私だけの旋律

 街に光が点り、今年も十二月がやってきた。
 私と鳴海先輩にとってのクリスマスは、音楽を聴きに行く日と決まっている。毎年、大槻さんの楽団のコンサートがあるからだ。

「そういうわけで、今年もよろしくお願いします!」
 大学の食堂に私と先輩を呼び出すなり、大槻さんは深々と頭を下げた。
 なぜかと言うと、クリスマスコンサートに際して楽団員にはチケット販売のノルマがあるそうだ。そこまで大きな金額ではないものの、大学の楽団とあっては交友関係も被りがちのようで、大槻さんも毎年捌くのに苦労している。
 つまり私と鳴海先輩は現在、大槻さんの大事な顧客となりつつあるのかもしれない。
「そんな、やめてください」
 だけど私は慌ててそれを制止する。
「頭を下げていただく必要なんてないです。私も先輩も、当然伺う気でいましたから」
 ね、先輩と隣を見れば、鳴海先輩は肩を竦めていた。
「こんな機会でもなければ、音楽なんてまともに聴かないからな」
 そう。私たちにとっては実に貴重な機会だ。
「ええ……君はもうちょっと音楽聴こうよ、日常的に」
 大槻さんは顔を上げ、呆れたような目をする。

 私も鳴海先輩も、コンサートやライブなどには全く縁遠い人間だ。
 そもそも読書家に音楽はあまり必要ない。私は勉強をする時、気が向いたら部屋でかける程度だったし、鳴海先輩に至ってはあの部屋にオーディオの類が存在しない。携帯電話こそ持っているけど、それで音楽を聴いている様子も皆無だった。

 一方の大槻さんは、音楽をこよなく愛している人だ。
 三度の飯より音楽が好き、とまで言い切るほどで、とにかく日常的に音楽を浴びている。話題の新譜は必ずチェックしているし、クラシックやジャズにも造詣が深い。まさしく鳴海先輩の対極にある方だ。

「音楽のない生活って味気なくない?」
 と、大槻さんは鳴海先輩に疑問を呈した。
「想像してごらんよ、世界から音楽が消えたら静かすぎるし、つまんないだろ?」
 そういう言い方をされたところで先輩が同意を示すはずもなく、返した答えは素っ気なかった。
「なければないで一向に構わん」
「嘘だろ……音楽のない静寂に満ちた世界なんて寂しすぎるじゃん」
「音楽が消えたからと言って、音がないわけではないからな」
 鳴海先輩は至って冷静に続ける。
「俺の部屋には音楽プレイヤーもテレビもないが、決して静かではない。朝には鳥の声がするし、外の道を通る人の足音も、時たま走り抜ける車の音もする。晴れた日には遠くの信号機の音響も聴こえるし、雨の日には雨音が聴ける。味気ないなどと思ったことはないな」
 口調は淡々としていたけど、文学青年的な、素敵なお言葉だと思った。
 密かに感銘を受ける私とは対照的に、大槻さんはこめかみを揉みほぐしている。
「そういうことじゃないんだよ鳴海くん。音楽ってのはさ……」
「なくても困らないものだ」
「困るよ! 気分上げたり集中したり、純粋に楽しんだりさ……ああもう、何でわかんないかな」
 思うに、お二人の議論をこのあと何時間続けようと平行線を辿るのは確実だろう。

 もっとも私個人の意見としては、音楽のない世界はやはり寂しいと思う。
 例えば今は十二月、街中には賑やかなクリスマスソングが至るところで流れている。
 このBGMは気分をクリスマスへと向けさせる役目に一役買っているだろうし、聴けば気分が浮き足立ってくる。もしもクリスマスソングが流れなくなってしまったら、雪降る街並みも点されたイルミネーションも、どこか寒々しく映ってしまうことだろう。
 私はクリスマスソングが好きだった。
 特にウィンターワンダーランドがいい。一昨年贈ったクリスマスカードの、思い出の曲だからだ。

「こうなったら是が非でも聴きたいな、鳴海くんが歌ってるとこ」
 私が思い出を手繰っている間に、大槻さんはそういう方向に舵を切ったらしい。
 すかさずこちらに水を向けてきた。
「ね、雛子ちゃん。鳴海くんの歌聴きたくない?」
「そうですね。それは是非」
 一も二もなく頷けば、鳴海先輩は愕然としたようだ。
「お前は大槻の肩を持つのか?」
「肩を持つっていうか……だって先輩の歌声、気になりますよ」
 鳴海先輩は低音の魅力溢れる美声の持ち主だ。
 この声を聴けば誰だって、さぞかし歌も上手いのだろうと思うだろう。
 それに鳴海先輩だって高校時代には音楽の授業で歌を歌っているはずだった。東高校には合唱コンクールもあったし、クラスメイトたちは傍で先輩の歌声を聴けたのだろうと思うと羨ましくて仕方がなくなる。私だって聴いてみたい。
 だけど先輩は、一度として私の前で歌ってくれたことはない。
「歌なんて歌う機会がどこにある」
 と言い切るように、鳴海先輩はたとえ上機嫌の時でも歌を口ずさんだりはしない。そもそも目に見えて上機嫌の先輩自体、かなり稀少ではあるけど。
 大槻さんは諦めずに食い下がる。 
「今度カラオケ行こうよ、マジで」
「嫌だ」
「一曲だけでいいからさ。ほら、有島くんたちも誘って」
「絶対に嫌だ」
「格好よく歌えば雛子ちゃんも惚れ直すよ?」
「それ以上言ったらチケットを買うのをやめるぞ」
 最終的に先輩は、恫喝という手段で大槻さんを遮ってしまった。
 間違いなく惚れ直すのに、大変残念に思う。

 ともかく大槻さんが折れたので、私と先輩は無事クリスマスコンサートのチケットを購入した。
 そして十二月二十四日、二人で一緒にコンサート会場へ足を運んだ。
 楽団の演奏は今年も素晴らしく、奏でられるクリスマスソングの数々には私だけじゃなく、鳴海先輩ですら聴き入っていたようだ。ステージ上でファゴットを吹く大槻さんもタキシード姿が決まっていて、鳴海先輩が感心したように眺めていたのも印象的だった。

 その夜、私は鳴海先輩の部屋に泊めてもらった。
 二十四日が日曜で、翌日は大学に行かなければいけないから――というのはただの口実だし、その日がクリスマスイブだったからというのだって、言ってしまえば口実に過ぎない。
 鳴海先輩が言うには、寒いから、だそうだ。
 雪がちらつく寒い夜に、たった一人で家まで帰るのは確かに辛いことだった。

 翌朝、私は鼻先の冷たさで目を覚ました。
 昨夜の寒さを持ち越したように、朝日差し込む部屋の空気は冷え切っていた。ベッドには先輩の体温がなく、代わりに台所からお湯を沸かす音が聞こえてくる。暖房が稼働している音もするから、鳴海先輩もついさっき起きたばかりなのかもしれない。
 私は手探りで枕元の眼鏡を掴んだ。
 そしてレンズ越しに窺えば、台所には確かに先輩の背中が見えた。鳴海先輩の冬のパジャマはダークグレーのスウェットで、そういうところに先輩の人間らしさを感じて一層いとおしくなる。
 しばらくその背を見つめていれば、やがてお湯が沸いたようだ。先輩がガス台の前に消え、湯気の立つやかんを手にまた戻ってきて、ゆっくりとコーヒーを淹れるのが見える。遠くから馥郁とした香りが漂ってきた。

 その後で私は、音楽のない部屋で歌を聴いた。
 ごく抑えた、微かな歌声だった。歌詞はなく、鼻歌だけだった。この部屋で初めて聴く歌にしては思ったよりも明るく、幸せそうな曲だった。
 先輩が、歌を口ずさんでいる。

 コーヒーを入れる背中から、当たり前だけど表情は見えない。
 だけどあれほど嫌がっていた歌を歌うほどだ。きっと今朝はとびきり機嫌がいいのだろう。
 耳を澄まさないと拾えないほどの声量で、だけどあの美しい低音が、確かに旋律を奏でている。
 曲名は私にもわかった。昨夜のコンサートでも聴いたあの曲だ。
 ウィンターワンダーランド。

 しばらくの間、私はベッドの中で身じろぎもできず、先輩の歌に聴き入っていた。
 そのせいで油断していた。コーヒーを淹れ終えた鳴海先輩が振り返り、そこでばっちり目が合う。
 先輩がその目を瞬かせている間に、私は慌てて布団に潜った。
 もちろん、遅かった。
「なぜ隠れる」
 そう口にするが早いか、先輩はベッドまで歩み寄ってくる。
 そして片手で布団をめくると、中にいた私を覗き込んだ。
「寝たふりをするのに眼鏡をかける奴があるか」
「だって眼鏡がないと何も見えないんです」
「どんな面白いものを見てたんだ」
 片手にカップを持った先輩が、薄く笑うのが見える。
 この部屋で何よりも興味深いものなんて、当然ながら鳴海先輩以外にない。
 だけど今はそれ以上に気になることがあり、私は横たわったまま尋ねた。
「先輩も歌を歌うことがあるんですね」
 その時、鳴海先輩はポーカーフェイスを貫こうと試みたようだ。
 でも思うようには上手くいかず、気まずそうに首を竦める。
「聴こえていたか」
「はい。とてもお上手でした」
「つまらんお世辞はよせ」
「本当ですよ。私、先輩の声はとてもいいと思います」
 私は心から誉めたつもりだったのに、鳴海先輩はお気に召さなかったらしい。
 コーヒーを一口啜ってから、話を逸らすように切り出した。
「紅茶を入れてやろうか」
「いただきます。それと歌も、アンコールを」
「それは駄目だ」
 きっぱりと拒んだ先輩が、コーヒーカップを座卓に置く。
 それから空いた手を伸ばし、私の眼鏡の上、前髪を払うように額を撫でる。
 指の長い手はひんやりしていて、優しかった。
「あの曲は耳に残る。つい口に出た」
 鳴海先輩はそんなふうに弁解をした。

 それは昨夜のコンサートで聴いたからだろうか。
 あるいは、クリスマスカードのせい、だろうか。

 どちらにしても私は、随分と貴重な機会にめぐり会ってしまったようだ。
 これがクリスマスの奇跡だというなら、なんて素敵なことだろう。
「サンタクロースの贈り物、ですね」
 私が言うと、鳴海先輩は心外そうな顔をする。
「こんな稚拙な歌がか? それよりもっといいものがある」
 稚拙だなんて、私はちっとも思わなかったけど。
 鳴海先輩はクローゼットを開け、きれいな水色のカーディガンを取り出した。そして私の上体を起こすと、明らかに女物の真新しいカーディガンを肩に羽織らせてくれた。
「ありがとうございます、先輩」
 私は隣に座った先輩にそっと身を寄せる。
 まだ部屋は暖まっていないけど、とても温かいクリスマスの朝だ。
「私のサンタさんは歌がとても上手です」
「その話はいい。今日はもう歌わんからな」
「じゃあ、またいつか歌ってくれるんですか?」
 私の問いに、鳴海先輩は黙って肩を抱き寄せる。
 音楽のない部屋にしばらく心地よい沈黙が続いて、その後で、
「だったらお前が歌わせてくれ」
 低音の美声が静かに響いた。
「幸せな日には、またあの歌を口ずさみたくなるかもしれない」

 そういうことなら、いつか私は、また先輩の歌声を聴くことができるだろう。
 私だけの旋律。先輩が歌う、幸せな冬の日の歌を。