てずに終わってしまうのは寂しいから、どうせなら喜んで貰える物を贈りたい。先輩のお誕生日を祝いたい私の気持ちが、先輩にもちゃんと伝わるように。
 そこで私はあれこれ悩んだ挙句、その難問を当の本人へぶつけてしまうことにした。

「先輩、質問があります」
 座卓を挟んで向かい側にいる先輩に、タイミングを見計らって持ちかけた。
 読書をしていた鳴海先輩は視線を上げ、形のいい眉を寄せる。
「どうした、改まって」
 私が訪ねてから長らく、この部屋は静寂に支配されていた。私たちは二人でいてもお互いに黙っていることが多く、そんな時に流れる空気はとても穏やかで居心地がいい。だけど一度会話が発生して、先輩が私へ視線を留める時、私は決まって緊張を覚える。穏やかな時間を壊してしまうことに対する罪悪感なのだと自覚している。
 先輩が暮らすこのアパートの一室に、私は去年から入り浸るように通っていた。きれい好きな鳴海先輩は常に室内を清潔に保ち、床の上に何かを放っておいたり、机の上を散らかしておいたりしない。本棚の本はいつも行儀良く並んでいるし、クローゼットの扉は封印されているかの如くぴたりと閉められているし、玄関と居室の間にある台所はいつでもきれいに片づいている。寝具の類はいつ訪れても見当たらないので、もしかすると先輩は毎夜机に向かいながら眠っているのかもしれない、とさえ思っていた。とにかくどこもかしこもちり一つなく、何もかもが定位置に収められたこの部屋は集中の妨げになりそうなものも存在せず、いつも静かに過ごせた。集中を妨げるのはただ一つ、私と先輩、お互いの存在だけだ。
 そして今も、私は先輩の読書のひとときに割って入った。邪魔をしたことに後ろめたさを抱きつつも、ちゃんと用件があるのだからと思い直し、自らを奮い立たせた。
「是非、先輩のご意見を伺いたいのですが」
 切り出した私を見て、先輩は本を閉じ、居住まいを正した。
「何だ」
 私も合わせて姿勢を正すと、座卓越しに先輩の顔を見上げる。
「来週の日曜日は、先輩のお誕生日ですよね?」
 すると先輩はもう一度眉根を寄せ、自分の机の上に置いてある卓上カレンダーに目をやった。直後、驚いたようにその目を瞠った。
「そう言えばそうだったな」
 平坦な声が発せられたので、私は予想外の反応に戸惑う。
「もしかしてお誕生日をお忘れでしたか」
「いや、先月までは覚えていた。国民年金の照会が来ていたからな」
 先輩は愛想のかけらもない口調だった。覚えていた理由も味気ないというか、この人らしい。
「お前、よく覚えていたな」
 薄い唇から紡がれる無感情な言葉は、どうやら私を誉めてくれたらしい。ただあまりにも抑揚のない声だったので、察するところ、自分の誕生日に思い入れがないのだろうと私は思う。先輩は、ご自身の価値観から判断した些事に関しては驚くほど無頓着な人だった。
 困惑したものの、とりあえず話を続けることにする。
「先輩、もうすぐ二十歳になるんですよ」
「そうだな。年金手帳が届いたら、手続きを済ませてこよう」
「いえ、それもありますけど」
「他に何かあるのか?」
 そこで先輩は推し量るように私を見て、やがて牽制するように言ってきた。
「では、選挙権についてか? 残念だが俺は、お前と政治の話をする気はない」
「……私もあまり、その気はないです」
「そうか。ならいい」
 ほとんど表情を動かさずに応じる辺り、あくまでも先輩にとっては、国民の義務と権利だけが関心事のようだ。
 誕生日が嬉しくはないのだろうか。百歩譲って喜ばしくはなくとも、一つ歳を重ねるという事実に何がしかの思いや心動かされることが、先輩にはありえないのだろうか。私に恋人としての義務と権利が与えられるかどうか、雲行きが怪しくなってきた。
 だけど、権利とは戦って勝ち得るものだ。
「先輩」
 私は急き込んで告げる。
「できれば先輩のお誕生日のお祝いをしたいんです」
「要らない」
 それよりも素早く先輩が答えた。
 予想できていたとは言え、つれない回答だった。
「駄目……でしょうか?」
 恐る恐る尋ねてみる。即答で却下されたからと言って諦めるわけにもいかない。
「先輩にご迷惑はかけませんから」
「迷惑かどうかの問題じゃない。俺の誕生日なんて祝ってどうするんだ」
 先輩の表情は実に訝しげだ。
 どうするも何もないと私は思う。大好きな人を祝いたい気持ちがある、それだけで理由としては十分なはずだった。今年は特に、去年何もできなかった分まで含めてお祝いがしたい。たったそれだけのことなのに。
「せっかく節目のお誕生日ですし、私もお祝いしたいんです」
「要らないと言っている」
「何かさせてください」
「何もしなくていい。その方がありがたい」
 私と先輩の意見は平行線を辿るばかりだ。静けさを共有している時はとても近くに感じられるこの人が、意見のぶつかる時にはまるで遠い存在に思えるのが不思議だった。
 こんな風に時々、何を考えているのかわからなくなって、その度に私は先輩の胸中をあれやこれやと推理する羽目になる。そして先輩はその推理に対する正答を教えてはくれないし、便宜上は彼女と呼んで差し支えないはずの私にも酷くつれない時がある。
 かと言って、常に冷たいばかりの人ではない。生真面目で無愛想、神経質なほど潔癖で、気位の高い人だけど、一緒に過ごす時間は温かく、とても優しい。それが鳴海先輩という人だ。
 私にとっては誰よりいとおしく、大切で、そして目標となる人でもある。だけど他の人から見れば、そして先輩ご本人から見ても私は、およそ珍しい限りの物好きということになるらしい。
 今もきっと先輩は、私のことを他人の誕生日ごときで大騒ぎしたがる浅はかな物好きだと思っているのだろう。それなら貫くまでだと、私は開き直って打ち明けた。
「ずっと考えていたんです。先輩のお誕生日には私から、何かお祝いはできないかって。それで……」
「それでさっきから難しい顔をしていたのか」
 腑に落ちた様子で先輩が呟く。
 気取られていた事実に私はうろたえた。思案に傾げた頭の中身まで見抜かれたわけではないだろうけど、他でもない鳴海先輩のことばかり考えていたから、本人に指摘されると落ち着かない心地だ。
「気づいていたんですか」
「何か考え込んでいるようには見えていた」
「先輩は読書に夢中で、こちらを見ているとは思いませんでした」
「たまたま目に留まっただけだ。ページをめくる合間にな」
 素っ気なく言って、先輩は首を竦めた。そしてそのままの無愛想なトーンで、
「そんなくだらないことで頭を悩ませることもない」
 私の思案を切り捨てる。
「いいえ、くだらなくないです」
 こちらとしても考え抜いた末の提案なのだし、今更そう易々と退くことはできない。とことん食い下がるつもりでいた。
「だって、他でもない先輩のお誕生日ですよ」
「だから何だ」
「去年は何もできなかったから、今年は何かしたいと思うんです」
「どうしてそうなる。去年は何もしなかったんだから、今年も何もしない。それでちょうどいい話だ」
 ちょうどよくない。
 先輩の物言いからすると、来年以降も特別なお祝いはいらないと言うことにならないだろうか。来年、二十一歳の誕生日も、再来年の二十二歳の誕生日も、この先ずっとお祝いを許してもらえない予感がする。それでは困る。お祝いの前例を作り、毎年の誕生日祝いが当然だと思って貰わなくてはならない。
 ――先輩も、この先もずっと、私と一緒にいたいと思ってくれるならの話だけど。そうではない可能性は、今は考えたくなかった。
 私は不満と不安を抱えつつ、違う方向から攻めてみることにした。
「でも、先輩は去年、私の誕生日を祝ってくれましたよね。プレゼント、いただきましたけど」
 すると先輩の眼差しが一瞬だけ泳ぎ、にわかに動揺したように見えた。
 私の誕生日があった去年の十月、先輩は私の為にわざわざ贈り物をしてくれたのだ。放課後、私を東高校の校門前で待っていてくれた。そして私の欲しい物を尋ね――と言うよりほぼ無理矢理聞き出すようにして、そのとおりの品を贈ってくれた。
 あの時に貰ったアクセサリーは、あまりにもったいなくて、机の引き出しにしまい込んだままだった。あの時の気持ちが嬉しかったからこそ、私は何もせずにはいられないと思っていた。今年こそは私も先輩の誕生日を祝いたい。
 だけど先輩はかぶりを振り、こう主張した。
「それは俺の方が年上だからだ。そのくらいの気は遣う。だが年下に気を遣われるのは嫌だ」
 どこまで頑固な物言いだろう。私はむっとする。
「年少の者は年長者を祝ってはいけないという決まりがあるんですか?」
「決まりはない。が、年下がわざわざ気を遣う必要もない。無理はするな」
「無理はしません。私にできる範囲でのお祝いなら構いませんか?」
 私が畳みかけると、先輩は少し迷うように目を伏せた。
 そしてややもせず口を開き、
「お前は来月、修学旅行があるんじゃないのか」
「え……まあ、あの、そうですけど……」
 今度は私が言いよどんだ。
 東高校の卒業生である先輩は、母校の行事予定もちゃんとご存知のようだった。三年生は五月の半ばに修学旅行に出かける。私たちの年度も他の年と同様、来月に修学旅行を控えていた。
「旅行に備えるなら、あまり散財しない方がいい」
 年長者らしい言い聞かせるような口調で言われると、私は反論の言葉を探すのが難しくなる。
「それは、そうかもしれません。でも」
「でも、何だ」
「ええと……そのくらいの予算は前もって組んでありますから」
「予算か」
 先輩が低く笑った。
 呆れたような視線を向けられ、思わず俯く。それでもぼそぼそと言い返した。
「本当です。以前から、今年こそはお祝いしようと考えていて」
「そんなに前から考えていたなら、なぜ話してくれなかった」
 そして先輩は、冷たい笑顔のままで続ける。
「気遣いは無用だとはっきり言ってやったのに」
 だから今まで黙っていたんです。
 事前に相談したところで、先輩は絶対にいい顔をしないだろうとわかっていた。まさかここまで拒まれてしまうとは思ってもみなかったけど。
 私はいよいよ挫けそうになってきて、恨めしく先輩を見る。
「プレゼントくらいはさせてください」
「気を遣うな」
 一蹴。短い言葉で、素気無く先輩は拒絶した。やはり入り込む隙がない。
 気まずい空気のまま、しばしお互いに黙り込む。

 私は明るく日の差す窓に目を向けた。
 四月の半ば、昼間のうちはぽかぽかと暖かく、よく晴れた過ごし易い日が続いていた。こんな穏やかな季節に先輩が生を受けたなんて、とても素敵な運命だと思う。木々が芽吹き、爽やかな風が吹いて、服も心も軽くなり始める時季。色とりどりの花が次々と咲き始め、いくつもの命が、そしていくつもの心が生まれる季節が今だ。
 降り注ぐ日差しも優しい四月を、私もいつになく優しい気持ちで迎えていた。でも先輩は他の季節と変わりなく過ごしているように見える。先輩にとってこの時季は、特別の感慨もなく受け流してしまえるものなのだろうか。それとも私が知らないだけで、先輩でもひっそりと悟られないような感慨深い思いを抱くことがあるのだろうか――。

 そっと視線を戻すと、ちょうど先輩もこちらを見た。
 目が合うと作ったような仏頂面が浮かんで、先んじるように言ってくる。
「諦めがついたか」
 まるで私の方が駄々を捏ねているような言い種だ。頑固さで行けば先輩の方が数倍勝っているくらいなのに。お蔭で私も必要以上の強硬さを発揮しなければならなくなる。
「いえ、諦めきれません」
 語気を強めて私は言い、即座に尋ね返した。
「先輩は、それでは二十九日は一体どのように過ごすおつもりですか」
「所用で大学に顔を出す」
 特に手帳を確かめることもなく、先輩は答えた。
「大学……。もしかして先約がおありでしたか?」
「いや。本当に用があるだけだ」
 用と言われてしまえばそれまでだけど、そんな日に何か予定があるなんて、たとえ先輩のような生真面目な人でも気になってしまう。
 口を噤む私を見てか、その後で先輩は少し面倒くさそうに付け足してくる。
「特に祝う予定はない」
「ないんですか。あの、全くですか?」
「全くだ」
「ご実家に帰る予定は……」
「それもない」
 お盆や年末年始には実家に帰っている先輩も、誕生日には帰らないつもりのようだ。せっかく誕生日が週末にある年だというのに、それも二十歳になる節目の誕生日なのに、本当にたった一人で過ごす気でいるのだろうか。
「誕生日だからと言って大騒ぎする必要もないだろう」
 淡々とそう言って、先輩は小さくかぶりを振った。
「お前も余計なことは考えるな。俺もいつも通りに過ごすつもりでいる」
「でも……」
「気を遣われるのは好きじゃない」
 きっぱりと拒絶され、取りつくしまもなく私は押し黙った。
 気を遣っているつもりはない。あくまでも私がそうしたいから、先輩のお誕生日を祝いたいと言っているだけだ。その心はどうすれば伝わるのか。
 できるなら先輩の望むように、幸せな日になるよう祝いたかった。だけど先輩が望んでいない場合は? 先輩が誕生日を気にかけるそぶりがないのなら、私はどうするのがいいのだろう。
 せめて一人、何事もないように過ごす日にはして欲しくない。
「……ではその日、空いてる時間はありませんか」
 思い悩んだ末、進退窮まった私は恐る恐る持ちかけてみた。
 先輩が片眉を上げる。
「用事は昼過ぎには済む。午後からなら空いてはいるが、……何をする気だ」
「修学旅行の買い物をしたいと思っているんです。実は旅行鞄がなくて」
 嘘ではなかった。今年就職した兄が家を出ていく際、共用していたドラムバッグを持っていってしまったのだ。だから新調しなくてはいけないのは本当で、私は全く嘘はついていない。
 ただし、嘘ではないだけで、口実ではある。
「ちょっと見て歩きたいので、先輩にも付き合っていただけたらうれしいです」
「駅前の方か?」
「はい」
「それなら付き合ってやってもいい」
 まず間違いなく『デートだ』とは思っていない口調で先輩が答えた。
 そして私は胸を撫で下ろす。
「いいんですか? ありがとうございます」
「そういう必要なことだけに予算を使うべきだ」
 だけど先輩はそこで、私の真意を見抜いたように釘を刺してきた。
「俺に何か寄越すよりも、自分の為に金を使え。その方がよほど有意義だ」
 私は無言で澄ましておいた。
 約束をした日曜日には、当然ながらカバン以外の物も買うつもりでいたけど、そのことはまだ秘密にしていなくてはならない。幸い、先輩を買い物に連れ出す口実は有効に働いた。既に真意を見抜かれているとしても、何も言われないうちは素知らぬふりをしていよう。
 先輩のお誕生日を祝う権利はなくても、せめて贈り物だけでもできたら、と思っている。今はひっそりと、悟られないように。
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