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師走(2)

 クリスマスカードは年賀状とは違い、クリスマス当日に着かなくてもいいらしい。
 むしろ早めに送って、その人の手元やツリーのオーナメントとして飾ってもらうという風習もあると聞いた。
 だから鳴海先輩にも、できるだけデザインのきれいなものを選んで送ろうと思った。早めに投函して無事届いたら、あの整頓された飾り気のない部屋のどこかへ飾ってもらえたらいいんだけど。モノトーンが好きな先輩の部屋にクリスマスカラーがどこまで馴染むかはわからない。でも馴染まない方がかえって、この季節の為に用意されたものという感じがするような気もする。
 考えてみたらクリスマスというのは二十四、二十五日だけが楽しいのではなく、その日を迎えるまでの準備期間だって楽しいものだ。街がイルミネーションに彩られ、至るところでクリスマスソングが流れるようになると、特別思い入れのない私でも気分が自然と浮かれた。
 小さな頃は家に飾られたアドベントカレンダーを兄と二人、毎日競い合って開けていたし、本当にサンタクロースが来てくれるか、私の欲しい本をちゃんと買ってきてくれるか、やはり毎日のように気にしていた。今はさすがに、たまに書名を間違えて違う絵本を買ってきたサンタクロースの正体を知っている。知ってしまった七年前から、私の枕元にサンタクロースがやってくることもなくなった。それでも子供の頃に味わった日々募る期待感、待ち遠しくてじれったくなるような気分、そして温かい幸福は私の心に染み込んで、十八になった今でもちゃんと覚えている。
 そういった日毎わくわくする気持ちを、今年は鳴海先輩と共有してみたかった。
 去年のクリスマスは確かに幸せだったけど、直前までの期待感はゼロに等しかった。鳴海先輩がまさか私を、イブに誘ってくれるとは思いもつかなかったからだ。今年は一緒に出かけることもできないけど、だからといって不幸せではない。去年以上に、私の心にはいつでも先輩がいるし、先輩の心の中にも私が、どうやら高頻度で存在しているらしい。そんなふうに想い合って迎えるクリスマスが幸せじゃないはずがない。

 なるべくよく晴れた暖かい日を選んで、私は駅前にある文具店へと足を運んだ。
 本当はもっと大きなお店に行きたかったけど、放課後に寄り道をするなら駅の近辺がぎりぎりの範囲内だった。遠出をすれば明るいうちには帰れなくなってしまうし、ただでさえ風邪が流行っているのだから人の多いところをふらふら歩いてもいられない。日が差していても街中を吹きつける風は冷たく、私はマフラーに鼻まで埋もれるようにして、身を竦めて歩いた。
 文具店のガラスのドアは、クリスマスカラーのジェルステッカーと金ぴかのモールで飾られていた。ドアを開けた途端に陽気なクリスマスソングが溢れてきて、私も浮かれ気分でお店の中へと入る。
 シーズンだけあって、クリスマスカードのコーナーはレジ前の目立つところに用意されていた。それほど大きくない店だったけど、品揃えは意外にも悪くなかった。少なくとも可愛いものが好きな女の子にとっては目移りするような棚構えだ。うきうきしながら、有線放送のメロディを時々口ずさみそうになりながらも、いくつか見て歩いた。
 開くとスノーマンが起き上がってくるポップアップカードは、降り積もった雪をちかちかしたラメで表現していてとてもきれいだった。カットワークのように繊細な切り抜き細工のカードは、雪の結晶の形の美しさに惹かれてしまった。キャンドルの点るツリーを描いたスタンド式のカードは温かみのあるイラストで、机の上に飾っておくならこれがいいと思う。開くと電子音でクリスマスソングが流れるタイプのカードも、定番ではあるけど、いかにも『らしい』感じがして捨てがたい。
 人に送るものであれば私の趣味だけを優先するわけにはいかない。鳴海先輩はモノトーンが好きな人だし、二十歳の成人男性でもある。そういう人に見合ったカードを選ぶのはなかなか難しく、少し妥協すれば今度は候補が増えすぎて決めかねるという始末だった。先輩なら何を送っても同じ反応をしそうな気がするし、でも美しいものが嫌いな人では決してない。ただその感性に響くような品は、私が可愛いと思うものたちの中にあるだろうか。
 クリスマス一色に染まった店内でかれこれ三十分以上迷った挙句、私はようやく一つのカードを選び、それをレジへと持っていった。
 購入した後も少しの間、これでよかったかな、他のもよかったかもなとしばらく自問自答してしまったけど、今年買わなかった分は来年買えばいいと思い直す。私たちには来年だってあるし、その先もあるはずだった。今年叶わなかった楽しみは、また来年以降に叶えればいい。鳴海先輩ならきっと、私のわがままにも付き合ってくれるだろう。

 文具店を出た後、私は帰宅する為に駅へと足を向けた。
 改札を抜け、ホームに出て電車を待つまでの間、携帯電話をチェックする。と、メールの受信を知らせるランプが点滅していた。開いてみるとそれは鳴海先輩からで、日中にメールなんて珍しいと思った私は、次の瞬間その文面に釘付けとなった。
 ――風邪を引いた。しばらく連絡はできないが、心配は要らない。
 先輩からのメールにはそうあった。
 私はたっぷり時間をかけて、そのたった二文のメールを熟読した。筆者の気持ちを考えて答えよ、という文章題を解くような気分でつぶさに読んだ。でもすぐに、筆者の気持ちどころか、自分の気持ちさえ見失うほど混乱をきたした。
 鳴海先輩が風邪を引いた。
 それは、果たしてどの程度の風邪なのだろう。重いのか、軽いのか。軽い風邪ならしばらく連絡はできない、などと言って寄越すことはないはずだ。もしかしたら既に高熱を出していたり、寝込んでいたりするのかもしれない。
 でも慎重な先輩のことだ、引き始めだからこそ用心してしばらく養生に専念しようと思い、こうして連絡をくれたのかもしれない。心配は要らないともある。
 でも、先輩の性格なら、私に心配をかけまいとしてあえて軽く見せかける場合も考えられる。こと自分については口が重い人だから、辛い時にそうと言ってくれなかったりもする。まして今の私は受験生だから、下手なことを言って見舞いだ看病だと押しかけるようなことになってはまずいと、機先を制して対策を打ったとも考えられる。
 でも。短いメールとは言え、誤字脱字もないし要点もわかりやすい。寝込んでいる人にこんなメールが打てるだろうか。やはり病状は軽いのだと思いたい。
 でも――。
 電車を待つまでの数分間で、私の頭はぐるぐると堂々巡りを続けた。間もなく電車が参ります、というアナウンスがかかると、とっさに指が動いてメールを打っていた。
 ――何か、私にできることはありますか?
 送信してから、余計なことを言っただろうかと少し後悔した。先輩がせっかく『心配は要らない』と気を遣ってくれたのにあんな申し出をしては、更に気を遣わせてしまうかもしれない。また、連絡はできないと言った相手に返事を催促したようなのもよくなかったと思う。だけど、いても立ってもいられない気持ちだった。もし私にも何かできることがあるなら、先輩が助けを必要としているなら、何かしたい。
 先輩からの返信は電車を降り、家路を辿り、帰宅した後ようやく届いた。
 ――特にないから心配するな。治ったらまた連絡する。

 それから一週間、鳴海先輩からの連絡はなかった。
 そして私はその間、じりじりともどかしい思いで過ごしていた。
 三日目くらいまではまだ、心配はしつつも連絡を待とうと落ち着いて考えていることができた。四日目を迎えると気になって堪らなくなり、授業中や勉強中はおろか、お風呂に入る時でさえ携帯電話を傍に置いていた。それでも先輩からの連絡はないまま、一週間後の放課後を迎え、私の頭は悪い想像で溢れ返ってしまった。
 以前の先輩なら一週間どころか、まるまる一ヶ月以上連絡のないことだって珍しくなかった。だけど携帯電話を持つようになり、メールをくれるようになってからは最低でも三日おきくらいに連絡をくれていた。風邪を引いている時に電話ができないというのはわかる、でも一週間もメールすら打てないというのは、養生に努めているから、だけではないような気がしてくる。考えすぎだろうか。
 不安なことはもう一つある。
 先輩は、一人暮らしだ。
 私は風邪を引いても両親がいるから面倒を見てもらえるし、万が一倒れたりしても気がついてもらえる。だけど先輩はどうだろう。風邪を引いたらのど飴や栄養ドリンクなどが欲しくなることもあるだろうし、家にこもっていればそのうち冷蔵庫だって空になる。そんな時、買い物に行きたいのに出歩けなくて、困っていたりはしないだろうか。病院に行きたくても歩行さえままならず、一人苦しんでいたりはしないだろうか。あるいは部屋の中で倒れてしまって、誰にも気づいてもらえないままだったりとか――。
 悪い想像は留まることを知らず、ついには私を衝き動かした。
 鳴海先輩の部屋を訪ねてみようと思い立った。

 とは言え、先輩がせっかく私の状況を慮ってくれたのに、事前連絡もなしに押しかけるというのはどうだろう。先輩が倒れていると決まったわけでもなく、むしろ闘病中の一番体力の要る時に私のようなわがままかつ心配性な来客の相手などしたら、かえってくたびれるに違いない。
 だけどこちらから連絡だってしにくい。しばらく連絡はできない、治ったら連絡すると言われていたのだから、なぜ待っていなかったのかと呆れられるのが目に浮かぶようだ。この一週間、連絡をする余裕すらなかったのだとすれば、現時点での私からの連絡だって負担になるはずだった。
 なので、遠目から様子を窺うことにした。
 例えば郵便受けを確認して、そこに新聞や郵便物が溜まっていないか見てみるとか。家の中に入らなくても方法はあるだろう。なるべく先輩に悟られないよう、先輩の無事を確かめたかった。もはや彼女というよりストーカーめいた行動だと自覚しつつ、私は放課後を迎えてすぐ、先輩のアパートへ急いだ。

 粉雪のちらつく寒い日だった。
 見慣れたアパートの一階、先輩の部屋のドアを路地から、目を眇めて観察する。新聞や郵便物が溜まっている様子はなく、ひっそりと静まり返っている。中に人がいるかどうかはわからない。でもひとまず、異変が起きているようではない。
 私は携帯電話をコートのポケットから取り出し、代わりに脱いだ手袋を押し込んだ。寒さのせいで鈍い指を動かしてメールの問い合わせをしてみる。先輩からの連絡は、やはりない。
 メールを、してみようか。
 そんな考えが頭をかすめたけど、結局、止めた。先輩が連絡をくれるというのだからそれを待っているべきだと思った。最近のメールの応酬ですっかり慣れきってしまっていたけど、以前までの私たちにとって、一週間くらい連絡しないなんてごく普通、当たり前のことだった。そう考えれば心配しすぎなのかもしれない。もしかしたら、既に風邪は治ってしまったけど臥せている間に溜まった勉強や家事雑事を片づけるのに忙しく、連絡ができないだけかもしれない。
 目と鼻の先に鳴海先輩がいる。様子を確かめようと思えばできなくもない。だけど、先輩を信じようと思う。
 私は携帯電話をしまい、脱いだ手袋を再び填めた。後ろ髪引かれる思いはありつつも先輩の住むアパートに背を向け、歩き出そうとして――背後でドアの開く音を聞いた。
「また何かあったら連絡して。お大事に」
 そう話す声が続いて私は振り向く。
 同時にドアが閉まり、先輩の部屋から出てきた大槻さんの姿を見つけた。大槻さんもすぐにこちらに気づいたようだ。あ、と声に出さず口を開けた。
「あの」
 私が話しかけようとすると、大槻さんは素早く唇の前で人差し指を立てた。それから早足でこちらへ近づき、私の前に立つなり困ったように微笑んだ。
「駄目だよ、雛子ちゃん。それはさすがに、鳴海くんに怒られてもしょうがないよ」
 声を落としてそう言われた。
「……すみません」
 何もかも悟られている気がして、私は項垂れるしかなかった。確かにその通りだ。それはわかっていたのに。
「いや、心配する気持ちはわかるけどね」
 大槻さんは笑んだまま軽く肩を竦める。
「ちょっと拗らせて、長くかかっちゃったからさ。どうせあいつ、君に連絡もろくにしてないんだろ? 君が心配するのも当然だとは思うけど」
「拗らせてたんですか? そんなに?」
 思わず私が食いつくと、大槻さんは話の腰を折られたにもかかわらず、嫌な顔一つしなかった。そして頷いた。
「ちょっとね。熱は早くに下がったんだけど、喉をやられちゃったんだって。咳もまだ取れなくて辛そうにしてた」
 そこまで話した後、少し早口になり、
「ああでも、もう臥せってないし、さっき見た時は思ったより顔色もよかったよ。咳があるからあんまり話せなかったけど、俺が冗談言ったら睨んできたし、メールとかもいつもの調子だったし」
 と続けた。
 どうやら先輩の風邪は本当に酷かったようだ。治りがけらしいことには安心しつつも、今も辛そうにしているというのがまだ気になる。大槻さんとはメールをしているんだという点も、ちょっと気になる。
 それなら私にも一言くらい、連絡があってもいいのに――と思いつつ、今こうして先輩の部屋の傍までやって来た私に偉そうなことを言う権利はないだろう。こういう私の性格を見抜いているからこそ、先輩は治るまで連絡をしないつもりでいたのかもしれない。
「すみません、あの……」
 私は急に後ろめたくなり、大槻さんにまで詫びたくなった。
「どうしても、気になっちゃって。先輩には『治ったら連絡する』って言われてたんですけど、待っていられなくなって、それで、様子が少しでも知れたらって……」
「わかるよ」
 大槻さんは、言葉と表情で同時に理解を示してくれた。でもやはり、たしなめられた。
「でも、君は受験生なんだから。病人のいるところに来ちゃ駄目だ」
「はい……、すみません」
「鳴海くんだってそう思ったからこそ、君じゃなくて俺に頼んでくれたんだよ」
 そう語る大槻さんは、手にドラッグストアの袋を提げていた。私がそこに目を留めると、袋を軽く挙げてみせた。
「俺も買い物あったからさ、ついでにおつかいもしてきただけ。困った時はお互い様だしね」
 さらりと言われたけど、友人の為にそこまでできるのも立派だと思う。まして今は十二月、誰にとっても忙しい時期で、そして大槻さんは去年と同じくコンサートを控えているというのに。
 私は恐る恐る聞き返した。
「大槻さんは大丈夫なんですか。もうすぐクリスマスなのに」
「ああ、俺は風邪引かない類の人間だから」
 その言い方があまりに自然な口ぶりだったので、私は危うく納得してしまうところだった。たちまちにやりとされた。
「雛子ちゃん、今、なるほどって思った?」
「お、思ってないです。全然そんなことないです」
 大慌てでかぶりを振ったものの、大槻さんは気分を害した様子もなく、むしろ楽しそうにしている。
「別にいいよ。実際、めっぽう健康体なことだけがとりえだしね」
 前からわかっていたことながら、大槻さんはとても優しい人だ。先輩に対してもそうだけど、私に対してすら気を配ってくれて、先輩にこんなお友達がいて本当によかったと思う。
 私が感慨に耽っていると、大槻さんは気にするように一度、背後を振り返った。そして先輩のアパートに動きがないことを確かめてから、再び私に向き直る。
「とりあえず、ここから離れよっか。君も来たことばれたらまずいだろ?」
 声を潜めて提案された。
 それもそうだと私は頷く。鳴海先輩のことはまだまだ気になっていたけど、快方に向かっているという情報を得られただけでもよかった。もう少し待っていたらそのうち、連絡ももらえることだろう。私も、あまり心配しすぎないようにしないと。
 先輩のアパートを離れて、大槻さんと並んで歩き出す。するといくらも行かないうち、大槻さんが口を開いた。
「雛子ちゃんさえよければ、どっか入って少し話そうか」
 意外な提案に私が勢いよく顔を上げると、大槻さんはどこか冷やかすような口調になる。
「気になるだろ? 彼氏の病状、教えてあげるよ。鳴海くんだって他の男とお茶飲んでくるくらい、浮気だなんて思わないだろうし……いや、めちゃくちゃ妬きそうだけどさ。その時は思いきり妬かせてやればいいよ」
 今日ばかりは照れている余裕さえなかった。一も二もなく答えた。
「ご迷惑じゃなければ是非お願いします。先輩のこと、少しでも知りたいんです」
「いいよ、俺もまだ時間あるし」
 大槻さんも顎を引き、それから難しげな顔を作ってみせる。
「それに場合によっては、君の彼氏にも言ってやんなきゃいけないからね。彼女をこんなに心配させる前に、ちゃんと連絡しなきゃ駄目だろって」

 私は先輩を責めるつもりなんて欠片もなかったし、今回の件は私が心配しすぎているだけだと自覚してもいた。先輩は私に風邪がうつらないよう配慮してくれたのだし、大槻さんもそんな先輩の気持ちを汲んだ上で、私を気遣ってくれた。それがわかって自分の子供っぽさが恥ずかしくなる反面、少し嬉しい気持ちにもなった。
 先輩は一人暮らしだけど、一人ぼっちではない。その事実を確かめて、心がほんのり温かくなった。
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