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僕たちの二人暮らし

 ホワイトデーのお返しはキーリングにした。
 これから二人暮らしをするにあたり、部屋の鍵を失くしてしまわないように。

「わあ、すごく可愛い!」
 贈ったキーリングを、みゆは歓声を上げて受け取ってくれた。
 レザー製のチャームは可愛いネズミを模っていて、ラインストーンのドレスを着ている。これを見つけるのに店を何軒回ったことか。
「ありがとう篤史くん。大切にするね!」
「どういたしまして」
 一目見て気に入ってもらえたのがわかり、僕もすっかり嬉しくなった。
「でもネズミグッズって、見つけるの大変だったんじゃない? 私もネームプレート作る時そうだったもん」
「大したことないよ」
 足を棒にして探し回ったのは事実だけど、そんなことはいちいち言う必要もない。
 そしてせっかく見つけた貴重なネズミグッズだから、僕もお揃いで買うことにした。こちらはタキシードを着たネズミのチャームで、蝶ネクタイ部分がラインストーンだ。僕が持つには子供っぽい気もしたけど、誰かに聞かれたら『彼女に合わせたんだ』って言えばいい。
「お揃いって何か嬉しいね」
 にこにこしている彼女の目の前で、僕は二つのキーリングに新しい鍵を取りつけた。
 不動産屋から譲り受けたばかりの、僕らの新居の鍵だ。

 そして迎えた引っ越し当日、僕とみゆは揃って新居に足を運んだ。
 国道沿いに建つ小さなアパートの二階が僕らの部屋だった。駅まではバスに乗る必要があるけど、バス停までは徒歩五分というまずまずの良物件だ。日当たりも悪くなく、近所にはコンビニやドラッグストアも揃っている。
 外階段を上がって部屋の前まで辿り着くと、彼女はそわそわとキーリングを取り出す。
「わ、私、開けてみてもいい?」
 声が上擦るくらい前のめりに聞かれたら、最初の鍵開けは譲ってあげようという気にもなった。
「どうぞ」
「ありがとう! じゃあ早速……」
 ネズミのチャームが揺れ、鍵がくるりと回る。
 そしてドアがゆっくりと引き開けられると、まだ生活感のない、新しい建物の匂いがした。
 僕らが引っ越してくる前にリフォームが入ったそうで、築年数の割に内装はきれいだ。玄関から入って左手側にトイレと洗面所とバスルームがあり、正面の扉を開けるとダイニングキッチンに繋がっている。その奥に更に二部屋という2DKだ。
「わあ、ひろーい!」
 みゆは嬉しそうにダイニングを覗き、その奥の二部屋も代わるがわるドアを開けてみせた。
 広いのは当たり前のことで、まだ僕らの引っ越し荷物は一切届いていない。今日はこれから二件の引っ越し業者を迎え入れる予定になっている。さすがに時間はずらしてもらったけど、のんびりしている暇はなさそうだ。
「でも、一日で片づけようなんて思わなくていいんだよ」
 とは、引っ越し経験があるみゆのお言葉だ。
「無理しないで少しずつやっていこうね、篤史くん」
「経験者のお言葉はためになるな」
 僕はこれまで引っ越しなんて一度もしたことがない。だからわからないことは全部みゆに聞こうと思っている。
 彼女の方は僕に教えを乞われるのが新鮮で仕方ないらしい。胸を張って言われた。
「何でも聞いてね。私も一回しか引っ越したことないけど……」
「僕からすれば十分、先輩だよ」
「せんぱい……えへへ、照れちゃうな」
 空っぽの部屋を背に、みゆが嬉しそうに笑う。
 カーテンもまだない窓から、春の日差しが降り注ぐ。白い壁紙もフローリングの床も、そして彼女の髪もきらきら光っている。
 その何とも言えない非日常感に、僕もらしくもなく浮かれ始めていた。

 やがて引っ越し業者のトラックがアパート前に到着した。
 段取り通り、先に着いたのはみゆの荷物だ。これは僕も手伝って、奥の西側の部屋に運び込む。見覚えのあるカラーボックスや青いカーペット、それに『ぬいぐるみ1』『ぬいぐるみ2』と通し番号が書かれた段ボールなどで、広かった部屋はあっという間に狭くなる。
 お昼の休憩を挟んだ後、僕の荷物もやってきた。僕の方は彼女よりも荷物が多めだ。というのも親の厚意で実家にあった使ってないテレビやら、テーブルやらも一緒に持ってきたからだ。
 奥の二室もダイニングも、あっという間に段ボールと家具でいっぱいになった。

 そして業者が帰った後、僕らは二人で荷ほどきを始める。
 まずはお互いの部屋の段ボールを開き、当面の衣類をクローゼットにしまう。ベッドは今夜から使えるように整え、脚立を使ってカーテンも取りつける。僕の場合、勉強机を優先して本棚の本は後回しだ。
 みゆはと言えば、早速カラーボックスにネズミのぬいぐるみを並べ始めている。その熱心さ、陰からこっそり観察しても気づかれないほどだった。
 お互いの部屋が粗方済んだところで、今度はキッチンとダイニングに取りかかる。
 彼女が食器の梱包を一枚一枚解いて、食器棚に並べる。その間に僕はテレビのチャンネルをセッティングして、スピーカーと繋いでおく。電話、ガス、水道はどれも開通済みだけど、冷蔵庫だけはすぐ使えないのが惜しい。
 でも、次第に僕らの新しい部屋が出来上がっていくのがわかる。

「台所、大体終わったよ」
 みゆがそう声をかけてきた時、僕も全部の部屋に照明を取りつけ終えていた。
 早速明かりを点けてみる。外はもう、日が暮れはじめていた。
「晩ご飯、どうしようか?」
 僕がダイニングの窓のカーテンを引くと、みゆが尋ねてきた。
 冷蔵庫がまだ使えないので今日は生ものの買い物はしないと決めている。それにお互いくたくたになった引っ越し当日、無理にキッチンに立つ必要もないだろう。
「デリバリーでも頼もうか」
「いいね! やっぱりお蕎麦にする?」
「蕎麦にこだわらなくてもいいよ。引っ越しピザでも、引っ越し寿司でも」
 みゆが『引っ越しピザ』というフレーズに目を輝かせたので、初日の夕飯はピザを取ることにした。

 ピザはベーコンポテトとバジルシーフードの二種類。
 お腹が空いていたからナゲットとポテトとシーザーサラダも頼んだ。肉体労働の後はこのくらい食べないとやってやれない。
 飲み物は近くのコンビニで調達して、ピザが届いたところで乾杯をした。
「今日はすごく働いた感じがするね」
 ピザを頬張るみゆが、しみじみと呟く。
「単純な肉体労働だもんな。明日あたり、筋肉痛かも」
「私も。湿布の臭いさせてたらごめんね」
 貼る前から謝るところは、みゆらしい慌てぶりだと思った。
 でも、今日からは僕とみゆの二人暮らしだ。
 お互いを尊重し合うのも大事だけど、気を遣いすぎず、時々は甘えてもらえるような生活ができたらと僕は思う。
「そんなこと気にしないのに」
 僕が言うと、彼女は気後れしたような顔をする。
「でも……」
「たとえ湿布の臭いしてても、僕はみゆが好きだよ」
 何気ない口調でそう告げてみた。
 すると彼女はあたふた俯く。
「あ、篤史くん……えっと、コメントに困るから……」
 困られてしまった。
 これからの二人暮らしにあたり、素直になることも大事だと思ったんだけどな。

 みゆが疲れていたようだったから、お風呂の順番は先に譲ってあげた。
「篤史くん、お次どうぞ」
「ありがとう」
 湯上がりの彼女に声をかけられ、新居のバスルームに向かう。
 洗い場も湯舟も見慣れないバスルームで、日中掻いた汗と疲れを洗い流した。髪を洗う時、僕のシャンプーの隣に見慣れないシャンプーがあって、みゆのだなと思う。
 思えば彼女の髪はいつも女の子らしい、いい匂いがしていた。何のシャンプーを使っているのか気になっていたけど、それを聞くのはちょっと変態じみているかなと控えていたところだった。
 そういうものも、これからは知っていくようになるのかもしれない。
 高校時代を一緒に過ごし、卒業してから二年も付き合ってきた。それでも彼女について知らないことがあるのが不思議だったし、どうしてか嬉しくも思う。これからの毎日を想像して、わくわくしてくる。

「上がったよ。……あれ?」
 髪を乾かしてから部屋に戻ると、明かりのついた僕の部屋のベッドにみゆがいた。
 パジャマ姿の彼女がその身体を丸めて、すやすやと寝入っていた。
 僕らの新居にはベッドが一つしかない。みゆはずっと布団派だったけど、古い布団だから持ってこないことにしたそうだ。でもベッドは慣れないから、隣に僕が寝て、落ちないように壁になってあげることになった――というのは誰にでもわかるようなただの口実だ。
 ただいくら慣れないからって、掛布団の上に寝てなくてもいいと思う。
「みゆ、風邪引くよ」
「んー……」
 彼女は小さく唸ったけど、起きる気配はなかった。
 よほど疲れてたんだろうか。それとも一旦寝入ったら起きないタイプ、とかかな。
「……仕方ないな」
 僕は彼女の身体を少しだけ押しやり、その下から掛布団を引っ張り出した。
 そして起きない彼女と、その隣に忍び込む僕の上に掛けた。
 背後からみゆの身体をぎゅっと抱き締めてみる。湯上がりの彼女はぽかぽかと温かく、例のシャンプーの匂いがした。これから毎日この匂いの中で眠りに就くんだと思うと、ささやかだけど、深い幸せを感じる。
 二人暮らしっていいな。
 始まったばかりだというのに僕はすっかり満足して、目をつむった。

 そうしてどれくらい経った頃だろう。
 僕がうとうとしかけた頃に、腕の中でびくっと彼女が身じろぎをした。
「あっ! ごめん、私、寝ちゃってた……!」
「別にいいよ、寝てても。疲れてたんだろ」
 今日は引っ越しで忙しかったから。僕はそう思うけど、みゆの気持ちは違ったらしい。
「同棲初日に寝落ちって格好悪いもん」
 そう言って、まるで目覚めようとするみたいにかぶりを振る。
「じゃあ、もうちょっと起きてる?」
 こんな時間だけど。
 僕の問いに、彼女は黙ったまま、布団の中でゆっくりとこちらを向く。
 明かりを消した部屋の中でも、みゆの顔がはにかむのがよく見えた。

 僕らの二人暮らしはこんな調子で、結構幸せに始まった。
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