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末遂ぐことに思いを馳せて

 鳴海先輩の名前が、地方新聞の一面を華々しく飾ったのは夏休みが始まる直前のことだ。

 例の、先輩が高校時代より狙い続けていた文学賞の受賞者を報じる記事。私はそれを感慨深い思いで読み、今は切り抜いて、自室の壁に飾っている。その為に購入したフォトフレームに入れているのだと言ったら、先輩には鼻で笑われた。
 この町出身のと或る作家が設立した例の文学賞は、全国的には知名度がさして高いものでもない。けれど地元を賑わせるにはそれでも十分過ぎるほどだったし、私の学校の友人たちもそれを知って、共に寿いでくれた。
「先輩、すごいねえ。新聞見たよ、おめでとう!」
「ヒナもうれしいでしょ? ずっと支え続けて来たんだもんね」
 そんな言葉を向けられて、私は僅かに苦笑する。皆も大仰なもので、まるで糟糠の妻のような扱いをしてくるものだから、少し照れる。
 私があの人にしてあげられたことはほんの少しだ。あの人の作品を下読みし、冷静で客観的な批評をし、そうして推敲を重ねる先輩の傍らにいて、その精神的支えになろうとした――なっていた、とは言えない。振り返れば、支えられていたのは私の方であるように思えるから――ただそれだけ。
 全ては先輩がその才藻と努力とで獲得し得たもの。
 ――私は傍らで、見守っていたに過ぎない。

 私にとって何よりも幸いだったのは、先輩の才が認められたことでも、その名前が周囲に広く知れ渡ったことでもなく、友人たちに肯定的な意味合いでその名を口にして貰えるようになった、と言うことだった。
 今まで、鳴海先輩と言えば、『怖い』か『厳しい』か『頑固』か、或いはそれら全てを併せ持った性質としてより語られて来なかった。たとえその人が私の『彼氏』であったとしても、友人たちはこの点に関しては実に率直な感想を告げて来た。私たちの関係を心配してくれさえした。余計な気遣いだとは思わなかったけど、そうまでされるほどの懸念がある訳でもないのだ、実のところ。
 誰も知らない先輩の性質を、きっと私だけが知っている。
 先輩がああいう苛烈な気性で、物言いが厳しく、いささか自己中心的な人であっても、私たちの関係は至って安定している。あの人はとても可愛い人だ、それを間近で見つめていられる私は、とても幸いなのだと思う。
 もちろんそんなことを声高に語るつもりはない。照れてしまうから。

「最近は上手く行ってるの? 先輩と」
「って言うか、そろそろ教えてよ。ヒナはどうしてあんな人と付き合ってるの?」
 友人たちがそう、質問をぶつけて来るのは相変わらず。
 その度に私はただ笑うだけ。笑いつつ、上手く行ってるよ、心配しないで、と短く答えるだけ。好きだから交際しているのだ、なんて、臆面もなく言えるような気概は持ち合わせていないし、あの人の可愛らしさを語る度胸も未だない。
 ましてや、――夏休みに入ったら、ふたりで旅行に行く予定だ、などとは到底打ち明けられる筈もない。事後報告にしよう、と心に決めた。


 先輩に対する評価の変わりようは、もちろん私の友人たちだけに限ったことではなかった。
 終業式の日、放課後に文芸部の部室へと立ち寄ろうとした私は、廊下で或る人に呼び止められた。
「柄沢さん」
 高いソプラノの声は、国語科の村上先生のものとすぐわかる。
 振り向くと、小柄で細身の女教師が、薄化粧の顔に控えめな微笑を浮かべていた。
「新聞で見たわよ、鳴海くんのこと。おめでとう」
「……はい」
 私は面食らった。
 別に秘密の交際ではないし、周囲にはきちんと話していることではある。けれど、教師から機微に触れる内容を告げられるのは抵抗があった。まるで関係の全てを見透かされているようで、酷く気まずい。
 それに、村上先生と鳴海先輩とは浅からぬ因縁がある。今でも村上先生の名前を出す時、先輩はいつにないしかめっ面を見せるのだ。
 かつて自分を言い負かした生徒のことを、先生はどう思っているのだろう。紅の引かれた唇の形からは判別付き難い。
「あぁ、ごめんなさいね」
 先生は眉尻を下げて、
「あなたたちのことは、その、噂で聞いているのよ。お付き合いしているんでしょう?」
 骨ばった手で、ウェーブがかった豊かな髪をかき上げた。
 教師でも、生徒の噂話に耳を傾けることがあるとは。私は心中で苦笑する。
「新聞に、見覚えのある名前が載っていたから、見つけた時は、ああやっぱり、って思ったのよ。あの子は何かやってくれる子だって。本当に素晴らしいわね」
 村上先生の口調は軽やかで、わだかまりがあったようには感じさせない。
 今度は違う意味で面食らい、私は黙って話を聞いていた。
「思い出すわぁ」
 村上先生の眼が遠くを見る。
「昔ね、授業中に、鳴海くんと議論になってしまったことがあったのよ。あれは古典の授業だったかしら」
 七月の空気の中で――すうっと、背筋に冷たさが走る。
 私の顔が強張ったのは気取られなかっただろう、先生はこちらを見てはいないから。
「授業中で、他の生徒もいたって言うのに、激しい論戦になってしまってね。お互いに自分の意見が正しいと思っていたから、一歩も引かなかった。そうしたら彼が、私の意見の綻びを見つけて、結局ものの見事に言い負かされてしまったのよね。あの時は酷く悔しい思いをしたものだけれど」
 さすがに、泣かされたのだとは言わなかった。言えるものでもないだろう。この人だって少なからず自尊的だ。
「あの頃から思っていたのよ。彼は何かやってくれる子だって」
 その言葉が肯定的なニュアンスで語られたことには、ほっとした。
「勝気で、物言いがきつくて、教師に対しても厳しい子だったけれど、可愛い生徒だったわ」
「――可愛い、ですか」
 思わず私は聞き返し、村上先生から満面の笑みでの頷きをいただく。
「ええ、そうよ。教え甲斐のある生徒だったし、そりゃあ時々は憎らしく思えてしまったこともあるけれど、振り返ればいい思い出しか浮かばないのよ。可愛らしい、いい子だったなってね。とても印象深いの」
 僅かながら。
 私は眉を顰めた。先生の言葉の信憑性を疑ったのではなく、あの人について、『可愛い』と言う印象を持つ人がいた、と言うことに。それが私だけではなかった、と言うことに、驚いていた。ましてや村上先生がそう思っていただなんて。
 私だけだと思っていたのに。
「元気でいるんでしょう? あの子」
「え? はい、あの、お蔭様で」
 驚きを心の隅に残したまま、慌てて頷く私に、
「時間を見つけて、たまには顔を出してちょうだい、って伝えて貰えるかしら?」
 あくまでもにこやかに村上先生は言う。
 もう一度私は頷き、それから場を辞そうとして、
「柄沢さん」
 再度呼び止められる。
 廊下に差し込む午後の光の中、薄化粧の笑顔が私を見ていた。穏やかな、年配女性の顔。
「あなたは狙わないの? 文学賞」
「いえ、私は、先輩のようには出来ません」
 微苦笑でかぶりを振った私に、先生はそうかしら、と残念そうに小首を傾げた。

 自分の実力は、自分が一番よく分かっている。
 先輩の隣にいると言うことは、それを身に染みて理解させられる、と言うことでもある。
 悔しいとは思わず、当然のこととして受け止めている私は、いささか向上心に欠けるのかもしれない。鳴海先輩とは、ちっとも似ていない。


「――と、村上先生がおっしゃってました」
 私が終業式の日の会話を詳細に伝えると、鳴海先輩はこれ以上ない程に不愉快そうな顔をした。
「だからどうした」
「夏休み中に、顔を見せに行ってはどうですか」
「断る。何でわざわざ気分の悪い思いをしに行かなきゃならないんだ」
 言って、顔を背ける先輩。景色の流れ行く車窓に、その苦虫をまとめて噛み潰した表情が映り込んだ。
「会いたがってましたよ」
 とは応じつつ、私も強く勧めたいわけではなかった。
 これは幼い感情のひとつで、好きな人ほど苛めたくなると言う心理だろう。村上先生の名前を出されて不愉快そうにしながらも、どこか居心地の悪そうな先輩の態度が面白い、と思ってしまう。
 その他に、抱いている感情もなくはなかったけど。
「願い下げだ」
 きっぱり言い切った先輩は、その後車窓を見つめたままで呟いた。
「……折角の旅行だって言うのに、どうしてあの教師の名前を口にする?」
 私はそれには答えずに、夏物のスカートの膝の上、ちょこんと乗っている小振りのトランクに視線を落とした。
 そうだ、折角の楽しい旅行。先輩の機嫌を損ねるのは得策じゃない。
 お互いに口を噤めば、電車がレールの上を走る規則正しいリズムが心地良く響き出した。それはまるで鼓動のような音をしている。

 ――旅行と言っても、今回のそれはやはり日帰りだ。
 私からすれば鳴海先輩と一緒なら、どこへでも、いつまででも構わないと思っている。でも、石頭の先輩は日帰り旅行にすると言って譲らなかった。生真面目な人だから、少し残念だけど仕方がない。
 とは言え、私もこの度のことは友人たちにも打ち明けていなかったので、アリバイ工作を頼めないと言う観点からも日帰りと言う選択は正しかったと思う。うちの両親も放任ではないから、その辺りは扶養に入っている身として考慮しなくてはならない。
 行き先は、電車を二本ほど乗り継いで向かう、郊外の森林公園。夏休み中の今は街中ならばどこも混み合っていると予想される。人混み嫌いの先輩の為にもできる限り遠くの目的地を選んだ。涼を求めるにもきっと最適の場所だ。
 折角の旅行、と先輩は言った。僅かなりともこの旅行を楽しみに思っていてくれたのなら嬉しい。私は昨晩、ほとんど眠れなかったくらいに楽しみにしていたから。

 私たちにとっては、これが初めての遠出だった。

 車窓から見える景色は、だんだんと緑の濃さと多さを増しつつあった。街を少し離れてしまうと、この辺りにはまだ人の手の入らない自然が多く残っている。
 青空の下に広がる野山は夏の陽射しに照らされ、彩り豊かに映える。空色と緑のコントラスト。その情景を電車が走り抜けると、雲はなびき、草原は毛並みを震わせるように波を立てた。
 今日は絶好の行楽日和だ。
 陽が照り過ぎているから、きっとインドア派の先輩は何かと文句を言うだろうけど。

「――陽射しが強いな」
 先輩が絶妙なタイミングで言ったので、私は思わず吹き出した。
 途端、こちらに視線を転じた先輩は、
「どうして笑う?」
 訝しげに眉根を寄せる。
 おかしさを堪えながら、どう説明すべきか迷った。
「ええと、あの。思い出していたんです」
「何を」
「村上先生のおっしゃったことです」
「またその話か。止めてくれ」
 手加減なく睨まれつつも私は、眼鏡のレンズ越しに先輩を見つめ返して、
「私以外にも先輩のこと、『可愛い』と評する人がいたなんて、思わなかったんです」
 と言うと、今度はすぐさま目を逸らされた。
「……その評価も止めてくれないか」
「嫌です」
 だって、事実だから。
 事実として先輩は可愛い人だ。こうして照れ隠しに顔を顰めて見せる様子もまた。
 ただ私はそれを、私だけが知っている真実及び秘密だと思っていたから、村上先生が同じように思っているのはあまり気分のいいものではなかった。むしろ嫌だ、と思った。
 全く矛盾した感情だ。先輩のことを悪しざまに言われると腹が立ち、誤解されていると知ると複雑な思いに駆られるのに、誉められたら誉められたで妬いてしまう、というのは。
「私だけかと思っていたのに」
 悔しい思いで笑う。
 独占欲の強さにおいては、他の恋する女の子たちに負けずとも劣らぬつもりだ。威張れることではないにせよ。
「くだらないことを」
 鳴海先輩は一笑に付した。いささかぎこちなく。
 そうしてその後で、窓の外を見ながら言った。
「多分、違う」
「何がですか?」
「意味が、だ。村上の言ったことと、お前の言っていることと」
 その時ちょうど、電車がトンネルに踏み込んだ。
 闇に閉ざされた外の景色。窓ガラスには、どこか不満気な先輩の顔が映っている。それは幼いものにも見えた。
 薄い唇がゆっくりと、窓ガラスの中で動く。
「何度か、話したな。村上と授業中に議論になったことを」
「はい」
 議論、と言うか、論戦だとも聞いている。あのエピソードは校内でも割と有名で、友人たちからも時々真偽の程を尋ねられる。
「あの後俺は、村上を毛嫌いしていた。俺の言うことを端から聞く耳持たなかったばかりか、自論の矛盾点を指摘されて行き詰まると、こともあろうに泣き出しやがった。ああ言う相手と議論は二度としたくないと思った。嫌いなタイプだった」
 厳しい口調が、直後僅かに和らいだ。
「だが村上はと言えば、翌日には何事もなかったかのように俺に接してきた。いや、それどころか俺との議論を『楽しかった』と言ってのけた。また是非意見を聞かせて欲しい、と」
 それは初耳だった。
 自尊的なあの教師は、或る面では柔軟でもあったようだ。
「つまり――」
「つまり?」
「――あの教師にとっての俺は、たとえどんなに論破されようとも同格以上と見做せはしない存在だ、と言うことだ。教師にとって、生徒はいつまで経っても生徒なんだろう。言い負かされようが、卒業してしまおうが、社会的に自立したとしてもだ。だからこそ気色悪い評価をされているのだと俺は思う」
 私は思わず目を瞠った。
 村上先生の態度と、それを評する先輩の冷静さ。全てが意外だった。
 先生の言う『可愛い』は、つまり子供扱いなのだろう。そしてそれは半永久的に持続する。先輩が年を取ろうとも、どんな大人になろうとも。
 だからかもしれない。鳴海先輩が村上先生に会いたくない理由。自分がまだ子供であると、そしてあの人の前ではずっと大人にはなれないのだとわかっているから、それを認識したくはないから、なのかもしれない。
 私にとってはどちらも、追い着けそうにない年上の人たちだ。
「それなら」
 と私は口を開き、
「私の言う『可愛い』は、どう言う意味かご存知ですか」
 そう尋ねた時、タイミングよく次の停車駅を報せるアナウンスが入って、同時に電車が速度を緩め始めた。
 周りの席で人が動き始める。網棚から荷物を下ろす人、羽織物を脱ぐ人、帽子を被る人、皆が慌しく支度をする。
「お前の考えていることは、大抵よくわからない」
 ぼそりと先輩は言って、私の膝の上にあったトランクを、断りも入れず持ち上げた。その手の器用そうな造形に、私は笑いを噛み殺した。

 森林公園には、木々の匂いをたっぷり含んだ涼風が吹き抜けていた。
 枝葉の間をすり抜けた陽光、切り紙細工のような影が映る散歩道を、ふたりで並んで歩く。
 蝉の声よりも高く、鳥のさえずりが木立の向こうから聞こえてくる、静謐の空間。

「随分と重いカバンだな」
 私のトランクを提げた先輩が、ぼやくように言った。
 インドア派の文学賞受賞者に腕力まで期待するつもりはないものの、あまりにも情けない声に聞こえて、また吹き出しそうになる。
「笑うな」
「すみません」
 慌てて噛み殺すと、先輩は恨めしげな視線を向けて来た。
「一体、何が入っている?」
 それはいつ、どこで明かそうか思案していたことだ。
 太陽は中天へと懸かる頃。ちょうどいい、とばかりに私は打ち明けた。
「実は、お弁当を作って来たんです」
「……真夏なのにか?」
 即座に返った鳴海先輩の反応は、率直と言えば率直であり、先輩らしいといえばまたそうでもあったけど、私にとってはいささか冷酷に感じられた。
「その辺りは抜かりありません。保冷材を入れて来ました」
「手が込んでるな」
「もちろんです。初めての旅行ですから」
 私は力を込めて頷き、それから、眼鏡のフレームに触れる。
 先輩はと言えば呆れた様子で眉を顰めている。
「いつ、作ったんだ?」
「朝ですよ。五時に起きて」
 駅での集合時刻は朝の八時だったから、それに間に合うように。
「無駄な手間を。誰も頼んでもいないのに」
 呟くのが聞こえたので、即座に私は尋ねた。
「ご迷惑でした?」
「いや、そうは言ってない。ただ面倒なことをするものだ、と呆れているだけだ」
 どうしてか、先輩の口調が早くなる。
 私は知らないふりで応じる。
「面倒ではありませんでしたから。でも、食べていただけないなら、持って帰ります」
「食べないとも言ってない」
「無理しなくてもいいんですよ、先輩。家でお夜食にしますから、私は平気です」
「無理じゃない。勝手に話を進めるな」
 何故か歩くスピードを速めた先輩は、やがて小道の脇に見えてきた丸太造りのベンチを指差すと、
「小腹が空いた。今すぐに昼食にする」
 むっつりとした仏頂面で宣言した。
 駆け足気味にそれに追い着いた私は、すかさず言った。
「そんな、気を遣って貰わなくても――」
「お前、わざと言ってるだろう?」
 見抜かれていた。

 日陰のベンチに肩を並べる。
 屋外に出ると途端に距離を取りたがる鳴海先輩との間に、トランクから取り出したお弁当を置く。保冷材のお蔭でよく冷えたサンドイッチと、水筒に氷と一緒に詰めて来たレモネードは、真夏の陽射しを浴びた身体に心地良かった。
「お口に合うといいんですけど」
 私が言うと、先輩はサンドイッチを手に眉間に皺を寄せたまま、
「善処する」
 と短く言った。
 ――善処? 何を? 口の方を合わせる、とでも言いたかったんだろうか。相変わらず誉めることはあまりしない人だから、期待はしていない。
 だけどそれでも、一言あったら嬉しいと思う。
 鳴海先輩の食べ物の好みはわかり易い。胃に優しいものが好きで、もたれそうなものは苦手。だからサンドイッチの具もゆで卵やジャムがメインだ。自分用にはBLTサンドも作った。
 独り暮らしの先輩はちゃんと自炊もしているらしい。健康に留意しているという点では頼もしい限りだけれど、彼女の立場からすると手料理を披露する機会が全くないのは心寂しくもあった。逆に一度、夕食に煮物料理を振る舞われた時は、あまりの上手さに絶句した。私の立場がない。
 だから、今日こそは。
 初めての遠出記念日が、同時に手料理記念日ともなりますように。
「――悪くないな」
 サンドイッチをまずひとつ食べ終えた先輩は、小声で言った。
 私が顔を覗き込もうとすると、大仰に背けられた。
「美味しいですか?」
「だから、悪くない」
「美味しくないなら無理に食べなくてもいいんですよ?」
「……わかった。美味しい」
 軽く両手を挙げて降参のジェスチャーを見せた先輩に、また少し笑ってしまった。素直じゃない鳴海先輩から、本音を引き出そうとするやり取りを楽しむ余裕も生まれてきた。つい最近のことだ。
 一時、迷ったこともある。先輩の本心がわからず、逆に先輩を傷つけてしまったこともあった。紆余曲折を経て辿り着いた穏やかな時間がここにある。
 今だって、一般的な恋人同士からは程遠いのかもしれない。私たちの間には、まだ糖分が不足しているのかもしれない。
 だとしても――私は、幸せだ。先輩の隣にいられることを、とても幸いに思う。
 だからもう迷うことはない。
「さっきの、村上の話だが――」
 先輩の方から口にして来るとは思わなかった名前。
 私がはっと顔を上げると、僅かに傾いたレンズの向こう、複雑な面持ちの先輩がいた。
「お前は挑戦しないのか、例の文学賞に。或いは他の公募でも」
 確かに村上先生にもそう尋ねられた。でも。
「私はさすがに」
 文芸部員の末席を汚している私は、それだけに自分に才藻のないこともよく知っていた。好きだから続けてはいるものの、あくまでクラブ活動の範囲を出る事はないだろう。先輩にとっての良き批評者でありたい。その為だけに日々研鑽しているようなものだ。
「入賞は無理でも、勉強になるぞ」
「いえ、いいんです。部の中には狙っている子もいましたけど、私は来年になっても、応募できるレベルには届かないと思います」
「一応、書いてはいるんだろう?」
「ええ、まあ。文化祭用にですけど」
 私は少しはにかんで、その笑みを先輩へと向けた。
「向上心のない奴は、お嫌いですか?」
 意外にも先輩は、目を逸らさずに答える。
「俺はお前に向上心がないとは思っていない。だから聞いたんだ」
 先輩もきっとわかっている。私には先輩ほどの才能はない。欠片ほどもない。だけど、私の努力は認めてくれている。そのことが、嬉しい。
「……ありがとうございます」
 頭を下げると、溜息混じりの声が降ってきた。
「お世辞と思うなよ」
「わかっています」
「書き上がったら一度読ませろ。批評してやる」
 鳴海先輩の批評が厳しいことは言うまでもなく、私は内心苦笑した。
 先輩にとっては、文学賞の入賞も通過点のひとつなのだそうだ。受賞の知らせがあった時、一番に私に連絡をくれた後でそう言っていた。
 鳴海先輩の志はもっと高いところにある。向上心と言う点では、もちろん敵わない。これからもきっと、先輩は更なる高みを目指して行くのだろう。
 では私は?
 そんな先輩から、少なくとも向上心のみは認められた私の目指すべきところは?
「卒業後の進路は決めたのか?」
 幾つか目のサンドイッチを手に取った先輩に問われ、私はしばし思案に暮れた。
 それからふと思いつき、言った。
「では、糟糠の妻を目指します」
 もちろん笑って言った。
 にもかかわらず、鳴海先輩は村上先生の話をする時よりも更に険しい表情になって、
「……誰の?」
 鋭く尋ねた。
 誰のって、他に誰がいると言うのだろう。
 先輩は時々、それも天才的に鈍いから困る。
 ふと過ぎった意地の悪い思いが、私にこんな答えを紡がせた。
「秘密です」
 たちまち落ち着きを失った先輩は、食べかけのサンドイッチを手にしたまま、いつになく不安げな眼をこちらへと向けた。
「雛子、それは、一体どういう――」
 可愛い人。
 さて、真実を告げるべきか。それとももう少し焦らしてみようか。
 初めての遠出記念日が、逆プロポーズ記念日にもなってしまうのは、やはりいささか尚早であるようにも思うけど、どうだろう。
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