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僕たちの卒業(1)

 二月の下旬、僕は佐藤さんに呼び出された。
『ちょっとだけ時間もらえないかな? ううん、会いたいんだ、山口くんに』
 大学入試の前期日程が終わり、その報告の電話をした時のことだった。自己採点の結果もおおむね満足のいくもので、そこですぐさま羽を伸ばすほど楽観的でもないけど、手ごたえも自信もあった。そのことを伝えたら佐藤さんはすごく喜んでくれて、そして僕にこう言った。
『卒業式前に直接会って、話したいことがあるの』
 そう言われて期待を持たない方がおかしい。
 僕だって佐藤さんに会いたかった。長きにわたる苦難の受験生生活はまだ終わっていないし、念のため後期日程の準備も必要だろう。前期の合格発表は半月後の卒業式前日で、その結果次第では薔薇色の三月にも、灰色の三月にもなり得る。だから卒業式前に会うなら今しかなかった。
 本当なら合格の知らせと共に会いに行きたかったけど――でも佐藤さんに会いたいと言われて断るわけがない。
 バレンタインデーにチョコレートをもらったから、ちょっとフライング気味だけどお返しも用意して、僕は佐藤さんに会いに行った。
 
 待ち合わせ場所はいつもの駅前だった。
 紺色のピーコートにマフラーを巻いた佐藤さんと落ち合った後、僕はそこから少し歩いたところにある、ありふれた児童公園へと誘った。こういう時は例えば二人の思い出の場所なんかに連れ込むのが筋なんだろうけど、僕らの思い出の場所と来たら学校のあの教室か、待ち合わせをする駅前か、そうでなければあの空港かというところで――どれもあり得なかった。特に三番目はだめだ。
 だから、二人でブランコに乗った。
 二月だけあって児童公園は人影もなく、僕はさりげなくベンチを勧めようとしたけど、それより先に佐藤さんが嬉々としてブランコに飛びついた。しょうがなく僕も隣のブランコに乗った。高校生にもなって、とは絶対言えない。言いたかったけど。
 時折、ぼんやりと陽が射すだけの、薄曇りの日だった。吹きつける木枯らしが冷たくて、佐藤さんのひとつ結びの髪も風に震えていた。公園の隅にはどろどろに汚れた雪が残っている。手袋をしていても肌寒く、僕も結果的にブランコを漕ぐしかなくなった。動いていなければ凍えてしまいそうだった。
 それで、話ってなんだろう。僕が聞きたくてうずうずしていると、ふいに佐藤さんが言った。
「山口くん、私ね、話したいことがあったんだ。聞いてくれるかな?」
 彼女はゆらゆらとブランコを漕いでいた。揺れているせいで、笑顔のぎこちなさに気づくのが遅れた。
 どんなこと、と問い返す前に彼女が、揺れながら語を継いできた。
「あのね。私、山口くんが好き」
 寒さのせいで頬も耳も赤くなっている佐藤さんを、僕は呆然と見つめていた。
 心の中では、ふたつのことを同時に思った。

 どういう意味なんだろう。
 これ、夢じゃないよなあ。

 もちろん言うまでもなく、僕は佐藤さんが好きだ。
 それはずっと胸に秘めてきたわけではなく、夏になる前、佐藤さん自身にはっきり告げていたはずの気持ちだった。
 だけど彼女はその件に、その時以来一度も触れてこなかった。
『今すぐじゃなくてもいいから、僕のことを好きになってくれたら嬉しい』
 その言葉には頷いてくれた。でも、それだけだった。
 態度だけは思わせぶりだった。デートの誘いを断られたことはないし、文化祭では僕の写真を欲しがった、あのネズミの格好のみっともないやつを。それにクリスマスプレゼントもくれた。思いっきり実用本位なやつを。バレンタインのチョコレートも貰っている。手渡しじゃなく、宅配便で。
 脈はあると思っていた。思いたかった。
 入試の結果が出たら、合格していたら、改めて尋ねてみようと決めていた。

 そう思っていた矢先の今日の誘い、そして今の告白めいたこの言葉だ。
 好きって、一体どういう意味で。これは事実なのか。夢オチとかじゃなくて。佐藤さんは何を考えてるんだろう。どうして急にそんなことを言い出したんだろう。好きって、何が好きなんだろう。佐藤さんは『好き』という言葉の意味をわかっているんだろうか。それすら怪しい。だって、佐藤さんだから。
「本当は卒業式に言おうと思ったけど……」
 佐藤さんはブランコを漕ぎながら続ける。
「でも私、卒業式は泣いちゃいそうだったから。だから言うなら今しかないかなって」
 それは僕も思っていた。佐藤さんは泣く。お決まりのセレモニーでもあっさり泣いて、涙の卒業式になる。だから僕もその日に告白するのはどうかと思っていて――。
 だけどまさか、彼女の方から言ってくるなんて。
 本当ならうれしい。でもその真意を確かめるまでは素直に喜べない。なにせ佐藤さんだ、思わせぶりに僕を振り回すのもいつものことだ。
 だから、聞き返した。
「佐藤さん、それってどういう意味?」
「どういうって……」
 聞き返されるとは思っていなかったのか、佐藤さんの乗ったブランコがきゅっと止まった。
 寒さでかちかちの地面に靴の爪先をちょん、と着けた彼女が、赤い頬のまま俯いた。
「……えっとね、その」
 明らかに、これ以降は何を言うべきか、考えていなかった様子だった。急遽挨拶を頼まれたお偉いさんみたいなまごつき方をした佐藤さんは、やがて視線だけを上げた。
「もうすぐ卒業式だけど……」
 木枯らしに掻き消されそうな小さな声で言う。
「これからも、仲良しでいてくれない……かな」
 仲良し。
 その言葉に、僕が抱いていた淡い期待はあえなく砕けた。木枯らしに攫(|さら)われて散り散りになった。
 だって、それはつまり。
 仲良しというのは、どう考えても、つまり。
「え……」
 情けないもので、僕はそれしか言えなかった。
 自分がどんな顔をしているのかよくわからない。天国から地獄とはこのことだ。いや、まだ希望は捨てない。捨てたくない。
 深呼吸をする。
「その、佐藤さん。仲良しっていうのは、どういう……」
 僕は恐る恐る尋ねた。
 頬に次いで鼻の頭まで赤くし始めた佐藤さんが、手袋をした手を胸の前で組み合わせる。
「あの、何て言うか。今までみたいに、会ったりできたらいいなって」
「今までみたいに?」
「う、うん。山口くんとは、仲良しでいたいなあって」
「仲良し?」
 今度は黙って、佐藤さんが頷く。
 確定、みたいだった。

 八ヶ月前の告白の返事をこんな形でもらうとは、ショックだった。
 いや、ショックなんて一言で片づけられるものか。視界がぐらぐらした。好きな子に『仲良しでいよう』なんて言われて平気な男がどこにいる。しかも向こうはこっちの気持ちも知っているはずなのに、その返事はせずに一方的に告げられてしまった。好きだと言ったのもつまりはそういう意味だったわけだ。
 倒れそうになる。
 でも――佐藤さんのことだから、悪気もないんだろうな。面倒だから、その気はないからあわよくば先の告白もスルーしてしまえ、などと彼女が考えるはずもない。佐藤さんはきっと、僕の気持ちをわかってなかっただけだ。
 じゃあ、僕の伝え方が悪かったのか。
 わかりやすく言ったつもりでいたけど、そういうことなんだろうか。

「え、えっと、山口くん?」
 佐藤さんの声で我に返る。
 慌てて首を強く振ると、視界は大きく左右に揺れた。ああそうだ、ブランコに乗ってたんだっけ。
 彼女は隣のブランコにいる。もう揺れていない。
「あの……よかったら、返事、欲しいな」
 小首を傾げる佐藤さん。その肩から、相変わらずの一つ結びの髪が滑り落ちる。今日の彼女はピンクのリボンをしていた。僕があげたやつだ。
「返事?」
 自分の声が重く落ちる。
 返事って、何についての。
「だからその、さっきのこと」
 言いにくそうにもじもじと、佐藤さんは睫毛を伏せた。見慣れたそのしぐさがいつになく可愛く見えて、ショックがぶり返してくる。
 佐藤さんが好きだ。
 ものすごく好きだ。
 でも、
「仲良しでいたいってこと?」
 僕は彼女の言葉を覚えていた。問い返せば、ゆっくりと頷かれた。
「……うん」

 僕は、彼女の言葉を覚えていた。
 それどころか、佐藤さんのことは何もかも覚えていた。初めて隣の席になった時の、何となくうんざりした気持ち。指を怪我して絆創膏を巻いてもらった時の、奇妙な動揺。お菓子を分けてもらった時の困惑。授業中に助け舟を出してやって、後でお礼を言われた時の気まずさ。それから――。
 勉強の出来ない佐藤さん。運動の苦手な佐藤さん。そのくせ鬼ごっこなんて子どもっぽいことが好きな佐藤さん。先生によく怒られる佐藤さん。放課後、居残りをさせられている佐藤さん。クラスメイトによく笑われる佐藤さん。それでも、自分も一緒になって笑っている、佐藤さん。

 好きだった。
 ものすごく、むちゃくちゃに好きだった。
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