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今日も笑顔の佐藤さん

 教室に戻ってきた僕らは、興奮と安堵とで沸き返った。
 衣装を着たままで賑々(|にぎにぎ)しくはしゃいでいる奴もいる。ほっとし過ぎたせいか涙ぐんでいる奴もいる。そうかと思えばとっとと着替えを始めている奴もいたし、疲れ切ってぐったりしている奴もいた。
 最後の文化祭、クラスでやるべきことをやり遂げた。それはそれで偉大なことなのかもしれない。
 出来はどうあれちゃんと幕は下ろせたし、僕だって精一杯やれた。これで最後だと思うと寂しい気はするけど――だからってはしゃいだり、涙ぐむほど殊勝な性格じゃない。
 なにせ本番中からずっと、一人のことしか考えてなかったくらいだ。

 佐藤さんはさすがにくたびれた様子だった。
 着替えもしないうちから壁に寄りかかり、疲労の色を隠していない。それでも教室の中央ではしゃいでいるクラスメイトたちを見て、少しばかり幸せそうな笑みを浮かべている。そんな仕種が彼女らしいな、と思う。
 僕はすかさず彼女に歩み寄った。
 先に着替えを済ませてしまおうか迷ったけど、言いたいことがある時は急いだ方がいい。いつもみたいに言えなくなってしまう前に。
「お疲れ様、佐藤さん」
 隣に立って、そっと声を掛けてみる。
 トーンを落とすと教室内の騒がしさに紛れてしまいそうだったけど、佐藤さんはちゃんと僕の声を拾ってくれた。こちらを向いて微笑んだ。
「うん。山口くんもお疲れ様」
 口紅の色が落ちかけて、髪も解(|ほつ)れ始めている。
 だけどまだ普段とは違う顔をしている。目が合うとどきっとする。
「なんだかんだで上手くいったみたいだね、よかった」
「そうだね、結局声、裏返っちゃったけど」
 佐藤さんは首をすくめた。その拍子にショールが落ちたけど、それを直す手も今は気だるげだ。本番前に言っていた通り、相当緊張していたのかもしれない。
 こっちは劇よりもずっと、今の方が緊張してるのに。
「無事に終わって、本当によかった」
 そう呟くと、佐藤さんは僕の顔を見た。
「山口くんは、まだ着替えないの?」
「いや、着替えるよ。もう少ししたら」
 ネズミの耳つき全身タイツを一刻も早く脱ぎたいのは確かだ。ひげだって落としてしまいたいし。でも、間を置いたらこの気持ちまで落ち着いて、言いたいことを言えなくなってしまうような気がしていた。
 この機を逃がしたら、ずっと言えないままかもしれないもうすぐ、いつもの佐藤さんに戻ってしまう。そうしたらどんな誉め言葉も届かなくなってしまう気がしていた。
「私も着替えてこようかな」
 なのに、佐藤さんは言う。ちょっと疲れた様子で息をつきながら。
「お化粧も落としたいし、この格好だと落ち着かなくて」
「い、いや、もったいないよ」
「え?」
 とっさに制した僕の言葉を、彼女は瞬きで受け止めた。
「もったいない?」
「そうだよ、せっかく……似合ってるのに」
 クラスの連中を意識し過ぎて、消え入りそうな声になった。
 それでもちゃんと届いたようで、佐藤さんは恥ずかしそうにしてみせた。
「そ、そうかな。いつもと違い過ぎない? おかしく見えないなら、うれしいけど」
「おかしくないおかしくない」
 僕は呪文みたいに連呼する。
 もっと気の利いた言い方があるはずなのに、頭がまるで働かない。
「そう言ってもらえるとうれしいな」
 一方、彼女は至ってマイペースに応じてくる。僕の顔を覗き込むようにして、語を継いだ。
「山口くんも似合うよ、ネズミの格好」
「……そうかな」
 それはあまりうれしくない。
 というか、誉め言葉じゃない。佐藤さんは誉めてるつもりなんだろうけど。
「お芝居もがんばってたよね。ネズミ役の山口くん、格好よかったよ」
 とびきりの笑顔で、きっと誉めようとしてくれてるんだろうけど。
 素直に喜べないのは、役柄がネズミだったからじゃない。全身タイツを着たからでもない。観客に笑われたからでもない。
 僕が言おうとして、なかなか言えずにいる言葉を、佐藤さんは簡単に言ってしまう。何でもないことみたいに素直に口にできてしまう。それが悔しい。
「佐藤さんもがんばってたよ」
 悔し紛れに言い返すと、彼女は素直に喜んでいた。
「ありがとう、山口くん」
 負けた気がした。
 いや、いつだって負けている。佐藤さんには敵わない。僕は、ずっとそうだ。

 だけど、手も足も出ない状態で引き下がるのはあまりにも情けない。
 せっかくだからと僕は、勇気を振り絞って切り出した。
「佐藤さん、頼みがあるんだけど」
「え? なあに?」
「写真、撮らせてもらっていいかな」
 せめて今日の記念に、一番きれいな佐藤さんを残しておきたかった。
 僕の頼みを聞いた彼女は途端に慌てふためく。
「わ、私の写真? でも、だって、こんなのだよ?」
 長いスカートの裾を摘んで、いたたまれなさそうにしていた。
 こっちも引っ込みがつかなくなって、つい正直に応じる。
「こんなのが撮りたいんだ」
「だけど……ちょっと恥ずかしいかなって……」
 ちょっとどころではなく気恥ずかしそうに、佐藤さんがたちまち俯く。
 しかし、はいそうですかと引き下がるつもりはなかった。恥ずかしいのは頼んだ方だってそうだ。こんな恥ずかしいこと、そうそう頼めるものじゃない。それをようやく言い出せたんだから折れるわけにはいかない。
「手間は取らせないし、僕以外に見ないよ。心配しなくていいから」
「う……うん、でも」
 彼女は一向に煮え切らない。そこで、
「待ってて。今、携帯取ってくる!」
 有無を言わせぬ調子で会話を打ち切ると、僕はひとまず携帯電話を取りに走った。
 自分の机にかけてあるカバンから手早くそれを取り出す。佐藤さんの写真を撮りたい、その一心で急ぐ。
 だけどその時、
「山口、佐藤と写真を撮んの? 俺撮ってやろっか?」
 よりによって、外崎に大きな声を出された。
 目ざとさにぎくりとしつつ、僕は答える。
「い、いや、撮るのは佐藤さんだけで、僕が写るわけじゃ……」
「何照れてんの! せっかくだから二人で写ればいいじゃない」
 聞きつけてきたのか、まだシンデレラの湯川さんも飛んでくる。呼んでないのに。
「僕はいいって!」
 拒否しても遅く、二人がかりで携帯電話を奪い去られてしまった。
 別に佐藤さんと写るのが嫌なじゃない。
 だけど今の僕はまだネズミだ。全身タイツだ。おまけにひげまで描いてある。こんな格好で、あんなにきれいな佐藤さんと一緒に写るのは嫌だ。明らかに邪魔だ。
 にもかかわらず、いつしか僕はクラスの連中に取り囲まれ、佐藤さんの元まで連行されている。
「そうだよね、せっかくの記念だもんね。やっぱ二人で写らないと!」
「貴婦人とハツカネズミっていうのもなかなかお似合いだよ!」
 柄沢さんと斉木さんが、踏みとどまりたい僕の背中をぐいぐい押してくる。
「佐藤さんに被り物任せたの気づいた? あれ、いい演出だったよねー」
 そう語る新嶋が僕の腕をがっちり掴んでいる。そういうことだと思ってたよ。
 だいたい、貴婦人とネズミのどこがお似合いなんだ!
「だから、僕はいいって言ってるのに!」
「いいからいいから、隣に立って!」
「うわっ、ちょっと待っ……!」
 抗弁空しく、僕は強引に佐藤さんの隣に押しやられた。
 笑う佐藤さんにくっつかんばかりに立たされて、せめてこの格好でなければと嘆きたくなる。
 クラスメイトたちは携帯電話を向けてくる。僕のだけじゃなく、わざわざ自分の携帯で撮影しようとする子までいた。あちこちでフラッシュが焚かれシャッター音が響く。まるでワイドショーの記者会見だ。
「ほらほら撮るよー、山口、ちゃんと笑って!」
「せっかく佐藤さんがかわいくしてるのに、仏頂面じゃ釣り合わないよ!」
「全くもう、素直じゃないんだから!」
 この状況で素直になれと言う方が無理だ。

 かくして僕の携帯電話には、ハツカネズミと貴婦人のツーショット画像が納まった。
 その時の僕がどれほど仏頂面でいたのかは――まだ見る勇気がない。
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