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追憶の日向

 十一月の陽射しは雲間を割り、この教室の窓辺まで伸びている。
 窓ガラスの向こうでは葉を落とした木々が秋風に震えていたけど、室内は昼過ぎの光に十分に暖められて、ぽかぽかと良い心地がしていた。
 廊下の奥、少し離れた辺りからは賑わしい声が聞こえる。普段なら昼休み頃のこの時分、普段よりも騒がしく、華やかな雰囲気に満ちていた。
 客引きやウェイトレスや料理人に扮した生徒たち、違う制服を着ていたり、そもそも制服姿ですらない多数の来訪者。今日の東高校はかつてない人口密度を誇っていることだろう。
 それもそのはず。今日は我が東高校の文化祭だ。校外からもたくさんの来客を迎え、お祭り気分たけなわと言うところだ。楽しそうなざわめきや足音が廊下を過ぎて行く度に、普段とは違う校内の空気に、私でさえもがそわそわとしてしまう。
 落ち着かない気分とは裏腹に、この教室は、ここで行われている展示は、全くもって不人気だったのだけど――。

 せっかく、教室をまるまる一クラス分借り受けたと言うのに、文芸部の展示にはほとんど閲覧者が現れなかった。
 部の皆が試行錯誤を重ねて作り上げた珠玉の作品集は、傍から見ると地味で味気ない紙が貼り付けてあるだけにしか見えないのだろうか。今朝方からの来訪者は両手の指で足りるほどで、そのうちの半分は間違えて足を踏み入れてしまった人らしく、すぐに退散して行った。
 私のクラスの友人たちも、クラスで出している模擬店の準備の合間を縫って顔を出してくれたけど、作品を見て行く時間まではなかったようだ。そんな訳で私は、一人きりでのんびり、窓の外の景色を楽しむ時間を得ていた。
 他の部員たちは既にここを離れ、他所の展示を見に行っている。私は特にやりたいこともなかったので受け付け嬢を買って出た。どうせ騒がしいのは苦手だし、友人たちも皆忙しいと来ている。一人でふらふら歩き回るよりはここでぼうっとしている方が性にあっていた。幸い――文化祭前に作品を上げようと尽力していた部の皆からすればちっとも幸いな事ではないのだけど――ここには、私の好きな穏やかな空気と暖かな陽射しがあった。
 手元には最近購入したばかりの文庫本。景色に飽いたらこれを楽しむのも悪くない。ただ、本を開いてしまうと来訪者が本当に現れた時に困るだろうから、もう少しだけ待っていようと思う。

 今後も文芸部の展示に大勢の人が押し寄せる保証はどこにもない。むしろいつまでもここには閑古鳥が鳴いているだろう。だから私の懸念は杞憂と呼ぶべきものなのだろうけど――でも、知っている。
 もうすぐここには人が来る。
 大切なお客様。私はその人を待っている。
 約束はしていないけど、必ず来てくれるとわかっていた。だから、本は開かない。
 窓の外で震える落葉後の木々と、ガラスを透かす白い秋の陽射しとを眺めながら、小刻みで規則正しい何時もの足音が近付いて来るのを待っている。
 それはもうじき、もうすぐ、ここに――。

「暇そうだな」
 聞き慣れた足音の後に、もっと聞き慣れた心地良い低い声。
 決して愛想は良くないその声に、けれど私は顔を上げ、少しだけ笑んで応じる。
「はい、ご覧の通りです」
 教室の戸口に立った鳴海先輩は、私の言葉に片眉を持ち上げた。
「相変わらず、人気のない展示だな。いい加減止めてしまえば良いのに」
 OBにそう酷評されるくらい、文芸部の不人気ぶりは例年のこととなっていた。一説には美術部よりも人気がない、と言われているほどだ。美術部はまだ視覚的に華やかな印象を残すから、絵画に明るくない人でも楽しむことが出来る。だけど文芸作品ともなると、ふらりと入って目に留めて、吟味し、作品を理解するに至るまでの過程が長過ぎる。折角の賑やかなお祭りに、わざわざ硬い文学を楽しみに来る人はほとんどいなくて当然だろう。
「止めてしまうと、他にすることがなくなります」
 私がそっと反論すると先輩は肩を竦めて、
「いっそ茶屋でも出したらどうだ。一句詠んだら茶を一杯サービス、一首詠んだら団子をサービス、と言うのも面白い」
 なかなか建設的な意見を挙げたので、私はそれを記憶の中に刻み込んでおこうと思う。
「良いですね、それ。来年はそうします」
「本気にしたのか。……まあ、好きにすればいい。来年はお前が部長だろうしな」
 鳴海先輩の言う通り、文芸部には二年生の部員が私しかいない。後は一年生が二人、あとは引退してしまう三年生たちだけ。よって必然的に来年度の文芸部部長は私の役目となりそうだった。
「のんびり出来る場所があればいいなと思うんです。文化祭の間はどこもかしこも騒がしいから」
 私は立ち上がり、空いていた椅子を引いて先輩に勧めた。
「店番までのんびりしていたら何も成り立たないだろう。お前が給仕をすれば店が回らなくなりそうだな」
 椅子に腰を降ろした先輩は、そう言って苦笑した。
 つられるように私も、隣に座って笑い返す。
「そうですね、きっと」
 それから視線を、すぐ横の先輩へと向けた。
 タートルネックの黒いセーターが良く似合う先輩の姿は、この教室の中にあると少しばかり不思議な印象があった。校内に普段着の人がいる、と言うのはそもそも奇妙な感じがするけど、それが去年まで一緒に過ごしていた先輩だと尚のこと、そう思う。
 去年の文化祭も、我が文芸部はやはりこんな風に閑古鳥を飼い慣らしていて、東高校の制服姿の鳴海先輩は、ちょうど今みたいな仏頂面で空っぽの展示場を眺め遣っていた。去年の文化祭もまた、今日のように陽射しの暖かい日だった。色褪せずに記憶の中に、まだ埋もれていた。
 私の視線を感じてか、先輩は眉間に皺を刻んだ。
 それから静かに尋ねて来た。
「他の連中は?」
「部長たちですか? 皆、他所を回っていますよ」
 昼過ぎまでは私が留守番です、と告げると、鳴海先輩の表情がほんの僅かに――恐らく、私にしかわからない程度に和らいだ。
「そうか、良かった。――これは差し入れだ」
 ほっとしたような声と共に差し出されたのは、長らく後ろ手に隠されていた小振りの箱だった。
 それがドーナツのチェーン店の箱であると気付いた時、私は初めて空腹を自覚して、思わず声を上げた。
「ありがとうございます! お昼、まだだったのでちょうど良かったです」
「そうなのか? もう一時を回ったと言うのに」
「ええ、先輩と一緒に食べようと思っていて」
 私はドーナツの箱を受け取る。ずしりとなかなか、重たかった。
「俺が見に来ると思っていたのか。何も言わなかったはずだが」
 鳴海先輩は確かに何も言わなかったし、来るという約束もしていなかったけど、来てくれるだろうと思っていた。確証があった。
「絶対に来てくださると思っていました」
 強調して答えると、先輩は答えに詰まったように視線を逸らし、ややしばらく辺りに巡らせた後で、ドーナツの箱を指差し、言った。
「それはお前への差し入れだ。他の奴にはやるなよ」
「私一人では食べ切れませんよ」
 箱の重さを知っている私は、密に笑いを噛み殺す。
「いいんだ、お前一人を置いて遊びに行くような三年どもにくれてやる理由なんてない」
 鳴海先輩はいつものきつい口調で言って、その後でやや小さく言い添える。
「それに、お前がいなければこんなものは買って来なかった」
「……ありがとうございます」
 感謝を口にしつつも私は、結局ドーナツを皆にも配ることになるだろうな、と思っていた。そしてそれを、先輩は制止しないだろう、とも。

 暖かな教室で鳴海先輩とふたり、お祭り騒ぎを遠くに聞いていた。
 先輩は持参したドーナツをひとつしか食べなかった。後は『甘過ぎる』とひとこと零して、手を付けようとしなかった。そして私がドーナツを食べている間中、貼り出された展示作品を見て回っていた。
 私がドーナツを三つ食べ終えた頃、先輩も一通りの展示を見終えたところで、振り向くなり、
「お前の作品、初期よりかなり良くなっていたな」
 と言う言葉を向けられたので、思わず居住まいを正した。
「そうでしょうか。……先輩にご指摘いただいたところを直してみたんです」
 文芸部内でも互いの作品に対する批評は行っていたけれど、私の場合、それに加えて鳴海先輩にも作品を見て貰って、指摘を受けた箇所の手直しをしていた。これはとてもありがたく、幸せなことだと思う。何せ、我が文芸部が誇る偉大なOBによる批評だ。ためにならないはずがない。
 もちろん、初期のうちはそれこそ非常に手厳しい指摘ばかりだったことは否定しない。
「押韻を減らしたのは正解だったな。すっきりしていて読み易くなった」
「ありがとうございます」
「直喩を隠喩に変えたのも効果的で良い。やり過ぎるとくどくなるが、それは直喩にも言えることだ」
「はい」
 幾度の推敲を経て、今、ここに張り出されている私の掌編は、鳴海先輩のお気に召すものとなっていたようだ。
「読み易く、わかり易い。いい作品に仕上がったな」
 率直な誉め言葉に、私も素直に頭を下げた。
「先輩のお蔭です。いろいろとご助力いただきましたから」
「いや、違う。お前の力だ」
 鳴海先輩は小さくかぶりを振って、言い切った。
 微かに笑んだような柔らかい表情を向けられると、私は思わず声を失う。
 賜った言葉は過分とも思えたけど、今はその気持ちがうれしくて、異は唱えずに黙っていることにした。

 降り注ぐ午後の陽射しは強く、タイル張りの床を白く照らし出している。
 たけなわなお祭りの只中にあって、ここはしんと静まり返り、穏やかなのにどこか張り詰めた空気にも満ちていた。外の風の音さえ聞こえない。
 こうして、眼鏡のフレーム越しに見ている鳴海先輩は、陽射しを背にしているにもかかわらず、私に眩しそうな目を向けている。その見慣れたしかめっ面はいつもこそ手の届くところにあるのに、今日は遠い存在のような気さえしていた。
 きっと、先輩が制服を着ていないからだ。
 先輩がもうとっくに卒業してしまって、文芸部員でも、東高校の生徒でもなく、文化祭をふらりと尋ねて来るようなOBでしかないからだ。
 感じたことのなかった寂寥。先輩を見送った昨年度の卒業式でさえ、こんなことは思わなかったのに。私は俯き、先輩の足音が近付いて来るのを聞いていた。

 先輩は、私の隣の椅子に静かに腰を下ろした。
 溜息の後で長い沈黙。
 器用そうな手の指を組み替えたのがフレームの端に映る。
「去年のことを思い出した」
 そうしておもむろに切り出されたのは、意外な言葉だった。
 驚きに私は顔を上げ、鳴海先輩の横顔に目を留める。
 先輩は眩しそうに細めた目のままで、窓の外の光景を見遣っていた。
「お前、去年も留守番をしていたな。こんな風に」
「……はい。覚えて、おいでだったんですか」
 私はようやく、答える。
 去年の文化祭。文芸部の中で唯一の一年生だった私は、ほとんど必然的に展示場の留守番役を任された。そのことに不満はあっても文句は言えるはずもなく、こうして誰も訪れないような展示をたった一人で眺めていたのだ。
 そして窓の外の景色と、陽射しの美しさに気付いた――。
「俺が戻ってみると、一人でぽつんと窓際にいたな。あの時も暇そうにしていた」
 滅多にない、鳴海先輩が笑う声を聞く。
「確かに暇でした、去年も。先輩がいらっしゃるまでは本当に誰も来ていなくて」
「声を掛けたら、酷く驚いた顔をしてこっちを振り向いていた。あの頃は必要以上に怯えられていたような気がしていたが、違うか?」
「その通りです」
 私は笑って首肯した。
 去年の文化祭の頃はまだ、鳴海先輩と言えば怖い人と言う印象しかなかった。きつい物言い、低い声音、仏頂面に無愛想な態度――二つも学年の離れた下級生にとっては、畏怖すべき対象だった。

 その先輩に掛けられた声を、今でも覚えている。
『何をしている』
 窓の外の景色をただぼんやり眺めていた私は、それさえも咎められたように思えて酷く怯えた。まだ東高校の制服を着ていた鳴海先輩の、細い双眸が鋭くこちらに向けられるのを恐れた。
 あの頃は顔を合わせるだけで居た堪れなかった。二人きりでいるなんてもってのほかだった。
『あの、外を見ていました』
 私は、確かそんな風に答えたと思う。
『外?』
 先輩が聞き返し、眉間に皺を寄せたまま窓越しの風景を見遣る。
 ――その一瞬の表情。見たことのなかった穏やかな横顔。
 十一月の陽射しの中にあってその表情ははっとするほど険がなく、それでいて端正だった。こんな穏やかな面差しを、この人は窓の外の景色には向けるのかと思った。
 或いは目の錯覚だったのかもしれない。
 気のせい、だったのかもしれない。
 そのくらいあっと言う間の変化を、私は見たような気になっていた。
 それ以上、言葉は交わさなかった。
 鳴海先輩は先輩らしく、怯えていた私に一切のフォローもしなかったし、私は私で弁解の台詞も口に出来ないほどびくびくしていたけれど、あの日のことは決して不快な記憶ではなく、むしろ暖かな思い出として残されていた。
 窓の外に広がる晩秋の風景と、ガラスを透かす穏やかな陽射しと共に。

 自分でも不思議だった。
 あの日以来、鳴海先輩と接する度にうすぼんやりとその情景が思い出されて、先輩を恐れる気持ちが次第に薄れて行くようになった。全て掻き消えてしまうまでにはその後も酷く時間が掛かってしまったけど――思えばあの日が、私にとってのきっかけ、全ての始まりだったのだろう。
「先輩も、覚えていてくださったんですね」
 私が視線を上げると、あの日と同じように穏やかで、端正な面差しをした先輩と目が合った。
「まあ、何となくな。思えばあれが、お前とまともに口を利いた最初だったような気もしている」
「そうですね、きっと」
 あれで『まともに』と形容してしまう辺りが先輩らしいと思うけど、私は素直に、あの日のことが先輩の記憶のうちにもあったことを喜んだ。うれしかった。

 私たちはそれでまた押し黙って、恐らくはお互いにここから見える窓辺の情景を眺めていた。
 時折廊下を通り抜けて行く足音も、賑々しい遠くの喧騒もまるで気にせずに、穏やかな時を味わっていた。
 切り離されたように、ここだけは静かだ。全てあの日と同じように。


「――多分」
 長い沈黙の後、不意に鳴海先輩が口を開いた。
 ちらと見た視界の端、眼鏡のフレームの外で、先輩の表情は曖昧に映った。
「多分、あの時からだ」
 かすれたような低音が告げて、私はきちんと視線を向ける。
 聞き返す為に。
「え?」
 それは、先輩の言葉の意味をちゃんと捉えたかったから。
 もしかすると、私と同じように思っていてくれたのでは。もしかするとあの頃から既に、同じ思いを抱いていてくれたのでは――そうだったらうれしい。
 確かめたい思いで見つめたすぐ真横の表情。どこか戸惑いの色濃いそこに、至近距離からならわかる熱っぽさをも見つけた。
 視線が真正面からぶつかっても、先輩はすぐには口を開かなかった。
 結局、口は開かなかった。

 代わりに長い指が私の顎を、そっと、持ち上げたかと思うと、すぐに柔らかい熱が唇に触れた。
 優し過ぎるほどゆっくりと塞がれた。

 唇が離れると、むしろ熱は引かずに上がったような感覚を覚え、ぼんやり痺れる頭を思わず押さえる。
 俄かには信じられない思いでいた。
 だって、先輩が。
 あの鳴海先輩が、よりにもよって学校で、教室の中で、私に――。
 私の視線を受けて、しばしの間先輩は困り果てた面持ちでいたけれど、やがて思い当たったと言うように口元に手をやった。
「忘れていた。ここは学校だったな」
「……そうです」
 母校の文化祭を訪問しておいて、こんな大切なことを失念するなんてない。先輩らしくもない。
「誰かに見られたらどうするんですか。もうすぐ、部長たちも戻って来るのに」
 すぐ外の廊下には今も絶えず足音が聞こえている。賑やかな声は遠いけれど、確かにある。届いている。
 私は先輩とのことを特に誰にも隠しだてしているつもりはなかったけど、それとこれとは別問題。先生にでも見つかれば一大事になりそうだ。真面目そうに見えていた女子生徒が、こともあろうか東高校のOBを人気のない教室に連れ込んで白昼堂々――などと。
「悪かった」
 まるで悪戯を見つけられた子どものような表情をした鳴海先輩は、そう詫びてみせた後で、ふと言葉を添えて来た。
「我慢が出来そうになかったんだ、お前を見ていたら、……つい衝動的に」

 先輩の言うことは時々、本気なのか冗談なのかわからない。少なくとも今のは、額面通りに受け取るのが難しい言葉だと思った。もし言葉の通り、そのままの意味だとしたら――どう受け止めるべきなのか。考えようとするだけでどぎまぎして、何も考えられなくなる。
 それにしても十一月だと言うのに、ここに差し込む陽射しは暖かで、眩し過ぎて、むしろ暑いくらいだ。
 気まずい沈黙を抱える私は、このまま誰一人としてここには現れないでいてくれたらいい、と思った。ずっと先輩と二人きりでも、今なら構わない。
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