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睦月(2)

 合格祈願のお守りも無事手に入れた私は、先輩と共に神社を後にした。
 お昼ご飯について、私は参道に並ぶ露店で見繕うのもいいかなと軽く考えていたけど、先輩はあまりいい顔をしなかった。
「ここは人が多い。ゆっくり食事をする雰囲気ではないし、座るところもない。大体、決して風邪を引いてはいけないはずの人間が、一月の戸外で食事なんてもってのほかだ」
 反論の隙もない意見に、さしもの私も食い下がる気にはなれなかった。せっかくの露店には未練もなくはなかったけど、久々のデートだ。要は先輩と一緒に美味しいものが食べられたら何だっていい。
「ちゃんと店に入るなら、あとはお前が決めていい」
 鳴海先輩がそう言ってくれたので、私はすかさず聞き返す。
「本当にいいんですか? 私が選んだら、確実に先輩の苦手なものになりますよ」
「昼食にふさわしいメニューにしろよ」
 何かを察したのか、先輩は釘を刺してきた。
 私が決めていいと言ったはずなのに。私は笑いを懸命に堪えながら続ける。
「この近くに、パンケーキの美味しいお店があるそうなんです」
 言われた瞬間、鳴海先輩が表情を曇らせたのがわかった。だけど先輩自身、自ら言ったことを破る気にはなれないのだろう。渋々と言った様子で尋ねた。
「パンケーキか……甘くないのもちゃんとあるんだろうな」
「食事系もメニュー豊富らしいですよ。大丈夫です」
 こちらだって鬼ではない。甘い物しかないお店に鳴海先輩を誘うような真似はしない。
 私の方はと言えば甘い物を食べたい気分でいっぱいだった。三が日も最終日となればさすがにおせちやお雑煮にだって飽きてしまう。
 そのせいだろう、我が家の今日の夕飯はカレーだと聞いている。お正月気分が抜けるのが早すぎるようにも思えるけど、迅速に受験生の気分を取り戻せるようにという母なりの配慮でもあるのかもしれない。おせちやお雑煮が続いた後で食卓に並ぶカレーは、他のどんな瞬間よりも美味しく感じられるものだ。
 夕飯がカレーなら、昼食は甘い物がちょうどいい。
「じゃあ、決まりってことでいいですか?」
 私が最終確認をすると、先輩は自分を奮い立たせるように深く首肯した。
「わかった。お前が決めていいと言ったからな、ここは譲ろう」
「ありがとうございます、先輩」
 お許しもいただいたので、私は早速先輩の手を引いて、件のパンケーキのお店へ意気揚々と向かうことにした。

 お店は意外と混んでいて、席に通されるまで少し待たされた。
 私たちと同じ参拝帰りのお客さんばかりのようだ。皆、席に着くまではがっちりコートを着込んでいるし、破魔矢やお守りを手にしている人もいる。私たちも十分後、席に案内されてからようやくコートを脱ぎ、マスクも外した。
「ようやくまともに、お前の顔が見られた」
 テーブルを挟んで真向かいに座る先輩が、しげしげと見つめてくる。
 はっとして、私は慌てて前髪を直し、唇がかさついていないか指先でこっそり確かめた。でもそういった動きまで先輩は余すところなく観察しようとするから、しまいには俯いて隠したくなる。
「あんまり見ないでください」
 私が恐る恐るお願いすると、先輩はいかにも不満そうにした。
「無理だ。目の前にいられたらどうしても見てしまう」
「私も嫌ではないんですけど、さすがに恥ずかしくて……」
「仕方ないだろう。外ではずっと、マスクをした顔しか見られなかったからな」
 弁解めいた口調で先輩が言う。
 そして、照れ隠しのように付け足した。
「早く風邪の流行が収まるといいな。お前も来月まで気が気じゃないだろう」
「本当です」
 今期の風邪は性質が悪い、というのも毎年のように言われている文句ではある。
 ただ私の場合、絶対に風邪は引けないという状況だ。ここで風邪を引いて試験当日に体調を崩しでもしたら、今までの努力が水泡に帰す可能性だってある。おまけに両親を始め周囲の人々にも大変気を遣わせているので、その気遣いを裏切らないようにしようと心がけてはいた。
 その気遣いのおかげか、あるいは心がけも気の持ちようというやつなのか、私は今のところ風邪を引いてもいないし、体調はすこぶるいい。先輩からクリスマスに貰った膝掛けも、保温と体調管理に一役買っていると思う。
「先輩からいただいたあの膝掛け、とっても暖かいです。おかげで勉強捗ってます」
 お礼を言うと、先輩はわずかに表情を緩めた。安堵したようだった。
「そうか。役立っているならよかった」
「試験当日も持っていこうと思ってるんです。お守りの意味もありますし」
「変わったものをお守りにするんだな」
 先輩は私の発言に目を丸くしていた。
 でも志望校の、在校生の先輩から貰ったプレゼントなんて、最高のご利益がありそうだと私は思う。あやかれるものに何でもあやかりたいのは、この時期の受験生としては当然の心理だ。
「あ、先輩の写真でもいいかもしれませんね。文化祭の時に撮った……」
 別のお守りを思いついて私が言いかけると、それを仏頂面の先輩が遮る。
「やめてくれ。あの格好はさすが不謹慎だ」
「どうしてですか、すごく素敵でしたよ。いい心の支えにもなりそうです」
 そう言い返すと先輩は言葉に窮したようだ。反論を頭の中で練るが如くしばらく黙考し始めたタイミングで、注文したパンケーキのセットが運ばれてきた。なので私も勝手ながら、その話は容認されたものとして受け止めることにした。
 受験生は体調管理が肝要であり、そしてよく食べるのもまた養生のうちである。そういった大義名分を振りかざし、私は一番美味しそうなパンケーキを注文した。
 三段重ねのパンケーキの上にベリーソースとチーズのホイップクリームが惜しみなくかけられていて、さらにはいちごとブルーベリーもふんだんに盛りつけられている。どこから眺めても素晴らしく美味しそうなパンケーキの頂を飾るのはやはり真っ赤に熟した大粒のいちごであり、そこに雪のような細やかな粉糖が振りかけてられているのも趣があって美しい。その名も『ベリーベリーチーズパンケーキ』だ。
「見るからに、甘そうだ……」
 鳴海先輩が私のお皿を見て、しみじみと呻いた。
 そんな先輩が注文したのはコブサラダと小さなパンケーキのセットで、ウェイターさんの説明によればサンドイッチのように挟んで食べても美味しいらしい。私もそういうパンケーキは食べたことがなかったので、恐る恐るフォークを刺す先輩の動作を興味深く見守った。
 一口食べてから、先輩は少し驚いたように眉を顰めた。
「意外に合うな。これは美味い」
「本当、すごく美味しそうですね」
 見入る私の声が催促に聞こえてしまったのだろうか。先輩は一口どうだと自らお皿を渡してくれ、私は恐縮しつつもためらわず一口いただいた。さくさくした食感のパンケーキと具沢山のサラダは確かに意外なほど相性がよかった。胡椒の効いたドレッシングも美味しくて、いろんな可能性があるものだと感心さえしてしまう。
「頼んだ時は半信半疑だった。冒険してみて正解だったな」
 先輩は私の顔を見て満足そうにしてみせる。私はお礼を言ってお皿を返し、お礼とばかりに尋ねた。
「先輩、私のも一口どうですか」
「いい。気持ちだけで十分だ」
 当然のように先輩は私の申し出を拒んだ。
 だけど貰いっぱなしというのも不公平だし、甘いものは駄目でも、甘くない部分なら大丈夫じゃないだろうか。そう思って更に聞いてみる。
「いちご、食べてもいいですよ。このてっぺんにある大きいのを」
「それは貰ったら駄目じゃないか。一番大きいやつだぞ」
 先輩はまたも拒んだけど、今度は食べたくないからというより、申し訳ないからという態度に見えた。だから重ねて勧めておく。
「いいんです。こういうのは公平じゃないと」
「……本当にいいのか?」
 それで先輩はこちらにフォークを伸ばし、パンケーキの頂にあった赤いいちごを拾い上げた。ぱくっと一口で食べてから、感慨深げに目を伏せた。
「何年ぶりか、わからないくらい久々だ。なかなか食べる機会がないから」
「美味しかったですか?」
「ああ。何だか悪いな、こんないいものを貰ってしまって」
 先輩が恐縮しているようなのがちょっと可愛い。何年かぶりだといういちごに嬉しそうにしているのも可愛い。私としてはこんな先輩が見られただけでも十分すぎて、お釣りが来るほどだった。
 パンケーキの方も、期待していた通り美味しかった。さくさくした表面とは裏腹に中はしっとりしていて、チーズクリームの甘さとベリーソースの酸味が拮抗しているのもいい。いちごもブルーベリーも瑞々しく、程よく酸っぱくて美味しかった。気がつけばあっという間に平らげてしまっていた。
「受験が終わったらまた来たいです」
 食後に温かい紅茶を飲みながら、私は早くも再来店を心に誓った。
「受験勉強中でも、息抜きに来ればいいだろう」
 先輩が怪訝そうにするので、苦笑いしつつ説明する。
「うちの親がいい顔をしなくて……。不要の外出は控えるよう言われてますし」
 遊びに行くのではなくても、とにかく外出に対して神経質なほど心配されている。それもこれも風邪が流行っているからだろう。明日帰省する兄に対しても、電話で手洗いうがいを徹底するよう重々言い聞かせている母の姿を見かけていた。そういう空気をありがたくも、やはり申し訳なくも思っていた。
 だから、こういうお店に来るのもまたしばらくはお預けだ。
「もうすぐだ。やるべきことをこなした後は、またいくらでも来られるようになる」
 励ます先輩の言葉に、私も頷いた。
「はい。私、受験が終わったらやりたいことがたくさんあるんです。今は息抜きの合間に、それをリストアップして楽しんでます。いざ時間ができたらすぐとりかかれるように」
 すると、先輩は私のささやかな息抜きに関心を持ったようだ。好奇心に満ちた目を向けてきた。
「へえ、例えば?」
「例えば……と言うかやっぱり、読書がしたいです。それもたくさん」
 私が受験生でいる間にも、気になる新刊は山ほど発売されていたし、図書館の蔵書も日々増えているようだ。試験が済んだらまずは書店を巡り、図書館を巡り、そして手に入れた本に埋もれながら読書の時間を過ごしたい。活字でできた世界を片っ端から旅して回りたい。
「あとは服も見たいです。ちょうど春物も出てくる時期ですし」
 もし上手いこと大学に入れたら、一つだけ心配なことがある。東高校には制服があるけど、大学にはない。だから晴れて大学生になった暁には、通学用の私服を仕入れなくてはいけない。それと入学式用のスーツもだ。これはさすがに、合格してからでいいだろうけど。
「それに化粧品も見たいですし、髪も切りに行きたいかな……」
「短くするのか」
 気になる話題だったのだろうか、すかさず先輩が尋ねてきた。こちらとしても非常に気になる案件なので聞き返しておく。
「まだ考えてるとこです。先輩は髪、長い方が好きですか?」
「ああ」
 一秒も置いたかどうかというほどの即答だった。その素早い反応に私がびっくりしたからだろうか、先輩は気まずそうに視線を逸らす。
「いや、そんなに長い髪が好きだというわけでもないんだが、お前は長い方が似合うと思っている。いろんな髪型が見られるし、さらさらしていて触り心地もいいし、と理由を並べると何だか、妙な趣味に聞こえるかもしれないが……」
 しどろもどろになった後、先輩は何かに迷うそぶりを見せた。だけど短時間で結論が出たらしく、早口気味に言われた。
「お前の髪も好きだと言ったら、おかしいか」
「お、おかしくはないと……思いますけど」
 あんまり先輩が慌てるものだから、気恥ずかしく感じられるのが困る。誰だって髪を誉められたら嬉しいはずだ。先輩が気に入ってくれているなら、せっかくだし長いままにしておこう。
「先輩の好み、覚えておきます」
 私は、今はまだ二つに結んでいる自分の髪に触れながらそう告げた。
 高校では校則もあってなかなか好きな髪型にできなかったけど、卒業したらそういう縛りもないし、染めるのだって自由になる。そうなったらいろいろ試してみたいと思う。もちろん鳴海先輩の好みの範囲内で。
「ありがとう」
 先輩には律儀にお礼を言われた。感謝されるのも何か変な感じがするけど、先輩の好みを聞き出せたという点において、こちらこそお礼を述べたい気分だった。

 楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
 食事を終えてお店を出る頃には午後三時を過ぎていて、既に日が暮れ始めていた。曇り空の低いところに浮かんだ太陽の光が鈍くなりつつあるのを見て、私は今日の予定の終わりを悟る。
 まだ帰りたくないけど、今日はお昼ご飯を食べたら帰るという約束だった。
「家まで送る」
 鳴海先輩は文化祭の時と同様に、そう言ってくれた。その気持ちは嬉しいけど、駅まで送ってもらうのすら遠回りなのに。更に私の家までとなると、電車賃だって余分にかかるしあまりに悪い。
「そんな、そこまでしなくても大丈夫ですよ。今日はまだ両親も家にいますし」
 私がかぶりを振ると、先輩は少し考えてから言い直した。
「それなら、家の近くまで送る。これでいいか」
「え……でも、お金かかっちゃいますよ」
「お前ともう少し一緒にいられるなら、大したことはない」
 あっさりと言ってのけた先輩は、私が迷惑がっているわけではないことも読み取っていたらしい。すぐに券売機の方へと歩き出してしまったから、私は嬉しさ半分、心苦しさも半分の気持ちでそれを見送った。
 入学試験が終わったら、リストアップしていたどの項目よりも最優先で、先輩と会う時間を作ろう。
 試験の合否も誰より早く先輩に知らせよう。合格とわかったらその足で先輩の元へ飛んでいこう。喜びは分かち合えた方がいいし、私は先輩の喜ぶ顔だって見たい。
 電車に乗り込んでからも、私たちはずっと話をしていた。話題はやはり、受験が済んだら何をするかという一点だ。手を繋いだまま、普通の恋人同士らしくいろいろ話した。
「そういえば、来月はバレンタインデーもありますから」
 私がその件について切り出した時、先輩はどうにもぴんと来ない顔をしてみせた。
「バレンタインか。あいにくクリスマス以上に縁遠くてな」
「……去年はチョコ、あげましたけど」
 まさか忘れてしまったのだろうか。私がじっと注視したせいか、隣に座る先輩の横顔がふっと解けた。
「それは覚えている。お前がくれなければ縁がないという意味だ」
「じゃあ今年も貰ってくれますか、チョコレート」
「わかった。甘くない方がいいが、少しくらいなら食べてやる」
 先輩はそう言ってくれたけど、私は今年こそ手作りをと密かに考えていた。去年は市販のチョコレートしか用意できなかったし、一昨年なんて用意したチョコを渡せもしなかった。今年はもう少しグレードアップしたものを渡したい。
 クラスの友人の中にも今年は手作りをと意気込んでいる子がいて、どうせなら一緒に作ろうかと誘いをかけてもらっていた。ちょうど入試の前期日程はバレンタインの前週に済んでしまうから、上手くすれば晴れやかな気持ちでチョコ作りに専念できているはずだった。
 あとは、先輩の口に合うチョコを作れるかどうか。それが最もたる問題だと思う。甘くないチョコ。何かあるだろうか。
「バレンタインデーなんて、以前なら鼻で笑っているところだ」
 考え込む私をよそに、先輩が独り言のトーンで零した。
「今は笑ったりしませんよね?」
 私の問いには首を竦めて答える。
「そうだな。楽しみにしている俺自身が何より滑稽だ。他人を笑うどころじゃない」
 甘い物嫌いの先輩がバレンタインデーに楽しみを見出すことも、何だか奇跡というか、格段の進化だと思えた。こうなったらとびきりのチョコレートを用意しなくてはならないだろう。
 そしてもちろん、手渡しが肝心だ。一昨年のバレンタインは用意したチョコレートを自分で食べてしまうという寂しい結末だったから、その分を取り返すつもりでそれらしく過ごしたい。
 際限なく膨らむ夢に私は一時酔いしれた。受験勉強の合間にするにはまさにふさわしい想像だった。おかげで頑張ろうという気になれる。
 電車を降りてからも、先輩は私の手を離さなかった。楽しかった今日の終わりを惜しむように、薄情にも次第に暮れていく夕方の道をのんびり歩いた。
「あっという間でしたね、今日」
「ああ。楽しかったな」
 私たちはお互いに離れがたいと思っていて、そのことはとても幸せだと思う。だけどどうしても、当たり前のように離れてしまわなければならないのが寂しい。楽しい時間を過ごせば過ごすほど、別れ際が辛くなるものだ。今生の別れじゃないのはわかっているけど、それでも憂鬱だった。
 駅から私の家まではごくわずかな距離しかない。こうして歩いていればそのうちに着いてしまう。
「言ってもしょうがないですけど、まだ帰りたくない気分です」
 私がそっと零すと、先輩は呆れたように軽く笑んだ。
「簡単に言ってくれるな。俺は同じことを思っていても、言うまいとしていたのに」
「……すみません」
 確かに、考えもせずに口にしてはいけない発言だった。しょげる私を見て、先輩は繋いだ手に痛いほど力を込めてくる。
「次があると思えば少しは気が楽になる。来月の十四日、楽しみにしているからな」
 温かい言葉だった。
 先輩の気持ちが嬉しいと思う反面、以前と比べてもわかりやすく、隠されることもなくなった優しさにはまだ慣れたとは言えない。何せ私たちには時間が足りなかった。これから時間ができたらもっと長く一緒にいられるようになったら、その時は先輩の温かさ、優しさにじっくり触れてみたい。お互いに話したいこと、伝えたいこともたくさんあるだろうし、それが今日みたいな短い時間だけで事足りるはずもなかった。
 今はまだこうして、手を繋いでいるくらいしかできないけど、この手も直に離さなくてはならないけど、いつか近いうちに――。
「――ヒナ!」
 不意に私を呼ぶ声がした。と同時に、車のクラクションも鳴った。
 思考を遮られた私が振り向くと、道の後方から一台の乗用車が、それも見覚えのある青いミニバンがのろのろと近づいてきた。運転席の窓は開いており、そこからひょいと眼鏡をかけた顔を覗かせたのは、
「悪い、邪魔した? 見かけたからつい声かけたけど」
 兄だった。
 突然のことに私は困惑した。確か兄は明日帰ってくる予定だったはずだ。おまけに今は隣に鳴海先輩がいるし、隠しようもないほどしっかり手も繋いでいるし、ちょっとどうしていいのかわからない。
「お帰り、ず、随分早いね。明日の予定じゃなかったっけ」
 結局、出た言葉がこれだった。
 すると兄はにんまり笑った。
「正月なんて店も暇だからな。サービスで早めに上げてもらった。休みも一日前倒しで、早めに帰ってきたんだよ」
「へえ、そうなんだ……」
「ところでヒナ、お兄ちゃんに彼氏は紹介してくれないのか?」
 含んだような物言いで催促されたのは、前回の――鳴海先輩曰く『小芝居』を踏まえてのことだろう。あの時も一応は紹介していたけど、今日は違う。ちゃんと正直に話さなくてはならない。
 鳴海先輩が私を、真面目な顔で見た。それから私の表情を確かめつつ、繋いでいた手をゆっくり解く。私も頷いてから、兄に向かって言った。
「えっと。前に話してた、鳴海先輩。私の……彼氏です」
 別に今更隠す気もないし、恥ずかしがるのも変だろうけど、何となく言いにくかった。兄がにたにたと訳知り顔でいたせいだと思う。
 一方、鳴海先輩はこんな時でもにやにやしたりしない。きりっとしている。格好いい。
「先輩、前にも話しましたけど、うちの兄です」
 私が紹介すれば、先輩はすかさず兄に対して頭を下げた。
「改めまして、鳴海と申します。先日はろくにご挨拶もせず、失礼いたしました」
「いえいえ、妹から事情は聞いてましたし。むしろすみません、わがままな妹で」
 兄が車の中から片手を振ると、すぐに先輩はかぶりを振った。
「そんなことはありません。雛子さんはとても心温かで、優しい方です。おかげで一緒にいると、とても幸せな気持ちになれます」
「えっ」
 先輩がせっかくいいことを言ってくれたにもかかわらず、私の口からは間抜けな声が出た。
 でも、まさかこんなこと言われると思わなくて。
 これは、先輩なりの気遣いだろうか。兄の前だからと私を立ててくれたのだろうか。そうだとしても今の言葉は何だか、ものすごいと感じられたし、しかもさん付けだし、さしもの兄もあてられたというように半笑いの表情でいる。
 私が驚いたのがわかったのか、先輩はこちらを見た。照れも混ざった柔らかな微笑を浮かべた先輩は、少しだけ声を落として私に告げる。
「今日はこれで帰る。またな、雛子」
「えっと、はい。でも、あの……」
 私がまごまごしているうちに、先輩は兄に向かってもう一度お辞儀をした。
「では、本日はこれで失礼します。また改めてご挨拶の機会をいただければ幸いです」
「は、はい。もちろんです。是非またお会いしましょう」
 気圧された様子の兄が頭を下げ返すと、鳴海先輩は来た道を駅に向かって一人、引き返していった。その足取りたるや相変わらずきびきびしていて素敵だった。
 後に残されたのは車に乗った兄と、路肩に立ち尽くす私だ。
「……お前の彼氏、本当に二十歳?」
 しばらくしてから兄が尋ねてきたので、私は深く頷く。
「うん。大人っぽくて素敵だよね」
「大人っぽいってか老成してるってか……まあ、すごいなと思うけど」
 感嘆の溜息をついた後、兄は私に向かってにやりとしてみせた。
「しかしヒナはちょっとうろたえすぎ。せっかく先輩がいいこと言ってくれたのに」
「う……うるさいなあ、お兄ちゃんだってびっくりしてたじゃない」
「そりゃあ、あんなにはっきり言われたらな。ああいうの言えない男は論外だけど」
 兄は首を竦めた。
 そしてまだ動悸の収まらない私に、とどめのような言葉をくれた。
「しかもお前を見る目がまた本気で幸せそうなんだもんな。あれは心底惚れてるな」
 うちの兄の恋愛に関する言動がどれほど当てになるか、妹の私にはわからない。以前貰ったアドバイスは役立つものも、どうでもいいものも同じくらいあったように思う。
 ただ今の指摘は私を一層うろたえさせた。もう言葉も出てこないくらいだった。
「ヒナ、耳まで真っ赤になってるよ」
「……いちいち言わなくていいから!」
 私が顔を背けると、兄は朗らかに笑った。
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