パイスーって何の略?
「では早速だが、これに着替えてくれ」新宮さんが大きめの紙袋を持ってきて、私に差し出す。
中に畳まれていたのは黒い革製と思しき服だった。引っ張り出してみると、ライダースーツのような厚手の革ツナギだとわかった。
「安全性は確認したと言ったが、万全を期す必要があるからな。あとでヘルメットも渡す」
「……わかりました」
生まれて初めてロボットに乗らんとしている私は、心細さを覚えながら頷いた。
「では頼む」
新宮さんは私の行動を待つように黙ってこちらを見ている。
まさかと思いながら尋ねてみる。
「あの、着替えはどちらですればいいでしょうか」
仕事上がりの後に声をかけられそのまま直行したので、現在の私はブラウスの上にカーディガン、膝丈のスカートという典型的オフィスカジュアルスタイルだった。せめてスカートじゃなくパンツだったらこのまま着られたんだろうけど、残念ながらひと手間かけなければならない。
新宮さんは私の問いに瞬きをして、
「ああ。俺はいつもその辺で……」
と言いかけたところで、それではまずいということに気づいたらしい。
「いや、平井にそんなことはさせられないよな。待ってろ、――梶谷さん!」
タックスティーラーの点検を始めた梶谷さんを呼び、すぐさま更衣室があるかどうか尋ねてくれた。
「うちのロッカーでよければ使ってくれ。多少油臭いが」
梶谷さんは私を快くロッカールームへと案内してくれる。
私は開いたロッカーに脱いだ服をしまい、粛々と着替えを済ませた。
身に着けたライダースーツはかなりぶかぶかだった。
袖も裾も余っていたし、あちこちだぶついているのがまるで大人の服を着た子供みたいで、不恰好に見えて仕方がない。
私のサイズを考えて用意してくれたものではなく、紳士物のようだ。
袖と裾をまくって倉庫へ戻ると、出迎えてくれた新宮さんが申し訳なさそうにしていた。
「悪い、予算がなくてお前のスーツが用意できなかったんだ。やっぱり大きかったな」
「じゃあ、このスーツはもしかして」
私が最後まで言う前に、新宮さんが答える。
「ああ。この間まで俺が着ていたものだ」
どうりでぶかぶかだと思った。
更に新宮さんは私にオープンフェイス型のヘルメットを被せ、慣れた手つきで、ヘルメットの顎紐を弛まない程度に固定してくれた。
ヘルメットにはインカムマイクが取りつけられており、彼は真剣な目でその傾きまで調整する。その間、私は子供みたいに顎を上げて突っ立っているだけだった。
全てが終わると、新宮さんは私から二歩下がり、頭のてっぺんから爪先までをじっくりと鑑定でもするように眺めた。
そして申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「記念すべき初搭乗だというのに、身体に合うスーツを用意できなくて済まない」
「そんな、お構いなく」
記念も何もこれで最後かもしれませんし――とは言わなかった。
冷静に考えてみれば、この先も乗るかどうかわからない人間の為に、身体に合う服をわざわざ用意するのはお金の無駄だろう。ただでさえ『タックスティーラー』なんて呼ばれているロボなのだから、他のところに余分なお金はかけられまい。
「もしお前がこの先も乗ってくれると決まったら、俺が最高に格好いいパイスーをプレゼントしよう」
新宮さんが真面目な顔で、聞き慣れない単語を口にした。
「パイスーって何ですか?」
会話の流れからして、ライダースーツの類似品だろうか。
私が即座に聞き返すと、彼は一瞬虚を突かれた表情になってから、やはり真面目に答えた。
「『パイロットスーツ』の略だ」
「――私、パイロットなんですか!?」
さらりと爆弾発言が飛び出たように思えて、私は叫んだ。
パイロットとは、飛行機などの操縦士を指す単語だ。
当然それなりの資格がなければ就くことのできない職業のはずだった。
こんな、急に声をかけられて連れてこられただけの私が、パイロット。
新宮さんは今更だとでもいうように肩を竦める。
「何を言う。ロボに乗るんだからパイロットになるに決まっているだろう」
「で、ですが、私、本当に普免しか持っていないんですよ?」
「先程も言ったが公道は走らない。心配するな」
だからそういう問題なのだろうか。
「お前も身体に合ったパイスーを着れば、一端のパイロットとなれるだろう。きっと途轍もなく似合うぞ。その日が楽しみでしょうがないな」
満足そうに言った新宮さんは、呆然とする私に続けた。
「今のうちに好きなカラーリングを考えておいてくれ」
「え……ええ……」
色なんて別に何でもいい。
そういう次元の話じゃない。私がパイロットだなんて――家族に話したらどんな反応をされるだろう。弟はきっと面白がるだろうけど、私は今日のことを、笑い話として語れるだろうか……。
今や緊張は最高潮にあり、手足が小刻みに震え始めている。新宮さんに促され、いよいよタックスティーラーへと近づいていくものの、床がスポンジでできているみたいに足元が覚束ない。
「大丈夫だ。操作は難しくないし、俺達がついてる」
新宮さんが励ますように私の肩を叩いてくれたけど、そのせいで震えているのも知られてしまったことだろう。
しかし、初めてロボに乗るのに全く緊張もせず震えもしない人間などいるだろうか。
すぐ近くで見上げると、タックスティーラーはとても大きかった。
初めて目にした時は三メートルほどだと思ったけど、もしかするともっとあるかもしれない。それとも緊張のせいで大きく見えるだけだろうか。
「平井さん。タックスティーラーは静歩行しかできないことを念頭において動かしてください」
乗り込む前に、仏頂面の中川原さんから声をかけられた。
「操作した脚が完全に地面について重心がそちらへ移動した状態でなければもう片方の脚は動かないようにできています。わかりますよね、このくらい」
ちっともわからなかった。
そもそも静歩行って何。
ちんぷんかんぷんの私を見かねてか、新宮さんが説明を添えてくる。
「俺達人間は二足歩行の際、身体の重心を自然と、連続的に移動させて歩いている。お前も道を歩く時、いちいち重心を意識して足を動かすことはないだろう? 何も考えずに足を前に出すだけで前進できるはずだ。だがロボットにはそれが難しい。少なくともこのタックスティーラーには、まだそれができない」
言われてみれば、自分の歩き方を気にしたことはなかった。
物心ついた頃には二本足で難なく歩けていたし、重心がどうのこうのなんて考えたこともない。これまで当たり前のように行ってきた『歩く』という行動を機械にさせるのは、そんなにも難しいことなのだろうか。
「だからタックスティーラーは一歩ずつ慎重に、じっくりと歩く。その一歩が安定した場所に下り立ち体勢を整えるまでは次の一歩を踏み出すことができない。まどろっこしいと感じるだろうが、安定性は抜群だ。その点は安心していい」
新宮さんの説明を聞きながら、私は傍らに佇むタックスティーラーに目を向ける。
膝を曲げた姿勢で静止しているこの二本の脚は、人間のように膝を伸ばして歩くことはできないのかもしれない。
「あとは方向転換のやり方も……説明します?」
中川原さんの問いに新宮さんは少し考え、
「いや、初めのうちは前進だけでいい。帰りは俺がやる。調子がよければ外まで出てもらおう」
タックスティーラーの前方、五メートルもないところに倉庫の大きなシャッターが下りている。つまり私の最低限の目標は、あの位置まで移動することになるのだろう。
それがどの程度難しいことなのか、今の私には想像もつかない。
搭乗の際は背面部からよじ登り、ハッチを開けてコクピットに座れ。
新宮さんから指示を受け、私はタックスティーラーの背中に飛びついた。ちょうど手の届く位置に背面部に埋め込まれたタラップの最下段があり、それにぶら下がるようにしてよじ登る。ヘルメットを被ったのは小学生の時以来で、何度か頭をぶつけた。
タラップを登りきるとガラス窓で覆われたハッチがあり、傍のハンドルを回してそれを開ける。
ゆっくりと前に倒れるように開いたハッチの中には一人用の黒い座席があり、間隔を開けて左右に並ぶ二本の長いレバーがあり、レバーの間にはいくつかのスイッチを備えたパネルとタブレット端末サイズの小さなモニターがあった。
何を何に使うのか、見ただけでは全くわからない。
覗き込むばかりで下りる気になれない私に、ヘルメットの耳元から新宮さんの声がする。
『平井、聞こえるか』
インカム越しの声だ。慌ててマイクに返事をする。
「は、はい、聞こえます!」
『まず座ってくれ。俺も上がって説明する』
私は慌てて座席に、滑り込むように腰を下ろした。
すぐに新宮さんが上がってきて、私の背後、座席の後方から身を乗り出すようにして言った。
「乗ったらすぐにシートベルトを締めろ」
今度は直に声が聞こえる。
「は、はい」
ロボットにもシートベルトがあるなんて意外だったけど、座席のすぐ傍らに、乗用車とそっくり同じものがついていた。
私がそれを装着すると、新宮さんが続けた。
「いいか、今回は初めてだから簡単な操作しかさせない。お前が覚えておく必要があるのは目の前にある二本のレバーと、パネルのボタンのうち赤いやつ。それにインカムマイクだけだ」
操作パネルにはボタンがいくつかあり、そのうち赤いボタンには『拡声器』とラベリングされていた。
「そのボタンを押すとお前の声をスピーカーで外へ流すことができる。これはあくまでイベント用だが、インカムの通信が切れたり、何か緊急で知らせたい時にはこちらを使ってくれ」
新宮さんはボタンを指差した後、私の顔を覗き込んで続ける。
「レバーはそれぞれ左右の脚の動きに対応している。今回は基本操作だけ教える。真っ直ぐに引くとそちらの脚が上がり、その状態から押すと前に脚を下ろす。片方の脚が上がった状態でもう片方の脚が動かせないのは、中川原が言った通りだ」
そこまで一息に語ると、彼は私のヘルメットの側頭部を指先でこんこんとつついた。
「そしてインカム。操縦中はこれで俺と繋がっている。さっき試したからわかるな」
「はい」
「わからないことはもちろん、困った時、不安な時、助けが欲しい時はいつでも呼んでくれ」
頼もしいお言葉だ。
現在進行形で不安を覚える私には、それが少し、ありがたかった。
「以上、何か質問は?」
新宮さんが、座席の真横からこちらを窺う。
その顔に目をやりつつ、私は震える声で答えた。
「多分、ありません」
操作自体はそこまで難しくなさそうだ。前に進むだけなら、私にもできるかもしれない。
黒いセルフレームの眼鏡の向こう、新宮さんの目が瞬きもせずに私を見ている。
「そうか。じゃあレバーを握ってくれ」
私は恐る恐る手を伸ばし、まずは左のレバーを握る。
血が通っていないみたいに冷たい手に、レバーの感触は少し生温く感じられた。
MT車のシフトレバーによく似たそのレバーは、構造的には前後左右どこへでも倒せるようになっているらしい。私が習ったのは脚の上げ下げだけだけど、方向転換をする際もこのレバーで調整するのかもしれない。試すつもりはもちろんない。
もう片方、右手でもレバーを握る。
手が震えているのが自分でもわかる。どきどきする。
「エンジンは外からの操作でかける。これから俺が降りたらすぐに起動するから、少し待ってから合図を送る。そうしたら動かしてくれ」
新宮さんは言いながら、私の震える右手に触れた。片手で包むようにぎゅっと握った。
冷え切った私の手と比べると、彼の手はとても温かかった。
ただ、私は男の人に手を握られ慣れているわけじゃない。
驚きに声も出せない私とは対称的に、新宮さんは動揺するそぶりも、かといってこちらを軽薄なノリで和ませようとする様子もなく、至ってクールに続ける。
「手が震えてるな。緊張するなというのも無理な話だろうが、開き直って楽しんだ方がいい」
落ち着き払って無茶なことを言う人だ。
思わず私が苦笑すると、彼も少しだけほっとしたようだった。微かな溜息が聞こえた。
「大丈夫そうだな。念の為、緊急停止の操作もこちらでできるようにしてある。心配しないでどんどん進め」
それから新宮さんは私から手を離すと、まだ閉じられていないハッチのガラス越しに倉庫の奥、閉ざされたままのシャッターを指し示した。
「お前が歩き出したらシャッターを開ける。倉庫の外へ出るのが今回の目標だ」
「はい」
「無理なら脚を止めていい。動けないようだとわかったらこちらで対応する」
「はい」
「また後でな。俺達が傍で見守ってる」
「はい」
「しつこいようだが、心配するな」
「……はい」
最後は一際深く頷いておく。
心配が何もないとは言わないけど、ここまで来たらやるしかないこともわかっている。
試し乗りだとしても、乗ると決めたのは私だ。
だったらとことんやってやるまでだ。
新宮さんはそんな私の肩をもう一度叩くと、操縦席から背面部へと這い上がり、そしてハッチを閉めた。
私は操縦席に一人きりとなり、辺りをふっと静寂が包んだ。