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結実までの日々(3)

 私と鳴海先輩は、それまでよりも話をするようになった。
 と言っても、相変わらず私の方から声を掛ける機会は少なかった。先輩も今までより親しげに振る舞うとか、いくらかでも柔らかく接してくることはまるでなく、いつでも毅然と用件だけを告げてきた。
「柄沢、その本は今日中に読み終わるか?」
「は、はい。下校の時刻までには」
 私が答えると満足げに尖った顎を引く。
「そうか、なら後で感想を聞かせてくれ」
 話しかけてくるのは部室に二人でいる時のみ。他に誰かがいる時は、今まで通りに挨拶程度のやりとりしかしない。正直、先輩のような人が他の部員の目を気にするのは意外だったけど、勘繰られるのが煩わしいと思っているのかもしれない。私としても、鳴海先輩と読書感想の交換を始めたことを他の先輩たちに知られるのは面倒だったし、あれこれ問いただされるのも嫌だと思っていたから、それでよかった。
 いつの間にか名前もしっかり覚えてもらっていた。先輩が私を呼ぶ時、いちいちネームプレートを確かめることもなくなった。

 私も、鳴海先輩についていくつか知ることが出来た。
 まず一つ。先輩は『作者の意図を汲む』という読み方があまり好きではないらしい。作中で訴えたかったこと、伝えたかったことを推測しながら読むのはつまらないし、無意味だと言い切る。
「作家一人に対して読者は大勢いて、思想や価値観も多様なのに、読み方や解釈を仕着せさせられるのはおかしい。各々が好きなように読めばいいし、好きなように受け取ればいい」
 先輩のその発言は、読者としてよりむしろ創作者としての意思なのだろうと思う。縛ることも縛られることも望まず、ただただ紡ぎ出されていく文章を、読者の拾うに任せておきたいのだろう。それはいかにも頑なで隙のない、先輩らしい考え方だ。
 私は読書をする上で、作家の意図やバックボーン、あるいは訴えかけたいテーマなどを推し測る方だったから、その点では先輩と意見が合わない。私がそういう観点から感想を述べると、得心しかねるといった顔をされた。
「疲れる読み方をするんだな、お前は」
「そうでしょうか……。作品から作者の考え方や、人となりに思いを馳せるのも面白いと思うのですが」
「他人のことなんて、そう容易く理解出来るものか」
 先輩はばっさりと切って捨てようとしたけど、
「確かに、私の本に対する理解や共感は読み誤りに過ぎないのかもしれませんけど、それも『好きなように解釈する』うちに含まれると思います。誤解であっても、あれこれと想像をめぐらせるのが楽しいこともありますから」
 びくびくしながら異を唱えれば、俄かに真剣な面持ちになる。
 こちらが臆したくなるほど険しい視線を向けてきた後で、低く唸った。
「なるほど、誤解を恐れないのも意義ある読み方のうちか。それなら俺も試してみることにする」
 鳴海先輩はある点ではとても謙虚だ、というのも最近知った事柄の一つ。
 ――もしかすると『謙虚』という例え方が相応しくないのかもしれないけど、先輩は読者としても創作者としても自信家で、自己中心的でありながら、一方で他人の意見を受け止める柔軟さも併せ持っていた。
 ある時、先輩は鞄から綴じられていないルーズリーフの束を取り出し、読んでみてくれと私に手渡してきた。これは何ですかと尋ねてみれば、先輩自身の草稿だという。
「文化祭に出す作品の下書きだ。まだ未完成だが、是非とも柄沢の意見を聞きたい」
 折りしも十月が終わろうとしていて、十一月の末には文化祭が催される予定だった。文芸部の活動内容は作品の展示と部誌の発行で、先輩もその為の執筆に励んでいるらしい。
 私にとって鳴海先輩は、創作者として憧れであり、心惹かれてやまない対象だった。その人から草稿を読ませてもらえるという名誉に、私は危うく浮かれてしまうところだった。浮き足立たずに済んだのは、先輩が生真面目な口調で、強く念を押してきたからだ。
「以前のような、身にならん感想は要らないからな。遠慮せず率直に感想を言え」
 そうはいってもどうして遠慮せずにいられようか。いささか無茶と思える前置きに、私はびくびくしながら草稿を読み終え、出来得る限り率直に表現の硬い箇所や、文章の上手く繋がっていない点を告げた。すると先輩は、思いのほか素直にそれらの指摘を受け止めてみせた。
「お前の言う通りだ。直しておく」
 拍子抜けしたくなるほど、先輩は指摘や批評に対しては柔軟に応じてきた。書くものに対して自信があるようなのに、それでいて他人の言葉を聞く耳も持っている。そんな先輩の態度に私は、ますます憧憬の念を強めた。
 ただ、そういった交流を持つことが必ずしも楽しいばかりとは限らない。
 そもそも私と先輩のやりとりはいつも用件のみで終わる簡潔なもので、部室にいる時間のうち正味十分ほどに限られていた。それも毎日ではないから、仲良くなったという実感はまるでない。読書と創作について以外の話をする機会もなかった。
「柄沢の意見、参考にしよう」
 会話を打ち切る時、鳴海先輩は傲然とした物言いをする。いつも一方的に打ち切られていた。そういえば感想を述べたことでお礼を言われたこともない。別に感謝して欲しいと思っている訳ではないけど――ただ、寂しい気分にはなった。
 先輩自身が言ったように、他人のことは容易く理解出来るものではない。先輩は作品から推し測るのも難しいくらいに頑なで、隙がなかった。
 だけど私は誤解したくなかった。誤解をして、先輩が冷たい人なのだとは決して思いたくなかった。だからもう少し、知りたいと思っているのに、先輩の傲然さに対して、私は未だに卑屈で臆病だった。

 そうこうしているうちに十一月に入り、文化祭の時期が訪れた。
 文芸部は予定通りに部誌を発行し、教室を一つ借り受けての展示も行っていた。しかし客入りはお世辞にもいいとは言えず、閑古鳥の鳴き続けている有様だった。文化系クラブの中でも文芸部はとりわけ地味な方だし、ほうぼうのクラスや部活動で華やかな模擬店が出ていることを考えればやむを得ない結果だろう。
 私も、本音を言えばクラスの展示の方に携わりたかったのだけど、そこは一年生部員の立場の弱さ、発言権のなさが災いして、展示場の受付を任されてしまった。要は先輩たちがよそを回っている間の留守番役だ。不満はあっても言えるはずがなく、私は一人でその役目を仰せつかった。
 受付業務は酷く退屈だった。というより、業務を果たす機会はほぼなかった。文化祭開始から部員以外の来訪者は十人に届かぬほどで、しかもその半数が間違えて足を踏み入れた人だった。ちらと覗いただけで去っていく人たちを見ていれば溜息をつきたくなる。せっかくだから読んでいってくれればいいのに。皆、頑張って仕上げた力作揃いなのに。特に鳴海先輩の作品は――。
 私は、やはり好きだった。先輩がどんな人でも、どんなにすげない態度を取られても、先輩の書くものには強く強く惹きつけられた。文化祭までに幾度となく改稿を重ねてきた短編は、昨年度の作品よりも更に研ぎ澄まされていた。文章は無駄がなく、それでいて玲瓏だった。その上今回の作品には、昨年度にはなかった瑞々しさが加わっているように見えた。硬質で乾いた文章の中へ、透き通った水を含ませたような――そんな感想では当の先輩からはちっとも喜ばれないだろうけど。
 先輩は、私の作品を読むと言ってくれた。もちろんこれは文芸部員全員の義務のようなもので、部誌に載った作品を一通り読んで感想を送り合うのが毎年の風習らしい。となると私の感想も二言三言求められるはずだから、後で繰り返し読み返しておかねばならない。手放しの賞賛ではない意見を渡さなければ。
 でも今は、そういう気分でもなかった。難しいことを考えるより、素直な気持ちを押し隠すよりも、ただただ美しいものに浸っていたかった。

 教室の一辺を占める広い窓の向こう、木々が風に震えている。空を覆う雲の流れも速く、そのお蔭か絶え間なく陽射しが降り注いでくる。秋の終わりの日の光は、風の吹き込まない室内をゆっくりと温めていた。
 私はいつしか受付を離れ、窓辺に立ち、銀色のサッシで囲われたガラス越しの風景を眺め始めていた。ここまで来ると強い風の音も聞こえてきたけど、代わりに校舎の賑々しさがまるで届かず、かえって穏やかな場所に思えた。
 十月の生まれだからか、私は秋の風景が好きだった。葉の落ちた木々は緑で覆い隠されている頃よりも力強く見えたし、風を受けた姿は寒々しいながらもしなやかだ。高い空が夏よりくすんで見えるのも、陽射しが冬の気配を予感させるように白っぽいのも、この季節らしくていい。微妙な色を表現する言葉は豊富にあるけれど、今、眺めている窓辺の風景をひとまとめにして表現する言葉はきっと、ない。
 銀色のサッシは鈍く光り、タイル張りの床は広く照らされている。少し眩しい。なのに目を逸らせなくて、私は窓に張り付くようにじっとしていた。風の音しか聞こえない間は、しばらくそうしていた。
 別の音が――声がするまでは。
「何をしている」
 いつものように熱のない、無愛想な声だった。
 さっと、血の気が引いたように思えた。日向にいながら私は震え上がり、だけど大急ぎで振り向いて、教室にいつの間にか立ち入っていた鳴海先輩の姿を認める。
 照らされた床の上に立つ、先輩はこちらを見据えていた。やはりいつものように姿勢のいい立ち姿で。視線を急に転じたせいか、表情は上手く判別がつかなかった。
 でも、咎められたのだととっさに思った。留守番役を仰せつかったはずの私が、受付を離れて窓辺でぼんやりしていたことを、生真面目な先輩なら許しはしないだろうと。
「す、みません……」
 詫びの言葉はかすれ、恐らく聞こえなかっただろう。私は怯えながら語を継ぐ。
「あの、外を見ていました」
「外?」
 聞き返す声はさっきよりも鋭くなかった。むしろ本当に不思議そうで、こちらに数歩近づいてきてからすぐ、眼差しが窓の向こうへ転じられた。その頃には私の目も慣れ始めていて、先輩の表情がようやく、わかった。
 眉を顰めた面差しが、僅かに緩んだ瞬間。
 秋の陽射しは厳しい人から険を奪い去ってしまった。私の真横で風景に見入る先輩の顔は、感情が和らぐとひたすら端正に映る。これまでは見たこともなかった。
 鳴海先輩は、穏やかな顔もする人だった。
 まだ、外を見ている。秋の窓辺に見とれている。知らなかった、先輩がこんな顔をするということ。風景に対しては険しさや頑なさを脱ぎ捨てられるのだということ。私はまだ怯えながらも、同時に確信していた。
 先輩は美しいものを知っている人だ。何かに惹かれたり、見とれたり、心揺らされたりする人だ。類まれなる才能とは別に、そういった感情の動きをもごく普通に、当たり前に持ち合わせていて、だからこそ美しく感性豊かな文章を綴ることが出来るのだろう。
 私と先輩はまるで違う人間だけど、考えていることを推し測れないくらい掛け離れた人間だけど、でも同じ風景に見とれていた。
 だから、きっと、冷たい人ではない。
 先輩のことは何も知らないけど、どんな人生を送ってきたのか、どんな家庭環境で育ってきたのか、なぜ東高校に通っているのか、残り少ない高校生活をどんな気持ちで過ごしているのか――何も知らないけれど、この時は思った。
 先輩は冷たい人ではない。

 穏やかな横顔を見つめていられたのはそう長い時間でもなく、直に先輩はこちらを向いた。それで初めて私は、先輩と隣り合う立ち位置に気付き、それから音のするほどぶつかった視線にびくりとした。
 逸らすのは失礼だとわかっている。でも強い眼差しを受け止め続けていられる度胸もなく、一時忘れかけていた怯えも今頃になって甦ってきたから、私は思わず目を伏せようとした。
 だけどその時、先輩がいち早く視線を外した。
 顔ごと背けるようにして数秒。何か言いたげな、妙に不満げな横顔のままで沈黙した後、結局何も言わずに窓辺を離れた。そのまま、室内にある椅子の一つに腰を下ろし、腕組みをしたまま身動ぎもしなくなる。考え事でもしているのか、こちらはもう見ない。
 私はひとまず咎められなかったことに安堵していた。先輩の態度が奇妙だと思ってはいたけど、どちらにしろ推し測れるものではないから、やはり黙って受付へ戻った。

 文化祭の喧噪から切り離されたように、ここは穏やかだった。場違いなくらい。
 差し込む白っぽい光を眼鏡の端に見ながら、私は十一月という季節を今更意識し始める。
 鳴海先輩が卒業したら、今あるささやかな縁ですら絶たれてしまう。
 それまでに言えるだろうか。――私は先輩の書くものが好きです。それから先輩の感性が、堪らなく惹きつけられてしまうくらい、とても好きです。もし言えたら先輩は喜んでくれるだろうか。
 それとも。
 身にならない感想だと、以前のように切り捨てられるだけだろうか。
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