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佐藤さんと体育の授業

 男子の体育はバスケットボールだった。
 お遊び程度の気楽な試合が、既にコートの中で始まっている。ドリブルの音と先生の吹くホイッスルが響く体育館。その片隅で、試合に声援を送るふりをして、出番待ちの僕らは外を眺めている。
 グラウンドへ続くドアは開け放たれていて、吹き込む風は、春の緑の薫りがした。
 背の高い木々に囲まれたグラウンドでは、女子の体育が行われている。今日はマラソンのようだ。そして僕らのお目当てもそこにあった。
 運動する女の子達を見てるのはなかなか楽しいと思う。可愛い子に限るけど。体育館の中からこっそり眺めては、僕らはくだらない話題に花を咲かせる。曰く、どの子のスタイルがいいとか、どの子の髪がきれいだとか、可愛い子は必死な顔して走ってても可愛いとか、でも走り格好がいまいちだとやっぱ引くとか。そういうこと。
 でも、他の連中とそんな話をしつつも、僕は彼女を目に留めてしまう。

 グラウンドを走る佐藤さん。
 トップの子からも集団からもずっと遅れて、一番後ろをよれよれ走っている姿を見つけた。
 この距離からでもわかった。真っ赤になった、必死そうな顔。一つ結びの髪を揺らして、不格好に走り続けてる。
 いつも昼休みには他の子達と鬼ごっこなんてしてるのに、あんなに遅いんじゃどうしようもない。あんなんじゃ始終鬼をやらされてることだろう。
 佐藤さんは手の振り方が悪いんだ。上体の動きが脚の動きと合ってない。
 荒い呼吸まで聞こえてくるようで、こっちが息苦しくなる。

「おい、見てみろよ」
 一緒に外を見ていた、男子のひとりが声を上げた。
 指差したのが女子の最後尾、佐藤さんの方だったから、どきっとする。
「佐藤、いっつもビリだよな」
 皆が彼女の姿を見て、すぐにげらげらと笑い出す。
 あの不格好な走り方は確かに、おかしかった。手を無闇に振り回して、なのに足が動いてなくて。かえって疲れるだろうと思う。
 でも僕は、一緒に笑う気にはならない。唇を結びたくなって、黙って彼女を眺めていた。
 他に可愛い子はたくさんいる。走る姿を見ていて、いいなと思う子もたくさんいる。なのに目はいつのまにか佐藤さんを捉えている。視線で彼女を追っている。そりゃ、あんな最後尾からのろのろついて行く姿は目立つから、目に留まったっておかしくはないだろう。
 皆は彼女を見て笑うけど、僕は笑わない。同情してるからだ。
 彼女があれでも精一杯、全力で走ってるってこと、あれでも彼女なりに一生懸命頑張ってるってことがわかって、ここまでちゃんと伝わってきて、それで――同情する気になっているからだ。
 あの走り方を直せば、もっとまともに走れるようになると思うんだけど。
「あーあ、抜かれるな佐藤の奴」
 苦笑混じりに誰かが言った。
 ダントツのビリなのに誰に抜かれるって? そう思って視線を巡らせれば、佐藤さんがようやく曲がったカーブの手前、先頭を走る女子が踏み込んでいた。後ろから猛然と佐藤さんに迫りつつあった。佐藤さんよりも走る姿が格好良く、姿勢もちゃんとしている子だった。だから速いんだ。
 僕が溜息をついている間に、もう抜かれた。
 佐藤さんは周回遅れだ。直線を走る間にまだまだ抜かれるだろう。ぞくぞくと後ろから来てる。
「あの走り格好じゃ全然駄目だな」
「いや、あそこまで来るともう一種の才能だろ、ビリの才能」
「勉強もできないのに運動も駄目なんて、恵まれてないよなあ」
 他の連中は遠慮もせず笑っている。
 だけど僕は笑えなかった。
 佐藤さんが俯いたのが見えたからだ。
 一つ結びの髪が左肩から落ちて、上体を折り曲げるような走り方になった。
 それでも足は止まらずに動いている。よれよれだけど走り続けている。彼女ならきっと立ち止まらない。途中で諦めて歩くなんて真似をするような子じゃなかった。
「山口、出番だぞ。さっさと来い!」
 体育教師に声をかけられるまで、僕は走る佐藤さんを見つめていた。
 目を逸らし、グラウンドに背を向けても、彼女の俯き加減の走り方がなかなか頭から離れなかった。
 お蔭でこっちまで振るわなかった。得意のバスケで無得点、パスカットで何度もボールを取られた。全部佐藤さんのせいだ。

 体育が終わると、また教室に戻って次の授業の用意だ。
 着替えを終えた僕が席に戻った時、佐藤さんは既に右隣の席にいた。机の上に頬を押しつけるように突っ伏して、肩を忙しなく上下させていた。
 マラソン授業が余程堪えたんだろうか。ひとつ結びの髪は乱れて、そのままだ。ほつれた髪が頬や首に張りついている。
 僕はちょっとだけ迷っていた。
 だけど佐藤さんの姿を見て、授業中の、他の連中の笑い声をも思い出し、つい佐藤さんに声をかけた。
「佐藤さん」
「え……?」
 切れ切れの吐息が答える。
 彼女の目が僕を見る。心なしか、目元が少し赤らんでいた。
「走る時、もう少し前傾姿勢になった方がいいよ」
 教室の騒がしさで誤魔化せるように、僕は小声でそう告げた。
「あと、腕の振り方。横にじゃなくて、前後に振った方がいいと思う。鏡見ながら練習すれば」
 まあ、その気があるならだけど。

 佐藤さんは少しの間、忙しなく瞬きを繰り返していた。
 だけどその後で、苦笑いをかさかさの唇に浮かべて、
「やだ、山口くん……私が走ってたの、見てた?」
 とかすれた声を立てた。
 とっさに、僕は答えに窮する。
「いや……別に、見てたってほどじゃないけど。たまたま目についたから」
 口の中でもごもご言って、否定も肯定もしなかった。
 だけど内心では反論した。それは佐藤さんのせいじゃないか。佐藤さんの足が速かったら、もう少しきれいに走ってたら、僕だって佐藤さんのことなんか見てなかった。
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