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佐藤さんと感受性の共鳴

 朝、学校へ向かう足が重たかった。
 何かあったというわけでもないし、引け目を感じる必要があるはずもないし、ごく普通、いつも通りにしてればいいって話なんだけど……どうしてだろう。
 佐藤さんと顔を合わせるのが気まずい。どんな顔をしてたらいいのかわからない。そもそも普通の顔って、どんなのだっけ。僕はいつも、どんな顔で彼女と接していただろう。そう言えば思い出せない。
 どんな顔も上手く作れそうになくて、僕は教室に辿り着くまでずっと渋面でいた。

「あっ、山口くん。おはよう!」
 教室に入って席に辿り着くなり、佐藤さんが声をかけてきた。
 僕は鞄を机に置きながら小声で応じた。
「おはよう」
 頬に血が集まるのを感じて視線を落とせば、隣の席の彼女が立ち上がり、僕の席へと寄ってきたのが見えた。スカートの裾だけでわかった。
「あのね、昨日はありがとう」
 佐藤さんの声はいつも通りだ。
 いつものように明るくて、子供っぽい。
「うん、まあ……大したことしてないけど」
 対照的に僕はぼそぼそと答えるだけ。
 別に感謝なんて要らないのに。僕は何もしてない。何もしてないことにしといて欲しい。
「あの後ね、読書感想文ちゃんと書けたんだよ」
 佐藤さんが小さく手を叩きながら言った。
「でね、村上先生に見せたら、よく書けてるって誉められたの。及第点だって」
「へえ……よかったね」
 その報告には、ちょっとだけほっとした。
 気になってはいたんだ。ちょっとだけだけど。佐藤さん、一生懸命考えてるのは知ってたし、見ていたし。だからあの後、ちゃんと提出できたのかって心配はしてた。
「山口くんのお蔭だよ」
「いや、それは違うと思うけど」
 佐藤さんの言葉を聞いて、僕は呆れて顔を顰めた。
 ――つもりだったのに、気がついたら苦笑していた。
 奇妙にも口元が緩む。にやにやしてるのは自分でも気持ち悪いから、慌ててこっそり頬を抓った。
「佐藤さんが頑張ったからじゃないのかな」
 何でもないそぶりで僕はそう言って、席に着こうと椅子を引いた。
 あくまでも他人事を決め込むつもりでいた。感謝とかお礼なんて要らないんだ。佐藤さんは何かとしつこいけど、もういいじゃないか、済んだことなんだし。それよりも同じ目に遭わないように普段から勉強を頑張って欲しいものだ。あと、適度に手を抜く要領のよさも身につけて欲しい。これは切実に。
「でもね」
 佐藤さんは、相変わらずしつこかった。
「村上先生も言ってたんだよ。それは山口くんのお蔭でもあるわねって」
「ふうん……――え?」
 聞き流そうとして、引っかかる。
 僕は咄嗟に顔を上げた。今日初めて佐藤さんの顔を見た。
 にっこり微笑んだ顔を間近に見ても照れる暇さえない。……別に照れることもないんだけど、隣の席で見慣れてるし。それはともかく。
「何で、村上先生がそんなことを?」
 当然の疑問として僕は尋ねた。
 昨日のやり取りは僕と佐藤さんだけのことで、あの教室には他に誰も居合わせなかったし、廊下で先生が見張っているということもなかった、はずだ。現に僕が教室を出て昇降口へと向かう間、村上先生はおろか誰一人として見かけることもなかった。だから、僕が佐藤さんに何か言ったなんていうのも、佐藤さん以外の誰も知り得るはずないのに――。
「え、何でって」
 佐藤さんの口振りは、まるで僕の疑問が怪訝なように聞こえた。
「私、感想文書いて提出したから……」
「は? いや、あの、そういうことじゃなくて」
「えっ、でも。昨日、山口くんがアドバイスしてくれたから書けたんだよ」
「だから、何もしてないって。それよりそこでどうして、村上先生が出てくるの」
「先生に『どうやって書けるようになったの?』って聞かれたから」
 むしろ僕よりも自然に、彼女は、何でもないことみたいに言った。
「山口くんが教えてくれたんですって言ったの。山口くんが、私の書きたいことをわかりやすく説明してくれたから、『共感』って言葉を教えてくれたから、私も感想文を書けたんです、って」
 朝の教室はいつもなら賑やかなはずなのに、窓際最後列のこの一帯だけがやけに静まり返っていた。
 僕の内心の動揺も、喉を鳴らした音も、全て聞きつけられてしまいそうだ。
 佐藤さんはいつものように、裏表の作れなさそうな笑顔でいるけど。
「な……んで」
 僕は、自分でも妙に思うくらいつっかえながら言った。
「何でそういうこと言っちゃうかな。普通に黙ってればいいのに」
「どうして?」
「だってさ……」
 真っ直ぐに聞き返されると答えにくかった。
 目を逸らしながら、心の中でだけ答える。僕の助言なんてどうせ大したことじゃない。それに佐藤さんが自力で書き上げたって言った方が、教師の心証にもよろしいに決まってるのに。
「村上先生ね、山口くんのことすっごく誉めてたよ。『山口くんの感受性が共鳴して、いい影響を及ぼしたのね』って言ってた」
「いや、違うよ、それは」
「私もそう思う。山口くんの言葉がなかったら書けなかったと思うもん」
 佐藤さんが本当に『そう思った』のかどうかは不明だ。感受性だの共鳴だのというフレーズを、彼女がどこまで理解してるかなんてわからない。
 僕は、そもそもそうは思わない。あんなやり取りだけでそこまで言われちゃ堪らない。感受性の同感、共鳴なんてそう日常的にあるもんじゃないだろう。偉人の伝記の中ならともかく、そこらにごろごろしてるようなありふれたものでもないんだ。
 僕は何もしてない。
 佐藤さんが感想文を書けたのは、ひとえに彼女の実力によるものだ。そうしておくのが誰の為にもいいはずだった。なのに佐藤さんは持ち前の要領の悪さで、感想文の出来を人のせいにする。
「でね、先生に、ちゃんとお礼しなさいねって言われたからね」
 そう言って、余計なことばかり口にする佐藤さんは、後ろ手に隠していた物を僕に差し出した。
 見かけたことのあるチョコレート菓子の箱だ。よくある市販の奴。佐藤さんのことだから、きっとコンビニで買ったんだろう。
「山口くん、チョコレート好きだよね。バレンタインの時にそう言ってたからこれにしたんだ。もらってくれる?」
 よく覚えてるな、そんなこと。
 僕はどうしようもなく困り果てて、手なんて当然出せなかった。だってそうだ、何もしてないってあんなに言ってるのに、彼女はまだ僕に感謝する気でいるんだから。呆れる。
「お礼なんていいのに」
 本音で言った僕に、だけど佐藤さんはかぶりを振る。
「高いものじゃないから。本当に助かっちゃったし、それに山口くんにはいつもお世話になってるもの」
「別にそんな……」
「いいの。いつもありがとう、いつもね、すごく感謝してるの」
 僕の手にお菓子の箱を乗せると、彼女ははにかむように微笑んだ。
 僕はどんな顔をしているべきわからなくて、困った。どんな顔を作ろうとしたところで、望み通りの表情にはならないだろうと思った。それどころか佐藤さんの笑顔につられて、何だか笑いたくなったから困ったものだ。
「これ、ありがとう」
 駄目だ。笑いが止まらない。
 僕は自分でも気味が悪くなるほどにやにやしながら、佐藤さんからのお菓子を受け取った。本当に気持ち悪い顔をしていると思う、今の僕は。でも、どうしようもなかった。
「うん。こちらこそありがとう」
 佐藤さんは頷いて、それからこう言い添えた。
「山口くんってすごいね。本当に頭がいいんだなあって、昨日のことでも思ったんだ」

 すごいのは佐藤さんの方だ。何でもないそぶりで僕を、何となく笑いたい気分にさせてしまうんだから。
 そういえば少し前まで、僕は佐藤さんが苦手でしょうがなかった。
 まるで古い夢でも見たようにそのことを思い出しながら、改めて僕は、今は佐藤さんのことが結構、好きなんじゃないかなと実感した。
 これがいわゆる、感受性が共鳴するって奴なのかもしれない。
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