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睦月(1)

 自室の壁に真新しいカレンダーをかけた。
 机の上には小さな鏡餅を飾っておいた。
 朝ご飯にはおせちを食べた。私はおせちの中では伊達巻が一番好きだ。その次は黒豆、それから栗きんとん。
 雛子は甘い物ばかり好きだからきっとお酒は飲めないだろう、とはうちの父の言葉だった。食べ物の好みがお酒の強さにまで影響するものなんだろうか、私にはちょっとわからない。
 そもそも柄沢家は父方も母方もそれほどお酒に強くないようで、両親はいち早くお神酒で真っ赤になっていた。聞くところによれば兄もまたたくさん飲める人間ではないらしいし、もしかすると私もそうなのかもしれない。とりあえず、真偽の程がわかるまでにはあと二年必要だ。
 これも聞いただけの話ながら、鳴海先輩はお酒を飲んだことがあるらしい。あの人は二十歳なのだし、大学では何かとお酒の出る集まりもあると聞くので、それ自体は当たり前のことなのかもしれない。ただ私にはどうしても、あの頑固で生真面目な先輩とお酒とを結びつけて考えられない。酔っ払った先輩の姿なんて到底想像もつかないし、見てみたいような見たくないような、複雑な気持ちにもなる。
 そうは言っても、私も二十歳になったら、それこそ普通にデートでお酒を飲んだりするようになるかもしれない。
 今はまだそういう自分は全く想像できないけど、そんな日が来る前に自分にとっての適量を知っておく必要があるだろう。もしも先輩の前で酔いつぶれてしまったら大変だ。いい大人が加減も知らないのかと呆れられる光景が容易に想像できる。そんなことで愛想を尽かされたくはないから、先輩とお酒を飲む機会を得たらまずは事前の試し飲みが必要だと今から肝に銘じておく。
 新しい年を迎えても、私は相変わらず、気の早さにかけてはちょっとしたものだった。

 特番だらけのテレビを一通りザッピングした後、私は酔っ払った両親の分までお雑煮のお餅を焼いてあげた。オレンジに光るオーブントースターの中で膨らむお餅を眺めていたら、外から郵便屋さんと思しきバイクの音が聞こえてきた。それ以外はとても静かだ。のんびりと時が過ぎていく。
 特に予定もなく、訪ねてくるのも郵便屋さんだけの、非常にのどかな朝だった。私は例年通りで特に大きな変化もない、お正月らしい一月一日を迎えていた。
 一つだけ去年と違う点があるとすれば、おせちを囲む席に、兄がいないことくらいだ。
 年末年始には帰りたいと言っていた社会人の兄は、残念ながら年越しには間に合わなかった。それでも三が日明けにはいくらか休みが取れたようで、四日には帰ってくると話していた。約束していた本を持ってきてくれると言っていたからとても楽しみにしている。私にとってはちょうどいい息抜きにだってなりそうだ。
 新年を迎え、私は正直なところ受験勉強に飽き始めていた。こういうものはどれだけ頑張ってもやりすぎということはないし、時間はむしろ足りないくらいだろう。そうと知っていても去年からずっと、ぴりぴりと張り詰めた日々を送ってきたせいか、もうこうなったらさっさと入試当日が来てしまえばいいのに、とさえ思うようになっていた。まだ願書も出していないというのに、我ながらせっかちなことだ。
 それは私に限った話ではないようで、同じく受験生として過ごしている友人たちからの年賀メールにも、その傾向は顕著に現れていた。皆の話題は初売りセールと福袋、その他お年玉の使い道に集中していて、もはや受験勉強の文字は消え去っている。だけどそれがまた楽しげで、私の心も少々揺らいだ。
 私も皆と一緒に買い物に出て、新しい服や本でも買ってストレス発散したいところ。しかし両親からは『今年のお年玉は新生活の為に使いなさい』と厳命されている。泣く泣く諦めて、目下気分転換の一縷の望みである兄の帰省を待つことにした。

 気分転換とはまた違うけど、お正月には別の楽しみもあった。
 鳴海先輩から年賀状が届いた。先輩の字は書き方のお手本のように丁寧で、くっきりとした筆圧をしている。その字で『柄沢雛子様』と宛名を書いてもらえるのがまず幸せだった。些細なことではあるけど、ときめく。
 文面もまた先輩らしくて素敵だった。何せいつもくれるメールと全く同じ様相だった。年賀状でも私の体調を気遣う言葉から始まり、
『入試当日までの一日一日が大切だ』
『気が緩みやすい頃合いだが弛まず努力するように』
『俺はお前が成し遂げられる人間だと信じている』
 というように、さながら学校の先生から貰うような叱咤激励が並んでいた。いつものことながら、とてもじゃないけど彼氏から貰う年賀状には見えない。うちの両親にうっかり見られても恥ずかしくはならないし、両親だってまさかこの人が私の交際相手だとは思わないだろう。
 ただし、年賀状の結びの一文はこんなふうに締めくくられていた。
『お互いにとって、素晴らしい一年となるよう願っている』
 過去二年、鳴海先輩からは年賀状を貰ってきたけど、こんな文章が書かれていたことは一度もなかった。メールでもなかった。これだって恋人からの甘い言葉というほどではないし、多くの人にとってはありがちな挨拶だと思えるだろう。だけど鳴海先輩が私にくれた言葉となれば、とても深く、温かく、幸せな意味を持つのだ。少なくとも私にはそれが読み取れた。だから年賀状を読んだ時、こっそり照れてしまった。
 先輩が一文字一文字丁寧に書いたこの文章を、心に刻み込んでおきたい。
 そして、その言葉の通りになればいいと私も願う。言葉通りに、必ずしてみせなくてはならない。
 そういえば澄江さんからも年賀状をいただいた。私が送りたいといっていた話を、先輩が事前に伝えておいてくれたそうだ。澄江さんの字は女性らしく柔らかで細く、だけど先輩と同様に、私の体調を気遣う言葉から始まっていた。私が受験生であることも聞いていたのか、大変な時期でしょうけどどうぞ頑張って、とも書かれていた。そして前に遊びに来てもらえてとても楽しかったから、また寛治さんと一緒に来てちょうだい、と続いていて、私も是非伺いたいと思う。
 だからその為にも、受験勉強に飽きたなどとは言っていられない。
 入学試験の前期日程は来月の頭となっている。私は得意科目をより活かすべく、一般入試で出願するつもりだった。冬休みが明けたら早速願書の提出期間が始まる。
 いよいよ、勝負の時期が来たようだ。

 さて、新年と共に勝負の時期を迎えた私は、ともすれば緩みそうになる意思をきつく結わえ直し、受験勉強にますます打ち込む気構えでいた。
 しかし、どうせなら神様にもお願いしておくべきだろう。別段信心深くはない私も、縁起を担ぐのは割と好きだったりする。お正月のうちに神社に行って初詣を済ませたら非常に縁起がいい気がするし、受験生ならお守りを買うのも、絵馬を奉納するのだって外せない。もちろん神頼みに縋りすぎるのはよくないことだけど、負担にならない程度にできることは全部済ませておきたかった。
 それで一月三日、私は先月約束していた通り、鳴海先輩と初詣に出かけた。
「あけましておめでとうございます、先輩!」
 待ち合わせ場所の駅構内、私はその姿を見つけるなり駆け寄って、年の始めにふさわしい挨拶をした。
 私を出迎えた先輩はほんの少し、近くで見なければわかりにくいくらい微かに笑んだ。
「ああ、おめでとう。今年もよろしくな」
 クリスマスの挨拶はしてくれなかった先輩も、新年の挨拶はすんなり言ってくれた。そんなことでも嬉しくてたまらない。
「こちらこそ、是非ともよろしくお願いします!」
「新年早々、何をはしゃいでいる」
 久々のデートとあってテンション急上昇中の私に、先輩は呆れたような言葉をかけてくる。
 ただしその顔は険しさがなく和やかで、一年の始まりにそれこそふさわしい、最高の表情だと思えた。

 市内でも一番大きな神社へ行くと、鳥居前の参道口までごった返すほどの人出だった。
 参道の両脇には色とりどりの天幕を張った露店が軒を連ねており、その前に詰め掛ける人々と列をなす参拝客とでぎゅうぎゅう詰めになっている。こういう時にはぐれては一大事なので、先輩としっかり手を繋いで歩いた。
「手を離すなよ」
 ざわつく人混みの中で、先輩は声を張り上げるようにして私に告げる。
「もちろんです」
 私は嬉々として答えたけど、風邪予防にかけたマスクのせいでくぐもった声になった。だから返事の代わりに、繋いだ手にここぞとばかり力を込めた。
 普段なら人混みなんて好きではないし、風邪を引いてはいけない時期なら尚のこと憂鬱だった。ゆっくりとしか進まない行列の中、押し合いへし合いしながら待ち続けるのも、それだけならちっとも楽しいことではない。
 だけどそれも先輩と一緒なら、何だか幸せで仕方がなかった。ずっと手を繋いでいられるし、ぴったりくっついていても不自然じゃないし、押し流されそうになると強く手を引いてもらえるのがまた嬉しい。ついつい、何度も先輩の顔を見上げてしまう。
「何だ、さっきからこっちばかり見て」
 先輩は私の顔を訝しそうに見下ろしている。
 先月、クリスマスイブの日に会った際は少し痩せていたように映ったけど、今は体調も体重も元に戻ったそうだ。顔色もよく、すっかり元気そうだった。
「だって、久々のデートですから」
 私がうきうきと答えたところ、先輩は面食らった様子で片眉を上げた。
「だからと言って……こんな状況で楽しめるか。狭いしうるさいし息苦しい」
「私は先輩がいてくれたら、それだけで十分楽しいんです」
 こちらの主張を聞く先輩は、どうにも理解しがたいという面持ちをしている。だけど列が少し動いた拍子、ふと考え込むようなそぶりをしてから呟いた。
「そんなに喜んでもらえるなら、去年も来ればよかったな」
 年賀状のやり取りこそ三年目になる私たちだけど、一緒に初詣に来るのは初めてだった。
 鳴海先輩は人混みが嫌いだし、それにお正月は毎年実家に帰っていると聞いている。去年までは携帯電話も持っていなかったから私からは誘いにくかったし、先輩の方から誘ってくることもなかった。
 だからこうして、二人で初詣に出かけられるのも嬉しい。人混みも行列も言ってしまえば晴れの日の醍醐味みたいなものだし、お参りが済んでお守りを買って絵馬を奉納したら、露店を見て歩くのもいいかもしれない。そうだ、今年一年の行く末を占うべく、おみくじを引くのも忘れないようにしないと。
「先輩、今日はお昼ご飯を食べてきてもいいって言われてるんです」
 遅々として進まない列に並ぶ間、私は今日の門限を伝えておく。
 未だに性質の悪い風邪も流行っているし、そのせいか冬場の外出に両親はあまりいい顔をしなかった。だけど初詣となれば話は別のようで、しっかりお願いしてきなさいと快く送り出してくれた。お昼ご飯を食べたら真っ直ぐ帰っておいで、と言ってもらっていたので、それなら今日は先輩とお昼を一緒に、と考えている。
「よかったら、お参りの後で何か食べていきませんか」
「そうするか」
 先輩も二つ返事で了承してくれた。
 それから列の先に目を向けるそぶりで、私から視線を外す。ともすれば聞き流しそうなほどトーンを落として言った。
「久々に二人で過ごすのに、ずっと人混みの中というのもつまらないからな」
 本当にそうだ。だけど、先輩に同じように思ってもらえるなんて何たる幸福だろうか。
 マスクで見えないのをいいことに、私の口元はしばらく緩みっぱなしだった。

 ゆうに二十分は並んだだろうか。
 行列がじりじりと少しずつ進んでいき、やがてようやく私たちの番が回ってきた。
 並んだ時間はとても長かったのに、お参りの時間はあっという間だ。お願い事は簡潔に、手早く伝えなくてはならない。私はお賽銭を奮発して、神様あてに全力投球でお願いをした。
 どうか志望校に合格できますように!
 そして、鳴海先輩を今以上に幸せにできますように! お願いします、神様!
 お願い事を口に出して言ったはずはないのに、お参りを終えて参道の脇を引き返そうとした途端、先輩に笑われた。
「随分な熱の入りようだったな。鬼気迫るものがあったぞ」
「だって、叶えて欲しい大事なお願い事ですから」
 私はなるべく平静を装い答える。でも内心、実はうっかり声に出していたのではとひやひやしていた。別に聞かれてまずい内容ではないけど、恥ずかしい内容ではある。
「あれだけ熱心なら、神様の目にも留まるかもしれない」
 鳴海先輩は恥じ入る私を気遣ってか、まるで慰めるようなことを言ってきた。
 優しい言葉だ。私はしみじみその優しさを噛み締めつつ、鳴海先輩の口から『神様』なんて単語が出てきたことには少し驚く。神様相手になら先輩も『様』をつけるんだな、という当たり前のような、そうでもないような、とにかく新鮮な驚きだった。
「先輩は、去年も初詣に行ったんですか?」
 何となく尋ねてみると、先輩は憂鬱そうに顔を曇らせた。
「一応な。実家の近くに神社があって、そこへ行った」
「そう、なんですか」
 そして先輩の口からご実家の話が出ると、どうにも反応しづらい。先輩自身、あまり詳しくは話したくない様子で、すぐに言葉を継いだ。
「今年はお前を誘って正解だった。一年の始まりは明るくないとな」
 そういうことなら私としても、鳴海先輩のお正月を明るくする為の努力は惜しまないつもりだった。
「先輩、帰りも手を繋いでいきましょう」
「そうだな。そうしよう」
 参拝の間は離さなければならなかった手を、改めて繋ぎ直した。
 長い間外にいたせいか、先輩の手はすっかり冷たくなっている。同じように冷えているはずの私の手より冷たい。きっと先輩には、私の手でも温かく感じているのかもしれない。ふとそんなことを思った時、先輩が小声で言った。
「……温かい」
 思わずといったその呟きに私が顔を上げると、先輩は思っていた以上に真面目な顔をしていた。
 笑いのない、真剣な表情だ。ちょうど何か難しいことを考え込んだり、あるいは机に向かって書き物をする時、不意にペンを止めて言葉を探すのと同じ顔つきだった。苦悩している様子はなく、でも考えている。とても真摯に。熱心に。
 何を考えているのかなんて、わかるはずもないし、聞けそうにもなかった。
 ただ、手を繋いだまま私も少し考えた。
 先輩は新しい年の始まりに、神様に対して、どんなお願い事をしたのだろう。

 それから私たちはお正月らしいことをいくつかこなした。
 まず、おみくじを引いた。私と同い年くらいの巫女さんにお金を渡すと、おみくじのいっぱい詰まった細長い木箱を差し出された。それを振って、出てきた棒に書かれた番号を読み上げると、巫女さんがおみくじを手渡してくれるという仕組みだった。この、少々手間のかかるワンクッション置いた感じが、いかにも霊験あらたかというような気がしてならない。
 そしてありがたいことに、私の引いたおみくじは大吉だった。
「すごい……! 何だか、合格できそうな気がしてきました」
 何という幸先のいいスタートだろう。私はすっかりいい気になって、おみくじに書かれた古めかしい概略を読み耽る。
「気だけで満足されては困るな」
 鳴海先輩ははしゃぐ私を見て呆れていたようだけど、実は先輩も大吉を引き当てていたらしい。おみくじをざっと眺めた後、密かに嬉しそうにしていたのを盗み見てしまった。
「先輩のおみくじには何て書いてあったんですか」
 私は尋ねてみた。
 すると先輩は嬉しそうなのを隠すように顔を顰める。
「内緒だ。言うのが恥ずかしい」
「そんなに恥ずかしいことが書いてあるんですか、おみくじって」
「解釈によってはな。追及するなよ、俺は黙秘を貫く」
 黙秘を宣言されてしまったので、私も追及は諦めることにした。何が書いてあったのかは非常に、大変に気になるけど。
 おみくじの後は絵馬の奉納だ。私は初穂料を納め、巫女さんから絵馬をいただいた。手にしてみると思っていたよりも小さく、書く前に字のバランスを考えなければならなかった。
「何と書くつもりなんだ」
 先輩が私の手元を覗き込んでくる。見られていると緊張してくるので、そうしげしげと見ないで欲しいのに。先輩みたいにきれいな字を書く人になら尚更だった。
「オーソドックスに。志望校合格祈願、でいきます」
 事前のリサーチによれば、絵馬に合格祈願をする際は大学名、学部名まで記しておくべきらしい。絵馬は神様が目を通し、願いを叶えてくれるものだそうだから、情報に不足があっては叶える方の神様も困ってしまうのだろう。
 私が一文字ずつ慎重に絵馬を書いている間、先輩はまるで興味深いものでも観察するみたいに息を詰めて見守っていたようだ。書き終えて顔を上げると、こちらをじっと見る鋭い目と視線がぶつかる。先輩の方が余程真剣な眼差しをしているようだ。
 どきっとしたのも束の間、すぐに先輩は視線を落とし、詰めていた息を短く吐いた。
「年賀状と同じ字だ」
 私が書いた絵馬を指差し、そう言った。
「それはそうですよ、私の字ですから。違っていたら大変です」
「いつもながらお前の字は面白いな。随分丸く、ころころしている」
 先輩は、なぜか私の字を見て笑んでいる。
 私はどうして笑われているのかわからず、先輩から貰った年賀状の、先輩が書いた私の名前を思い浮かべている。とても丁寧できれいで力強い筆跡をしていた。
 同じように私も、私の字で先輩の名前を書いた。丸くてころころした字で書かれた『鳴海寛治様』という宛名は、先輩の目にどう映ったのだろう。
 先輩も、この些細な要素にときめいただろうか。
「お守りも買うんだろう。どうせまた並ぶんだ、急いだ方がいい」
「あ、そうですね。奉納してきます」
 急かされて我に返った私は、慌てて絵馬掛所へと足を向ける。
 もちろん先輩もついてきて、私が絵馬を吊るすのを、やはり真剣なそぶりで見守っていた。
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