Tiny garden

マシュマロよりは甘くない

 お邪魔しますと部屋に入るなり、先輩に手招きをされた。
「話があるんだけど」
 顔が笑っていない。
 これだけでもう十分ただごとではない気がした。玄関で靴を脱ぎ、通い慣れた先輩の部屋に立ち入ったら、挨拶よりも先に言ってきた。しかも真顔だ。怒っている、のかもしれない。
 ただ、あたしには怒られる理由がよくわからなかった。約束の時間通りに先輩の部屋へ辿り着いていたし、近頃は喧嘩をした記憶もない。むしろ穏やかな春先、気分よく会いに来たというのに、どうしてそんな態度を取られなくちゃいけないのか。って言うか話って何だろう。訳がわからず、ひたすら困惑していた。

 とりあえず、招かれるままに先輩の傍に歩み寄る。アパートのリビングはそれほど広くはなく、座卓と稼動していないストーブ、それに食器棚で既にきちきちな感じだった。先輩は座卓の傍らに正座をしていて、あたしには真正面に座るよう、ジェスチャーで示してきた。とりあえずは素直に従う。
「話って、何ですか」
 あたしが尋ねたのとほぼ同じタイミングで、先輩は何かをどさりと床に――向き合って座るあたしと先輩の間に置いた。
 見覚えのある雑誌。あたしが講読しているファッション雑誌だ。付箋をつけておいたのは、先輩にあたしの欲しいものを教える為だった。その付箋はまだくっついたままで、当該ページを開くしおりの役割も果たした。
 春の新作コスメ特集、のページだ。
「これはどういうこと?」
 先輩の声が低い。指先がとん、とページの中のコスメを指差す。あたしがずっと欲しがっていた美白効果のあるファンデーション。厚かましくも色の指定までして付箋を貼っている。図々しいにも程があると自分でも思うのだけど、先輩もそうしてくれた方がありがたいと、一ヶ月前は言っていた。
「ですから、ホワイトデーのお返しです」
 あたしは首を傾げながら答える。何で先輩が機嫌を損ねているのか、未だにわからない。あたしの図々しさに愛想が尽きたにしても、このタイミングは納得がいかない。バレンタインデーにお返しを要求してからまるまる一ヶ月が経ってるんだから。
「美白ファンデって書いてあるんだけど」
 と、先輩。
「そうですよ」
 と、あたしが応じる。素直に頷いたつもりだったけど、直後、先輩が思いっ切り顔を顰めた。
「君がどうして美白なんてする必要があるんだ」
「どうしてって……ありますよ。あたし、白くないですし」
「気にするほどじゃないって、いつも言ってるのに」
 やはりご立腹らしい先輩が、雑誌からページを話して腕組みをする。普段は穏やかで笑ってばかりいる先輩の、笑っていない顔。今までにも何度か目にしてきたけど、その度にこちらの気持ちまでざわめいてしまう。
「あたしは気にしてるんです」
 なるべく平静を装って言い返す。
「先輩がどう思ってても、あたしはやっぱり白くなりたいです」
「ならなくていい」
 しかめっつらのくせに、寂しそうにも見える先輩の表情。この人があたしの何を気に病むことがあるのか。別に案じて欲しい訳でもない。
「そりゃ、先輩にはわかんないと思いますよ」
 あたしは先輩を見つめる。
 先輩は色が白い。あたしよりもずっと白い。
「わからないな。君は今のままで十分可愛いよ」
「……そういうことじゃなくてですね」
 いかにあたしと先輩が恋人同士でも、この件に関しての議論は一生平行線を辿るだろうと思われる。わかるはずもない、先輩のような人に、色の白くない人間の苦労なんて。
 何もしていないのに日焼けしてるのかと聞かれる。フォーマルな服装が似合わない。ふんわり系も似合わない。男の子にはしょっちゅうからかわれるし、先輩と並んで歩いていると笑われることさえある。色の白い人の隣では、あたしの肌の色は際立って見えるみたいだ。
 からかわれたり笑われたりするのは辛い。でも、先輩の隣にはどうしてもいたいと思った。
 だから欲しかったんだ、件の美白ファンデが。
 雑誌のレビューでも効果の程を大いに持ち上げられているあの新作コスメが。
「大体、何でも買ってあげるって言ったの先輩ですよね」
 ものすごく可愛げのない論調だと自覚しつつも、あたしはそう切り替えした。
「高過ぎて予算が足りないとかそういう理由ならまだしも、単に気に入らないからって理由だけで怒るのはどうかと思うんですけど」
「予算はあるよ、失礼な」
 余程機嫌が悪いのか、先輩はそんな細かいところにさえ引っ掛かって、眉を顰めた。
「他のものなら何でも買ってあげるよ。ただしそのファンデーションだけは駄目だ。――いや、化粧品以外にしてもらおうか」
 そこまできつく言われると、こっちだってむっとする。思わず黙り込めば、先輩はテーブルの上に置いてあった紙包みを差し出してくる。ファンシーな包装紙のそれを、あたしの手に押しつけるようにして寄越した。
「何ですか、これ」
「とりあえずのお返し。ホワイトデー当日に何もないのも悪いかと思って」
 刺々しい声の応酬の後、あたしはその包みを開いた。中に入っていたのは真っ白なマシュマロだ。針金入りのリボンで口を絞ったセロファンの中、柔らかそうなマシュマロが十個ほど詰め込んである。
「他のものは後で買う。何が欲しいか、考えて」
 先輩が有無を言わさぬ口調で言った。
 あたしは嫌味なくらいに白いマシュマロを見下ろし、何となく溜息をつく。この人は見かけによらず、意外と頑固だ。昔、サークルの飲み会が終わってから、一緒に帰った時もそうだった。あたしが送らなくていいと言っても聞きもしなかった。
 そういえばあの時も、あたしの肌の色のことで、先輩は笑ってなかったっけ。
「……先輩は」
 あの時と同じように、先輩の顔が見れない。俯きたくなる。苛立ちと悔しさが胸の中に溢れ返っている。
「先輩は、あたしが可愛いって思ってるんですよね? あたしのこと、好きなんですよね?」
 マシュマロに目を留めたまま尋ねれば、答えはすぐにあった。
「もちろん。君が好きだ、とても」
「なら、あたしが色白になったら、もっと可愛くなると思いませんか?」
 息をするように続けた。
「今よりもっと、あたしを好きになれると思いませんか?」
 あたしは自分のこと、可愛いなんて思ってない。この肌の色もこの性格も、まるで好きじゃなかった。でも先輩の気持ちは疑わなかった。先輩が好きで、気障な言い回しの全部が嘘じゃないと知っていたから、疑いようもなかった。
 先輩は真っ白な人だった。肌の色だけじゃなくて、心のうちまで全て。ずっと一緒にいて、先輩の、きれいなばかりではない恋心を知った上でも思う。この人は、あたしよりもずっと白い。
 だから白くなりたかった。見かけが白くなればあたしも、引け目や僻みや苛立ちや悔しさが全部なくなって、心まで白くなれそうな気がしていた。どうしても、あの美白ファンデが欲しかった。
「あたしは、先輩の為に白くなりたい。それだけです」
 マシュマロを包む透明なセロファンが、ぱりっと硬い音を立てた。マシュマロは何の音もしない。袋越しに指先で触れても、柔らかく沈み込むだけだ。
「俺の為に?」
 問い返す先輩の声も、ほんの少し柔らかさを取り戻している。恐る恐る顔を上げれば、まだ笑っていない顔が目の前にあった。
「そうです」
 頷く。
 と、真面目な顔がもう一度、
「違うな。俺と付き合ってるから気になる、そういうことじゃないか?」
 問い返してきた。
 一瞬びくりとしたあたしの前で、先輩はたしなめるような目つきをする。小首を傾げて更に言う。
「相手が俺じゃなかったら、君はそこまで気にしなかったと思う。どうかな」
 実際、多分、その通りだった。色白になりたいと思ったきっかけも、そもそもは好きな人が出来たからで――あたしがわかり易く口を結べば、先輩はちょっと笑った。
「俺は気にしたことなかったけどな」
 それはそうだろうと思った直後、予想とは別の言葉が続く。
「割と色白だってことは知ってたよ。小さな頃は、女の子みたいって言われてた。もちろんからかわれたことだって何度かあった」
 あたしが目を瞠る間にも、続く。
「でも、気にはならなかった。生まれつきのことだし、気にしたってしょうがないしな。後からとびきり可愛い彼女が出来たし、今は他の連中の言葉も耳に入らない。幸せだからどうでもいいよ」
 この人は相変わらず言うことが気障だ。でもあたしは、そんな先輩の言葉を何より信じている。嘘がないと知ってるから。
「君がどうしても気になるって言うなら、いっそ焼いてきてもいいけど。ちょうど春休みだから、南国でも行ってさ」
 先輩が自分の腕を擦る。ちらと苦笑した。
「あんまり上手に日焼け出来る方じゃないから、みっともなくても気にしないで欲しいんだけど」
「……しなくていいです、そんなこと」
「じゃあ君もしなくていい。美白とか、そういうのは。俺は今の君が好きだ」
 多分、今の言葉を待っていたんだろうと思う。
 手の中でマシュマロの袋が音を立てる。
「ホワイトデーのお返しは違うものにしよう。何がいい?」
 優しく問われて、あたしもやっと素直になれた。――笑えた。
「要りません。もう十分です」
「そんな訳にはいかない。何か考えてくれよ」
「いいんです。あたし、先輩の言葉が欲しかったんです。色が白くなくてもいいって、言って欲しくて」
「そんなのいつも言ってるじゃないか。君には適当にあしらわれてるけど」
 訝しそうにする先輩。確かにそうだ。嘘はないけど大層気障な先輩の言葉は、いつもあたしを宥めてくれた。
「それとも、会う度に言って欲しい?」
 手を伸ばして、先輩があたしの頬を撫でた。白くはないはずの頬。先輩の手はひんやりしている。
「俺が君をどれだけ好きで、どのくらい君が可愛いか。毎回言って欲しいってこと? 頭でわかってても言葉が欲しいってこと? 俺が君を想っているのと同じくらい、たくさん、たくさん言って欲しいってこと?」
「……そうです」
 正直に認めてやった。
 もう今更だ。あたしは先輩の、マシュマロなんか目じゃないくらいに甘ったるい言葉が欲しいんだ。
「たくさん言ってください。胸焼けがするくらい」
「わかった。……好きだよ、大好きだ。今の君が、いつよりも一番」
 向かい合わせの位置から抱き寄せられると、マシュマロの袋が微かな悲鳴を上げた。先輩ははたと動きを止め、あたしの手元を見下ろす。それから、あたしを見る。
「それなら、マシュマロももうちょっと買っておくんだったな。言葉だけで済ますのはあまりにも安上がり過ぎる」
「いや、こっちはそんなにたくさん貰っても困ります。甘いし」
 マシュマロの甘さはたくさんだと、それこそ胸焼けがすると思う。だけど先輩はふと得意げに笑んで、囁くように言い返してきた。
「コーヒーに入れたことはない? 溶けてふわふわになって、とっても美味しいよ」
「聞いたことはあります。美味しいんですか?」
「俺が保証する。何なら試してみようか」
 思い立ったが吉日とばかり、先輩はあたしを離して立ち上がる。そして台所へと向かう。ややもせず、やかんを火にかける音が聞こえてきた。

 マシュマロと一緒に放り出された格好のあたしは、それでも先輩の後ろ姿を眺めて、こっそりと笑った。台所に立つ先輩の背中は広い。見ているだけでどきどきするくらいだ。
 あたしは、先輩の色の白さに惹かれた訳じゃない。先輩が今のままでいいと言ってくれたら、あたしもその間は気にしないでいられるだろう。たくさん、たくさん言ってもらって、ずっと気にならないようにしてもらおう。
 お湯の沸く音に紛れるよう、あたしは忍び足で台所へ向かう。揃いのマグカップにインスタントコーヒーを入れる先輩、その背中に、台所の床が軋んだ瞬間に抱きついた。ぎゅうと。
「うわ、びっくりした。どうしたの?」
 先輩が声を上げ、首だけで振り返る。その顔を見る勇気はまだない。あたしは広い背中に顔を埋めて、そっと告げた。
「先輩って、マシュマロに似てますよね」
 そう思った。
「溶かすのと、溶かされるのだったら、先輩はどっちが好きですか」
 問いかけの真意を察したのか、今度は身体ごと振り向いた先輩が、ぎゅうと抱き締め直してくれた。直に、耳元で言われた。
「君になら溶かされてもいい」
 コーヒーよりも欲しいものがお互いに出来て、先輩はやかんの火を止めてしまった。寒くないかと聞かれたから、あたしはかぶりを振って、台所に二人で座り込む。
 つくづくあたしたちは、台所が好きだと思う。

 三月の半ば、日が落ちる頃にはまだ肌寒く、あたしと先輩は二人で毛布に包まった。
 コーヒーに浮かべたマシュマロはふわふわしていて、保証してもらった通りにとても、美味しかった。溶けて混ざり合った甘いコーヒーは、ちょうどあたしと先輩みたいだ。色合いも、熱い温度も。
 だからあたしは、色が白くなくても幸せだった。先輩の隣にいられたら、何もかも、ちょうどいい気がするから。
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