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隣の席の山口くん

 わあ、と誰かの声が上がった。
 体育館は天井が高くて、どんな音でも響きやすい。
 誰かの声も、上靴が床を滑るきゅっと言う音も、それから高い位置にあるバスケットのネットが揺れて、ボールがそこから、とん、と落ちる音もよく響いた。体育館の向こうから、私のところまで聞こえてきた。
 空気を震わせ、ホイッスルが鳴る。
「山口くん、すごいねえ」
 隣で誰かがそう言って、それで私もようやく、体育館の向こう側を見た。
 体育館の半分を使って、男子がバスケットボールをやっている。山口くんはちょうどシュートを決めたところらしく、同じチームの男の子たちと笑顔でハイタッチを交わしていた。
 いつもはあまり表情を変えない山口くんの満面の笑みは、そう言えば初めて見たような気がする。
 こうして遠くから見ていてもわかる、うれしそうな笑顔。
 体育の時間の山口くん、とってもいきいきしてて楽しそうだ。もしかしてバスケが好きなのかな。いろんなことが何でも上手に出来る山口くんなら、バスケも難しいことはないのかもしれない。

「さすが、元バスケ部は違うね。シュートの姿勢が決まってるもん」
 体育館の残り半分で、女子はマット運動の真っ最中。当然、あんまり得意じゃない。憂鬱な気分で順番を待つ私に、クラスメイトの湯川さんが話し掛けてきた。
「ね、カッコいいよね山口くんって」
 湯川さんにそう言われて、私はびっくりしてしまう。
 確かに素敵だとは思うけど、それよりも、山口くんが部活をやっていたのは知らなかった。ずっと帰宅部なんだと思ってたから。
「山口くんって、バスケ部だったの?」
 話題をさかのぼって聞き返すと、むしろ湯川さんの方がびっくりしていたようだった。
「そうだよ、中学の頃はね。知らなかったの?」
 知らなかった。
「だって私、山口くんとは同じ中学じゃないから」
「いや、そういうことじゃなくて」
 湯川さんは頬っぺたにえくぼを作って笑う。
「佐藤さん、山口くんと仲いいから、当然知ってると思ってた」
 ううん、知らなかった。
 山口くんと隣の席になって、いろんなことを話すようになって、たくさんたくさんお世話になったりもしたけど――そう言えば私、まだ山口くんのことをあんまり知らないんだ。
 そっか、バスケ部だったんだ。高校に入ってからはやってないのかな。やっぱり元バスケ部なら、今は部員じゃなくても、今でもシュートが上手かったりするのかな。女の子たちが歓声を上げるくらいだから、そうなのかもしれない。
 私は今になって、山口くんのシュートを見逃したのを悔しく思う。
 見たかったなあ。どんなにすごいシュートだったんだろう。私もちゃんと見ていたら、皆と同じように歓声を上げたかもしれないのに。
 もう一回打ってくれないかなと思って、しばらく男子の方を眺めていたら、その前にマット運動の順番が回ってきてしまった。


「佐藤さんはマット運動も苦手なんだね」
 昼休みになって、私は山口くんに、そう声を掛けられた。
 どきっとした。
 左隣の席の山口くんは、眉を寄せて私を見ている。
「え、み、見てたの?」
 私は慌てながら聞き返して、
「見えたんだ。偶然だけどね。だって体育館の中でやってたんだから、目に入って当然だろ」
 山口くんは早口言葉のスピードで言ってから、首を竦める。
「佐藤さんの側転は側転になってなかったよ。足が全然上がってなかった」
「う……」
 あのみっともないところを見られたんだ、と思うと、私は恥ずかしくてたまらなかった。
 だって全然回れなかったんだもん。側転どころか、マットの上ででんぐり返しをしただけで、クラスの子にも、体育の先生にも笑われてしまった。マットに手をついたまではよかったんだけど、それからどう回っていいのか、わからなくて、気が付いたら頭から転がってしまっていた。
 でも山口くん、私がマット運動やってる時は、ボール持ってバスケやってたはずなんだけどな。よく見てるなあ、と思う。元バスケ部だと、試合中でも遠くの様子までちゃんとわかるのかな?
「マット運動もあんまり、得意じゃないの。私、身体硬いから」
 恥ずかしかったけど、私は正直に答える。
 その後で、
「あ、でもね、マット運動は今日でおしまいだって言うから、ほっとしてるんだ。来週からはバスケなんだって」
 と教えてあげると、山口くんは目を見開いた。
「へえ、女子もバスケなんだ」
「うん。マット運動終わって、うれしい」
「佐藤さん、バスケは得意なの?」
 そう聞かれると、すごく答えにくかった。
 だって、私に得意なスポーツなんてない。
「う、ううん。マット運動よりはまだましかな、ってくらい」
 私が答えると、山口くんは目を伏せて、なるほどねと呟いた。
 球技だってそんなに得意じゃない。バスケならボールを持って走っちゃいけないから難しい。ドリブルなんて、そんなに長い距離続けてられないもん。すぐボールがどこかに飛んで行っちゃう。山口くんみたいにシュート決めるなんて、どうやったら出来るのか見当もつかないし――。
「そうだ」
 ふと思いついて、私は、さっき湯川さんから聞いた話を切り出す。
「山口くんって、中学校の頃はバスケ部だったんだよね?」
「え? 話してたっけ」
 不思議そうな顔を山口くんがしたから、説明を付け加えた。
「ううん、あのね、湯川さんに聞いたの。山口くんが中学の頃はバスケやってたんだよ、って話」
「ああ、そういうことか。そうだよ」
 納得した様子で、山口くんは顎を引く。
 すごいなあ、と私は思う。勉強も出来るのにバスケも上手くて、メール打つのも速いし、お友達も多いし、おまけに優しい人だなんて。山口くんは本当に何でも出来るんだ。違う世界の人みたいだって、前は思ってた。
 今は、思わないようにしているけど、憧れる気持ちは変わらない。
 私も山口くんみたいに――なるのは無理でも、せめてもうちょっと何でも頑張れるようになりたいな。
「さっき、体育の時間にもシュート決めてたんでしょ?」
「まあね、あのくらいは普通に出来るよ」
 と言ってから、山口くんは少し笑って、
「何だ。佐藤さんもこっち見てたんじゃないか」
「違うの。見てなかったんだ。私ね、山口くんがシュートするところだけ見逃しちゃって」
 私が正直に答えると、急に山口くんは笑うのを止めた。
 瞬きを繰り返しながら聞き返してくる。
「見てなかったの?」
 尋ねられたから、私はまた正直に答えた。
「うん」
「しかも僕の時だけ?」
「あ、うん、そうなんだけど。でもね、その後は見てたんだけど、あの、次に山口くんがボール持つ前に、私のマット運動の順番が回ってきちゃったの、それで」
 今度は私が、早口言葉みたいなスピードになった。
 言い訳みたいに聞こえたかもしれない。でも、見てなかったのは本当だから、嘘はつけない。私だって山口くんのシュート、見てみたかったのはやまやまだけど、あの時はマット運動のことで頭が一杯で、男子の方まで見てる余裕、なかったんだもん。
 私の説明をどう思ったのか、
「ああ、そう……」
 山口くんは頬杖をついて、がっかりしたようにそっぽを向いてしまった。
 やっぱり、機嫌損ねちゃったかな。そうだよね、山口くんの得意なところ、ちゃんと見てあげられなかったのはよくないことだよね。悪いことしたなあ……。
「ごめんね」
 すぐに私は声を掛けた。
「あの、次はちゃんと見てるようにするから、山口くんのシュート」
「別にいいよ」
「ううん、次はちゃんと見てる。男子の体育、次もバスケでしょ?」
「そうだけど」
 溜息混じりの声が左隣の席から聞こえてくる。
「だけど、女子だってバスケなんだろ? 佐藤さん、こっちの方なんて見てる余裕ある?」
 そっか。言われてみると、やっぱりそれどころじゃないかもしれない。
 ドリブルからして出来てない私だから、男子の方の動きを気にしてる余裕なんてないかもしれない。
 だから私はますます慌てて、
「あ、じゃあ、こうしようよ」
 と、山口くんに持ちかけた。
「私にバスケのやり方、教えてくれないかな」
「僕が?」
 こっちを見て、首を傾げる山口くん。
 ようやく目が合ってほっとしながら、私は続けた。
「うん。ほら、次の授業までに、少しでも出来るようになりたいなって思って」
 ちょっとでもいいから上手くなりたい。皆の足を引っ張らない程度には、出来るようになりたい。それには、やっぱりバスケの得意な人から教えて貰うのがいいんじゃないかなって思ったんだ。
 山口くんならぴったりじゃないかな。
「いいけど」
 その山口くんは、快く頷いてくれた後で、尋ね返してくる。
「教えるって言うけど、佐藤さんの場合、どの程度教える必要があるの?」
「……まず、ドリブルのやり方から、教えて欲しいんだけど」
 正直に打ち明けたら、山口くんはそうだろうね、と呟いてから、軽く笑ってみせた。
「わかった、いいよ。僕でよければ教えてあげる」
「ありがとう」
 私はふうと息をついてから、同じように笑った。
「それとね、その時は、山口くんのシュートも見たいな」
「それはいいよ」
 今度は苦笑した山口くんが、首を横に振る。
「え、でも私、見てみたいのに」
「そこで見て欲しいって言ったらさ、まるで僕が駄々こねたみたいじゃないか」
「私は、そんな風には思わないけど」
 元はと言えば私が、ぼんやりしてたのがいけないんだから。
 むしろ、もう一度チャンスが欲しいな。
 山口くんのシュート、今度は絶対見逃さないから。
「ドリブルの次は、シュートも教えてくれないかな」
 そっと頼んでみた。
 順番としては合ってるよね。ドリブルが出来るようになったら、もしなれたら、次はシュートを教えてくれるよね。その時は山口くんが、まずお手本を見せてくれるよね。
 山口くんはちょっと考え込んでから、やがて、答えてくれた。
「わかった、いいよ。いいよ、って言うほど大したことでもないけど」
「本当? ありがとう!」
 頼んでみてよかった!
 私は思わず手を叩いて、山口くんはまだ苦笑いしたままで、ぼやくように言う。
「全く、佐藤さんには敵わないな」

 そんなことないと思うけどな。
 本当に敵わないのは私の方。山口くんは何でも出来て、しっかりしてて、優しくて、その上とっても素敵な人だ。
 私は山口くんのいいところ、たくさん知ってるつもりでいたけど、どうやら知らないこともいっぱいあるみたい。そういうのも全部知っておきたいな。何でも、ちゃんとわかっていたい。
 そして私も、山口くんほどではなくても、少しでも近づけるようになりたいんだ。
 この間、電車の中で教えて貰った気持ち、受け止められるようになりたいから。
 まずは体育の授業から、私、頑張ります。
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