menu

佐藤さんの宝物(2)

 ぬいぐるみを抱いた佐藤さんがもじもじしているのを見た時、心の奥で何かか揺れ動いたような気がした。
 彼女が僕のことを考えてネズミのぬいぐるみを購入している――嬉しくないはずがない。ネズミ、というのは僕自身の黒歴史と直接絡んでいるので若干複雑ではあったけど、正直それすら吹っ飛ばしてしまうような衝撃があった。もっと言えば、彼女の部屋に僕を思い出してくれるようなアイテムが、それも一つ二つではなくたくさん置かれているという事実が嬉しくてたまらなかった。
 佐藤さんも自分の部屋にいる時は僕のことを考えてくれてるんだ。
 もしかしたら、僕が自分の部屋に一人でいる時みたいに。
「そう、なんだ。可愛いね」
 言わせたからには肯定的なコメントをと、僕はまずそう言った。
 しかし言ってしまってからあまりにも他人事っぽい物言いかなと、慌ててもっと言葉を付け足した。
「嬉しいよ、ありがとう」
「……よかった」
 佐藤さんは胸を撫で下ろしている。安堵の笑みを浮かべて僕を見た。
「山口くんはあの時のこと、あんまりよく思ってないのかなって不安もあったから……」
「まあ、いい思い出かと聞かれたらすごく微妙なとこだけど」
 むしろ思い出したくもない負の記憶だけど。
 くじ引きで決まったから仕方がないとは言え、ハツカネズミなんかやるくらいなら僕も舞踏会の出席者になって、貴婦人だった佐藤さんと踊る方がよかった。だったら初めから立候補しろよと言われそうだけど、佐藤さんが貴婦人になるなんて知らなかったんだからしょうがない。
「私はね、卒業した今でもあの頃のこと、よく思い出すの」
 ぽつぽつと、佐藤さんもまた記憶を手繰り寄せるように話し始めた。
「文化祭のこと、一緒に買い物に行ったり、練習したりしたこと。ステージの袖で山口くんに馬の被り物を渡したことも、劇の後で一緒に写真を撮ったことも、更にその後で一緒にご飯を食べたことも……あの頃の思い出は全部、私にとっての宝物なの」
 胸に、大切そうにぬいぐるみを抱いているところを見ても、彼女がシンデレラの劇の思い出を宝物にしていることがよくわかった。
 僕からすればどうしてそこまで、とも思うけど――だって僕らは東高校で二年間ずっとクラスメイトだったわけで、そのうち佐藤さんと話をしたり、仲良くなったりした期間は半分くらいかもしれないけど、その間にだってたくさん思い出ができていたはずだった。何もあの一ヶ月程度の文化祭及び準備期間に絞らなくても、という気はする。
「佐藤さんにはいい思い出なんだね、三年の文化祭」
 またしても他人事みたいな言い方になった僕を、佐藤さんは意に介さず柔らかい目つきで見た。
「うん。だって、その頃にはもう、山口くんが好きだったから」
 僕はその言葉に、何よりも先に違和感を覚えた。
 違和感、と言うとまるで悪い形容のようだけど、でも確かにいつもの佐藤さんはこんなことを言ってくれない。佐藤さんは空気が読めないから、今ちょっといい雰囲気なんじゃないかなって場面でも遠慮なくどうでもいいことを口にする。そのせいでたびたびいい雰囲気っぽいものが雲散霧消しては、何となく当てが外れた気分になることがあった。
 だけど今の佐藤さんは珍しく空気を読んでいる。普段は言わないようなことを言ってくれた。
「好きな人との思い出なの。文化祭のシンデレラは」
 言いながらも恥ずかしさはあるのか、ぬいぐるみを抱く手に随分力がこもっていた。鼓笛隊っぽい服装をしたネズミが佐藤さんの胸でぎゅうっと潰れており、僕は嫉妬のような羨望のような、およそ無機物に抱くべきじゃない複雑な感情を抱いた。
「だからどうしても、ネズミグッズを見ると買っちゃうんだ。私の部屋に山口くんとの思い出が、宝物が増えていくみたいな気がするから」
 気がする、じゃなくてそこは言い切っちゃってもいいと思うんだけど、まあいい。
 この部屋にあるネズミのぬいぐるみは、佐藤さんからすれば僕に直接結びつく宝物なのだそうだ。そうやって僕に関わるものを集めてくれていることを僕はもちろん嬉しく思ったし、いつもの佐藤さんからは感じない――と言うより感じ取りにくい熱のようなものを読み取ることができた。そしてそれに、僕は直に触れてみたくなった。
 僕は黙って手を伸ばし、佐藤さんのすっかり赤くなっているほっぺたに触れた。
「あ……」
 佐藤さんが小さく声を上げ、俯こうとする。
 手に力を込めてそれを阻止すると、佐藤さんは揺れる瞳で僕を見上げてきた。
 化粧をしていない彼女の頬はさらっとしていて、まるで腫れているみたいに熱を持っている。佐藤さんは肌こそきれいだけどすっぴんだとやっぱり子供っぽくて、高校時代とそんなに変わっていないように見えた。でも、高校時代はこんな目で僕を見なかった。僕の方は彼女をずっと見てきたから、わかっていた。
「佐藤さん」
 僕はそっと彼女を呼んだ。
 付き合ってるんだからこういう時は下の名前でも呼べばいいんだろうけど、僕はまだ彼女をどう呼んでいいか決めかねていた。『みゆきちゃん』じゃ軽いし子供っぽい佐藤さんが余計に子供っぽく見える。かと言って『みゆきさん』じゃ変に距離があるように思えるし、呼び捨てにするのも乱暴じゃないかという気がして、結論が出ないままになっていた。
 ただ僕が名字で呼んだだけで、佐藤さんはうろたえて呼吸を乱し、あたふたと視線をさまよわせた。
「あっ、あの、あのね、私、このぬいぐるみに名前つけてて――」
 そう言って、近づけようとした僕の顔にさっきまで抱いていたぬいぐるみを押しつけてくる。
 上手いこと遮られたように思えて複雑だったけど、僕はそのぬいぐるみを片手で少し押し返してから彼女に尋ねた。
「名前? もしかして持ってるぬいぐるみ全部に名前つけてたりする?」
「うん」
 佐藤さんは頷き、その後で困ったように微笑んだ。
「全部、同じ名前だけど」
「……それって、どんな名前?」
 もう一つ尋ねてみる。
 彼女が、おずおずと答える。
「あっくん、って言うの。変、かな」
 不覚にも息が詰まった。
「別に、変じゃないよ」
「たまに篤史くんとか、もっと違う呼び方をしてみたりとかもするけど……」
 佐藤さんがこの部屋でいつもどんなふうに過ごしているか、その一端が窺えたようだった。
「でもそうやって呼んでたら、山口くんのことも自然に呼べるようになるかなって、思って」
 またしても心の奥で何かが揺れ動いた。かちりとスイッチが入るような感覚があって、僕は両手で彼女の頬を挟んでこちらに引き寄せる。
 今度こそぬいぐるみに邪魔をされないよう、素早く、佐藤さんの自然な色合いの唇にキスした。

 邪魔が入らないまま数秒間が過ぎ、僕が唇を離すと、佐藤さんはまるで沈み込むように深く俯いた。
「や、山口くんっ……急に、どうしたの……!」
 どうしたのと言われても、僕らは一応付き合ってるんだけど。
 確かに僕らはあんまりこういうことしないけど、それは今まで外で会う機会が多かったからだ。したくないわけじゃないし、しなくてもいいなんて思ってるわけでもない。意味がなきゃしちゃいけないものでもないだろう。
 でも正直、今のはちょっと意味が――口実っぽいものがなくもなかった。
「佐藤さんの部屋に、思い出を増やしてみたくて」
 僕はそんなふうに動機を供述した。
「そしたら今まで以上に、ここで僕のこと考えてみてくれたりするのかなって思ってさ」
 すると佐藤さんは俯いたまま、肩をぷるぷる震わせて言った。
「今以上に考えてたら、この部屋では山口くんのことしか考えられなくなっちゃう……」
 それはこっちの息の根を止めかねない殺し文句だと思う。
 再びスイッチが入った僕は、今度は佐藤さんの肩を捕まえて、彼女の顔を覗き込むように近づいた。
 佐藤さんは一瞬怯んだけど、亀の歩みほどのろい動きで目をつむり――しかし次の瞬間、外で車が停まる音がして、つむりかけていた目が勢いよく開いた。
「お母さん達、帰ってきた!」
 途端に彼女は焦りの色を浮かべて、慌てふためきながら言った。
「ど、どうしよう山口くん! 私、今、すっごく顔赤いよね!?」
「うん、まあ……そうだね」
 嘘を言ってもしょうがないし、僕は頷いた。
 それで佐藤さんは赤らんでいる頬を冷まそうとしてか、麦茶のコップを頬に当て始めた。
「は、早く治さないと! 引いて、顔の赤いの引いて!」
 彼女がおまじないでもするみたいにぶつぶつ呟いている。
 自分の顔がどうなってるかわからないけど僕も真似した方がいいかなと考えた時、階下で玄関の引き戸が空き、ただいまあ、と明るい女の人の声がした。

 麦茶で冷やしたのが功を奏したか、あるいはあえて触れずにいてくれたのか、佐藤さんのお母さんは顔を合わせた僕らに何の指摘もしてこなかった。
「はじめまして、みゆきの母です。いつも娘がお世話になってます」
 初めて会った佐藤さんのお母さんは、二十年後の佐藤さんはこんな感じかもしれないな、という姿をしていた。全体的に地味な面立ちは佐藤さんに似ていたけど、一つ結びの髪は白髪交じりだし、少し疲れたような顔つきをしている。でも笑う時はその疲れの色を見せずに優しく笑ってくれた。話し方は佐藤さんよりも更にのんびりしていて、おっとりした人だなという印象を抱いた。
「うちは若い男の人がいないから、どのくらい用意したらいいかわからなくて……どんどん食べてくださいね」
 その言葉通り、佐藤家の居間のテーブルにはお寿司が七人前も並んでいた。僕ならそのくらい食べるかもしれないと踏んでのことらしいけど、佐藤さんの家は彼女と彼女のお母さん、それにおじいさんおばあさんの四人家族だ。つまり僕は三人前のお寿司を平らげなければいけないようで、特別大食いというわけでもない僕はご歓待に応えようと精一杯頑張った。だけど三人前はさすがにきつくて、佐藤さんに手伝ってもらう羽目になった。
「ごめんね山口くん。お母さん、ちょっとはしゃいでるみたいで」
 佐藤さんがどこかくすぐったそうに囁きながら、僕にお茶のお替わりを注いでくれた。
「だって、みゆきが男の子を連れてくる日が来るなんて思わなかったんだもの」
 お母さんがおっとりとした口調で言うと、佐藤さんは自分でも深く頷く。
「私もそう思う。でもね、山口くんはとてもいい人なんだよ」
 僕は隣でその会話を聞きながら、この場合の『いい人』はどういう意味なんだろうな、と思う。
 いい人だから佐藤さんと付き合っているんじゃなくて、佐藤さんに選ばれるほどいい人だ、って意味だといいな。
「けど、真面目な子らしいじゃないか。聞いてるぞ!」
 一緒に食卓を囲んでいた佐藤さんのおじいさんは、もう七十過ぎだそうだ。口数こそ少ないものの、声が大きいので一度喋るとインパクトがものすごい。
 そしておじいさんが喋ると、隣に座っているおばあさんが笑いながらフォローに入る。
「おじいちゃん、みゆきが連れてくる子が悪い子なはずないじゃないですか」
「確かにそうだ、その通りだ!」
 耳が遠いおじいさんは声を張り上げた後、ふと思い出したように続ける。
「あれだろう、あの……ほら、みゆきの部屋にあった」
「ああ、写真? そうだよ」
 佐藤さんがこくんと頷く。
 写真、という単語に僕が抱いた嫌な予感を裏打ちするように、おじいさんは言った。
「ネズミ役だった子だもんな。そりゃ真面目な子だよ!」
 嫌な予感が的中して、僕は佐藤さんが入れてくれたお茶にむせた。
「ご、ご覧になったんですか……」
「ええ。みゆきが見せてくれましてね。頑張りが窺える、立派なネズミの格好でしたよ」
 おばあさんが顎を引き、更にお母さんがおっとりと語を継いだ。
「私は文化祭当日、劇を見に行ってたんですよ」
「劇までご覧になったんですか!?」
「はい、みゆきの晴れ姿を見たくて。でもハツカネズミの子も頑張ってるからって、みゆきが言うから」
 お母さんの目が佐藤さんに向けられると、佐藤さんは照れ笑いを浮かべて何度も首を縦に振る。
「真剣にお芝居に打ち込んでる姿、見てたんですよ。みゆきの言う通り、とてもいい子なんだろうって思ってました。ですから今日、お会いできてよかったです」
 佐藤さんのお母さんは、まるで佐藤さんみたいに屈託なく、素直な話し方をする。
 だから僕は喜んでいいのか、黒歴史を見られたことに落ち込むべきなのか、まるでわからなくて複雑な気持ちになった。

 佐藤さん家の就寝時刻が早いことは知っていたから、僕も夕飯をごちそうになった後は早々にお暇することにした。
「今日は来てくれてありがとう」
 引き戸を開けて外へ出た僕を、佐藤さんが見送りに出てくれた。
 外はもうとっぷり暮れていて、薄暗い住宅街をあちらこちらの家明かりが照らしていた。
「こちらこそ、紹介してくれてありがとう。楽しかったし、お寿司美味しかったよ」
 僕が答えると、彼女は声を立てて笑う。
「無理して食べてたけど大丈夫? お腹ぱんぱんだと、歩いた時にお腹痛くなっちゃうかも」
「それは多分、大丈夫。無理ってほどでもなかったよ、佐藤さんのお蔭で」
 それから僕はもう一度、手を伸ばして佐藤さんの頬に触れてみた。
 今はほんのりとだけ温かい。佐藤さんは何かを思い出したのか、恥ずかしそうに瞬きをする。
「佐藤さんの宝物を見せてもらえたのも、嬉しかった」
「うん」
「今日、また増えたって思ってもらえたらもっと嬉しいんだけど」
「うん……増えたよ。今日のことも、忘れない」
 佐藤さんがそう言ってくれたから、僕も笑って手を離した。
「じゃあ、おやすみ。またね、佐藤さん」
「おやすみなさい、山口くん。また来てね」
 名残惜しかったけど、夜風が少し冷たい。短い挨拶の後、僕は彼女の家の前から歩き出した。
 一度振り返ってみたら、佐藤さんはまだ家の前で僕を見送っていて、僕に気づくと大きく手を振ってくれた。

 シンデレラの劇でネズミを演じたことは、今日まで僕の黒歴史だったわけだけど――。
 今更打ち消せるものでもなし、そのくらいならこうして覚えててもらうのもいいかなって、今日はちょっと思えた。
 何より佐藤さんの宝物になれるんだから、恥ずかしい思いをしたことくらい、どうってことない。
top