menu

佐藤さんが物憂げな日

「ふう」
 佐藤さんが、溜息をついた。
 偶然にもそれを聞きつけた僕は、何とはなしに視線を動かして右隣の席を見遣る。
 頬杖をついている彼女の横顔が見えた。伏し目がちにした物憂げな顔だ。隣の席になってから見たことがない表情だった。
 思わずまじまじと眺めてしまいそうになって、僕は慌てて目を逸らす。
 物思いに耽っている人を観察するのはあまり趣味のいいことじゃない。そっとしておくに限る。特に佐藤さんが相手なら、面倒なことに巻き込まれないように。

 五月の初めの朝、教室はざわめいていた。
 先生が来るまでの時間はいつも騒がしいけど、ゴールデンウィークを間近に控えているからか、特に今日は浮き足立った空気でいた。
 僕もゴールデンウィークは楽しみだ。友人と遊びに行くくらいしか予定は入っていないけど、ちょっと学校から離れられるだけでも十分だった。
 佐藤さんはゴールデンウィーク、何か予定を入れてるんだろうか。
 いや、聞かないけど。そこまで親しくもないし、知ったところでどうなるわけでもない。僕には関係のないことだ。

「ふう……」
 ざわめきに溶け込むように、今度は微かな溜息が聞こえる。
 僕は視線をそっと戻した。右隣の席の佐藤さんはまだ物憂い様子でいた。
 何を考えているんだろう。明るい表情が見えないのは珍しい。朝から落ち込んでいるなんてこれまでなかったことだった。僕もさすがに気になってきた。
 面倒ごとの予感がしたらすぐに手を引く、身を引く。そのことを頭に置きながら、僕は静かに口を開いた。
「どうかしたの、佐藤さん」
「……え?」
 佐藤さんがこちらを向くまで、数秒のタイムラグがあった。
 僕の方を見た顔に、やはりまだ笑みはない。
「さっきから溜息ついてるから」
 僕は言いつつ、机の引き出しから一時限目の教科書を取り出す。あくまでも世間話程度に聞いてるんだと装いつつ――いや装ってるんじゃなくて、事実そうなんだ。クラスメイトを気まぐれに案じているだけだ。本当にそれだけ。彼女のことは別に嫌いじゃないし。
「三時限目から体育だから、落ち込んでるとか?」
 軽く笑いながら尋ねると、隣の席でも本当にごく軽く、笑う声が零れた。
「それも、ちょっとあるんだけど」
 佐藤さんの潜めた声が続く。
 それも、あるけど?
 ――けど、何だっていうんだろう。体育以外に彼女を落ち込ませるような出来事が、やっぱりあったってことなのか。それって何だろう。さすがに聞けないけど、乗りかかった船って奴で気になる。多少は、気になる。
 それきり佐藤さんが黙ってしまったので、僕も唇を結ぶしかなくなった。

 教室の賑やかさが今日はちょっと忌々しい。
 皆、ゴールデンウィークが近いからってよくも能天気にしていられるものだ。こっちはそれどころじゃないのに。佐藤さんが落ち込んだままで、ゴールデンウィークを楽しく迎えられないんじゃ、ちょっとかわいそうだ。
 視界の隅で盗み見ている佐藤さんの、物憂げな横顔。
 こんな表情もするのか、と思っていた。
 彼女の顔に影を落としているのは何なんだろう。全くもってこんな顔、似合わないのに。大人びて見えて、複雑に思えてくるくらいなのに。

 しばらくして、
「ね、山口くん」
 佐藤さんが僕の名前を呼んだ。
 だから僕は、ごく自然な成り行きとして彼女の方を向く。
「何?」
 右隣の席で佐藤さんは、ようやく表情を和らげていた。
「あのね、ちょっと聞きたいんだけど」
「何かな」
「もしもの話なんだけどね……」
 と言って彼女が、自分の一つ結びの髪を撫でる。
「もし、山口くんの大切な友達が、すごく落ち込んでたら」
「僕の友達が?」
「うん。それで悩み事を相談されたりしたら、どういう言葉をかけてあげるのがいいのかな」
 佐藤さんが切り出した問いは、やぶからぼうな上になかなか難易度が高かった。
 さすがに僕も、頬杖をついて考え込む。
「友達がか……難しいな」
「うん。私もそう思うの」
「何て言うか、どういう悩みかにもよると思うんだけど」
 僕が肩を竦めると、佐藤さんも小首を傾げて苦笑した。
「あ、そっか。そうだよね……どっちかって言うと、人生に係わる悩みかな」
「人生?」
 そりゃまた随分と重い悩みだ。
 誰だか知らないけどそんな悩みを佐藤さんにぶつけるなんて、早まったことをするものだと思う。頭がよくなくて気が利かないくせにお節介焼きの佐藤さんが、一層思い悩むだけじゃないか。いい助言なんて貰えなさそうだけど。
「うん、あのね、人生っていうか、生き方っていうか」
「進路の悩みとか、そういうのかな」
「あ、うん。そういうの」
 深く、佐藤さんは頷いて、
「悩み事を相談されたんだけどね、やっぱりそういうのって、おかしなことは言えないよね。力になってあげたいのはやまやまだけど、答えを出すのはその人にしかできないと思うから、せめて温かい言葉でもかけてあげられたらって、思うんだけど」
 そう言った後で、困ったような顔をしてみせた。
「でも、……ね。温かい言葉って言うだけでも、すごく難しいよね」
「確かにそうだね」
 聞いたことがある。酷く落ち込んでる人には『頑張れ』を言っちゃいけないとか、そういう話。必死になっている時にそういう言葉はかけない方がいいらしい。人の心は結構難しい。
 僕だって今、受験勉強に追われているところに『頑張れ』って言われても、放っとけよとしか思えないだろうな。押しつけがましくて好きじゃない。いつだって頑張ってるよ、一応は。
 でもだとしたらこの場合、何て言葉を贈るのが最適なのか。
「今日の夜、メールするつもりでいるんだけど」
 と佐藤さんが言ったので、悩み相談の当人は、クラスの子じゃないのかもなとふと思う。
 いや、メールの返事ももたつくらしい佐藤さんのことだから、近くにいる子が相手でも、返事をするのに夜までかかるんだろうけど。
「何て声、かけてあげるのがいいかなって……」
 溜息をついた佐藤さん。
 物憂げな表情が戻ると、僕の心までざわめいた。あまりに不似合いすぎて違和感があるから、かもしれない。
 だから何か、考えなくちゃと思った。
「例えばなんだけどさ」
 思いついて、ふと言ってみる。
「『もし何かできることがあれば頼って』って言うのは?」
 僕が佐藤さんの台詞を口にするのも違和感があるけど。ありまくりだけど。
「一声だけかけて、後は待ってみるのもいいんじゃないかな」
「え? 待つ……の?」
 目を瞠った佐藤さんが聞き返してくる。
 僕はなぜか少し早口になりながらも、
「いや、例えばだけど。悩んでいる人は、とりあえず話を聞いてくれる人が必要なんじゃないかと思うんだ。佐藤さんの場合は、もう話を聞いてあげてるだろ。だから後は、向こうが他のことで頼ってきてくれるまで、待ってみるのもいいんじゃないかな」
 他にも打ち明けて貰えたら、聞いてあげればいいだろうし。そういう気配がなければ、落ち込む気分が直るまで、傍で待っててあげるのも手だと思う。
「いつでも傍にいるよって言ってあげられたらいいんじゃないかな。友達ならさ」
 僕は佐藤さんに告げて、でも、僕ならそう言えるだろうかと考えてみる。明らかに僕の柄じゃない台詞だ。
 佐藤さんだから口にできる台詞だと思う。僕じゃない。佐藤さんにこそふさわしい言葉だ。

 佐藤さんはじっと、僕の話に聞き入っていた。
 そしてしばらくしてから、睫毛を伏せた。
「傍に……かあ。やっぱりメールよりも、会って話した方がいいのかな」
「ああ、それはあるかもしれないな。顔を見て話せるならそっちの方がいいかもしれない」
 メールの文章だけじゃ伝えきれないこともあるだろう。ましてや、不器用な佐藤さんなら尚更だ。ちゃんと顔を見て話した方が伝わることも、たくさんある。
 僕だって、隣の席になってこうして話すようになるまで、佐藤さんのことがよくわからなかったんだから。
 ……まあ、それがプラスに働いたかどうかってのは不明ながら。
「うん、そうだね」
 ようやく、佐藤さんがいつものように笑った。
 悩みの色が影を潜めて、ぱっと明るい表情になる。
「ありがとう、山口くん。やっぱり山口くんはすごいね」
「いや、すごくないよ。あくまでも一意見だし」
「ううん、すごいよ。私ね、山口くんの言うことは何でも納得できて、すごいなあって思ってるんだ」
 素直に誉められると、さすがに面映い。僕はぎくしゃく目を逸らしたけど、内心ではほっとしていた。
 隣の席の佐藤さんがいつもの笑顔になってくれた。やっぱり、物憂げな顔は似合わない。笑ってくれてる方がいいな。別に可愛いわけじゃないけど、やっぱりほっとする。
「山口くんに聞いてみてよかった。本当にありがとう」
 佐藤さんがまだ言い続けてる。
 僕は顔を顰めつつ、珍しくからかう気になってこう言った。
「じゃあこれで、三時限目の体育も張り切れるだろうね。女子はグラウンドでハードル走らしいけど」
「え……」
 すぐさま、佐藤さんの顔が強張った。

 物憂い色が戻った佐藤さんの表情を見て、僕は、失言だったと後から悔やんだ。
 思えばこの後悔も珍しいことかもしれない。
 心の中でだけ言ってみる。佐藤さん、頑張って。
top