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神無月(1)

 十月の初め、鳴海先輩から携帯電話を持ったと連絡があった。
 先月話していたこととは言え、こんなにも早く行動に出るとは思っていなかったので私は少々驚いた。携帯電話の料金は決して安いものではないし、まして先輩は以前から携帯電話に嫌悪感すら抱いているふうだったから、その心境の変化に私の気持ちの方がついていかない。無理をさせたのではないかと心配になった。

「本当に、よかったんですか?」
 連絡を受けた私が確かめると、携帯電話を持ったにもかかわらず自宅の電話からかけてきた鳴海先輩に噛みつかれた。
『何を今更。誰の為に持ったと思っている』
「ご、ごめんなさい。でも、本当に今更ですけど申し訳ない気もして」
『気に病むな。この程度で生活費が圧迫されるということもない』
 仕送り生活をしている先輩は、割と現実味のある言い方で私の不安を拭おうとした。
 その言葉が真実かどうかはわからないけど、普段から慎ましい生活をしている人だ。きっと携帯電話だって計画的に、無駄のないよう利用することだろう。あんまり気にするのもかえって失礼だろうからこれ以上は口にしないでおく。
『これでしばらくは顔を合わせずに済むな』
 鳴海先輩の物言いは、まるで私と会わずに済むのが幸いだというようだった。
 もちろん先輩は私の為に携帯を買ってくれたのだから、そんな先輩が私と会いたくないと思っているはずがないだろうし、言葉が足りないところも先輩らしさだと知っている。だけど今の口ぶりにはさすがに傷つく。もう少し言いようがあると思う。
「私は、先輩が携帯電話を持ってくれたことはとても嬉しく思ってます。でも、先輩と直接会う機会が減るのはやっぱり寂しいです」
 私の主張を聞いた先輩は、まるでぼやくように答えた。
『お前の貴重な時間を、俺なんかに会う為に浪費する必要もあるまい』
 そして近頃の先輩は気のせいか、やけに自虐的なことばかり口にする。先月だって、私にとって有害な人間になりたくないとか、私が思うほど尊敬できる先輩ではないとか、そんなことばかり言っていた。私が鳴海先輩に夢中になるあまり、受験勉強が疎かになるのを懸念しているのだろうとは思うものの――時々、妙に引っかかる。
 しかし、鳴海先輩は自分自身についてはプライドが高く自信家だというのに、こと私に関する事柄に関しては自信のなさや意外な奥手ぶりを発揮することがある。近頃の言動もそういった内心の表れで、そこに受験生の彼女というデリケートな存在が加わることでより過敏になってしまっているのかもしれない。私はそう解釈している。
「私にとっては先輩に会う時間だって貴重で大切で、意味のあるものです」
 語気を強めて言い切ると、私は鳴海先輩が反論するより先に続けた。
「二十二日、楽しみにしていますから」
 ちょうどいい具合に、私の誕生日は日曜だった。この日ばかりは先輩も受験生の息抜きに付き合ってくれるそうなので、久し振りのデートの約束をしている。
 休みの日に先輩と会うのは本当に久し振りだった。それこそ八月の旅行以来だ。だからなるべく楽しい時間を過ごせたらと思っているし、先輩にはあまり自虐的なことを言って欲しくない。
『どこへ行きたいか、もう考えたのか?』
 先輩が尋ねた。
「もし天気がよかったら、ピクニックなんてどうでしょう」
 どうせなら普段は行かないようなところがいい。私も鳴海先輩も、好きな場所と言えば図書館、書店、古書店と本にまつわるところばかりなので、たまには自然の緑でも見て目を休めるのがいいかもしれない。
『それでいい』
 先輩の返事も肯定的だったので、二十二日の予定はすんなりまとまりそうだった。
『しかし、もう十月だからな。身体を冷やして風邪を引かないよう服装には気をつけろ』
「わかりました」
 心配されたことが嬉しく、私は少し笑った。それからピクニックらしい提案をしてみた。
「よかったらお弁当を作っていきましょうか。サンドイッチは得意ですから」
『いや、駄目だ』
 私の提案はなぜか一蹴された。今度は笑いを引っ込めざるを得なくなる。
「どうしてですか。サンドイッチは料理じゃないからですか?」
『そういうことじゃない。お前が包丁を持って、指でも怪我したらどうする』
 先輩に気にかけてらえるのは、どんなことでも当然、嬉しい。だけどそこまで考えるのは少々過保護と言うか、心配しすぎではないだろうか。そういえば八月の旅行でも、私は結局包丁を持たせてもらえなかった。
「大丈夫です、多分。そのくらいで怪我なんてしません」
『多分では駄目だ。危なっかしい』
「万が一怪我したとしても、指先くらいならどうってことないですよ」
『勉強に差し障るだろう。俺が作るから、お前は手ぶらで来い』
 鳴海先輩は譲る気配もなくそう言った。
「先輩がですか!?」
『何を驚くことがある。俺の作ったものなら先々月も食べたはずだ』
「いえ、あの、そういう意味の驚きではなくて……面倒じゃありませんか?」
『お前に怪我をさせるよりはずっといい。異論はないな?』
 私としては、いくら料理ができる人とは言えデートの際のお弁当まで彼氏に作ってきてもらうのは、何と言うか、彼女としてどうなのだろうという思いもなくはない。
 とは言え、私の作れるものと言えばサンドイッチか簡単なお菓子くらいのものだし、先輩はきちんと自炊をする人だから技術の差は明白だ。それに正直、鳴海先輩が作ってくれるお弁当というのも見てみたいし食べてみたい。美味しいのは間違いないだろう。
「じゃあ……よろしくお願いします」
 彼女としてのプライドは、秋らしい食欲と好奇心の前にたやすく崩れた。私が頭を下げると、先輩はこちらの反応を読んでいたように素早く語を継ぐ。
『わかった。献立について要望があれば、前々日までに知らせるように』
「はい。楽しみにしてます」
 先輩のお弁当が誕生日プレゼント、というのもなかなか素敵なことだと思う。きっといい誕生日になるに違いない。早くも二十二日が待ち遠しかった。
 こっそり浮かれる私に、鳴海先輩が言った。
『ああ、俺も楽しみだ』
 近頃の先輩はこんなふうに、やけにストレートな発言もするようになった。もっとも口にしてすぐ否定したり、なかったことにしようとするところは相変わらずだけど、それでも以前よりずっと素直になってくれたような気がする。
 ただ、それでいて先程のように『顔を合わせずに済む』みたいなことも言ったりするから、私も浮かれてばかりはいられない。せめてもう少し言葉を選んで欲しい、と思うのはさすがに贅沢だろうか。
「嬉しいです。先輩も、私に会いたいと思ってくれてるんですね」
 私がそう言うと、先輩が息を呑むのが聞こえた。すぐに、
『当たり前だ。会いたくもない奴の為に携帯電話を持ったりはしない』
 口早に反論されたので、私も少しほっとする。
 大丈夫、先輩の本音は思っていた通りだ。傷つく必要はなかった。
「ありがとうございます、先輩」
『礼はいい。俺の為でもあるからな』
 鳴海先輩は言い、その後しばらく黙った。
 何かまだ言いたいこと、話したいことでもあるのかと、私は先輩の次の言葉を待った。
『……雛子』
 するとややあってから、先輩はやけに慎重に私の名を呼び、
「はい」
 すかさず私が返事をすれば、長く息をついてから続けた。
『いや、なんでもない』
 私は拍子抜けした。何かもっと言ってもらえるのかと思って、期待していたのに。
「ど、どうしたんですか? 何かあるなら言ってください」
『やめておく。くだらないことを言いそうになった』
「そういうの、私は是非聞いてみたいですけど……」
 鳴海先輩の言う『くだらないこと』には、私は大いに興味がある。
 とは言え先輩がそれを簡単に口にしてくれるはずもなく、やがて通話を締めくくるように切り出された。
『では、以後の連絡は主にメールでするように。お前の電話代も馬鹿になるまい』
「はい……でも、たまには電話してもいいですよね?」
『たまにはな。だがお前がメールを寄越さなければ、電話を持つ意味もない』
 先輩は私に釘を刺すと、今度は短く息をつく。
『それにお前がメールをくれないと、受信欄が大槻の名前で埋まってしまう』
「あ、大槻さんとはもうメール交換してるんですね」
 鳴海先輩と大槻さんは例によって仲がいいようだ。私より先にメールアドレスを交換し合っているというのが微笑ましくも、羨ましくもなる。もっとも先輩が大槻さんとの友情をはっきり認めることはまずなかった。
『ああ。あいつに店まで付き合ってもらったからな』
 そっけない言い方からは日頃の交友が窺えるというのに、つくづく素直ではない、可愛い人だ。
「そうだったんですか。やっぱり優しい方ですね、大槻さんって」
 私の言葉に、先輩は即座に反論した。
『いいや。俺は連絡先を教えなければよかったと後悔しているところだ』
「そんな、どうしてですか?」
『あいつは用もないのに中身のないメールを頻繁に寄越すから鬱陶しい。既に返事を書くのも億劫になってきた。どうでもいい内容は見なかったことにしているが、それでも数が多すぎる』
 先輩が思いのほか深刻そうに零す。
『だからな、雛子。負担にならない程度でいいから定期的に連絡をくれ。そうでないと今後、俺は着信音が鳴る度にぬか喜びする羽目になる』
「……わかりました」
 ぬか喜びする先輩の姿も見てみたいと思う私は、少々意地悪だろうか。
 とは言え現実には、鳴海先輩を辛い目に遭わせることなどできるわけがない。だから定期的にメールを送ろうと心に決めた。
 そもそもこれまでの先輩なら、『ぬか喜び』なんて心境自体、教えてくれなかったはずだ。

 こうして私と鳴海先輩は、交際一年と十ヶ月目にして初めて、メールのやり取りをするようになった。
 私としては、先輩からのメールだったらどんなものでも嬉しいし、先輩のように言葉の足りない人に短い文面でのやり取りはむしろぴったりかもしれないと思っていた。私が送った近況報告に、先輩がいつもの会話のように、そっけなくも相槌らしい短い返事を送ってくる――私たちのメール交換はそんなふうになるであろうと予想していた。
 ところが、私の想像はあっけなく外れた。
 鳴海先輩からのメールはいつも丁寧で、手紙のように美しかった。
 文頭は『冷え込むようになってきたが、風邪を引いていないか』や『ちゃんと栄養や睡眠を取っているか』などと言った私の体調を気遣う言葉で始まり、私からの近況報告に細かく答えた後は『身体に気をつけて受験勉強に励むように』と結んで返信してくれた。私が受験勉強でわからなかった点などを尋ねれば実にわかりやすく教えてくれたし、文芸部の原稿に取りかかっている場合に表現や言葉の使い方などを質問すると、やはり先輩らしい指導をしてくれた。
 だからだろうか。先輩はメールの確認こそ受信直後にしているらしいものの、返信をくれるのは帰宅後、大抵が夜の時間帯だった。
 はっきり尋ねてみたことはないものの、一度だけ『出先からメールを打つのは抵抗があるので、帰ってから返事をするようにしている』と言われたことがあった。察するところ、どうやら先輩は私宛てのメールを人前で打ちたくないらしい。その内容に普通の恋人同士のような甘い言葉が並んでいたり、一言でも好意を明言する文章があったりするわけではないのだけど――二週間ほどメールを続けてきても一度としてなかったけど、それでも先輩からの返信はいつも日が暮れてからだった。
 私はクラスの友人とは気軽に、それこそお喋りのように一言、二言のメールを送り合ったりするので、鳴海先輩からのメールには当初戸惑いを覚えた。まるで文通のようだと思ったし、こちらからの連絡もなるべく中身のあるものにしなければとプレッシャーも感じた。受験勉強や部活動について触れる内容が多いのはそのせいだ。もちろん体調についてはいつも、『おかげさまで万全です』と正直に答えていたけど、一度だけ書き忘れた日は先輩に『まさか体調を崩していないだろうな』と心配されてしまった。
 そうやって手紙のようなメールを交換し合ううち、戸惑いよりも嬉しい気持ちの方が上回るようになった。
 先輩が私宛てのメールをこんなにも丁寧に、大切に綴ってくれていることを、とても幸せだと思うようになっていた。

 そして毎日のようにメールのやり取りをしながら迎えた、十月の半ば。
 私は、初めて鳴海先輩から日中にメールを貰った。
 文化祭の文集用の原稿を書き終えた。提出前にお前の批評を貰いたいので、都合がよければ今日にでもそちらへ伺う。――そんな文面だった。
 ちょうど今日は文芸部で集まることにもなっていたから、私はすぐに『OKです』と返事を送った。
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