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春はすぐ傍に

 学校で、作文の宿題が出た。
 テーマは『十年後の自分』だ。

「――それで是非、先輩の意見も伺いたいなと思ったんです」
 宿題が出た日の放課後、私は原稿用紙を携えて鳴海先輩の部屋を訪ねた。
「聞いてどうする」
 私の用向きを聞いた鳴海先輩は、不機嫌そうに問い返してくる。
「聞いてはいけませんでしたか?」
「こういう文章はお前の方がよほど得意だろう。いちいち俺に聞く必要もあるまい」
「得意というほどではないですよ。読書感想文なら好きですけど……」
 もちろん私も文芸部員の端くれ、文章は書き慣れている。原稿用紙一、二枚の作文に難航するようなことはないはずだった。
 だから要は、単なる口実だ。鳴海先輩の部屋を訪ねてこうして話をする為の。
 それともう一つ、作文を口実にして先輩に尋ねたいことがあった。
「先生から聞いたんです。東高校の三年生は、毎年四月に『十年後の自分』について書くんですよね」
 私が本題を切り出そうとすると、鳴海先輩は会話を打ち切るように手元の文庫本を開く。
「ということは先輩も書かれたんですよね、この作文」
 先輩は答えない。
 だけど浮かべた仏頂面が何よりの答えだった。
「先輩はどんなことを書いたんですか?」
 私が畳みかけると、先輩は文庫本から顔を上げずに言った。
「だから、聞いてどうする。俺のは参考にはならんぞ」
「そんなはずないです、だって鳴海先輩の作文ですよ」
「読んでもいないのになぜ断言できる」
「作文はないですけど……先輩の文章はよく読んでますよ、一番のファンですから」
 言われてみれば、鳴海先輩が書く小説はしょっちゅう読ませてもらっているのに、作文や論文といった作品を見せてもらう機会は今までなかった。さすがに二年前の作文が手元に残っているということはないだろうけど、先輩が『十年後の自分』というテーマをどんな切り口で書いたのか是非知りたかった。
 もっとも、先輩はこの話題を続けたくないようだ。私にも、私が座卓の上で広げている原稿用紙にも関心を払わず、手にした本をきつく睨みつけている。
「優秀作品は文集に掲載されるとのことですけど、先輩の作品、載ってたりしませんか?」
 私は追い込みをかける。
 集められた作文は校内選考の後に市教委へ提出され、文集に掲載されることもあるのだそうだ。鳴海先輩ほどの人なら東高校の代表として選出され、華々しく文集を飾っている可能性もあるだろう。
 ところが、
「そんなはずはないな」
 鳴海先輩はそこで、きっぱりと否定した。
 そして面を上げて私を見据えると、一つ溜息をついた後で続けた。
「俺はその作文を書かなかった」
「そう……なんですか?」
「書けなかった、と言う方が正しいか」
 言い直された言葉に私は驚いた。
 文芸部員で、文章を書き慣れていて、いつも私の心に響く美しい小説を作り上げる先輩が、たかだか原稿用紙一、二枚の作文を仕上げられないなんてあるだろうか。
 驚く私の顔を先輩はどこか苦々しげに見ている。
「自分の話なんて書いてもつまらんだろう。お蔭で筆が乗らなかった」
「先輩ならたとえ筆が乗らなくてもすらすら書いてしまうんじゃないかって……」
「それは買い被りすぎだな、俺も書きたくないことまでは書けん」
 書けなかった、書きたくなかった。作文に対して先輩が口にするのは後ろ向きな言葉ばかりだった。先輩のように生真面目な人が、教師から課せられた宿題を疎かにするとは思えない。でも先輩が私に嘘をついているようにも見えなかった。
 それよりも気にかかったのは今の先輩の表情だ。先程までの仏頂面とは違う、繊細な少年のようにも見える苦い面持ち。薄い唇を引き結び、いつもは鋭い目を伏し目がちにして、酷く辛そうな顔つきに見えた。
 先輩にそんな表情をさせるほど、『十年後の自分』とは書けない、書きたくならないテーマなのだろうか。
「……でも、先輩には夢がありますよね?」
 私は食い下がるように問いかけた。
「それなら夢の話を書けばよかったのはないでしょうか。十年後には作家になっていたい、とか」
 すると鳴海先輩はなぜか少し笑った。
「見ず知らずの他人に触れ回る話でもないだろう。何人かに打ち明けておけば十分だ」
 鳴海先輩は夢に向かって日々研鑽を怠らない人だ。私は先輩が書き上げてきた物語をこれまでいくつも、いくつも読ませてもらったし、先輩が夢に近づけるよう一読者として助言もしてきた。どうして作家を目指すのか、どうして物語を綴るようになったのかはまだ教えてもらったことがないけれど、それは普段ストイックな先輩ですら捨てきれない大きな夢であり欲求なのだと思っている。
 それを私に打ち明けてくれたということは、きっと誇りに思ってもいいのだろう。
 だけど少し、胸が痛い。
「なぜそんな顔をする」
 先輩が私の顔を見て、今度は困惑したように眉を顰めた。
「人にずけずけと尋ねておきながら、急にしおらしくなるのはお前の悪い癖だ」
「すみません、あの……」
「大体、俺はお前を落ち込ませるような話をした覚えはない。作文は書けなかったと言っただけだ」
 恐らくそれは先輩なりのフォローなのだろう。
 でもそのフォローこそが、逆に先輩にとって『十年後の自分』がどれほど悩ましいテーマであったかを私に想像させる結果となってしまった。
 私は鳴海先輩の背負うものをまだ知らない。先輩が頑なに話そうとしないご実家のこと、ご家族のこと、子供時代のことを知りたい、とても強く知りたいと思っているけど、それを先輩に尋ねることはできずにいた。尋ねればきっと先輩は、先程のような繊細な表情をするのだろう。
 好きな人に対する好奇心と探究心は果てしなく、私は鳴海先輩のことなら何でも知りたいという強い衝動を常に抱えている。だけど無神経に触れてしまってから急に後ろめたい気持ちになって、胸が締めつけられるように痛んでくる。
「お前は、書けないわけでも書きたくないわけでもないんだろう」
 罪悪感から黙り込む私を見かねてか、先輩がそう切り出した。
「なら、書けばいい。何なら書き上がったものを見てやろう」
「先輩……」
 思いがけない申し出に、とっさに感謝の言葉すら出なかった。
 鳴海先輩は優しい人だ。私以外の人はちっともそう言ってくれないけど、私は確信している。その一見わかりにくい優しさも、先輩が背負うものがそうさせているのかもしれない。
 私は先輩のことをまだ何も知らないけど、この先教えてもらえるかどうかもわからないけど、密かに思っていることが一つある。
 いつか私が、先輩を幸せにしたい。
「……じゃあ私、書きます」
 私は痛む胸を張って宣言した。
「先輩が書けなかった分まで、十年後の夢を書きます。だから見ていてください」
「わかった」
 鳴海先輩は思いのほかすんなりと頷いた。でもその顔が腑に落ちたようではなかったから、私は説明を添える。
「先輩のことも書くって言ったんですけど……」
「は? なぜ俺がそこに出てくる」
「だって十年後の自分ですよ。私の十年後には先輩がいてしかるべきなんです」
「だからと言って俺を、学校の作文に出す必要はあるまい」
「あります。私の夢は先輩の、糟糠の妻ですから」
「待て、それは書くな。作文だぞ」
 今更のように先輩は慌てふためき、私を咎め立ててきた。
「学校に提出する文章に部外者の名前を載せるのはよくない。考えればわかることだろう」
「でも私、書きたいんです。嘘を書くのは嫌なんです」
 今の私にはまだ、先輩を幸せにする力がない。
 だからせめて、作文の中だけでも先輩を幸せにしてあげたかった。
 でもそんな私の気持ちは全く伝わらなかったようで、先輩は私を止めようと躍起になっている。
「そこは弁えて取り繕え。明け透けに書くのが正しいものではないぞ」
「だって先輩の分まで書いていいって言ったじゃないですか」
「俺の名前を出していいとは言ってない」
「では、いいと言ってください」
「言うわけがない。――おい、話が途中だ、書き始めるな!」
 先輩の許可が貰えそうにないので、私は目の前の原稿用紙にペンを走らせ始めた。タイトルと名前を記したところで先輩が私の右手をぎゅっと握り、
「書くなと言っているだろう。そういうものは内に秘めておけ!」
 叫ぶようにそう言った。
 先輩の手は指が長くてきれいで、でも骨張っているせいでごつごつした感触だった。大きな手のひらは温かく、ペンを持つ私の手を包み込むように握っている。力を込められたのは一瞬だったけど、その時、心臓が止まるかと思った。
 ちょうど書き終えた私の名前の上で、私の手は先輩の手に囚われるがままになっている。
 そのまま、しばらく動かせなかった。
 動けなかった。
「……いや、違う。違うからな」
 やがて鳴海先輩が、私の手を握ったまま口を開いた。
「今のは止めようと思って握ってしまっただけだ。わざとでもなければ、そういう意味でもない」
 二倍速みたいな早口の弁解だった。
「わ……わかってます。あの、私もびっくりしただけで……」
 再び動き出した私の心臓もいやに速く、応じる声もすっかり震えていた。顔が赤いのも見ればわかるだろうけど、先輩は目を逸らしているのでまだ気づいていないのかもしれない。
「手を離すぞ、いいな」
 いちいち断らなくてもいいのに、先輩はわざわざそう言って、私の手から自分の手を剥がそうとした。
 でも私が返事をしなかったからか、指を数本浮かせた後でまた戻して、それから不服そうな声で尋ねてきた。
「なぜ黙っている。離しにくくなるだろう」
「あ、別にその、離さなくてもいいかなって思って……」
「馬鹿を言うな。手を離さなければ作文は書けまい」
「書いても、いいんですか? 私が思う通りに」
 ずるい言い方かなと思ったけど、鳴海先輩は思った通りに私の右手を強く握り直した。

 それからしばらくの間、私達はタイトルと名前だけが書かれた原稿用紙の上で手を繋ぎ続けていた。
 作文には書けないことが今、原稿用紙の上にある。本当は書きたいけど先輩がいいと言ってくれそうにないから、一足先に胸の中にだけしたためておこう。
 私は先輩を幸せにする。
 四月の西日が部屋に差し込んでいるからか、先輩の手はとても温かかった。
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