Tiny garden

恋よりは淡くない

 仕事が終わって連絡を入れたら、先輩もちょうど退勤したところだった。
『だったら飲みに行く? たまには』
「いいですねえ」
 もちろんすぐに賛成した。
 普段は早く上がれた方が夕飯の支度をする。
 でも二人揃って定時上がりの時は、ゆっくり外食っていうのもいい選択肢だと思う。
『平日にスーツでデートっていうのもいいよな』
 とは、先輩のお言葉である。
「デートって。ご飯食べてお酒飲むだけですよ」
『それをデートと言わずして何と呼ぶ』
 あたしが笑っても先輩は笑わず、ただ優しい声で言ってくれた。
『こないだ刺身食べたいって言ってたろ。今はどう?』
「めっちゃ食べたいです」
『わかった。駅のとこで待ってるから、ゆっくりおいで』
「はーい」
 電話を切ったあたしは、だけどどうしても早足になってしまう。
 空がまだ残照でほんのりと明るく、当然ながら気分も弾んだ。

 先輩は、何でもデートと呼ぶのが好きだ。
 休日に二人で近所のスーパーまで行くのもデートなら、こうやって飲みに行くのも、夜中に足りないものがあってコンビニまで買い出しに行くのもデートらしい。
 そういうのは一緒に暮らしてれば当たり前のようにある日常だ。
 でも先輩は、その日常を何よりも大切にしているように思う。
 そしてあたしも先輩といると、そういう当たり前がいかにかけがえのないものか気づくことがある。

 宣言通り、先輩はいつもの駅の入口にいた。
 電車を降りたあたしが改札を抜けると、スーツ姿の見慣れた顔が大きく手を振る。
 先輩は学生時代と変わらず色白だ。気温が高めな夜のせいで、頬がちょっと赤くなっている。昔から、寒くても暑くても結局赤くなるのが面白い。
「待ちました?」
 駆け寄るあたしが尋ねると、先輩は笑った。
「大したことないよ」
 こういう優しさも、昔と変わらないままだ。
「さ、行こうか。調べたら近くに刺身の美味い店があってさ」
「やったあ。お腹ぺこぺこなんです」
 あたしたちは連れ立って、駅前近くの繁華街を歩き出す。

 ビルの地下にあるお目当ての店には、ほんの五分待っただけで入店することができた。
 これも定時上がりの恩恵というやつだろう。
 あたしたちはカウンター席に並んで座り、ビールと刺身の盛り合わせを頼む。

 ビールとお通しが運ばれてきたところで、先輩がジョッキを掲げた。
「今日はお疲れ様。乾杯!」
「かんぱーい」
 あたしもジョッキを持ち上げそれに付き合う。
 先輩は二人でお酒を飲む時、欠かさず乾杯をしたがる。あたしとしては大勢ならともかく、二人きりの時にするのはちょっと照れると思っている。でも先輩はそういうところも律儀というか、丁寧というか――すごく細かなところまで大切にしたがる人だ。
 付き合い始めた日や同棲を始めた日なんかを覚えてる。たまにメールじゃなくて手紙をくれる。あたしが何気なく言った食べたいものや欲しいものを、ふとした時に叶えてくれたりする。
「先輩ってそういうとこマメですよね」
 続いてやってきた刺身をつつきながら、あたしはつくづく感心した。
 そこで先輩は得意そうな顔をする。
「君のことだからだよ」
「気障なところも相変わらずですよね」
「……君こそ、そういう冷めた反応はどうかな」
 途端に先輩はむくれた。

 もっともあたしの方も冷めてるわけじゃない。
 先輩の優しさ細やかさは今日までの二人暮らしでも十分思い知っているし、感心しているのは本当だ。最高の彼氏を捕まえたなっていつも思ってる。
 ただ、それが昔と変わらないことに驚かされてもいる。
 変わらないものなんてないと思ってた。
 人の気持ちだってそうだ。

「心配してたってわけじゃないんですけどね」
 美味しい刺身に舌鼓を打ちつつ、何気なく打ち明けてみる。
「同棲始めたら、落ち着いちゃうんじゃないかなあって思ってたんですよ。正直」
「誰が? 君が?」
 先輩は不服そうに聞き返してきた。
「いやお互いにですよ。倦怠期ってよく言うじゃないですか」
 単語だけは知ってるその言葉を口にしてみる。

 聞いたことはあるし、職場の諸先輩がたから聞かされたこともある。
 幸せいっぱいなのは今だけだよ、そのうち顔も見るの嫌になるから――そんなぼやきが本音なのかただの謙遜なのか、若輩者にはわかりません。
 ただ幸いにして、あたしには今のところそういう機会はない。

「一緒に暮らし始めて、結婚する前に飽きられたらやだなって思ってたんです」
 変わらないものなんてないと思ってた。
 でも、変わって欲しくないものも確かにある。
 先輩には、ずっとあたしを好きでいて欲しかった。
「そんなこと、あるわけないだろ」
 当然のように、先輩はあたしの不安を笑い飛ばした。
「君の顔は毎日見てても飽きない。むしろもっと見つめていたいくらいだ」
「そう言ってもらえてよかったです」
「君の方こそ、俺に飽きたりしてない?」
 先輩が尋ねてくる。
 色白の顔は今もほんのり赤くなってて、それが居酒屋の熱気のせいかアルコールのせいか、はたまた何がしかの感情のせいかは判別がつかない。
 でも、この顔に飽きたことはないなと思う。

 大学時代、この顔を探して構内を歩き回ってたこともあった。
 サークルに顔を出したのだって、途中からは先輩に会いたいって理由だけになっていた。
 あれからずいぶん経って、お互い大人にもなったけど、飽きる気配はまるでない。

「ないですねえ」
 あたしは素直に答えた。
 ――つもりだったけど、先輩はちょっとがっかりしたようだ。
「そこはもっと情熱的な返事が欲しかったよ」
「それをあたしに求められても」
「心配だなあ。君に飽きられないかすっごく不安になってきたなあ」
 そしてわざとらしく嘆き始めたから、あたしは笑って言い添える。
「飽きたりしませんって。先輩くらい素敵な人、他にいませんから」
 すると先輩は珍しく面食らったようだ。
「……なら、いいけど」
 自分からは気障な台詞もどんどん言うくせに、言われるのは慣れてないらしい。
 それはあたしがあんまり言わないせいかもしれないけど、これでも昔に比べたら素直になった方だ。
「先輩が昔と変わってなくて、すごく安心するんです」
 あたしは、しみじみと思う。
「変わらないものなんてないって、思ってたから」
 でも先輩はそこで大きくかぶりを振った。
「俺が変わってないって思ってる? 君への想いは日増しに増えてるし、昔よりもずっと君を愛してる。この気持ちが昔と同じだなんて思ってもらっちゃ困るな」
 そしてカウンターの上で私の手をぎゅっと握り締めてきたから――そういうところは変わってないですよって、よっぽど言おうかと思った。
 だけど言えなかった。今度はあたしが面食らったせいだ。

 ビールを二杯とお刺身と、締めに海鮮丼を食べてから店を後にした。
 外はとっぷり暮れていて、蒸し暑い夜の空気に満ちていた。
「いい天気でよかったなあ」
 部屋までの道を歩き出しながら、先輩はまだ私の手を握っている。
 子供みたいにぷらぷらさせながら、上機嫌で夜空を見上げている。
 月の光が弱い夜、満天の空には小さな星がいくつもいくつも瞬いていた。
「星、すごいですね」
「きれいだな。ま、君ほどじゃないけど」
「何であたしと星を比べますかね」
「何で君は冷静に打ち返してくるんだろうなあ」
 酔っ払い同士、馬鹿なことを言って笑い合ったりもする。

 でも、繋いだ手のぬくもりを感じながらあたしは思う。
 昔、星を見た時に考えたのは『人間、いつかは死ぬんだよなあ』だった。
 今は違う。もっと単純なことを考える。

 星空はきれいだし手のひらは温かくてお腹はいっぱいだ。
 先輩の隣にいる時、あたしには幸せなことしかない。
 二人でいい気分になって星空の下を歩いて帰る。帰る先には住み慣れたあたしたちの部屋がある。ささやかで当たり前の幸せが、だけどかけがえのないものだって事実を、先輩はいつも教えてくれる。
 あたしも、そんな先輩を大切にしたいと思う。

 変わらないものなんてない。
 そう感じるのは、誰よりもあたし自身が変わったからかもしれない。
 恋をして、可愛くない自分に劣等感を持って、もどかしさと苛立ちを持て余していたあの頃――そういった気持ちも今は、全部別のものに置き換わっている。

「あたしも愛してますよ、先輩」
 星空の下を歩きながら、ぽつりとそう言ってみた。
 繋いだ手がぎゅっと握られる。
「知ってるよ」
「知ってんだったら不安がることないじゃないですか」
「それでも毎日聞きたいもんなんだよ」
 その気持ちはわからなくもない。
 だってあたしも、先輩が些細なことについて『デートだ』っていうのが嬉しかったりするからだ。
 それなら、これからは毎日言ってみようかな。

 昔と比べたら、あたしは自分でも驚くほど変わった気がする。
 恋だけをしていた頃とは違う、はっきりとした想いがここにある。
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